男の沽券(ヒデ)
車が行き交う大通から脇道に入り込むと、自動販売機が並んでいた。煙草、ジュース、酒……カラフルなデザインの缶やペットボトル。
皺が刻まれた札さえ飲み込み、コインひとつ違えることなくお釣りを吐き出すテクノロジー。便利だとは思う。だがそんな需要があるのかと疑いたくなる程に、あちこちに同じものが連なっている。日本人の機械好きが、街角の風景に溢れていた。
他人に干渉しない寡黙な国民性。だが、暗黙の統制力には感服させられるものがある。殺人的な通勤ラッシュの混雑時、駅員の誘導も警察の強制がある訳ではないのに、駅構内は川の流れのよう人波が移動していく。エスカレーターで急ぐ人は右側を登り、譲る人は左側に立ち並ぶ。どこにそうしろと書いてあるわけではない。車内で新聞を読む者は、ペーパを小さく折り畳み周囲に配慮を心掛ける。だが他人に優しいのかと思えば、ベンチで気分を悪くしうなだれている女性がいても、立ち止まり声をかける者はほとんどいない。
髪を染めている若者も多いが、生まれ持ったベースは皆が黒い髪、黒い瞳。江戸時代、鎖国で守り抜いた島国独特の単一民族の名残か、
やはり外人はごく少数派で人目を引くのは避けられない。こんな都会ですら。だが、この角を曲がった一画は、少々事情が違うらしい。
「hey!お兄サン、遊ぼ」
「こんなのブスいやね?アタシのがキレイよ。ホラ見て……」
充分短いミニスカートを女は思わせ振りにたくしあげる。白い脚を妖しい網模様で包むストッキングが、紅いガーターベルトで吊られている。興味を示さず、すり抜けようとする俺に、機嫌を損ねた女の悪態が投げられる。
「男がいいんなら、あっち行キナ。バァカっ」
ロシア系の顔立ちにはそぐわない、たどたどしいながらも達者な日本語。女が指差す方向には、横目でチラチラとこちらの様子を伺う男の姿があった。日本人……ではない、マッチョな筋肉にぴったりとしたジーンズ。誘うような眼差しを投げかけられ、苦笑いを添えて振り払う。
新宿歌舞伎町の裏通り。表通りとは全く異質な世界が夜の闇とともに姿を現す。日本に足を踏み入れてからいろいろな街を探索したが、ここまであからさまに客を引く場所は他には見当たらなかった。古ぼけた雑居ビルの薄暗いホールへ足を踏み込むと、タイミングよくエレベーターのドアが開いた。中から出てきた男は、目の前に立つ俺から視線をそらすと、バツが悪そうに足早にすり抜けていった。エレベーターの中に漂う安っぽい石鹸の残り香から、ビルの中に潜む風俗店のどの店の客かを憶測する。どれも看板など掲げない、潜りの売春宿まがいの店ばかりだ。
数日前も五階から降りてきた女が、同じ匂いを漂わせながらエレベーターに乗り込んできた時のことを思い出す。派手な化粧。青白く荒れた肌。マスカラで厚塗りされた睫毛に縁取られた眼球は血走っていた。ドラックジャンキー……か、直感的にそう察知する。三階から乗り込んできた新参者の俺を、物珍しそうに一瞥したが、空気のように無視するこちらの態度にカモでは無いと結論付けたようだ。途端に興味が失せた様子で、一階のドアが開くなりハイヒールを鳴らして出て行った。
この裏通りをうろつく者は皆、真っ直ぐに瞳を絡めたりしない。金を運んでくる客か、ひと時の欲情を満たしてくれる相手か、そんな憶測が夜の闇の中を行き交う。
エレベータが三階で停車し、くぐもった音をたて扉が開いた。目の前には殺風景な扉がひとつあるだけだ。風俗店の客が迷い込まないよう、目立つ色のプレートが壁に掲げられている。
『有限会社 MMS健康食品』
見てくれとは異なる重い扉や部屋を仕切る古ぼけた壁が、防弾仕様と気付く者などいないだろう。会社名の刻まれたプレートをカチリと外すと、小さなテンキーボタンが姿を現す。八桁の暗証番号を入力し扉に手をかけると、ロックの外れる手応えがした。天井の配管が剥き出しにされたままの殺風景なフロアには、U字型のデスクが二つ並んでいる。その卓上にはコンピュータがところ狭しと置かれていた。
静まりかえった室内には時折、配管がたてる小さな振動音が響くだけだ。壁際のせり出した柱の影に視線を走らせる。
「かくれんぼなんていい大人がするもんじゃないぜ。いい加減、出てこいよ」
押し殺した笑いが流れてくるのを感じた。普通に椅子にでも座っていればいいものを……いや、奴にとっては死角に身を潜める事が当然の慣習か。
「久し振りだな、ヒデ」
クリーム地に派手な花模様のアロハシャツ。柱の影から姿を見せた男は、芝居かがったよう両手を広げ片目をつぶってみせた。
「ケン、随分派手なシャツだな」
ケンと呼んだ相手は撫で付けた髪を手で整えると、口元を弛めながら歩み寄ってきた。
「新宿はヤクザの街だろ。前に見た映画じゃ若い奴らは皆こんな格好してたぜ」
ウォール街のビジネスマン、スラムの売人……コイツはすんなりと居るべき場所に馴染み、溶けこむ術を心得ている。
「今日は何処に出掛けてた?電話に出ないなんてお前らしくもないじゃん。奥手のヒデの目に止まるような女が東京にはいるのか?」
からかうような薄笑いを浮かべながら、ケンが歩み寄ってきた。何も答えない俺の鼻先にまで顔を近付けると、探るような視線で覗き込んでくる。くんっとケンは鼻を鳴らした。
「白檀か、随分変わった香水をつける女だな」
「寺で焚いている香だ。浅草に行ってきた」
「また随分と古風な場所に出かけたもんだ。……で?デートの相手ってどんな女だ」
「ケン……デートだなんてジョークだって知ってるだろう、一人で出かけてたんだよ。どころで、おみくじって知ってるか?」
「おみくじ……」
「未来を予測する紙だ。divination……占いってところかな。寺の境内で売っている」
「日本の慣習は奥深いよな。で?お前の未来は何て出たんだ」
からかうような口調でケンが答えを催促する。俺は内緒だと言いたげに肩をすくめてみせた。
「案内する。こっちだ」
話題の矛先を変えるためにケンを連れ、細長いフロアを横切り、突き当たりのドアを引く。一見、倉庫のように見える小さな部屋の隅にある空調機のボタンを操作すると、グォンという機械音と共に、壁が一部動き始めた。黒光りするスナイパーライフル、小型リボルバー(回転式拳銃)M18、タクティカルナイフ、様々な国籍のパスポート、紙幣……。
「短時間でこれだけ揃えられればたいしたものだ。流石だな、ヒデ」
「お前が段取りをしてくれたから、時間が短縮できただけだ」
「ならば話は早い。早速だが依頼がきた。日本での初仕事だ、完璧に済ませてくれ」
身体中に飛び散った血の匂いがする。数百メートルの距離を保ち引き金を引いた状況で、返り血など浴びるはずもないのに。
ドウシテ俺ハ、コンナ事ヲシテイル? マタ命ヲヒトツ、握リ潰シタノカ。
こんな夜はいつもこうだ。沸き上がる熱に身体を包まれ異様な感情を独り押し殺す。叩き込まれた残虐な感覚が指先にまで溢れている。
誰も俺に近づくな。今誰かに触れられたら、俺は条件反射で手をかけてしまうかもしれない。なのにどうして? こんな汚れた夜にどうして……会いたいだなんて感情が押さえきれない? 唇を噛み締め己の欲望と戦う。
会いたい、会いたい……。任務中だというのに、歯止めのきかない感情に翻弄されるだなんて。我に返りライフルを解体すると、細工が施したギターケースにしまいこむ。こんな所で何をぼんやりとしている。すぐに立ち去らなければ。
人気のないビルの非常階段を降り、外に抜ける扉を開いた時だった。街灯から伸びた黒い人影を目の端でとらえる。反射的に身を屈め、斜め前のアスファルトへとダイブした。
バスンっ。
サイレンサーを装着した拳銃の発砲音が鈍く空気を震わせる。左肩に一瞬、焼けつくような衝撃が走った。だがそんな感覚など振り払い、銃を向ける相手に突進する。再び引き金を引かせる前に、蹴りあげた足が描く弧の軌跡で、銃身の先をとらえ弾き飛ばす。宙を舞う銃が落ちるより早く、男の顎とこめかみを掴むと、力任せに両手を交差させる。
ゴキリと男の首が鈍い音をたてた。途端に力尽き地面に崩れ落ちる肉体を真上から一瞥する。つい先程、ライフルのスコープで覗き見た記憶を辿る。この男、標的の傍らにいたボディガードだ。狙撃した場所を憶測し僅か数分でここに辿り着いたのだから、優秀な部類に入るのだろう。
このビルは割り出され易い位置にあったのだ。それはわかっていた。けれども確実に任務を成功させる為にあえて選んだ。狙撃の後、現場で物思いになどふけっていた自分に呆れる。命取りな行為をしている自覚すらなかっただなんて。足元に横たわる亡骸は自分だったかもしれない。追跡者が独りだったから切り抜けられただけの事。ギターケースを拾い上げると表通りに向かって歩き始める。傷を負った腕が今さらのように痛みを伝えてきた。
遠くから近づいてくるサイレンの音を聞きながら夜空を見上げると、銀色の月が俺を照らしていた。人混みに紛れても、身体中に染み付いた汚れを誤魔化すことなど叶わないのだとでも言いたげに……。
ブルーのアオザイが揺れている。由美はベトナムの民族衣装をアジアンチックなアクセサリで飾り立て、パーティドレスのように装っていた。俺の鼓動を確かめるように由美の耳朶がそっとこの胸に押し当てられた。触れ合う体温。冷水のシャワーで冷えきった身体が一瞬にして熱を帯びるのを感じた。白く滑らかな肌を斜め上から見詰める。歪んだ俺とは何もかもが違う存在。その指に触れられると、清められていく錯覚にさえ包まれる。
仕事の後に服のまま、冷たいシャワーを浴びるのは俺の習慣だ。どうしてそんな事を……と問われれば、答えなど見当たりはしない。わからない、身体の中でいつまでのくすぶる残忍な火照りを一刻も早く洗い流したい、そんな思いからだろうか。
異常な状況に呆れながらも、由美は俺を受け入れてくれた。血を見ても怯える様子など見せずに、意外にも手慣れた仕草で由美は傷口に薬を塗りこんでいく。身体の古傷を幾つか指先でなぞると、捨て猫のようだとからかわれた。こんな訪問は犯罪だとたしなめながらも、追い出さないのはどうして? けれどもそんな事を尋ねられるはずもなく、拒絶しない彼女を試すような言葉を口にしてみる。
「今夜は、ここに泊まっていってもいいかな?」
どうかしている。こんな夜に、誰かと過ごしたいだなんて。
ふわりとアルコールの香りが漂う。少し酔っているのか、由美は一瞬ぼんやりと黙り込み、クスリと小さく笑って答えた。
「いいわよ。でも男物のパジャマなんてないから、あなた裸で眠るしかないけどね」
服は洗っといてあげるから、全てを脱いで寝室で待っているように言い放つと、由美はシャワーを浴びるために俺を脱衣所から追い出した。
飼い主に忠実な飼い犬のよう、のろのろと扉の前でびしょ濡れの服を脱ぎ、指定された場所に置いておく。裸の腰にバスタオルを巻くと、彼女が教えてくれた寝室へと歩き始めた。この前のようにガレージに……ではなく、寝室に? 自分から申し出た事なのに、思いがけない展開に頭が回らない。
寝室は縁側の廊下を通り過ぎた突き当たりにあった。暗い室内に忍び込み、ライトのスイッチを押す。ステンドグラスで装飾されたアンティークなランプが優しい光で室内の様子を浮かび上がらせた。ゆったりとしたベッドが光沢を持つシーツで覆われている。サイドテーブルに積み重なった本や、部屋の隅に置かれた椅子に視線を流す。ベッドに近づきそっとシーツをなぞってみた。
柔らかな手触り。張り詰めた布地に指先が悪戯に描く皺が刻まれていく。禁じられた遊びをしているような罪悪感と、高揚感を噛み締める。耳をそばだてるが近づく足音はまだ聞こえない。時間に猶予があると確信し、サイドテーブルに置かれた本に手を伸ばす。一冊摘まみ上げ表紙を眺めてみた。海に浮かぶ小さな島の写真に視線を奪われる。
蒼い、青い……海に浮かんだ南国の小さな島。ぱらぱらとページをめくる。様々な形をした小さな島は似ているようで違いがあるらしく、どれも宿泊設備を兼ね備えているらしい。水上レストランやスパ、鬱蒼とした木々に包まれた小さなコテージの詳細などが載っている。本を閉じ再び表紙を確認すると、モルディブと英字で書かれていた。頭のなかでその国の場所を思い描く。インドの下、スリランカの更に南……。
以前、地中海のビーチリゾートと言われる場所に足を踏み入れた事がある。皆が太陽の下でバカンスを味わっていたが、俺だけは全く違う目的を持って砂浜に寝転んでいた。白い砂浜を透かす美しい波打ち際が、赤い血で染められいくプロセスを愛を囁き合う恋人達の影で何度も思い描く。あの時広がる青い海は、都合のいい逃走ルートにしか見えなかった。海に浮かべた無人のボート、素肌に羽織るシャツの裏に忍ばせた小振りのナイフ。
廊下小さく軋む音に反応し、我に返る。由美の素足が立てる僅かな足音に耳をそばだてる。そっと元の位置に本を置くと、どんな状況で彼女を出迎えたらいいのか途方に暮れてしまった。
ベッドが置かれた部屋、椅子がひとつ、近づく足音。どこかで……こんな部屋で……同じ高揚感を噛み締めた記憶が湧き上がる。先程目にした写真のせいだろうか、部屋の窓から無意識に海を探している。どこかで波の音が……気のせいだ、まさか、海など何処にもあるはずがないのに。任務の時とは違う、相手が近づいてくる気配に身体の奥が切なくざわめく。懐かしいなどという感情に惑いを感じた。
海の側で誰かと落ち合った記憶などありはしない。訓練や標的を仕留める目的以外に、海なんて縁が無い場所なのだから。
照明と同じ色合いのステンドグラスがアクセントに装飾された扉が音を立てて開いた。咄嗟に椅子に座り、動揺を押し殺しうたた寝をしている振りをしてみせる。ぱたんと扉が閉まる音、由美の素足が床を踏む気配、近づく息遣い。死んだ振りは得意だ。死人のごとく呼吸を潜め瞼を伏せる。
小さな溜め息が響くと、寸前まで近づいた由美がすっと離れていくのがわかった。ギシリとスプリングが軋む音、彼女の身体がシーツに滑り込む衣擦れの囁き。部屋の照明が落とされる。暗闇に慣れた目でそっとこちらに背を向けて横たわる由美の様子を伺う。触れてみたい。けれどもこの現実は、指を触れたら掻き消えてしまう幻のようだ。こんな感情を呼び起こす存在に、出会ってしまった奇跡が信じられない。殺すべき相手か、否か。関わる人間はその二種類しか存在しなかったというのに。
そばに居るだけで……ひたひたと忍び寄る胸の痛みに酔ってしまいそうだ。
「全く……失礼な男ね」
すっかりと静寂に包まれ、由美は眠ってしまったと思いこんだ矢先、苛立ちを含んだ彼女の呟きにびくりとした。部屋の隅でおとなしく眠っているはずの俺に、彼女は怒りを感じているようだ。寝た振りがバレているとは思えない。こんな状況でも身動き一つせず、意識を保ったまま朝まで椅子に座っている事など慣れたものだから。ギシリとベッドが再び軋む音が響く。薄目を開いていた瞼をそっと閉じ、再びこちらに近づいてくる足音に耳を傾ける。ごくりと喉を鳴らしてしまいそうな衝動を押し殺す。こちらをじっと覗きこむ彼女の視線を肌に感じる。この先の状況が予測できずに心の中で冷や汗をかいていた。
包帯を巻かれた腕に、ひんやりとした彼女の指が触れる。指先は辿る道筋にちりちりとした疼きを引きながら、ゆっくりと俺の腕を下っていく。
皮膚を切り裂かれた方がましではないか。この状況で平静を装う事など、拷問に耐える訓練よりも堪え難いと感じた。観念したものの、ぼんやりとした仕草を装い瞼を開く。息がかかるような距離からこちらを覗き込む、由美の瞳があった。視線が絡むと、彼女は咎めるような瞳で睨み付けてくる。
「どういう神経?こんな屈辱は初めてだわ」
返す言葉に詰まる。何一つ思い当たる節はない。ただ、部屋の隅で大人しく寝息さえ控えめに座っていただけなのに。
「あなたまさか、本当にウチを簡易ホテルか何かだと思っている訳?」
泊まっていいと許可をもらったのは、俺の勘違いだったのだろうか。彼女の怒りの原因が理解できずにただ、唖然とその瞳を見つめ返す。
「ごめん、ホテルだなんて思っていないけど……迷惑みたいだから……帰るよ。突然押し掛けて、頭にくるの当然だよね」
由美の頬が窓から差し込む月明かりに照らされている。
「手当てしてくれて、ありがとう。濡れててもいいから服どこにあるかな?さすがに裸じゃ外に出られない」
「……今更、帰れって言ってる訳じゃないわ」
ぷいっと顔を背けると、由美はベッドへと戻っていった。再び静まり返った室内に、重い沈黙が漂う。僅かに震える息遣いが聞こえた。嫌われてしまった。まともな生活などした事がないから、知らぬ間に不快な思いをさせてしまったに違いない。どうしたらいいのかわからないまま、焦燥感に押され由美の側に歩み寄る。ベッドに膝をかけると、背を向けた由美の肩が反動で僅かに揺れる。キャミソールの華奢な肩紐……目の前に横たわる肉体が自分と異なる性であることを知らしめてくる。
「……ごめん」
ただ謝る事しか出来ない。訳が分からなくても悪いのは俺だから。
「何を謝ってるのよ。馬鹿みたい」
「……うん。俺、馬鹿だよな」
「もうっ、あなたと話をしていると調子が狂っちゃうわ。年上の女をからかって面白い?」
くるりと由美はこちらに身体を回すと、横たわったまま頬杖をついた。片方の手でうっとうしそうに髪をかきあげる。
「からかってなんていない」
「裸同然で寝室にいて、眠りこけているなんて普通ありえるかしら」
「……えっ?」
自分でも間抜けなだと思う声が出た。今更にこの状況を考える。だってまさか、一緒にいられる一夜に舞い上がってしまい……それ以上の事なんて。改めて目の前に横たわる由美を見つめる。光沢のある薄布のキャミソールが柔らかく体のラインを浮き上がらせていた。呆れ果てた溜め息をひとつ吐くと「もういいわ」と由美は枕に顔を埋めた。
無防備な背中が露になる。そっと剥き出しの肩に指を伸ばす。薄い皮膚に覆われた滑らかな肌の感触。俺の行動に由美の身体がぴくりと跳ねた。
「……馬鹿は……あたしだわ」
枕に遮られて、由美の言葉がくぐもって聞こえる。答える代わりに髪を撫でると、湿った手触りがした。いつもの強気な彼女とは違い、道端で雨に濡れる迷い猫を連想させる。指を差し込み、優しくその髪をすくい上げる。バスタオルを巻いただけの俺の腰に、由美の手が触れた。自分の身に起きている事だというのに、現実味がない。
彼女に導かれるままに、身体をそっとすり寄せる。髪に触れていた手の平を、由美の背中に回す。枕から顔を上げた由美の頬に自分の頬を重ねてみる。触れ合う体温に眩暈が押し寄せた。
この先に進もうとする欲望に、大きな絶望が立ちはだかる。流れに乗りきれない自分自身がもどかしい。けれどもこれ以上彼女を落胆させられないと、咄嗟に口にした。
「きっと、君をガッカリさせる」
欲望でうっすらと濡れた瞳が、ぼんやりとこちらを覗き込んでくる。意味がわからない。眼差しがそう訴えかけてきた。
「俺、……したことないんだ」
「何が? 年上の女とってこと?」
「違う。そんな意味じゃなくって……あのさ……」
「……何よ、はっきり言いなさいよ」
触れていた肌を引き剥がし、苛立ちを滲ませた口調で凄む彼女に、もう誤魔化しはきかないと観念する。
「女の人と、そういう経験無いんだ。呆れただろう?」
由美の目が丸くなるのが見て取れた。男としてこんなにも情けない台詞があるだろうか。
「もしかして、ゲイなの?」
予測もしない憶測に大袈裟なほどに首を振って否定する。そうくるとは思わなかった。
「だって……信じられない、あなたが?だってモテるでしょう? ほら、ハトバスに乗ってた女の子達にだって、注目されていたじゃない。今までそんなチャンスいくらでもあったでしょう」
「だって、そんなの何の意味も無いさ。自分が惹かれなきゃ」
「正直なのね。でも男って気持より先に欲望に負けてしまうって事があるでしょう?特に若いうちは尚更……」
「普通はそうなんだろうけど、でも後悔してる」
「後悔?」
「だってこんな夜に上手く立ち回れなくって、情けない告白をする羽目になる」
真っ直ぐに注がれる眼差しにいたたまれず、目をそらす。こんな事ならば、ケンと繰り出したクラブで女に誘われた時、成り行きに身を任せてしまえばよかったのだ。あの時もこの時も、由美の言う通りチャンスは思い返せばいくらでもあった。でも、欲望など湧きはしなかった。誘うような眼差しが鬱陶しいとさえ感じていた。
「なんだか自分が節操の無い大人に思えるわ。ね、本当に好きな相手とじゃなくちゃ嫌だって気持、情けないどころか素敵だと思う」
違う違う、そうじゃない。すっかり欲望の灯火が消えた由美の瞳にすがりつきたい衝動が沸いてくる。
「だから、君に会って初めてそう思ったんだ」
「……いいのよ、気を使わないで。ね、もう寝ましょう。怪我もしてるんだし……」
「だからっ」
気付いたら、両腕で由美の肩を押さえていた。彼女の身体がシーツに縫い付けられたようベッドに埋め込まれる。
「本当だって」
「痛いわ、離してよ」
その台詞に我に返り、慌てて手を引っ込めた。
「もう、その気無いの。ごめんね」
こんな無知な男は趣味じゃない。そう宣告された気がした。
「はい、横になって。この枕大きいから半分わけてあげる」
聞き分けの無い子供をあやすような口調。これ以上反論する言葉を失い、言われるがまま天井を見上げ横になる。心臓は凍りつき、脈打つ事さえ拒んだよう静まり返っていた。放り出した手の平に、由美の指がそっと重ねられる。
「馬鹿になんてしない、本当よ。羨ましいとさえ思うわ」
彼女の声に含まれる澄んだ響きに、その言葉が嘘ではない事を感じ取る。
「大事にしなくちゃね。こんな行きずりの夜に惑わされちゃ駄目。きっと巡り合うわ、あなたが待ち望む相手に」
お休みなさい。小さな呟きの後しばらくすると、由美の指が、俺の手の平の上でそっと力を落とした。深く息を吐き、首を横に傾けると静かな寝息を立てる由美の横顔があった。そっと顔を近づけその髪に鼻先を埋めてみる。すっかり乾いた髪は、さらさらと皮膚をくすぐり、甘い匂いを漂わせてくる。満ち足りた気持が溢れてきて、瞼を閉じ慣れない感情を深く味わってみた。
幸せってこういうもの?
けれども、ふとライフルのスコープ越しに跳ね上がる男の姿が脳裏をよぎった。首の骨をへし折った時の指の感触……。
“オ前ニナド、ソンナ資格ハ無イ”
暗闇の向こうから、あの世に送り込んだ輩のざわめきが聞える。知っている、知っているさ。けれども、この忌まわしい人生にこんな夜が、一度くらいあってもいいではないか。覆い被さる過去の罪を、振り払うようにかぶりを振る。
「……ん」
寝返りを打った由美の顔がこちらを向く。僅かに漏れる息づかいが俺のおでこをくすぐる。
ちゃぷり、ちゃぷり……。ほら、聞える。揺れる海面がたてる水音が。
ちゃぷり、ちゃぷり……。空耳……でも何故?由美と眠る柔らかなベッドが小船のように感じる。船……船……二人を乗せた……小さな……。
“きっと巡り合うわ、あなたが待ち望む相手に”
それは君なのだと、今夜はどう訴えてみたところで上手く伝わらないのだろう。けれども、隣で眠っている間は、この腕から擦り抜けてどこにも行く事は無い。こんな夜は二度と叶わない夢。ましてやベッドで眠るなどいつぶりだろうか。いつも椅子にもたれ、とっさの行動に備え銃を傍らに置きながら眠る日常。由美の温もりに包まれ瞼を閉じる。
このまま死んでもいい。……そう、行き先は地獄だとわかってはいても……。