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運命の人(由美)

「タトゥじゃないんだ。生まれつきの痣」

 一瞬見とれてしまった。男の肩に蝶を形どった痣など、偶然の産物とはいえ普通ならば失笑を買うところだ。なのに……。綺麗なラインを描く皮膚に刻まれた蝶は、そこがお気に入りの場所だと言いたげに羽を休めている。

 触れてみたいだなんて、どうかしている。オープンカーのアクセルを踏み込みながら、男の様子を横目で観察する。柔らかそうな髪が風にさらわれ、男の輪郭が露になっていた。以前……どこかで……。口にしたら今時、三流映画でも使わない安っぽい口説き文句かと勘違いされる。会った事などあるはずがない。喉元まで出かかった言葉を飲み込むと、小さく息を吸い込んだ。

 ふいに横顔に視線を感じた。見つめられている事など、気にもかけない振りをして前を見据える。

「……不思議だな」

 唐突に男が放った言葉に首をかしげる。何が? そう言いたげな目配せをし、素っ気なく前を走る車のテールランプに視線を戻す。

「ずっと昔に、会った事がある気がする」

 ドクリと胸が跳ね上がった。こちらの心の内を、見透かされているのかと。

「ヒッチハイクを拾うのは初めてよ」

「俺も拾われたのなんて初めて。特にほら、日本人って他人に警戒心が強いから……」

「まるで自分が日本人じゃないみたいな口振りね」

「もちろん、身も心も生粋のジャパニーズさ」

 大袈裟な仕草で男はおどけてみせた。

「風が気持ちいいね、屋根のない車は初めてだ」

 艶やかな黒い髪、濡れたような光沢を秘めた黒い瞳。男は心地良さそうに瞼を閉じた。濃い睫毛が描く柔らかな曲線をちらりと盗み見る。

 さっきまで隣にいたモデル君も、顔が商売というだけあって綺麗な顔をしていた。髪もファッションも彼を引き立てる為に計算し尽くされ、けれども嫌味にならないようさりげなくラフに仕立ててあった。隣を歩かせるにはうってつけの男の子。少し馴れ合いになったところでお開きが丁度いい関係。

 だけど、どうだろう。入れ替わりに助手席をキープした男の様子は。ブルージーンズに白のタンクトップ。シンプルすぎる……けれども飾り立てる必要のない無頓着さが、素の魅力をいっそう引き立てていた。




 白い漆喰の真壁に、障子を透かした朝日が、柔らかな陽射しを映している。昨夜は寝つきが悪くあまり睡眠時間が取れなかった。ベッドから黒塗りしたヒノキの床にのろのろと足を伸ばす。ひんやりとした感触が足の裏を伝わってきた。障子をひとつ開き、中庭を取り囲む廊下を進むと、台所へと抜ける飾り模様を刻んだ板戸に手をかける。カラカラと指先に軽い振動を伝えながら、扉は横に滑っていった。

 香ばしいコーヒーの香りが鼻先をくすぐる。まだ半分閉じていた瞼を見開き、そこに立つ男を凝視する。

「おはよう」

 思いがけない状況の中、さらりと挨拶をされ頭が混乱する。

「あ……なたっ、昨夜は車の中で眠りこけちゃったから、車ごとガレージに置いてきたはずなのにどうして家の中にいるのよっ」

「えっと、ガレージから家に抜けるドアの鍵が……あいてた」

「閉めた筈よ、ちゃんと」

「でも……あ、はいコーヒー飲みなよ。牛乳で割ってカフェオレにする?」

 邪気のない顔で尋ねられ、朝から大声を張り上げている自分が馬鹿馬鹿しくなる。道端に放り出さず、こんな男をお持ち帰りしてしまった己の浅はかさのせいだ。どうかしていた。

「……ブラックでいいわ」

 男はその言葉に安堵したよう、いそいそと食器棚からカップを取り出すと、コーヒーを落とし始めた。毎朝使うものだから、ミルも豆も一式すぐ手の届く場所に並べてある。だからって、あまりにも手慣れた様子でそれらを扱い、名前も知らない男がコーヒーを淹れている様子を不思議な気持ちで眺める。しかもこの状況はまるで一夜を共にした男女のようではないか。

「すごい日本家屋だね」

 吹き抜けの天井に渡された黒塗りの梁を見上げながら、男は感嘆の声をあげた。

「築五十年といったところかしらね」

「東京って未来都市のようなイメージだったんだけど、こんな家もまだ残っているんだ」

「妙な台詞ね。東京に来た事が初めてみたい」

「観光で来てるんだ」

 カンコウ? どこか田舎の山奥から都会に出てきたとでもいうのだろうか。だか、方言を感じさせるアクセントは特に見当たらない。何処から来たのかと尋ねようとしたが、黙りこんだまま相手の様子を伺う。未成年ということはなさそうだ。

 この男、夕べは助手席で瞼を閉じたと思ったら、寝息も立てずにすっかり眠りこけていた。揺さぶっても鼻をつまんでも起きる様子がなく、呆れた気分でまじまじと寝顔を見つめた。あどけなささえ匂わせる、無防備な顔。一瞬、未成年かもしれないと勘ぐってしまった。とはいえ、ママにお伺いをたてなければいけない程の幼さがあるわけでもなく、取り合えず車ごとガレージの中に押し込んだのだが。

 コーヒーの香りがやたら鼻につく。テーブルをはさみ、向かい合ってカップに手を添える。ただそれだけなのに……沸き上がるこの胸のざわめきはなんなのだろう。

 窓から覗く庭の緑が揺れている。唐突にぐらりと、視界が歪んだ。脳裏に浮かんだ映像が、駒送りのようスローモーションで脳裏をよぎっていく。屋外に置かれたアンティークなテーブル。湯気をあげる華奢なコーヒーカップ。背景には石造りの白い洋館……まるで中世を舞台にした映画に出てくるような。どこかで……昔観た映画のワンシーンだろうか?

 ガチャンっ。マグカップが手元から滑り落ちた音で我に返る。溢れたコーヒーが手の甲を濡らしていた。

「あ……っ」

 熱さに声を洩らすのと同時に、走り寄って来た男に手首を掴まれる。

「早く、こっち」

 シンクへと連れて行かれ、水音と共に冷たい感触が熱を帯びた皮膚を流れ落ちていく。

「寝起きの一杯だから、少しだけぬるめに淹れたんだ。すぐに冷やせば痕にはならないと思う」

 のんびりとした口調とは裏腹の素早い動作に、呆気に囚われる。蛇口の前で、背中に感じる男の気配を妙に意識してしまう。心臓がとくとくと早い音を立てるのが耳元に響いた。こんな子供みたいな男の子に、どうかしている。その時だった、絶妙なタイミングで家の電話が鳴り響いたのは。

 携帯ではなく、家の電話を鳴らす者など限られている。蛇口を捻り、彼の脇をすり抜け、濡れた手で受話器を上げた。予想通り相手は担当編集者だった。午前中の打ち合わせは予定通りでいいかという確認の電話。

「シャワーを浴びて支度をするわ。仕事が入ったの」

「じゃあ、俺は帰るよ。……手、大丈夫?」

 名残惜しそうな男の声がなぜか心地良い。

「真っ直ぐ歩いて大通りに出たら右に曲がるの。そこから五分くらいで広尾の駅があるわ。地下鉄よ」

「うん、了解」

 ガレージの出口から男を送り出す。大きなスニーカーに足を入れながら、彼は何か言いたげにこちらを見つめてくる。時間が止まったような空気の中、絡み合った視線を振り払う。

「忠告しておくけど、朝からヒッチハイクなんかしても誰も停まってなんてくれないわよ」

 おどけたように肩をすくめ、背を見せた彼が二、三歩外へと向かう。だが足を止め、再びこちらを振り返ってきた。

「野宿しなくて済んだよ。ありがとう」

 ふわりとした柔らかい笑顔を向けられ、どんな顔を返したらいいものか一瞬戸惑う。

 あ、まただ。風に仰がれ翻る花模様のワンピース……潮の香り。脈絡のない残像が、匂いさえ添えて覆い被さってくる。カタリという物音にはっと顔を上げると、彼の姿はもうそこにはなかった。名前……名前も聞かなかったな。いや、聞いてどうしようというのだろう。自分らしくない感情に苦笑いを噛み締める。先程からちらつく記憶の断片といい、仕事の疲れが溜まっているのだと自覚する。しばらく休暇を取って旅行にでも行こうか。日常の煩わしさから逃避できる、バカンスなんていうのも悪くない。




「由美センセ、今回の本は話題になりますよ。ドラマ開始と共に同時発売だなんて、毎週一時間かけてゴールデンタイムにテレビが本のコマーシャルしてくれるようなものですもんねぇ」

 表参道に連なる並木道沿いのオープンカフェは、午前中のせいかまだ人影もまばらだ。編集担当の湯原は、手帳へペンを走らせながら満足気に口元を緩めている。

「今回の話はツボをついてますもんね。年下のモデルと冴えないOLの恋物語なんて。ま、それだけに留まらない展開がさすが由美センセって圧巻ですけど。特に、最初の二人が出会うシーン、ドラマチックで……」

 湯原の話を聞き流しながら、頬杖を付き通りを行き交う人達を眺める。アイツ、地下鉄に辿り着き、ちゃんと帰れたのだろうか。複雑な鍵編み模様のように張り巡らされた東京の鉄道網を、お登りさんが乗りこなすのは至難の技に違いない。

「……で……信じますか? 由美センセって……」

 不意討ちの問い掛けに我に返る。何を聞かれたのか…右から左に流れていった言葉を今更に拾い集める。

「やだぁ、もう今日の由美さん、ちょっと変ですよぉ。心ここにあらずって感じ」

 一足先に三十路に足を突っ込んだくせに、舌足らずで甘えた口調がうざったい。ベビーピンクのフレアスカートなんて、私には一生縁が無さそうな服をひらひらとなびかせている。似合っているから、見苦しくはないのだが。それに行き詰まった時は意外にも、この編集担当はなかなか役に立つ女なのだ。こんな脇役を置いてみたらどうか、こんなこだわりを流れに持たせたらいいかもしれない。はたまた、つじつまの合わない箇所の指摘に至るまで……ベストセラー作家と称されるまでの道案内を、彼女が導いてくれたと言っても過言ではない。

「だから、由美センセは感じた事ありますかって聞いているんです」

「何を?」

 メンソールが効いた煙草に火をつける。意味ありげな眼差しを向けられ、怪訝な気分で煙を吐く。

「だから、運命の人ですよ。ぴぴっと来たってやつ」

 運命?

「……やっぱり、倉田さんには感じたんですか?」

「あら、湯原ちゃん知ってたの、倉田との事」

「センセの担当になって四年。今になって、やっと聞ける衝撃の真実ってやつです」

 おどけた口調とは裏腹の、真剣な眼差しに囚われて、話を打ち切るきっかけを見失う。隠していたつもりはない。そう、こうして尋ねられなかったから口にしなかっただけ。

「由美センセに初めてお会いした頃は、離婚されたばかりだったので…さすがに話題にしづらくって」

「あら、気を使わせたわね」

 湯原とは長い付き合いだが、お互いのプライベートについては、ほとんど話したことなど無かった。

「この際だから遠慮しないで聞いちゃいますけど、どんな出会いだったんですか? ノンフィクション作家、倉田遼との恋の始まりは……」

「別に……昔話よ。大学時代、同じ講義をとっていた。ただそれだけの事。そうね、ご期待にそえるようなネタとしては学生結婚だった。それくらいのことかしら」

「えっ、出来ちゃった結婚だったんですか?」

「湯原ちゃん、アンタ、私を勝手に子持ちにしないで頂戴」

「だってそうでもなきゃ、なんでそんな若くして結婚」

 湯原がテーブルに身を乗り出す様子に、苦笑いが込み上げる。

「成り行きよ。若気の至り」

 彼女は黙り込み、しばらく眉間に皺を寄せて考えこんでいた。そして小さな溜め息と共にポツリと溢した。

「それくらい引かれ合っていたって事だったんですねぇ」

 曖昧に微笑んでその場をしのぐ。彼女が望むドラマを、壊すのは忍びないというものだ。

「あ、そうだ忘れていました。これ、当社の創立五十年記念パーティの招待券です」

「創立記念パーティ? さすが双実社さんって歴史があるのね」

「由美センセはウチの看板作家様ですから、是非出席してくださいね」

「行けるかわからないわ。そうそう、バカンスにでもしばらく行こうかなって思ってるの」

「えっ、いつからですか?」

「全然未定。来週か一ヵ月後か、とにかく行きたい場所が決まったら出発よ」




 中庭が見渡せる縁側でクッションにもたれ、開け放ったガラス戸から空を見上げる。桜、紅葉、ミモザ…その木々の隙間から儚げな光を放つ三日月が覗いている。

“運命の人って感じた事ありますか?”

 そんなものは幻想だ。夢物語だからこそ、小説や映画で描かれる運命の出逢いに、人々は憧れの眼差しを向ける。主人公達が奏でるロマンスを自分にひと時重ね、疑似恋愛を楽しむのだ。

 馬鹿みたい。冷めた目で傍観しながらも、そんな読者が喜ぶようなドラマを組み立てていく。売れなければ意味が無い。だけど月が銀色に輝くこんな夜は、何か大事な事を忘れたような気分に襲われる。生れ落ちた瞬間からその喪失感は、私の奥底で息を潜め、時折切ないという感情を呼び覚ます。

 昨夜、彼の脇を通り過ぎた……あの一瞬、見つけた気がしたのだ。何を? 何を……探していたものを。

“運命の人って感じた事ありますか?”

 ヒッチハイクなどしている物珍しい男に興味が湧いた、ただそれだけの事。そう自分自身に言い聞かせ、何度も繰り返す……まるで呪文のように。瞼を落とすとやがて、きらきらと輝く不思議な模様が覆い被さってきた。上等な黒いビロードに妖しく光を放つブルーの紋様。目にした者を一瞬で虜にする蝶の羽模様のようだ。

 あぁ、またこの夢だ。起きなくては……初夏とはいえ、こんな縁側で眠りこけたら風邪を引いてしまう。けれども、もう少しこの夢を見続けていたいという自分がいた。美しい羽模様に抱かれていると、甘美な陶酔の海へと漂うことが出来る。

 どのくらいそうしていただろう。ふとおでこをくすぐる風の感触に薄目を開く。白んだ視界に朝の雰囲気を感じとり、すっかりと眠り込んでしまった事を悟る。板間の上で長時間横たわっていたせいか、身体の節々が痛い。ノロノロと上半身を起こした時、何気なく流したミモザの木の下に人影を見つけた。泥棒……そう叫ぼうとして目を凝らす。

 どうして……どうして?

“運命の人って感じた事ありますか?”

 息を呑んで目の前の現実を凝視する。ヒッチハイクの男がそこにいた。素性が知れない他人という恐怖は、不思議と感じなかった。木の下からこちらを見つめる、真っ直ぐな眼差しに囚われる。遠くから、心の隙間にひたひたと忍び込んでくる、男の足音が聞えた気がした


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