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いつかどこかで(由美)

いつかどこかで(由美)



 目が覚めたらじっとこちらを見つめる瞳に囚われた。屈託のない笑顔を向けられ、寝ぼけた思考が一気にクリアになる。一体、ヒデはいつからこちらを見てたのだろうか。

“女の人と……そういう経験ないんだ……呆れただろう?”

 昨夜、罪を告白するように彼は瞳を曇らせた。今時の若い男の子とは少し違うのかもしれない。いや、草食系男子なんて言葉があるくらいだ。これが今時なのだろうか。

 上半身素肌をさらし横たわる男をまじまじと眺める。こんな男の子……がねぇ。彼がいつか選ぶ女はどんなタイプだろうか。それは決して私では無いのだろうけれど……。

“君に会って本当にそう思ったんだ”

 乱暴にシーツに押し付けられた時、その背中に腕を回してしまいたい衝動にかられた。彼が待ち望んでいたという、特別な女にでもなったような錯覚がした。けれども状況を思えば、キャミソール一枚で誘惑してくる年上の女に惑わされいただけに違いない。都会に遊びに来て、いつもより開放的な気分になっているだけなのだ。そう思ったら、唐突に襲ってきた罪悪感。

“もうその気ないの”

 感情を押し殺し、拒絶するのが精一杯だった。

“きっと君をガッカリさせる”

 流されて後悔するのはヒデではないか。その元凶になるだなんて、私の趣味ではない。心の底から欲した男などいままでいただろうか? 成り行きのままに重ねてきた情事。ヒデと同じよう、運命の相手に出逢うまで待ちわびる事など私には無理だ。だって、こんな醒めた女にそんな恋など訪れるはずもない。実際、三十路になろうとする今まで、運命など巡ってはこなかったのだから。結婚すら興味本意に流されただけ。そう、今までは……。

 昨夜の私はどうかしていた。シャワーを浴びながら訳もわからずに涙は溢れるし、それに……こんな男の子を寝室に誘うだなんて。洗濯の為とはいえ服まではぎとってしまった。駅のホームでも唇を奪ったのは、私からではなかったか。

「どうしたの?まだ眠いなら無理して起きることないよ」

 至近距離にお互い横たわったままの状況で、ヒデが優しく囁いてくる。わずかな距離……手を伸ばし瞼にかかる前髪をつまんであげたら、彼はどんな反応をするのだろうか。この期に及んで湧き上がる悪戯心をそっと振り払う。

「目が覚めちゃったわ。それよりあなたの服を取ってくる」

「あ……うん」

 起き上がると、背中に名残惜しむようなヒデの視線を感じた。いつまでもこの状況のままベッドにいるのは良くない。朝の気だるさに任せ、隣の温もりにもたれかかってしまいたくなる。昨日と変わらずヒデを求めてしまう欲望の欠片を感じる。一夜の気紛れのはずなのに……まさか欲求不満だとでもいうのだろうか。欲求不満……滑稽な憶測に苦笑いが込み上げる。

「……由美」

 唐突に名前で呼び掛けられ、胸の奥がどくりと音を立てた。何よ、女も知らない子供の癖に……生意気な声の主を咎める気分で振り返る。少しだけ照れくさそうに微笑むヒデがそこにいた。

「おはよう、いい朝だね」

 今更に改まった朝の挨拶を投げ掛けられ、返す言葉に詰まる。チリチリとした感覚が胸を締め付ける。馴れない感情、これは……一体何だというのか。

 ねぇ、まだ私の事を欲しいと思っている?

 本当に口にしたいのはそんな陳腐な台詞だなんて。女も知らないこの坊やに、まるで恋でもしているみたいではないか。恋? そんな感情はただの思い込みではないのか。そんな想いに胸を焦がす女と自分は違う筈なのに。

 絡んだ視線を振り払い、寝室のドアを開く。中庭を取り囲む廊下を横切ると、ミザモの木が視界に入り込んだ。足を止め、連なる硝子戸をカラカラと横に滑らせる。


 待っていたくせに……ざわりと吹き抜ける風がそう囁いた気がした。

 運命の出逢いを、ずっと待っていたくせに。


 空耳だ。心の奥底を見透かされたような焦燥感に、せわしなく周囲を見回す。違う、違うそれは私ではなく母ではないか。家に寄り付かなくなった父を、死ぬまで待ち続けた母の、底無しな執着心が風に乗り中庭をさ迷っているに違いない。私は違う。そう小さく呟くと、逃げるよう音をたてて窓を閉めた。





 ヒデが淹れるコーヒーを口にするのはこれで二回目だ。しかも今回はふんわりと焼き上げたオムレツまで湯気をあげている。フォークを刺すと、絶妙な焼き加減の断片が覗く。口に含めば、トロリと甘い卵が舌の上でとろけた。

「器用なのね」

「好きなんだ、料理するの。自己流だけど」

「あら、もったいない。本格的に学べばいいのに」

「……そんな、おだてないでよ」

「あたし結構、味にはうるさいのよ。オムレツは腕が試される料理だし、これならお店だって出せるレベルだと思うけど」

「店?」

 ヒデはその言葉に目を丸くし、大袈裟な程に反応してみせた。

「そんなのって、夢みたいな話だ」

「あら、謙虚なのね。夢くらい持たなくっちゃ、コックがいい男だから、女性客が沢山来るわよ。客層のニーズに合わせて、スイーツも勉強しないとね」

 向かい側に座るヒデの視線が、ついと窓の外に流れていく。会話の途中で急に黙りこんだ彼を不審に思う。ぼんやりとした目差し、パサリと優雅に瞬いた睫毛。一瞬不覚にも視線を奪われてしまった。

 カチリとフォークが皿に触れる音が響く。小さな音なのに、ヒデははっとしたように視線をこちらに戻した。ずっと見つめられていた事に気付き、照れ臭そうに微笑みを向けてくる。

「……夢とか将来の事なんて……考えたこともなかったから」

 遠い目差しでヒデは呟いた。

「偉そうな事言ったけど、よく考えたら私も夢なんて無かったかも」

「小説家になるのは、夢じゃなかったの?」

「そう思って目指す人もいるんだろうけど、私の場合は……そうね、特技よ」

「特技?」

 ヒデはぷっと吹き出した。

「何よ」

「いや、すごいなって思って」

 ちらちらと白い歯を覗かせて、ヒデは屈託のない笑顔をこぼしている。見慣れない朝の風景に、違和感を覚えがらも、心地のよい空気を不思議に思う。失礼ねと睨む視線に、甘い感情が混ざるのを誤魔化せない自分がいた。

「俺、出来たよ夢」

 今までそんなものを抱いたことなどないと、寂しそうな目差しで告白していたのはほんの数分前のはずだ。唐突な宣言に呆れながらも、その先の言葉に耳を傾ける。

「海が見える場所に小さなレストランを開くんだ……」

 宇宙飛行士になりたい、お姫様になりたい、子供が未来を思い描く口調でヒデは瞳を輝かせている。そんな彼を目の前にしていると、母親にでもなった気分にさせられる。

「でね、俺が作った料理を由美が運んでくれるんだ」

「は?」

「そこまで含めて俺の夢。きっと流行るよ、店の名前は……二人で決めよう」

 二人って、二人って……。

「勝手に人をウェイトレスにしないで頂戴」

 軽くあしらい、さらりと受け流すが、頬が熱くなっていくのがわかる。からかっているのだろうか? こんな女もまだ知らない男の言葉に反応している自分もどうかしている。

 海……海。その小さな店に波音は届くのだろうか。どの窓からも溢れる色はきっと……脳裏をよぎったのはカクテルグラスに注がれた透明なブルー。作り物かと見間違うほどに、美しい光をはらんだブルーだ。

 一瞬、夢を見ているのかと思った。水の上を漂っているような浮遊感に意識がさらわれていた。そんな私を現実に引き戻したのは、玄関から鳴り響くチャイムの音だった。来客の予定などない。きっと勧誘か宗教か、招かざる客に違いない。何度かチャイムが繰り返された後、諦めたかのような静けさが漂った。が、次の瞬間、指先でトントンと玄関の硝子戸を叩く音が聞こえてきた。

 誰? 怪訝な顔をする私を見て、ヒデが腰を上げた。

「俺が見てくるよ」

 こういう時に男の人がいると便利だ。一軒家だと、屋根の修理だ下水の点検だと訳の分からない勧誘も後を絶たない。ピシャリと断っているつもりなのだが、女の独り暮らしだと知れると、本当にタチが悪いのだ。ヒデは巧くあしらう事が出来るのだろうか。

 玄関の硝子戸がカラカラと開く音は聞こえた気がしたが、その後の会話らしいものがさっぱり途絶えている。なにかを売りつけようとする者は、大袈裟な程に自分が訪問してきた理由を大声でアピールしてみせるのだが……もしかしたら、本当の来客だった?

 手にしたフォークを皿に置き、慌てて席を立つ。玄関へ抜ける戸を開けて数歩進むと、玄関口で黙り込んだまま立つ男が二人……倉田とヒデだ。私の姿に視線を移すと、倉田は困惑した顔をしてみせた。

「なんだ、いるんじゃないか。この坊やが由美は留守だって言うからさ……」

 ヒデは不機嫌そうな顔で、私を隠すように倉田の前に立ちはだかった。

「ね、いいのよ。この人は……」

 諭すよう、その背中に手を添える。ゆっくりとヒデは振り返った。眼差しが、この男は誰なのかと問いかけてくる。

「あなたはリビングに戻っていて頂戴」

 自分でもそっけない声色だと思った。だって生意気じゃない?目の前の背中がまるで俺の女だとでも言いたげに視界を覆っている。

「彼はお客様なの、あたしのね」

 ヒデはちらりと倉田を見ると、何も言わずに部屋に引き上げていった。その姿が消えるまで、倉田は意味深な視線で、ヒデの後姿を追っている。

「驚いたな。あの坊やと一緒に暮らしているのか?」

 若すぎるんじゃないの?倉田の言葉の裏に、そんな懸念が挟まれているのを感じる。私より二つ年上の倉田から見れば、干支が一回りも違う男など、やはり子供にしか見えないのだろう。

「たまたま、よ。で?あなたは何の御用で来たのかしら」

 他人行儀な口調でヒデの話題を打ち切る私に、倉田は慌てたように「ごめん」と呟いた。

「こんな朝っぱらから押しかけて……」

 大袈裟に頭を下げる彼を一段高い玄関口から見下ろしていると、意地悪な女になった気分がわいてくる。本当に……おかしな朝だ。

「……これ、忘れていっただろう、車の中に」

 倉田はぶら下げていたものを差し出した。白い紙袋には出版社のロゴが印字されている。昨夜のパーティで皆に配られた記念品だ。

「いいのに、どうせお菓子かなにかでしょう?わざわざ届けてくれなくても」

「出掛ける用事があって、こっちの道を通るからついでにと思ってさ」

「そう……ありがとう」

 昨日といい、今日といい、別れて何年も顔を会わせる事などなかったのに、急に見えない境界線を越えて倉田が私の日常に近づいている気がした。ヒデと出くわしてしまった偶然は、倉田にとって丁度よい出来事だったのだ。再会した元妻を、感傷と共に懐かしむなんて茶番から、目を覚ませてくれる切っ掛けになったに違いない。十歳近く年下の男を家に連れ込む女になど、さぞ幻滅した事だろう。これ以上玄関先で、顔を眺め合っているのも不自然だという空気が漂う。

 倉田は「じゃあ」と、踵を返す仕草をしてみせる。

「由美……」

 小さく倉田は呟くと、もう一度こちらを振り返った。言い残した事があるのだと、言いたげな眼差し。

「なに?」

「俺さ……」

 後悔しているんだと、倉田の瞳が訴えかけてくる。一緒に暮らしていた頃、愛されるという意味を彼は教えてくれた。家庭という名の揺り籠は安息を与えてくれた。なのにどうして、倉田に全てを委ねられなかったのだろう。

 結婚して数年が過ぎた頃、子供が出来たらいいなと彼がポツリと口にしたあの瞬間、気付いてしまった。夫婦なのだから当たり前の望みだというのに。

 子供は苦手だ。小さくて、頼りなく、その命すら儚げで……強く抱き締めたら壊してしまいそうな恐怖感に襲われる。そんな存在は欲しく無いと口にするのは、裏切るような後ろめたさがあった。だからピルを飲んだのだ。話し合わなかった私は卑怯者に違いない。隠れて薬を服用している事がバレた時ですら、彼は私を責める事をしなかった。自分の希望ばかり押し付けて悪かったと、そんな謝罪の言葉さえ添えてくれた。

 由美が居ればいい。真っ直ぐな眼差しに射抜かれ、己の罪深さを思い知った。望まれて、愛されて、流されて結婚した。なんて残酷で浅はかな女だったのだろう。一緒に暮らしていれば、夫婦になれば……いつしか同じ目線で倉田を愛せるような錯覚がしていた。幼い頃から漠然と抱えていた心の隙間を埋めてくれるのは、きっと彼なのだろうと依存していた。

 男として、作家として倉田は充分魅力的だった。彼の人生を狂わせてしまう。幸せになる権利があるというのに、妻である私が、愛される喜びも、父親となる家庭をも奪ってしまうに違いない。

 倉田は平静を装ってたが、明らかな溝が二人の間に見えない境界線を引いた。いや、埋めようと努力する彼に対し、私はあまりにも冷淡だった。彼は悟った筈だ。求められてなどいない自分に、振り払われはしなくても、抱き締め返してくる腕など無いことを。

 淡々とした日々が過ぎたある日、倉田の恋人だと名乗る女が訪ねてきた。彼と別れて欲しいと、愛されているのは自分なのだと彼女は口にした。妊娠しているのだと告白する瞳が、不安そうに揺れていたのが今でも忘れられない。こんな時、普通の妻ならば傷付くのだろうか。けれども私に沸き上がる想いは、倉田が救われるという安堵感だった。子供のいない妻と、妊娠した愛人。彼の隣を明け渡す理由としては十分すぎる状況だ。

 離婚届を差し出すと、倉田は黙り込みサインをした。紙切れ一枚。よくそんな皮肉で例えられる現実を、実感として噛み締める。最後の一文字を書き終えると、倉田は顔を上げた。

「……俺は大馬鹿者だ」

 絞り出すような声色が、深い苦悩を伝えてくる。楽にしてあげたい、私に対して罪悪感の欠片すら感じる必要など無いのだと、伝えたいと思った。

「潮時だったのよ、私達」

 机に置かれた離婚届を摘まみ上げながら、努めて世間話のよう倉田に語りかける。

「やらかした事を思えば、ふざけた戯言を言っているなんてわかっているけど、俺はそうは思ってはいなかったんだ。ただ……」

 言葉を濁らせて倉田は大きく息を吐いた。

「……見苦しいよな、この後に及んで……止めよう」

 彼は思い切ったよう立ち上がった。握りしめた倉田の拳が小さく震えていたが、私は気付かないふりをして視線を反らした。

「ね、嫌味じゃないのよ。赤ちゃん……楽しみね」

 部屋を出ていこうとする倉田の背に、そう言葉をかける。ゆっくりと振り向いた彼は、自嘲するよう口の端を上げ薄く笑ってみせた。「子供なんて……いないんだ。最初から」

「えっ?」

「あんなの……彼女の嘘なんだ。どうしてそんな事を君に言ったのか、訳が分からない」

 嘘……私に妊娠しているのだと告げた彼女の不安そうな瞳が脳裏をよぎった。

「あなたの事、すごく愛しているのよ。ただそれだけなんだわ」

 肩をすくめて倉田は苦笑いをした。

「愛なんて、一歩通行ばかりでうまくいかないもんだな」

 倉田が真っ直ぐに私を見つめる。後悔と困惑が入り混じった哀しげな瞳。その後、倉田はバックパックひとつで海外に旅立ち、それから何年も日本に戻らなかった。発展途上のアジア諸国を巡り、旅の合間に綴ったノンフィクションルポタージュは、彼の代表作となった。ゴミの山から一日の糧を探る靴さえ持たない人々の生活。爆撃の止まぬ街で、玩具ではない銃を抱え生きる子供達の日常。離婚せずにいたならば、彼は狭い視野から見える世界のなかで筆を走らせていた事だろう。

 私なんかとは違う、倉田は本物の作家だ。何にも囚われずにありがままを直視し、己の感性で現実を綴っていく鋭い切り口。後悔など何の必要があるだろう。私は彼にとって足枷だった。飛び立つ羽根を持つ倉田に絡みつく、忌わしい鎖。彼を縛り付けていたもの、それは私への執着だったに違いない。手に入らないものに人はこだわるものだ。それが妻となっても自分のものにならない女なら尚更に……ただそれだけの事。




 ダイニングに戻ると、食器が綺麗に片付けられていた。部屋の中に、ヒデの姿がない。まさか来た時と同じように、垣根を越えて出ていったのだろうか。ヒデと過ごす時間は突拍子がなく非日常的で、その存在事態が掴みどころがない。いつの間にか現れ、幻のように消える……そんな感覚が似合う気がした。

 消える、消える。 

 ふと不安がよぎりヒデを探して歩き出していた。ただトイレにでも行っているだけかもしれない。慌てたりして馬鹿みたいだ……自分自身を自嘲する。本当に馬鹿みたい。

 コの字型に庭を取り囲む縁側に出て視線を泳がすと、ミザモの木の下に見慣れないものが見えた。

人の……足。カラカラとガラス戸を横に滑らせ庭に足を踏み出す。裸足のままだが構わないと思った。近づくと、横たわるヒデの全身が見えた。両手を頭の後ろで組み、夏の色を含み始めた青空を見上げている。

「帰ったのかと思ったわ」

ヒデは一瞬私のほうに視線を走らせたが、困惑した様子で顔を背けた。

「俺……帰ったほうがよかったかな?」

独り言のように放たれた言葉に拗ねた響きを感じ、思わず笑いが込み上げる。

「昨日のパーティで忘れ物をしたのを届けてくれただけよ。彼、もう帰ったわ」

言い訳のような事をしている自分を可笑しく思う。一体何の義理があるというのか。ヒデの隣に腰を降ろし、寝そべる彼の顔を真上から覗き込む。私の影が作る日陰で、彼は安堵したよう真っ直ぐに目線を絡めてくる。駆け引きなど微塵も見せない無防備な眼差し。彼は気付いているのだろうか、こんな空気が女心をくすぐり、少しいい気にさせてしまうという事に。自分にうつつを抜かしている……そういう相手に女は、他愛もない意地悪をしたくなるものだ。

「昔、あの人とこの家に暮らしていたことがあったの」

距離を縮め、ヒデの耳元で罪を告白するように囁く。彼が動揺し瞳を曇らせたのがわかった。その反応に満足し、更に話を進める。

「元夫が忘れ物を届けにくるなんて、変な朝よね」

ヒデは黙り込み誤魔化すよう視線を反らした。結婚して離婚も経験して……色恋沙汰に甘い夢を抱くお嬢ちゃんとは違うのだと、これはささやかな警告だ。

「愛してたの?」

「え?」

ヒデの唇から不意打ちに零れ落ちた疑問の意味が、すぐには飲み込めなかった。

「結婚しようと思うくらい……アイツの事、愛してたって事?」

さわさわとミモザの葉が風にそよぐ音を立てる。視線を反らし空を仰ぐ彼の横顔が、少し哀しげに見えた。何よ、そんな顔して……裏切ったような後ろめたさが湧き上がる。結婚していたのは昔話だというのに。

「愛せたらいいなって……そう思っていたわ、上手く出来なかったけれど」

再び罪を告白する。今度はさっきよりも少し神妙な気持ちで。ヒデが大きく息をつく。強張った彼の肩から力が抜け落ちるのが見て取れた。

「不思議だな」

「何が?」

「さっき結婚してたって聞いた時、胸が苦しくなってさ、本当にズキズキと痛むんだ。……だけど……」

言い辛そうにヒデは言葉を濁した。そんな彼に続きを話すよう視線で促し耳を傾ける。

「由美の答えを聞いたら、ピタリって今痛みが消えたんだ」

「答えって……」

「愛してなかったんでしょ?」

「……そんな言い方して無いわ」

「でも同じ意味に聞えた」

浮き立つような声色。結婚生活に影を落としたその真実が、ヒデにとって喜ばしい事だとは皮肉なものだ。

「あなたに私の結婚なんて、なんの関係もないじゃないの」

「あるさ」

「どうしてよ」

「だって過去でさえ俺をこんなにも揺さぶるんだ。どうしてって……こっちが聞きたいくらいだよ」

ヒデは胸に手を置くと、癒すようにそっと撫でてみせた。女を抱いたこともないと昨夜、彼は告白したが、もしかしたらそれは女を落とす為の巧妙な嘘かもしれない。

“過去でさえ俺をこんなにも揺さぶるんだ”

溜め息混じりの台詞に、爪の背で肌をなぞられるような切なさが沸き上がる。こんな口説き文句をチェリーボーイが容易く口にできるものだろうか。

苦笑いが込み上げる。流される心地良さに、たまには浸ってみるのも悪くない。胸の上に置かれたヒデの手に頬を寄せ、もたれかかってみる。指先で髪を優しく撫であげられる。かつて感じたことの無い、満たされた想いに目眩がした。

「春にはミモザの花が沢山の花をつけるんだろうな」

「あら、よくわかるわね。この木がミモザだなんて」

「一番好きな花なんだ」

同じだ……ヒデの身体にもたれながら、戸惑いを隠すよう瞼を閉じる。ささやかな偶然。けれどもそれが運命付けられた必然にも感じる。ミモザの花は私にとって特別な意味を持つ。春先には艶やかな黄色い花が、重たげに枝をしならせて垂れ下がる。

まだ父に愛されていた頃の母が、よくこの花で小さな冠を作ってくれた。ミモザの冠を頭にのせると、幼かった私はお姫様になったような高揚感に包まれた。哀しみも喜びも、母を失った喪失感も、この木は全てを受け入れてくれた。

「このまま眠ってもいい?ほんの少しだけ」

答えの代わりに、ヒデは私の髪をくしゃりと撫でた。




第三京浜から横浜首都高へと抜けると、高層ビル群が見えてきた。東京と違う雰囲気を醸し出す源は、ウォーターフロントに立ち並ぶ立地条件のせいか、もしくは観覧車が傍ら見えるという遊び心のせいか。

ほんの少しのうたた寝のつもりが、目を覚ますと昼を回っていた。ヒデは……ずっと起きていたのだろう。髪を撫でられる感触は夢の中にも伝わっていた。浅瀬を漂うような心地良さに包まれて、すっかりと寝過ごしてしまった。そして次に湧き上がってきた欲望は、美味しい物が食べたいという滑稽なほどに原始的なものだった。

頭の中で幾つかのレストランが浮かんだが、ちらりと脳裏をよぎったメニューにすっかりと気分は傾いてしまった。北京ダックは好き? そう問い掛けるとヒデはきょとんとした顔をした。二十歳はたちそこそこの男の子には、あまり馴染みの無い料理かもしれない。

 中華街の中にある立体駐車場に車を停め、駐車券をバックの中にしまう。ふと見慣れない茶封筒が目に入り、小さく溜息をついた。出かける間際、倉田が置いていった紙袋の中にこの封筒が入っているのを見つけた。『由美へ』と書かれた三文字で、倉田が書いたものだと理解した。一体何だろう。そう思ったが、すぐ側にいるヒデがいる状況で、中身を確認するのは躊躇した。そっとハンドバックの中に封筒を滑り込ませ、そのまま食事に出掛けてしまったのだが。……どうして持ってきてしまったのだろう、置いてくればよかったのに。バックを閉じると、少し憂鬱な気分になった。

 歩調がゆっくりになった私をヒデが振り返る。伸びてきた指に優しく手を包まれる。家に帰ったら読めばいい。そう心の隅で決めてみれば少し気分が軽くなった。

 目当ての店はメイン通りを外れた裏路地にある。小さな店だが、窯でじっくりと飴色になるまで焼き上げた北京ダックの歯応えは絶品だ。最後の角を曲がろうとして違和感に気付く。いつもここまで香ばしい香りが漂っていたはずなのに……角を曲がると袋小路の路地に、小さな店が連なっているはずだったが、飛び込んできた光景は予想しないものだった。黒焦げの壁に焼き落ちた屋根。

「やだ、信じられない」

 ただ唖然と立ち尽くしていた。とにかくいつもの北京ダックにはありつけないという事実は理解できた。

「……その店が火元だよ。全くモウロクしやがって」

 突然廃墟の一角から、アクセントに違和感を感じる日本語が響いた。老婆だった。今にも崩れ落ちそうな焼け焦げた店の中から、ガラクタのような荷物を引っ張り出している。

「床下に入れておいた荷物は無事だったよ。

 こんな日がくるんじゃないかって予感がしていたんだから、やっぱりあたしゃ名易者だね」

 易者? 何故か中華街には占いの看板を掲げる店が数多く点在する。確かにこの老婆の店の前には、よく若い女の子達が列をなしていた。興味がなかったのであまり注目したこともなかったのだが。

 今時あまり目にする機会の少ないリヤカーに、老婆は荷物を放り込んでいく。ガラガラという音と共に、無造作に積み上げた荷物が一部崩れ、細い竹の束が地面に散らばった。

「年はとりたくないねぇ、嫌になっちまうよ」

 丸まった背中を更に小さく丸めて、老婆はのろのろとそれらに手を伸ばした。

「俺が拾うよ」

 ヒデが屈み込み、素早い動作で竹の棒を集め始める。

「優しい坊やだねぇ、ありがとよ。これは筮竹ぜいちくっていうんだよ。長く使ってきたけどもう易者も潮時かね」

「ぜいちく?」

 不思議そうに質問を投げかけるヒデに対し、老婆は得意げに「占いの道具だよ」と答えた。

「占い……俺この前浅草でおみくじを引いたら凶が出たんだ」

「ほう、そりゃ物騒な」

「でも当たってなかった。待ち人来ずって書いてあったけど、運命の彼女に出会えた」

 ちょっと、この子何言ってるの。恥かしげも無く他人にそんな事を口走るヒデが理解できない。老婆の値踏みをするような視線がこちらに流れてきのを感じ、顔が熱くなるのがわかった。

「アンタ達、ちょっとあたしの前に並んでごらん」

 やはり生粋の日本人とは違うイントネーション。中国人なのだろう、でも流暢に操る日本語からは、老婆が長い年月をこの地で重ねていることが伺えた。年寄を邪険に扱う訳にもいかず、訳がわからないままにヒデの隣に歩み寄る。老婆は目を閉じると、私達の目の前に手をかざしてみせた。

「小道具を使うこともあるけど、アンタ達と相性さえよけりゃ、こうするだけで見えるってもんさ」

 皺だらけの顔を見つめていると、唐突に大きくその目が見開かれ、どきりと胸が跳ね上がる。

「こりゃあ、驚いたねぇ……初めてだよこんなのは」

 老婆は興味深そうな声をあげると、再び皺に縁取られた瞳を閉じた。小さな呟きが色褪せた薄い唇から洩れてくる。

「見えるよ……水……いや海だ。大量の水は山をも崩し世界さえ無にする力を持っている。そして万物の源は次なる世を作ることだろう。背負った運命は何て重いんだろうね。あんた達は、完璧な魂を産み落とす為に選ばれたんだ。眩しいほどの光を放つ美しい魂さ。絡み合った運命は何度も輪廻を繰り返し、相応しい場所を求めてさまよっている。でもいつか辿り着くよ。現世か来世か……今のあたしにゃ、ちょっと計り知れないけどねぇ」

 老婆は名残惜しむかのようゆっくりと瞼を開いた。非現実過ぎて、自分達を占った言葉であるとは信じがたいと感じた。

「易者人生60年の最後にふさわしい客だった。いいもんを見せて貰ったよ」

 老婆はヒデの鼻先で二本指を立ててみせた。

「お客からはちゃんと料金を貰わなくっちゃねぇ。椅子も用意できなかったから、うんと安くしといたよ」

 ヒデは頷くとポケットの中からマネークリップに挟まれた札を取り出した。そこから抜き取った札を二枚、老婆に差し出した。……一万円が二枚……本当にこの男は底なしの馬鹿かもしれない。だから田舎者は騙されやすいのだ。私は素早く自分の財布から千円札を二枚取り出すと、ヒデを押しのけ老婆に突きつけた。年寄りだと思って甘く見ていたけれど、押し売りと変わらないではないか。老婆は肩をすくめてみせたものの、素直に私の手から札を受け取った。

「お腹すいちゃったわ。他の店を探しましょう」

退散をほのめかし、踵を返そうとした時だった。

「蝶が導いてくれるからね」

 唐突に老婆が言葉を付け足した。知っているだろうとでも言いたげに。今何て……? 爪先から髪まで、痺るような衝撃を受けた。まるで毒を吹き付けられたかのごとく。

「おばあちゃん、占い面白かった。じゃあね」

 ヒデの挨拶に片手を上げると、老婆は薄笑いを浮かべポケットから取り出した煙草を唇に押し込んだ。蝶……蝶……どうしてその言葉が出たのか。問いただしたい衝動に駆られたが、ヒデに腕を引かれ歩き出す。角を曲がり、メインストリートへと続く人影のない細道を通り抜ける。先程の老婆の言葉が、繰り返し頭の中で響いていた。

「さっきの話だけどさ……」

 ヒデが気恥ずかしそうに話しかけてくる。

「つまり俺達、運命で結ばれているって事だよね?」

 ストレートな問い掛けに返す言葉を見失う。馬鹿みたい、そんな嬉しそうな顔をして。小さく息を吸い込み呼吸を整える。

「運命なんて言葉は客が喜ぶのよ。誰にでも使う台詞だわ」

 突き放した口調で一瞥する。未だに心臓が凍り付いたよう萎縮していた。

“蝶が導いてくれるからね”

 あの言葉に扉が開け放たれた気がした。けれど、その隙間に歩み寄る事を躊躇する自分がいた。いつも眠りの縁で垣間見る蝶の紋様は、何を意味するのか。その美しいシルエットを腕に刻む、ヒデとの出会いは必然だというのか。

「別にいいんだ、使い古された言葉でも。俺にとっては特別だから」

 澄んだ瞳に囚われて、心を揺さぶられる自分が、怖いと思った。怖い……怖い。甘美な誘惑の向こう側は、底無しの奈落が影を潜めてているのではという恐怖に襲われる。

 だからといって知らない振りは今更だと思えた。取り繕ってみたところで、自分自身は偽れない。こんなにも惹かれているだなんて。

 立ち止まったヒデに、強く身体を引き寄せられる。頭ひとつ高い位置から垂れてくる彼の髪に、首筋を悪戯にくすぐられる。瞼を閉じると、キラキラと光を放つ蝶の鱗粉りんぷんが瞼の裏側を漂って見えた。波のように押し寄せる高揚感に、全身が栗立つ。おでこが触れ合う距離から、ヒデがこちらを覗き込んできた。

「由美、困った顔してる。……こんな子供みたいな男、相手する価値があるのかって……そう思っているの?」

 溜息にも似た苦しげな問い掛けに胸が締め付けられ、思わず目を反らす。

「お願いだから、俺を拒まないでよ。やっと……やっと見つけたんだ」

 彼は意識していないのだろう。掠れるようなこの声色だけで、こんなにも私を揺さぶる事ができるのだなんて。何度も絡んだ視線をはぐらかしては、さ迷わずにいられない。抱き締め返してしまったら、もう後戻りが出来ない気がした。

「迷うくらいなら、溺れてくれればいい」

 奪うよう唇を塞がれる。頭が混乱して、足先がみっともないくらいに震えた。触れ合う感触が、訴えかけてくる。この唇を記憶していると。


 あなたと私。……いつかどこかで……。


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