ブルーマンデー(由美)
地下鉄の雑踏の中、繋がれた指先に囚われる。振り払えないのはどうしてなのだろう。まるで子供じゃない。世界にはママしかいないのだとでも言いたげな眼差し。
行かないで。どこにも行かないで……
いくつもの電車を、一緒に見送っている自分を不思議に思う。どうかしている。遊覧船に揺られている時、漂う浮遊感を懐かしいと感じていた。また、あの感覚……彼といると、何度もそんな想いに囚われる。真っ直ぐに私を見つめる漆黒の瞳。
いつだって、駆け引きのような恋愛を楽しんできた。その時の気分に合わせた男達を、アクセサリー感覚で選び、傍らに呼び寄せる。そしてこちらも、彼等が望む女を演じてみせるのだ。
妻を演じた事すらある。その立場を一度を味わってみたかったから。そして悟ったのだ。ひとつ屋根の下に暮らしていても、自分は全てを委ねる事が出来ないタイプの女なのだと。
私の母は愛人だった。父親は戸籍上、空白になっている。認知すら許されなかった環境。留守がちな父ではあったが、幼い頃はごく普通の家庭だと信じて疑う事などなかった。母は幸せだったのだろうか。資産家だった父が与えてくれるお金が目当てだと、誰からも後ろ指を差されるような関係。
父が訪れる日、母が鏡台に向かい浮きたつ様子で薄化粧をしている背中が今だに忘れられない。鏡に映る母は、恋する女だった。自分が入り込む隙を見つけられず、寂しいとも、羨ましいとも思いながら部屋の片隅で息を潜め母を眺めていた。
綺麗な人だった。望めば普通の結婚など容易く手に入ったであろうに。愛人など、結局は気紛れの玩具でしかない。父の足が遠のいていくのと共に、母の心はバランスを失っていった。
縁側でぼんやりと外を眺める母は、少女のようにあどけなく、まるで子供に返っていくように見えた。中学、高校と、成長していく私と全く相反する存在だった。大学に入学した春、母は小さな風邪が原因で肺炎を患い、呆気なく他界した。まだ四十三歳、けれども、そんな儚さが似あう人だった。
最後の瞬間まで、父が再びこの家を訪れる日を待ちわびていた母。けれども葬儀に姿を現したのは、父ではなく代理人と名乗る弁護士だった。この家の所有権、大学卒業までの学費、生前贈与という言葉を弁護士は口にした。認知してない子供への義務など背負ってはいないのに、父は私を娘だと認識していたのだろうか。だが、親子の絆すら清算しようとしているのだと漠然と感じた。お金で義理を果たせるのであれば、それが世間的には桁が違う金額であったとしても、父にとってはそれが一番容易い解決法なのだろう。
私には二種類の血が混じっている。正気を逸するほど、愛という呪縛に身を委ねる愚かな女と、そんな女に子供を孕ませ、挙句の果てに簡単に見捨てられる冷淡な男の血。愛なんて……その響きの心地良さに人を惑わせ、ふとした拍子に姿を変える。狂気にも、酷薄にも。
母が決して手に入らなかった妻という無二の場所。己で味わってみれば、それは小さな檻だった。夫だった倉田は嫌いではない、好きだった。けれども愛していたのかと問われれば、首を横に振るだろう。
冷めた女。自分ながらにそう思う。自分が綴る小説の中では、甘い色恋沙汰を奏でながら、冷静に筆を走らせる。どんな風に主人公に試練を与えるか。どのタイミングでシンデレラにガラスの靴をはかせるのか。結末はお決まりのハッピーエンド。
私の小説は商品だ。読者のニーズに合わせた品物であるほどに本は部数をあげる。女が自立して生きていく為に必要なものは手に職を持つこと。文芸性など私は求めない。切なく甘い恋物語を女達は求めているのだから。
時代に取り残されたような日本家屋で独り、とりとめもなく降り注ぐ物語の断片を拾い集める。縁側でぼんやりと構想を練っていると、自分が昔の母と同じ顔をしている錯覚がした。
待っている。いつまでも待っている……私はそんな時、そっと庭に出てミモザの木に触れる。花をつけていても、いなくても、この木に寄り掛かると心が落ち着いた。
地下鉄が滑り込む轟音に我に返る。繰り返し通り過ぎる電車を眺めていたら、ぼんやりとしていたようだ。母の事など……最近は滅多に思い出さなかったというのに。隣の男と繋がれた指先が熱い。……いつまでこうしている気なのだろう。年下の面倒をみる趣味はないのだと素っ気なく言い放つと、男はすがるような眼差しを落としてくる。
「会いたかった……どうしても。今日は迷惑だった?」
溜め息混じりに震える声が、わたしの髪を揺らす距離。寄り掛かってしまいたいだなんて、今日の私はどうかしている。
「そろそろ行くわ。あなた、この地下鉄に乗る気ないんでしょう?」
振り払うよう言い放つ。茶番は終わりだ。こんなのって、らしくもない。電車の扉に向かって歩き出すと、背後から伸びた長い腕が覆い被さってきた。ふわりとミモザの花の香りが鼻孔をくすぐる。とっくに散ったはずなのに……こんなプラットホームのどこにも、花などあるはずがないのに。
「ずっと聞きたかった事があるんだ」
目を閉じて、深く息を吸い込む。瞼の奥で、揺れるミモザの黄色い花が浮かんで消えた。
「なぁに?」
感情を含ませない声色で淡々と問いただす。薄く瞼を開くと。出発を待つ電車の中から、興味ありげにこちらを覗き込む女の子達の視線を感じた。
「名前……聞きたかった、ずっと」
「あら、あたしの名前なんて興味がないんだって思ってたわ」
「何度も尋ねようって思ったんだけど、タイミングが……うまく見つからなくって」
駆け引きなんて微塵も匂わせない、無防備に途惑う眼差しが、私の身体の上を迷子のようにさ迷っている。気構えていた自分が馬鹿みたいに思えた。笑いさえ込み上げてくる。大胆に庭先へ忍び込み、サプライズなデートを申し込んできた男の台詞とは思えない。
「ふぅん、悪くないじゃない」
肩から力を抜けば、思わぬ本音が喉元から滑り落ちた。……そう、悪くない。背伸びをすれば届く……欲しいものに。無意識に吸い寄せられていた。触れたい、指先よりもっと、お互いを感じあえる場所に。そっと唇を重ねると、よりリアルな彼の体温が感じ取れた。唐突な行動に、彼は唖然と立ち尽くしている。
「きゃっ……ねぇ、ちょっと映画みたいっ」
電車の中からはしゃぐ女の子達の声が響く。ルージュの痕跡が、クレヨンで悪戯をされたように、彼の唇からはみ出して見えた。
「由美……よ」
小さな子供に教えるよう、彼の手のひらに文字を綴る。鳴り響くベルに急かされ電車に乗り込むと、扉は目の前で閉ざされた。ホームに取り残された彼が、電車に触れる程の位置に立ち尽くしている。電車が動き出したら危ないじゃない。そんな心配をよそに彼はかがみこむと、扉の硝子を息で曇らせ、何やら指先でなぞりはじめた。車内の人達の目が……こちらに注がれるのを感じたが、今更取り繕う術もない。
“ヒデ”
文字はあっという間にかき消えた。
“ヒデ”
けれどもその名は私の胸に深く刻まれた。
ガタンっと電車が走りはじめたかと思うと、ゆっくりと彼の姿が遠のいていく。本当に予測不可能な行動をする男だ。窓硝子に白く残ったヒデの痕跡に、そっと指先を押し当てながら込み上げる笑いを噛み殺していた。
ひっそりと静まりかえった閉館間近のプール。水中からライトアップされた波紋が、ゆらゆらと白い壁に映し出されていた。水底には美しい幾何学模様を描く、見事なモザイクタイルが敷き詰められている。天井まで続く大きな窓ガラスから一望する都会の夜景。PM21:40。こんな時間が好きだ。高い天井を見上げながら水に浮かんでいると、都会の喧騒から切り離されたような錯覚がする。揺らめく小さな青い宇宙に、抱かれているような安堵感……瞼を閉じて水の感触を肌で味わう。
ちゃぷり、ちゃぷり。
鼓膜を撫であげる柔らかな音。その心地良さに耳を傾けると、数時間前に唇を重ねたヒデの顔が浮かんで見えた。どのくらいそうしていただろう、壁に指が触れた感触に視線を上げると、真上から人影がこちらを覗きこんでいる。ジムのスタッフかと目を凝らしたが、見覚えのある男の顔だった。
「前と同じような時間に来たら、また君に会えるかなと思って」
手を差し出す不意打ちの来訪者。プールサイドに上がった私の肩に、男はホテルのロゴが刺繍されたバスタオルをかけてくれた。記憶の片隅から目の前に立つ男を探り出す。前にもこのくらいの時間に一緒になって……気まぐれで一夜を共に過ごした相手。
「私がいなかったら、スーツでプールに入る気だったの?」
男はその台詞に肩をすくめ、ばつの悪そうな苦笑い浮かべた。
「まさか、今日は泳ぎに来たんじゃないんだ。仕事で上のレストランを使ったからさ、ふと君を思い出して……」
このプールは、ホテル内にあるフィットネスクラブの会員も利用できる。職業柄、家に篭りがちな環境。運動不足解消の為、去年から時々利用していた。
「本当に私がいて、来た甲斐があったかしら?」
「もちろん。今夜はツイている」
「あら、喜ぶのは早いかもよ」
偶然の再会に盛り上がる男に釘を刺す。
「下心が無い訳じゃないけれど、ただそれだけでここに来るほど浅ましい男じゃないさ」
仕立てのいいスーツ、スマートな物腰。三十代半ば、遊び方を心得た大人の男。
「そうね、喉が渇いたわ。上のバーで一杯いただこうかしら」
大きな窓硝子で囲まれた四十二階のラウンジバー。磨き抜かれたカウンターに並んで腰をおろす。この場に相応しいジャズの旋律が、騒がしくないボリュームで流れていた。
「ブルーマンデーを」
憂鬱な月曜日と言う名のカクテルは、どこまでも澄んだブルーでグラスの向こう側を透かしている。
「これって、今の君の気分?」
「OLなら週末最後の夜には、憂鬱な気分になったりするのかもしれないけど、私には曜日なんてあまり関係無いわね」
「羨ましいな。僕なんて日曜まで働き蟻でさ、毎日がブルーマンデーだ」
「あら、可哀想にね」
クスリと笑ってみせると、男は拗ねた眼差しを流してくる。
「綺麗なブルーだね、昔ダイビングで潜りに行った南国の海に似ている」
「……ダイビング?」
「最近はすっかりとご無沙汰だけどね」
「本当にこんな色?」
「海と空のブルーが金色の陽射しに混ざり合って……本当にこんな色に見えるんだよ」
男は懐かしそうに、カクテルグラスに注がれた小さな海を覗き込む。
「考えてみるとビーチリゾートって今まで縁が無かったわ」
グラスを手に取り、海の滴を味わう。海水とは程遠い、強いウォッカがオレンジの香りと共に喉を滑り落ちていく。
「来月になれば仕事も落ち着くんだ。良かったら、一緒に逃避しようか?こんな色の海に」
夜を甘く色付ける、他愛のない口説き文句だなんてわかっている。けれども意外なまでに真剣みを帯びた眼差しに囚われて、冗談だと軽く受け流すきっかけを見失う。
「あの夜から、君のことがちらついてさ……もっと知りたいだなんて言っても本気にはしてもらえないかもしれないけれど」
一度寝た男だ。居心地の良さを感じたからこそ、あの夜、同じシーツに包まった。人肌の温もりを恋しいと思う夜だってある。彼なら外国の男達に混じっても、見劣りしないエスコートを提供してくれるに違いない。隣の男と過ごす甘ったるい南国のバカンスを思い描いてみる。
「溜め息が出そうなくらい素敵なお誘いだけど、遠慮するわ」
「どうして?」
拒絶の言葉に臆する様子も見せず、男は理由を訊ねてくる。
「本当は断る理由なんて見つからないのよね」
「は?」
「この誘惑に流されてしまえばきっと心地良いってわかっているのに……何故だか浸れないの」
「この前の夜と違って、他の男が君の心に棲みついてる?」
「……まさか」
視線が絡むと、男は肩をすくめてみせた。
「しつこく食い下がりたいけど止めておくよ。せっかく再会出来た夜が台無しになる」
男は手にしたグラスを傾けると、ウィスキーに浮かんだ氷を回し、カラリと涼しげな音を立てた。
「プールで見かける綺麗な女の子に、片想いなんていうシュチエーションもたまには悪くないさ」
“他の男が君の心に棲みついてる?”
どうしてこの人じゃ駄目なのだろう。どうして、あの男の顔なんかが浮かんでくるのだろう。ヒデ……八つも下の、まだ子供みたいな年ではないか。どうかしている。グラスに再び唇を寄せると、ヒデに口付けた感触が蘇る。身体の奥底からわき上がる火照りを感じ、見掛けより強いカクテルのせいなのだと、自分自身に言い聞かせた。
キーボードを打つ指先が、無様な程に入力ミスを繰り返す。全く進まない原稿に嫌気がさし、煙草をくわえライターで火を灯した。細い紫煙がゆらゆらと漂う様子を目で追いながら、一体今は何時だろうと障子を透かす光の加減を押し図ってみる。観光で来ていると、ヒデは言っていた。あれから五日。もしかしたら、もう東京にはいないのかもしれない。……だったら、どうだと言うのだ。たまたますれ違い、ノリでキスをした。ただそれだけの関係。そんな行為に意味を持たせるほど、愚かな女ではないつもりだ。浅草なんかへ行ったのは、夢だったのかもしれないなどと感じはじめる。ヒッチハイクで拾った男など、夜中に見た映画の断片だったのかもしれない……。
縁側に座りぼんやりと庭のミモザを眺めていると、過ぎてゆく時間の感覚が曖昧に感じた。電話のベルが鳴り響く。身体がびくりと跳ね上がる。まさか……いや、そんなはずはない。携帯のアドレスすら交換していない。ましてや家の電話番号など……。受話器を上げると、聞き覚えのある声が響いた。
「双実社の湯原ですが……」
落胆している事に気付き、誤魔化すよう短くなった煙草を灰皿に押しつける。苦笑いが込み上げた。滑稽な自分自身に。
「今、双実社さんの原稿は受けてないはずよ」
ぶっきらぼうに言い放つ。けれどもそんな私の態度に慣れている湯原は、全く気にする事無く話を続ける。
「由美センセ、やっぱり忘れてる。電話してよかったですわ」
「忘れてるって……何を?」
「招待状を送ったはずですけど」
「招待状って?……あ……」
全く忘れていた。双実社の創立記念パーティだ。
「いやね、ちゃんと覚えているわよ。明日だっけ?」
「センセ、今日の六時からですよ」
「えっ!今何時?」
「三時です。もし由美センセが来なかったら、私、上司にお咎めを食らいますよ。迎えに行きましょうか?」
「いいってば、子供じゃないわ」
ここからお台場までは四十分ほどだ。これからシャワーを浴びて、服を選んで……何とかなるだろう。小説は自由業とはいえ自分ひとりの力で成り立っている訳ではない。社交辞令で義理を果たす事も大切な仕事の一部だ。念を押す湯原に、必ず行くからと約束をし受話器を置く。
慌ててシャワーを浴び、バスローブ姿のままクローゼットの扉を開いた。ワンピース、スーツ、手に取っては再びハンガーを元の場所に戻す。どれもありきたりでつまらなく思えた。ふと、目に止まったのは艶やかなブルーの柔らかな布地。アオザイ……。以前、友人が経営するカンボジア料理店を足を運んだ事がある。店の女性は皆、白一色のアオザイを着ていた。カンボジアが誇る美しい民族衣装のシルエットに釘付けになった。腕のいい仕立て屋を紹介してもらい、一着あしらえたものの、着る機会を見失いしまいこんだままになっていたのだ。
袖を通し、姿身の鏡の前に立ってみる。ぴったりとした上半身とは対照的なゆったりとした履き心地のクアン(パンツ)。チャイナドレスのように深いスリットの隙間から意味ありげな脚をのぞかせることなく、薄絹が柔らかく身体のラインを浮かび上がらせる。けれども、ひらりと上着がなびくと、クワンとの隙間から僅かに覗くウエストの素肌が艶かしい。胸元より流れるような曲線を描く、白い花刺繍がブルーの生地に浮き出るよう施されていた。この服に合わせて買った、ビーズ刺繍のミュールとバックも出番を待っているはずだ。沈んでいた気分が少し浮き立つのを感じる。支度を終え、透かし模様のシャンデリアピアスを耳朶に差している時、玄関のチャイムが鳴った。
……湯原だ。迎えに来なくていいって言ったのに、全く信用されていないらしい。縁側を通り抜け、玄関へと向かう。擦りガラスがはめ込まれた格子造りの玄関扉の向こうに人影が見えた。湯原じゃない。見覚えのある輪郭。忘れたと思っていても、記憶とは侮れない。ミュールを履き土間を二、三歩またぎ玄関の鍵を解く。玄関戸がカラカラと音を立てて横に滑っていった。
「久しぶり」
懐かしい声が響く。そこに立っていたのは昔、この家で一緒に生活を共にした男だった。倉田遼。四年前ならば、玄関を開いた私に彼は「ただいま」と笑いかけていたはずだ。
「俺も出席するから、ついでに拾っていこうかなって思いついてさ。お前、酒飲むから車出せないだろう?」
変わらないぶっきらぼうな口調。しかも四年ぶりの再会が、こんな不意打ちとは彼らしい。日焼けした顔、ルーズに伸ばした髪、あの頃よりも大人になったのだからだろうか、キャメル色のスーツが板についている。
「別れた夫婦が並んで出席なんて、悪趣味だと思わない?」
「そうかな?俺は別に気にしないけれど。由美が来るって聞いて、知らん振りっていうのも変だと思ってさ。
でも迷惑だったら……先に行くよ」
「いいわよ、もう。この状況で、別々にパーティへ行く方が後味悪いわ」
「突然来たりして、怒ってる?」
「怒ってなんていないわよ。驚いただけ」
相変わらず、マイペースな人。でも私の前で笑顔を見せてくれる彼に、心の奥で安堵している自分がいた。四年前、この人を深く傷つけてしまった。笑顔を奪うほどに……。
「たまには皆の噂の種になるのも悪くないわね」
バックを手に取り、倉田の腕に軽く手を添える。湯原が目を丸くする様子が目に浮かび、込み上げる笑いを噛み殺した。
帰宅したのは日付が変わる少し前だった。
「今夜は少し、飲みすぎちゃったわ」
迎えに来た時と同じ玄関先に車を着けると、倉田はエンジンを切らずに煙草に火をともした。
「やっぱり、今日の俺達って注目されてたかな」
思い描いていたのと同じリアクションをした湯原を思い出し、吹き出しそうになる。
「元夫婦だって、皆意外と知っているのね。芸能人でもないのに。私なんてどこにも顔写真なんて載せないようにしてるのに」
「そういえば由美って、作者紹介のところに絶対に写真使わないのな」
「恋愛小説家に相応しい顔って訳でもないしね。読者にイメージダウンを植え付けることもないでしょう」
「出せばいいのに。大人の女って感じで、悪くないぜ。由美って名前は本名使っているくせにな」
「おばあちゃんになっても書くんだから、年齢不詳とかがいいの」
「……相変わらず、頼もしいのな」
注がれる眼差しに素知らぬ振りを通す。見つめ返してはいけない、そんな予感がした。
「今日はゆっくり話せて、楽しかったわ」
さりげなく、別れの言葉をなげかける。
「……俺もだ」
長く煙を吐くと、倉田はぼんやりと家へと視線を流した。
「さっき何年か振りに玄関の前に立った時、自分のバカさ加減に呆れた。口をきいてもらえくても、仕方がないくらいの仕打ちを俺はしたから……」
「そんな事、もう忘れたわ」
離婚の原因は倉田の浮気だった。いや、それは単に彼のささやかな抵抗に過ぎない。追い詰めたのは私、ただそれだけの事。
「おやすみなさい」
助手席のドアに手をかける。振り返ると車に残した倉田と視線が絡み、ほんの少しだけ再会の夜を後悔した。この人をまた傷つけてしまうかもしれないだなんて予感は、馬鹿げた自惚れだろうか。
「おやすみ」
倉田は小さく呟くと、アクセルを踏んだ。一日の終わりを締め括るこの言葉を、同じベッドの上で繰り返していた歳月が頭をよぎる。愛されていた。溢れるほどに、哀しいほどに。どうして、彼の腕に全てをゆだねる事が出来なかったのか。違う……違う……。溺れるほどの倉田の愛情に包まれながら、あの頃いつも何かが違うと囁く自分を感じていた。
走り去る車を見送った後、鍵を開け、玄関の照明もつけずに靴を脱ぎ捨てる。真っ暗な闇の中、馴れた足取りで廊下を横切り居間の扉に手をかけた。酔いが回った頬に、ひんやりとした室内の空気が心地良い。手探りでソファーの背に手をかけ、ドサリとなだれ込むと、電気をつけるのも、お化粧を落とすのも億劫だと思った。でも顔くらい洗わなくては。ひとつの手抜きが大きなの後悔を招くに違いない。胸の内であれこれ葛藤していると、小さな水音が遠くで聞こえた。……バスルームから? やだ、出掛ける前にバスを使ったときに蛇口を締め忘れていたのかもしれない。慌てて立ち上がると、酔いが少し醒めた気がした。
バスルームへ近づくにつれ、水音はよりはっきりと響いて聞こえた。脱衣所の扉をそっと開く。中は薄暗く、ブラインドを上げた小窓から差し込む仄かな月明かりが、暗闇から室内の様子を浮き上がらせている。バスルームへ入る硝子戸の向こうは真っ暗で、水音は間違い無くそこからと伺えた。今までこんな失敗は一度だってしたことはないのに。年寄りにでもなった重い気分のまま硝子戸を開いた。
パチャパチャと跳ね上がる水飛沫の音がクリアに響く。湿ったタイルの床が足を濡らす感触。
バスタブの上部に設置されたシャワーヘッドの下に、うずくまる人影があった。裸……ではない、服を着たまま。普通なら家を飛び出し助けを求めるだろうに、酔いが思考回路を混乱させているのか、立ち尽くしたままバスルームの照明スイッチに手を伸ばす。明るくなった視界に目を細めながら現実を凝視する。お湯のないバスタブの中で片膝を立てうずくまる男の顔は、濡れた髪が張り付いて水滴がしたたる顎しか見えない。けれどもそれだけで何故か彼だと確信する。
「あなた……ヒデ?」
最初は朝のキッチン、次は夜明けの裏庭。人を驚かすのが趣味なのだろうか。さすがに呆れた溜め息が漏れる。
「ねぇ一体なんのつもり?冗談にも程ってものが……」
白いバスタブに近づくと見慣れない色が目についた。それは長袖の黒いシャツから覗く彼の甲を伝い、排水口へと吸い込まれていく。赤い……赤い……これは。慌てて蛇口を捻る。そのとき初めてヒデに降り注ぐシャワーが、冷たい水だと気付いた。ヒデがゆっくりと顔を上げる。濡れた前髪の隙間から悲しげな瞳が見えた。
もしかして、泣いている? いや、頬を伝わるものは、髪から流れ落ちたシャワーの滴だ。だけど……癒してあげたいだなんて、どうしてそんな感情が沸き上がるのだろう。捨て猫を拾う趣味など幼い頃からなかったというのに。
「怪我、しているの?」
「あぁ……かすっただけだから大した事はない」
「かすったって、何が?」
ヒデは一瞬口をつぐむと、指先で濡れた髪をかきあげた。
「……裏庭の垣根をよじ登って……それで枝が……」
「馬鹿みたい。そんな事で怪我なんかして。庭の木を折ったりしたら許さないわよ。それで、一体どうやって家の中に忍び込んだ訳?」
「脱衣所の窓が鍵をかけ忘れてた」
「信じられない。あなたのしてる事は犯罪だってわかってる?それになんだって服のままシャワーなんて浴びているのよ」
「俺、汚れているから」
「え?」
仕立てのよい麻の黒いシャツ、同じ色の細身のパンツ。怪我をしている腕の袖が少し破け、血で滲んではいるけれども……。
“俺、汚れているから”
絞り出すような彼の低い声色に違和感を感じた。
「とにかく、立って頂戴。手当てをしなくちゃ」
ヒデの手を引いて脱衣所へと連れて行く。
「濡れた服を……」
そう促しても、ヒデは頭ひとつ高い位置からただ私の顔を眺めている。服に吸い込まれた水滴は、彼の足元に広がる小さな水溜まりへと姿を変えていく。傷口を確認したくて、待ちきれずシャツのボタンへと手を伸ばした。二、三個外したものの、水を含んで固くなったボタンホールに手間取ってしまう。
「あっ……」
そんなに力を込めたつもりはなかったのに、無理矢理押し込もうとしたボタンがブチンと音を立てて取れてしまった。濡れた服、床に転がるボタンの音……一瞬、激しい雨音に包まれた……気がした。はっと窓辺に視線を流すと、さっきと変わらない月明かりが穏やかに差し込んでいる。まただ……この感覚。知っている、知っている。……何を? この情景を、だ。ヒデが止まってしまった私の手に、そっと触れてきた。そして、自分で残りのボタンを片手で外し始める。
「由美……」
溜め息にも似た声色が降りかかり、自分の体温が上がるのを感じた。
「そのアオザイよく似合っている」
この服をアオザイとわかる男なんて珍しいと思う。はだけたシャツから彼の素肌が覗いていた。露になった胸に、手のひらを押し当ててみると、ひんやりとした体温が伝わってくる。不安な気持ちで確かめるように、今度はそっと耳を押し当てる。トクトクと脈打つ命の鼓動が聞こえた。
何を安堵しているのか……馬鹿みたいだ。肌に張り付いたシャツを脱がせ、傷口を確認する。ざっくりと皮膚がえぐれていたが、すでに出血はほとんど収まっていた。傷口は腕に浮かぶ蝶の痣を、切り裂くように刻まれていた。まるでその身を捨てて、彼を庇ったように見える。その痛ましさに胸の奥がずきりと疼く。バスタブを赤く染めていたのは、シャツに染み込んだ血が水を含み伝い落ちていたもののようだ。他にも怪我はないかと点検をする。よく見ると、あちこちに小さな古傷を見つけた。何か、スポーツでもやっているのだろうか。
「あなたって傷だらけの野良猫みたいね」
私の台詞に彼は笑ってみせた。傷がある以外は文句などつけようのない程にバランスのとれた綺麗な筋肉。張りがあって、つやつやしていてイルカみたい。改めて彼の若さを実感する。最近寝不足をすると、てきめんに肌の疲れを痛感するようになった。少し前までは、徹夜のあとなどパックでもすれば、すぐに回復していたというのに。お手入など、縁もゆかりもなさそうな男のありがままの姿に軽い嫉妬を覚える。
大したことは出来ないが、傷口を消毒し化膿止めを塗り込む。薬箱にある包帯を取り出し、以前に同じような手当てを夫だった倉田にしてあげた事をふと思い出す。台所の棚を作ってくれたことがあった。その時にノコギリで彼は指をえぐってしまったのだ。溢れる血に、倉田の顔が見る見る青くなった。冷静にその腕を掴み手当てをする私に、倉田は子供のように目をつぶってじっと耐えていた。血を見ているだけで気分が悪くなるのだと、彼は苦笑いをしていた。
『よく平気だね?』
そう問い掛ける彼に私は……そうだ、こう答えたのだ。
『女は毎月血を見るのよ。初めて男と寝る時にも女は血を流すでしょう? 子供を生むときもそうよ。血を怖がっていたら女は生きていけないわ』
今、目の前に立つヒデは表情ひとつ変えずに、私の作業を見守っている。これだけの怪我をしても、あまり気にとめていない様子だ。
「お酒の匂いがする……どこかで飲んできたの?」
「そうよ。でも、あなたのお陰で酔いが冷めちゃったわ」
包帯を巻き終わると、安堵したのか不覚にも大きな欠伸がこぼれた。
「包帯を巻くのが上手いね。ありがとう、もう眠りなよ」
「そうね、夜更かしはお肌の大敵だからもう寝るわ。で?あなたどうするの」
まだ急いで家を出れば電車はあるはずだ。びしょ濡れの服のままでは、他の乗客を驚かせてしまうだろうか。
「今夜は、ここに泊まってもいいかな?」
あまりにもストレートな物言いに呆気に取られてしまった。
「……いいわよ。だけど男物のパジャマなんてないから、あなた裸で寝るしかないけどね」
投げやりに放った言葉。いや、鼓動の乱れを悟られたくなくて、わざと素っ気無く口にした。
「……本当にいいの?」
子供じゃない。家に泊めると了承したからには、男が何を期待しているのかだなんて分かりきっている事だ。ヒデを男として意識している自分をもう、誤魔化す気などなかった。興味がある相手と寝る事に、それ以上の意味など必要ない。
「服は洗ってあげるから全部そこに置いていって頂戴。明日、着るものがないと困るでしょう。寝室は廊下の一番奥よ。あたしはシャワーを浴びてから行くわ」
何か言いたげなヒデを残しバスルームへと歩き始める。この家に泊めた事がある男は倉田だけだ。ボーイフレンドと過ごす夜はホテルか、相手の部屋で過ごしていた。ヒデを車で拾った時はガレージに置いて来たのだから、泊めてあげるという感覚はなかった。でも今夜は……。勝手に上がり込んでいたのだから、招いたと言うには語弊があるが、拒絶すれば濡れた服のままでもヒデは帰ったに違いない。誘ったのは私。
シャワーの蛇口を捻ると、ヒデが浴びていた時と同じ冷水が降り注いできた。不意打ちの冷たさに身体が跳ね上がったが、あえて温度を上げないでそのまま瞼を閉じた。さっきヒデの胸に耳を押し当てたときに聞こえた、繰り返される鼓動の音が蘇る。ふいに込み上げるものを感じ、溢れる何かを遮るよう口元を押さえる。コントロールの利かない感情に狼狽している自分がいた。
「……ふっ……う……っ……」
喉の奥から洩れる嗚咽に、自分が泣いているのだと思い知らされる。信じられない……一体どうしたというのだろう。
トクン、トクン。
ヒデの鼓動が頭から離れない。息づいている……そんな当たり前の事実に胸が張り裂けそうだ。
会いたかった。会いたかった。
ほんの数日だったというのに、気の遠くなる程の歳月が、二人を隔てていたような錯覚に胸が締め付けられる。止まらぬ涙に、酔っているのだと自分自身に言いきかせる。血だらけの男に驚き、影を潜めていたアルコールが急に回ってきたに違いない。瞼を開くと照明の光を含んだ水滴が、視界に覆い被さってくる。感情の昂ぶりで火照った肌に、冷たい水の感触がいつの間にか心地良いものへと変わっていた。