おみくじ(ヒデ)
いくら日本が犯罪率の低い国だとはいえ、都会の真ん中で女性が一人、窓を開け放ったまま眠っている状況には驚かされた。なんて無用心な。不法侵入などしている自分が、そんな説教じみた事を言える立場であるはずもないのだが。
ガレージの片隅であっても、昨日は彼女の了承のもとに連れて来られた。だが今朝は……。泥棒と、声にならない叫びを彼女の唇は描いた。視線が絡むと、冷水をあびたよう身体を強ばらせ、唖然とこちらを凝視している。
どうして来てしまったのだろう。だが問われてもいいように、最初から言い訳は用意してある。用意周到……当てはまる四文字熟語をパズルの感覚で思い描き、日本語の奥深さを噛み締める。先手必勝……更に浮かんだ漢字の羅列をすばやく行動にうつす。刺激を与えないよう、ゆっくりと歩み寄り、声も出ないといった様子で座る彼女の前に紙切れ差し出した。
「これ……良かったら一緒にどうかなって」
寝起きのせいか、目が悪いのか、眉間に皺を寄せ、彼女は押し黙ったままそれを眺めている。注意を俺の手元に集中し、こちらの視線に無防備な様子を斜め上から見下ろす。
頼りなく細い襟足を、思わせ振りに覆い隠すショートカット。その髪は緩やかなカーブ描き、色白の首筋に相応しく茶色い色素を持ち合わせている。ルージュで染められていない唇は、放心したような隙間を覗かせていた。
“お前、女に興味無さすぎ”
誘うような女達の眼差しをいつも素通りする俺に、相棒が放った忠告が頭をよぎる。
“ゲイって訳でもないのにな。必要ないならその女ウケのいい顔を交換してくれよ”
人間らしい感情を不必要とする仕事だ。知らぬうちに異性への関心とやらも欠落してしまったのだと自覚していた。いや、ご丁寧な忠告をしてくれる相棒ケンのように、どんな仕事をしていようと、大抵の者は女達と奏でる情事を息抜きとする。それがありふれた男の性だとわかってはいるのだか……今まで全く興味というものを感じた事はなかった。そんな俺がどうして?
昨日、ガレージを抜け、外に足を踏み出した瞬間から慣れない感情に囚われてしまった。初めて経験する通勤ラッシュと呼ばれる朝の地下鉄で、薄い空気に喘ぎながら繰り返しその願いが頭をよぎる。
会いたい。もう一度会いたい。
「女をデートに誘うには、随分突拍子ないコースね」
笑いさえ含んだ、燐とした口調がふいに耳元に流れ込む。ついさっきまで彼女を蝕んでいた、不安や動揺といった感情は跡形もなく消え失せていた。
「Yes or No?」
恐る恐る彼女に答えを求める。こちらを見上げてくる瞳は、息を吹き込んだよう挑戦的な光さえ帯びている。ぞくりと肌が栗立つ。そうだ、この瞳に囚われたかった。口の端を上げるだけの笑みを浮かべ、彼女は答えを出した。
「……いいわ、Yesよ」
「バスに乗るなんて、随分と久し振り。しかもこの派手な黄色いバス、何度も見掛けたことはあるけど、まさか自分が乗る日が来るとは…思ってもみなかったわね」
窓際に座った彼女の装いは、ほのかに肌が透ける薄手のブラウスにジーパン。胸元には凝った透かし模様が施され、ひとつ余分に外されたボタンが、綺麗な鎖骨を露にしている。移り変わる東京の景色を、窓ガラス越しに眺める振りをして、その横顔を見つめる。車内はほとんどが日本人、他にヨーロピアンのファミリーが一組。
「本日は、はとバスツアー浅草三昧にご参加下さりありがとうごさいます」
制服姿のガイドが、マイクを握り愛想の良い笑顔をふりまいている。昨日、地下鉄から乗り換えの為に駅の構内を歩いていたら、このツアーのポスターが目に止まった。真ん中に大きく写し出されているのは、大きな赤い提灯をぶら下けた古い寺院。大都会の東京が隠し持つ、全く異質の空間がそこにあった。
仕事はほとんど片がついている。残りは帰ってから急いで取り組めば、朝までに仕上げられるはずだ。ケンがこちらに到着するまでの半日を、こんな場所で過ごすのも悪くない。誘ったら……彼女は来てくれるだろうか。だが電話をしようにも、携帯の番号など知りもしない。家の固定電話は、調べようと思えば探り出せるかもしれないが……名前も知らずして受話器越しに、何て呼び掛けるつもりだというのだ。とにかくそのままポスター脇の旅行代理店へ足を踏み入れツアーの申し込みをすると、ホテルに戻り仕事に取り掛かった。そして眠らないままに、早朝再び彼女の家を訪ねたのだ。
塀と呼ぶには低すぎる垣根を乗り越える。中庭は様々な草花が生い茂り、太い幹を持つ木もそびえ立っていた。さわりと夜風が悪戯に音を立て通り過ぎていく。見上げると、交差する枝の隙間から銀色の光を放つ三日月が見えた。
こんな夜が嫌いだった。ずっとずっと。銀色のベールが、薄汚れた闇の世界さえ、まるで輝いているような錯覚を呼び起こす。朝日にさらされ本当の姿を思い知る。ならば夢など見せなければよいものを。あの喪失感。失ったものはなんだろう? そんな疑問が心をかき乱す。
だけど……ほら、見つけた。中庭を取り囲む廊下で無防備に眠る女の姿を見つけた瞬間、泣き出してしまいそうな気分に襲われた。柔らかな月の光が、導くよう照らし出す彼女の寝顔。近づいたら、かき消えてしまうかもしれない。一歩も踏み出すことが出来ずに何時間もそこに立ちすくんだまま。漂う光が朝日に変わり素の姿をさらしても、変わる事の無い美しさに息を呑む。あんなにも満たされた時間を味わった事があっただろうか。そして数時間後、こうして彼女が俺の隣に座っているだなんて……嘘みたいだ。
「浅草の寺めぐりをしたあと、昼食は老舗天朱亭での天婦羅ご膳をご用意いたしております。伝統の味をご堪能下さい。その後は自由時間もたっぷりと設けておりますので、浅草仲見世など存分にお楽しみください。最後は水上バスにて日の出桟橋へと向かいます」
歯切れのいい発音でバスガイドがスケジュールを説明する。自分がこんな観光バスに乗っている現実に、笑いが込み上げてしまいそうだ。
「ね?かっこ良くない、あの人……」
視線を感じた。二つほど前の座席から身を乗り出しこちらを振り向く女の子が二人。金髪に近いほど染め上げた髪、アイメイクを強調した濃い化粧。けれども、いまいちその装いが馴染んで見えないのは、素材以上派手に装い過ぎているアンバランスのせいか。だが若さという武器が、その違和感を上回っていた。東京はファッショナブルな街だ。踵の高いヒールで背筋を伸ばした少女達が、一重瞼で控えめなどというひと昔前の先入観を笑い飛ばしている。
「年上だよねぇ……彼女……でもイケてない?大人って感じ」
あとに続く会話は、日本語とは思えない解読不能な用語で占められていた。恋人同士に見られている、その現実を彼女はどう受け止めているのだろう。けれども、全く意に介さない様子で、彼女は窓の外を眺めている。車内では街並みを説明するアナウンスが流れていたが、彼女の存在感で全ての音がかき消されてしまう。
一時間ほど走っていただろうか、同じような大型バスが並ぶ駐車場にバスは停車した。ほんのさっきまでコンクリートジャングルと称される都会にいたというのに、まるでタイムスリップしたような情景。朱塗りの寺院、大きな瓦屋根、白く漂う煙がエキゾチックな香りを漂わせている。立ち昇るお香に、人々が群がり、手で自分に降り掛ける仕草を繰り返す。
「この煙は身体の悪いところを治してくれるって言われているのよ」
彼女が俺の隣を歩きながら、そんな説明を添えてくれた。立ち入る隙がない程に、香を焚く大きな壺の前には人々が群がっている。
「あそこの一番前でずっと頭に煙をかけている、ほら眼鏡の男の人、元気そうに見えるけど……」
「あら、髪にも効くのかもね」
強烈なブラックジョークに一瞬、言葉を見失い込み上げてくる笑いを噛み殺す。バスガイドに説明を受ける一行より一足遅れて、俺だけに囁かれる彼女の説明に耳を傾ける。
「ほら山門を守る為に立っている二対のこの金剛力士像、これは宇宙の始まりから終りまで表しているのよ」
「宇宙?」
過去にさかのぼったような仏像を目の前に、未来を予測させる宇宙という言葉は随分的外れな気がした。
「右の大きく口を開けている像が“阿形”、左の口を閉じている像が吽形。阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音。生まれてから死ぬまで、万物の始まりと終わりを象徴的に表現しているって言われているわ」
「すごい、ここは宇宙への入り口って訳だ」
彼女の言葉の後では、同じ像が全く違った威厳を持って立ちそびえる。
「詳しいんだね、驚いた。バスガイドがいらないね」
「昔、小説の題材で調べた事があるの」
「小説?」
「……仕事よ」
「小説家なの?どんな話を書くのか知りたいな」
「今日はプライベートだから、仕事の話はノーコメント」
素っ気無く視線を反らされる。近づいていた距離が、すっと引き離された気がした。バスガイドが皆を集合させている。旗を一生懸命高く掲げ、大きな声を張り上げてた。
「これから、記念写真を撮ります。撮影はあちらになりますので皆さんはぐれないよう、私の後に続いて来て下さいね」
写真? そんな話は初耳だ。
「俺はやめておくよ。あんまり……写真は好きじゃないんだ。でも記念になるし、遠慮しないで入ったら?」
「私も、ちょっとアレは趣味じゃないわね」
同じバスに乗りあわせている若い女の子達は、バックから取り出した鏡で念入りに髪型をチェックしている。集合写真を撮影する一画には、他のバスから降り立った人々も混ざり、ごったがえしていた。
「そうだ、ねぇ、皆が写真を撮っている間におみくじを引かない?」
そう口にしながら、彼女の目が悪戯に輝く。
「ほら、あっちよ」
彼女の細い指に腕を引かれる。ひんやりとした指先が絡み付いてくる感触。バスガイドに撮影は参加しないことを伝え、片隅にある小さな小屋へと向かう。お守り、お札、和風の小物が所狭しと並んでいた。言われるがままに小銭を払い、長細い箱に入った棒を一本引き抜く。棒の先端には番号が刻まれていた。マス状の棚から同じ番号がふられた紙切れを選びとる。彼女のしている動作を真似ながらも、一体何のことやら理解に苦しんでいた。
「ふうん」
かさかさと小さな和紙を広げると、彼女はそれをじっと覗きこんでいる。同じように紙を広げてみる。解読不能だ。どういう意味があるのか、何かの暗号だろうか? チラリとこちらを覗き見する視線を感じた。
「やだ、気にすることないわ」
その慌てぶりに、違和感を感じ、手にした紙切れを再び眺める。細かい文字がびっしりと羅列されている。印刷物だが文字は所々、毛筆を真似た筆跡を描いていた。上部に一際大きな文字が並んでいる。
“凶”
文字が持つ意味を思い描けば、あまりいい事が書かれて無さそうだとは想像がつく。
「凶なんて、そんなの初めて見たわ。でも視点を変えれば大当たりとも言えるかもね」
堪え切れないといった様子で、彼女は笑いを噛み殺している。
「大当たりって……これって何のためにするもの?」
「何っておみくじよ」
「……おみくじ」
棒読みで繰り返す俺に、彼女は怪訝な眼差しを向けてくる。
「最近の若者はおみくじも知らないのかしらね。ねぇあなたって何歳なの?」
「二十一歳」
誤魔化そうかと思ったが、嘘を言うのは気が引けてありがままを答える。貴方みたいな子供は趣味じゃない。そう言われそうな気がして。
「ほら、記念すべき人生初めてのおみくじが凶だなんて、なかなかあるもんじゃないわ。一緒にじっくり読んであげる」
「本当に? 優しいんだね」
小さな紙を一緒に見るため、触れるほどの距離に彼女が踏み込んできた事にすっかり舞い上がってしまった。
「いやだ、貴方って女を見る目がないのね」
「え?」
思いがけない言葉に、どう返答したらいいのか混乱する。
「優しいなんてとんだ勘違いよ。私ってすごいイジメッ子なんだから」
戸惑う俺を、横目で眺めながら彼女は再びくすりと笑ってみせた。そして何事もなかったかのよう、取り澄ました顔で綴られた文字を読み上げ始める。
「手に持つ珠を大海に落としてしまうように何事も思いのままにならず久しく苦労する。
龍が再び珠を得て昇天する時機を待つのがよい」
「龍が……再び昇天する?」
「今は成就しない事柄も、時期を待てば上手くいくって事なんじゃない?」
なるほど。彼女の解釈に頷きながら、更に続く言葉に耳を傾ける。
「願望、かなわず。病気、危う。待人、来ず。失物、出ず。縁談、整わず。売買、折りがあわない。その他、万事もつれること多し」
「酷いな。でも待人って誰の事?」
「人生を左右するような運命の人って事よ」
「じゃあ、それって当たってないな。だって俺、こっちに来て巡り会えたもの、運命の人に」
隣に立つ横顔を見つめると、彼女は視線を合わせる事なく行き交う人波を眺めている。
「そんな事を思い込んだって、相手は全然同じ気持ちじゃないかもよ」
私は違うのと、釘を刺された気がした。
「いいんだ」
「え?」
「そう感じる人に出会えた事実は、素敵な事だなって思えるから」
「前向きなのね」
素っ気なく彼女は言い放った。
“相手は全然同じ気持ちじゃないかもよ”
知っている。どんなに相手が真っ直ぐな気持ちを注いでくれたとしても、同じ想いを分かち合えるわけではない。愛しているのだと訴えてくる眼差しを、困惑でしか返せないもどかしさ。自分はそんな感情とは、一生無縁なのだと諦めていた。この年になって初めて異性を意識するだなんて、他人から見たら笑い話にさえなる出来事。だけど……自分の身に降りかかってみたら、運命なんて大袈裟な言葉さえ嘘には感じない。彼女の立つ側の温度だけ、熱を帯びて感じるだなんて。身体の奥底に芽生えた甘い疼きに酔ってしまいそうだ。
これは一体なんだろう? ずっと昔から知っていたような不思議な錯覚。彼女が隣で息づいている事実に、何故か喜びさえ沸き上がる。切ない程の痛みさえ添えて。
抱き締めてしまいたいなんて…まさか、欲情しているとでもいうのか俺は……。いや、そんなんじゃない。ただ、その温もりを確かめたいだけ。まだ彼女の名前さえ知らないというのに、こんな気持ちになるだなんてどうかしている。 庭へ忍び込み、寝起きの彼女に唐突なデートを申し込む図々しさがあるというのに、どうして名前さえ問えない? きっかけを見失ってしまって、上手く言葉が出ない。
そうだ、一度連れて行かれたナイトクラブで、ケンがスマートに女達に声をかけていた様子を思い出す。気のきいたジョーク。女を引き寄せる思わせ振りな流し目。あんな風に振る舞えたら、彼女を退屈なんてさせないのに。けれど、突然そんな色男になれるはずもなく、意識すればそうするほどに肝心な事すら上手く話せない。
「ほら、細く畳んで。そう、それでここに結ぶの。優しくやらないと千切れちゃうわよ」
皆の運命を暗示したおみくじが、ところ狭しと結ばれている。風変わりなクリスマスツリーの飾りみたいだ。彼女が結んだおみくじは、綺麗な形を整え、白い蝶が止まっているように見えた。真似をしてみるものの、同じ紙を結んだとは思えないお粗末な形になってしまった。……その時だ。こちらに注がれる視線を感じたのは。不自然な姿勢で携帯電話のカメラをこちらに向けている女の子がいた。
「あ、ヤバッこっち見た」
「ね、上手く撮れた?あとで私にもメールで回して」
バスで一緒の……集合写真はもう撮り終えたのだろうか。視線が絡むと、二人は恥ずかしそうにバスの方へ消えていった。
「モテるのね」
冷やかすような眼差しで彼女が女の子達の背中を見送っている。
「きっと男を見る目がないのさ」
つまらないジョークに彼女は唇の端を上げ、肩をすくめてみせた。
「そろそろランチの時間よ。私達も行きましょうか」
先に歩きはじめた彼女の背を見つめる。薄手の生地から透ける背中が、素肌をさらすよりもかえって視線を引き付ける。ジーパンから覗く華奢な赤いヒール。女に称賛を惜しまないイタリア人観光客の男達が、誘うような眼差しを彼女に投げ掛ける。駄目だよ、そんな目で見詰めたって。今日の彼女は俺のものなんだから。
クリーム色の制服を着たバスガイドの旗に誘導され、天婦羅屋へと案内される。予約をしてない客なのだろうか、店の外にまで行列ができている。お座敷を用意してあるからと、靴を脱ぐように言われた。軽やかに赤いミュールを脱ぎ捨て、彼女は先に廊下を歩いていく。広い玄関が、人の出入りでごった返していた。ぐるりと確かめるよう周囲を見回すと…居た。俺の写真を撮った女の子だ。足首に巻き付いた厚底サンダルのリボンをほどくのに手間取っている。その子の隣に腰を降ろし俺もスニーカーの紐に手をかける。こちらを意識してその子の指先が止まるのがわかった。素知らぬ振りをして、床に投げ出された派手なバックに視線を走らせる。無造作に詰め込まれた荷物の隙間に、携帯電話が見えた。
警戒するに当たらないだなんてわかっている。だが……見逃す訳にはいかない。素人のブログに載っても、アクセスは世界中から可能なのだから。今日この瞬間、東京に自分が存在した証拠にさえなりえる。
「お先に」
愛想のよく会釈をして、皆が歩く廊下に向かう。座敷の場所だけ確認すると、部屋には足を踏み入れずにトイレへと入った。個室の鍵を閉め、先程、玄関で立ち上がり様に引き抜いたピンクの携帯電話を取り出す。
「何だってこんな……」
その携帯電話は、想像を越えたデコレーションが施されていた。ハート型のピンクや白のパーツで覆われ、キラキラと輝いている。これはある意味、芸術作品とさえ言えるかもしれない。まじまじと眺めながら、自分がこんな携帯電話を手にしている目的を、今更のように思い出す。苦笑いをしながら携帯を開いてみた。
両側に並ぶビル群を眺めながら、水上バスは進む。ひと昔前の町並み浅草から船を漕ぎ出せば、喧騒から切り離された静寂の中で佇む都会があった。潮風を受けながら、手すりに頬杖をついて彼女がぼんやりと過ぎ行く情景を眺めている。
「俺、聞き忘れてた」
「何を?」
「おみくじ、君のは何て書いてあったの?」
「内緒」
からかうように彼女は口の端を上げてみせた。
「本当だったんだね」
「何が?」
「……いじめっ子だって」
あははと、白い歯を見せて彼女が笑った。完璧な大人の女といった雰囲気から、垣間見えた無邪気さに目を細める。あまり馴染みのない潮の香りが、二人の隙間に漂う。彼女に出会ってまだほんの三日目だというのに、一体自分はどうしてしまったのだというのだろう。さわさわと頬を撫でる風が無ければ、熱に浮かされてのぼせてしまいそうだ。
「いやだ~っ!携帯を落としちゃった」
背後から、泣き声混じりの声が響いた。振り向かなくても誰だかわかる。そう、あの子だ。あぁ、忘れていた。いや、忘れていた訳ではない。タイミングを逃していた。天婦羅屋で席は離れていたし、その後の自由行動ではすれ違いもしなかった。船着き場に辿り着く道程でも、気付かれずに返す機会を見失っていた。
「え~っ、よく探してみなよ。最後に使ったのいつだっけ?」
「お昼食べるちょっと前に、メールチェクしたのまでは覚えてるんだけど……え、なんで? バスの中かなぁ」
あたふたとバックの中身をデッキの上に広げている。
「私、バスガイドさんに落し物が届いてないか聞いてきてあげるよ」
一緒にいた友人の方が、足早に俺たちの脇を通り過ぎようとした。
「どうしたの、何か無くしたの?」
俺よりも先に彼女が声をかけた。その子は、困り果てた顔ですがるような眼差しを投げかけてくる。
「あのぉ、友達が携帯電話を落としちゃったみたいで」
「あら、困ったわね」
「バスガイドさんって、どこにいるか知ってますか? ちょっと聞いてみようと思って」
そっと、その子の脇をすり抜け、周囲を見回し、俺はバスガイドを探すような素振りをしてみせる。
「そうね、もしかしたらもう届いてるかもよ。あ、でもちょっと貴女の携帯で電話をかけてみたら? 拾った人が電話に出てくれるかもしれないでしょう」
「あっ、そうですよね! ちょっとかけてみます」
ごそごそと大きめのバックの中からその子は自分の携帯電話を取り出した。……すごい。あの携帯と負けずとも劣らないゴージャスな装飾。長い爪にもキラキラとしたビーズのようなものが貼り付けられ、立体的な花模様を描いている。その指先で器用に携帯を開くと、その子は目にも止まらぬ速さでボタンを叩いた。電子音の賑やかな音楽が響き渡る。
「え?」
その音を聞きつけて、携帯をなくしたと騒いでいたあの子が近づいてきた。
「やだっ、どうして? どうしてここで私の携帯が鳴っているの?」
みんなの視線が集中する。俺…を通り越して、花柄の爪を持った子に。
「え……私っ? 何? えっ」
「ユッコ! アンタのバックのポケットから聞えるよ。やだぁ、間違えて私の携帯しまっちゃったんでしょう」
「えっえっ、やだっ全然記憶無いよ~」
泣き顔だった女の子は、唇を尖らせながらも安心した顔を見せている。お騒がせしましたと頭を下げて、二人は恥かしそうに去っていった。
「見つかって良かったわね」
彼女が確かめるように自分のバックから携帯電話を取り出した。目が覚めるようなアクアブルーのシンプルな携帯電話。爪はパールがかった珊瑚色で彩られている。皆、携帯電話ひとつ取ってみても自分らしさをアピールしているんだな。自分には無い感覚。いや、特徴を持たない黒い携帯電話が、ある意味自分の存在をよく表しているのかもしれない。背後では、まだ賑やかに女の子達が騒いでいる。
ゴ・メ・ン・ネ。と、心の中で呟く。特定の画像を消去したことを誤魔化す為に、数枚の写真も合わせて削除した。今日の送信履歴に添付ファイルをつけたものは無く、他に転送されていないことも確認済だ。いいタイミングが巡って来て、携帯電話を無事持ち主の元へ返すことが出来た。
“願望、かなわず。待ち人、来ず……万事もつれること多し”
おみくじ、やっぱり当たってないよねと小さく呟くと、何か言った? という眼差しで彼女がこちらを振り返る。
「生きてると、こんな特別な一日と巡り合えることもあるんだなって……」
「大袈裟ね」
皮肉めいた口調で彼女は軽くこちらを睨んだ。だけど視線が絡むと、その瞳に困惑の色が滲むのが見てとれた。逃れるよう、彼女は海へとに顎を向けた。傾きかけた太陽が、彼女の頬を金色に透かしている。視線を辿り、同じ方向を眺める。行き交う船、海へと続く水路……あぁ、知っている。揺れる水面に映るこの光模様を。
なぜ知っている? 奥底に眠る記憶の欠片が、こつこつと小さな音を立てる。彼女も、同じ感覚を味わっているかもしれないだなんて、そう思う俺は自惚れているのだろうか。
船着き場に着き、バスガイドよりここで解散との説明を受ける。気まずい空気が流れているわけではない。たけど、沈黙はずっと二人の周囲を漂っていた。目の前を横切るモノレールの駅を素通りし、自分が今どこにいるのかも分からないままに、彼女の横をただ歩き続ける。狭まった距離に何度となく手のひらが触れる。いつしか、どちらからともなく指先を絡め合っていた。ちらりと彼女の様子を伺う。何事もないかのよう、とりすました横顔があった。
時が止まればいいのに。生まれて初めて、欲しいと願った温もりが手の中に存在する高揚感。彼女の何を知っている訳でもないのに。ずっと辿り着きたかったこの地で、たまたま巡り会ってしまった女性だから、錯覚しているだけなのかもしれない。待ち人来ず。人並みの幸せなど似合わない人生。おみくじに暗示された暗闇が相応しい男なのだ。そう現実を噛み締めれば、本当に夢のような一日。
人通りが多くなり、駅が見えてきた。週末のせいか、スーツ姿のビジネスマンはあまり見当たらない。ブルンっブルンっ。ズボンのポケットの中で、携帯電話が震えた。急に歩調を緩めた俺に、彼女は黙りこんだまま探るような眼差しを流してくる。こんな電話など……無視してしまえばいい。止む気配を見せない振動音。
「ねぇ、携帯が鳴ってるんじゃない?」
するりと手のひらを指先がすり抜けていく。落胆した気分で、やり場の無い手を渋々ポケットの中へと入れる。触れた瞬間、からかうように電話はピタリと息を潜めた。
「後でかけ直すから、いいんだ」
タイムリミットか。駅に掲げられた大きな時計に視線を走らせる。PM5:30。もっと一緒にいたいのに……すがるよう彼女の指先を追い掛ける。再び絡んだ温もりに、安堵の溜め息をつく。けれども彼女は振り払うでもなく、握り返してくるわけでもなく。
「私、地下鉄で帰るわ。あなたは?」
駅構内の上部にJRの文字を見つけ、乗るべき路線を確認するものの、彼女の手を離す事が出来ない。プリペイドカードで地下鉄の改札を抜け、一緒に階段を降りていく。丁度電車が滑り込んできた。周囲の人達が、慌てた様子で階段を掛け降りていく。歩調を速めない俺に付き合ってくれたのか、ホームに降り立ったものの、彼女は閉まる電車のドアを見送った。次も、その次も、立ち止まる俺の手に繋がれたまま、数本の電車を彼女は黙って見送る。
「……私ね」
前を見据えたまま、独り言のよう彼女は話し始めた。
「幼い頃、すっごい内気な子供だったの。お菓子を買いに行っても、これが欲しいとお店の人に話しかけることすら出来ないくらいにね」
ホームに人が途切れる事は無い。滑り込んできた鉄の箱から溢れ出る人、吸い込まれていく人波。喧騒の中、彼女の声だけが俺の鼓膜を震わせる。
「土地柄、学校には外人の子も多くて、みんな自己主張は得意分野じゃない? 黙っていると、欲しいものはあっという間に横取りされる訳。それで学んだの。心で繰り返すだけでは手に入らない事を。本当に欲しいものは行動に移さないといけないとね」
繋がっていない手を、彼女が伸ばしてくる。その仕草はスローモーションのようにゆっくりと見えた。頬に添えられる指の感触。
「何故、私なの?」
耳朶に触れそうな距離まで近づいた唇が、甘い吐息を吹きかけながら囁いてくる。
「年上が好み? 悪いけど私面倒見のいい女じゃないわよ」
からかうような光を宿した瞳が、じっとこちらを覗き込んで来る。電車が滑る込んでくる様子が、目の端に映った。
「また……会いたかった。どうしても……今日は迷惑だった?」
彼女の髪に少しだけ鼻先を押し当てながら、祈るような気持で問い掛ける。ドアが開く音がする。少し離れたところにいる女の子のグループが、興味ありげな顔でこちらを覗き込んでいた。
「いいなぁ、彼氏……」
嬌声をあげ、ちらちらと振り向きながら電車に乗り込んでいく。時間調整の為、発車を数分遅らせると告げるアナウンスが響いた。
「そろそろ行くわ。あなた、この地下鉄に乗る気ないんでしょう?」
行ってしまう。行ってしまう。すり抜けていく温もりを、引き止める為に気付けばすがるよう抱きしめていた。
「ずっと聞きたかった事があるんだ」
「なぁに?」
臆することの無い落ち着いた声色に、舞い上がっているのは自分だけなのだと思い知る。
「名前……聞きたかった、ずっと」
「あら、私の名前なんて興味がないんだって思ってたわ」
「何度となく尋ねようって思ったんだけど、タイミングが…うまく見つからなくって」
クスクスと腕の中で、彼女の含み笑いがこぼれる。野暮な台詞に呆れたに違いない。
「ふぅん、悪くないじゃない」
満足そうに呟く彼女の言葉の意味が、全く理解できず、え?と聞き返そうとした時、緩めた腕の中で、つま先を立てた彼女が背伸びをしてきた。
「きゃっ……ねぇ、ちょっと映画みたいっ」
溜息混じりの女の子達の声が、遠くで聞こえた。現実なのか夢なのか、信じられない状況に足元がふわりと浮く。合わさった唇の感触。柔らかな睫毛に皮膚を撫でられる心地良さ。
「ゆ・み……よ」
唇を離すと、そのまま熱の含んだ吐息を首筋に吹きかけ、彼女はぽつりと呟いた。合わさった手をひっくり返し、俺の手の平をさらすと、そこに細い人差し指で文字を刻んでいく。
「由・美」
由美……由美……甘い飴玉のように何度も舌の上でその名前を味わう。あなたは? 無言のまま、彼女が催促するような眼差しを投げかけてくる。
「ヒ……」
そう言い掛けたときだった、構内にけたましい発進音が響き渡った。不意打ちの電子音に、びくりと身体が跳ね上がる。俺の手をすり抜けた彼女、由美がドアに向かって歩き始めたのが見えた。車内に足を踏み入れた彼女に走り寄る。
「危ないので駆け込み乗車はおやめください」
まさに俺をたしなめるようなメッセージがアナウンスされるが、そんなものは右から左へと聞き流す。
「俺っ……」
そう言いかけると、バタンとドアが閉まった。伝えなきゃ。名無しのままでは自分の存在が、あっという間に記憶の隅に埋もれてしまうようで怖かった。はぁっと、ドアに息を吹きかけると、窓ガラスが僅かに白く曇る。
「黄色い線の内側にお下がりください」
ぴぴーっと、たしなめる警笛が響く。彼女側から読めるように逆転させて書くなんて、そんな余裕は無かった。
“ヒデ”
綴った文字はあっという間に滲んで、書き損じた記号の欠片のようになってしまった。ガタンッ。電車が走り始める。由美が小さく頷くのが見えた。
「危ないので電車から離れて下さいっ」
素直に一歩退く。視線だけは彼女を追いかけたまま。電車の速度はどんどんと速まっていき、トンネルへと消えていく地下鉄の後姿をぼんやりと見送っていた。
ブルンブルンっ。携帯電話が震えた。小さな溜息をひとつ吐き、いつもと変わらない様子で応答する。
『トラブルか?』
淡々とした声色が受話器から響く。
「いや、何も無い」
『さっきも鳴らしたが出なかった』
「デートの途中だったから」
しばらく沈黙が漂ったが、それを打ち破ったのは相手の笑い声だった。
『面白いジョークだな。ヒデ、お前にしちゃ、珍しい』
「……ケン、着いたのか?」
『あぁ、さっき成田から電車で到着した。東京まで結構距離があるんだな。まぁ、街並みを眺めながら、興味深い道のりだった』
「俺も四十分ほどで部屋に戻る」
『了解。どうだ? 俺より五日先に味わった、初めて訪ねる祖国の空気は』
「……どこも変わりないさ」
素っ気無く言い放つと、『後で』と電話は切れた。電話を閉じることなく、すぐに着信履歴を消去する。身体に染み付いた習慣、痕跡は全て拭い去る。
“どうだ? ……初めて味わう祖国の空気は”
一度も足を踏み入れたことが無かった日本の生活習慣を、叩き込まれ生きてきた。様々な学習を重ね、日常会話を日本語とし、細々とした習慣も取得した。初めて会った夜、“終電”という単語を聞き返した俺に、由美が怪訝な眼差しを向けてきたのを思い出す。“最終電車”と言ってくれたならば判ったのに…略語はさすがに及ばない事もある…でも発音は完璧だと自負している。しばらく滞在すれば、崩した言葉もおのずとマスターできるだろう。
“何故、私なの?”
彼女が語りかけた台詞が頭をよぎる。何故って、何故って……自分でもよくわからない。でも他の誰かでは駄目なんだと、漠然と己の奥底が囁きかけてくる。
“何故、私なの?”
愛だとか恋だとか、当てはまる枠組みなど必要ない。ただ心が震えた。そんな理由は陳腐だろうか。気紛れでもいい。唇を寄せたあの瞬間、少しでも君は俺を欲してくれたのだろうか?
踵を返し歩き始め、そっと指先で唇に触れてみる。熱い……瞼を閉じて、刻み込まれた彼女の感触を蘇らせてみた。