再会(レオン)
AM7:00、リコが目を覚ました。昨夜彼女のカプセルベッドへ送り込んだ睡眠剤は、目覚めの時間をきっかりと指定する事ができる。
不意打ちの出発。『sea(海)』の場所はトップレベルの機密情報だ。途中経路の景色一つ、リコの目に触れさせる訳にはいかない。この俺でさえ、視力遮断ゴーグルの装着を余儀なくされた。十分前、ゴーグルの着脱を許され、三日後の同じ時間に迎えに来るからとパイロットは去っていった。
波の音が響いている。思ったよりもそれは空気に溶け込み、耳障りには感じられなかった。小さなコテージの中ではカタカタと、天井にはめ込まれた扇風機が回っている。椅子から立ち上がり、ベッドのふちに手を掛けると、ギシリと軋んだ音が鳴った。リコの視線がこちらに流れる。まだ、眠剤が残っているのかぼんやりとした眼差し。
「リコ……コードNO.38569268−RICO」
そう呼びかけると、ぱちりと彼女の瞳が大きく見開かれる。条件反射ってヤツだろう。毎朝毎朝、目覚まし代わりにこのコードネームで呼び起こされ、割り振られた仕事をこなす日常。ギアは皆、感情のない無表情な者が多い。
「……だぁれ?」
上半身を起こしたリコがこちらを覗き込んでくる。不意打ちに呼びかけた俺に警戒心を見せることもなく、少しだけ気恥ずかしそうに再び声を掛けてくる。
「……ここドコ?」
アートヒューマンに与えられる仕事は、単純作業ではなく創造性が必要とされる。その分少しは人間性が残っている者もいるのかもしれない。
「今から七十二時間、宝くじで獲得した自由がお前に与えられる」
リコの瞼がパチパチと瞬く。きょとんとした仕草。話が飲み込めていないのだろう。俺は淡々と話を続ける。
「行動範囲は島の中及び周囲の浅瀬に限定される。島は一周徒歩10分程だ。他に滞在するものは居ない」
リコの視線はまっすぐに俺を捕らえ、神妙な様子で耳を傾けている。
「俺は監視員として滞在中同行する。逃亡は厳重に処罰される事を忘れるな」
そう言い放すと、しんとした沈黙が部屋を包んだ。
ギシッ。リコがそろそろとベッドから床に足を伸ばすと、古めかしいベッドのスプリングが音をたてた。
ギシッ。ギシッ……カプセルに眠る彼女にとって、さぞかしシーツを広げたベッドなど不思議な代物に見えるだろう。リコはしばらく感触を味うようにマットレスを撫でたり指で押したりしていたが、その内チラチラと窓に視線を泳がせ始めた。陽射しが強まったのだろうか、窓から覗く海の色が、いっそう鮮やかに浮かび上がる。
「俺の存在は気にしなくていい。お前が想定外の行動を起こさないよう見張るだけの監視役だ。
誰の命令も受けない自由……それを手に入れただろう?」
困ったような顔でリコはこちらの様子を伺っている。生まれてからずっと、自分の意志で行動する事など叶わなかった境遇。突然、好きにしろと言われ、困惑するのは当たり前かもしれない。
ぐいっ。不意打ちに伸びてきた手に袖口を掴まれる。
「ね、いっしょ……」
……何だ?
「海……いっしょ」
ギアは他人との会話が制限されている。そのせいなのだろう、リコの会話がたどたどしいのは。
いつもの自分だったら、何の躊躇もなしにその手を振り払うだろうに。どうしたっていうんだ? 目の端にチラチラと入り込んでくる、海の蒼さに心が騒ぐ。
ぐいっ。再びリコが俺の手を引いた。今度はしっかりと手首を掴まれる。白くて細い指先の、何処にこんな力が潜んでいるんだ? 引きずられるようにドアに向かう…と思ったら。
どかっ! リコがドアに激突し、尻餅をついた。
「……った。いたい」
俺の手を掴んでなかったら、ひっくり返って頭を打つところだった。もう片方の手で、赤くなった額を必死にさすっている。
ウフに自動で開かないドアはない。自分で扉を開いた経験が、彼女にはないのだろう。無知は己の命を危険にさらす。
涙目でリコが俺を見上げてくる。
「そんなに痛いなら、これが夢じゃないってわかっただろう」
皮肉を添えてドアノブを回し、開け方を教えてやる。
ほら、やってみろ。立ち上がったリコに視線で促す。
カチャガチャ。リコがぎこちない手つきでドアノブを回している。片手じゃあ開かないとでも思ったのか両手で必死に握り締めている。難しい事なんて何もないはずなのに、扉一つ開けられないってどういう神経だ? 舌打ちしたい気分で俺は腕を伸ばした。リコの指の上に手を添えてドアノブを回す。
ふわり。顎の下でリコの髪が触れる感触。……なんだ?この感じ。どこかで同じ場面が……。
ざわざわと、胸が騒ぐ。締め付けられるように…込み上げてくるこの感情は何なんだ?
パタンと、あっけなく扉は開け放たれた。急に開けた視界の眩しさに、目を細める。さっき、俺を捕らえていたもどかしさが、吹き抜ける南風に飛ばされていく感覚。
「わぁ、ね、あそこ……行こ」
いつの間にか、またリコに手首を掴まれていた。さくさくと砂を踏みしめながら、波音に向かって歩き始める。傷跡一つない卵のような白い砂浜に、二人の足跡が刻まれていく。
……俺は何をやっているんだ。仕事中に、女と手を繋いで歩いているだなんて。いや、今回の指令は何を持って任務遂行とするのか? 消えないようにリコを監視し、三日間後にウフまで送り届ける。
この状況は、あまりにも至近距離とは思われるが、監視状態といえない訳ではない。違和感を感じながらも、その現実に頷くしかないだろう。ぐっと、リコの指に力が込められる感触が伝わってくる。
「すごい。動いてる……うみ」
ザンッッ。その波音を間近で耳にした瞬間、立ち尽くしていた。一歩も動けずに。
これは何だ? ゆっくりと脈打つように揺れる海が、視界に覆い被さってくる。白い砂浜を溶かしながら、絶妙に色を変化させていくブルー。
「お日様たくさん吸い込んで、ひかってる」
目の前に釘付になっていた視線を、はっと彼女に流す。手をかざしながら、目を細める横顔が見えた。瞳は未知の世界への期待で押さえきれない輝きを放っている。
「キラキラ、きれいね」
屈託のない笑顔。たしか二十歳だったな、もう成人女性だっていうのに。……ちょっと発育に問題ないか? コイツ。身体的には問題なさそうだが、あまりにも幼い仕草。
「ぐるって島、まわろう、ね」
すっと手首をリコの指が擦り抜けていった。波打ち際に走っていく後姿。
あ……まただ。湧き上がる慣れない感情。身体的なものではない。リコの指先がふと離れた瞬間、えもいわれぬ不安が俺の神経を締め上げた。
どうした? 緊張、焦燥、動揺、憂鬱、恐怖。あらゆる感情を押し殺す術を知っている。なのに、どうした? 俺は何に翻弄されている?
「きゃっっ!!」
波打ち際を歩いていたリコが、尻餅をついている。緩やかな波が彼女の身体を濡らしていく。押し寄せる波の感触に驚いたのか、リコは身体を強張らせてしゃがみこんだまま。
「あつくない……つめたいのね」
やっと慣れたのか、ぱちゃん手の平で水を叩く。
「みず、くすぐったい」
くすくすと混ざる笑い声が、この状況を楽しんでいる事を物語っている。いつまでそうしているつもりだ。別に俺が口を出すことでもない。彼女は『自由』を満喫しているだけではないか。
「ほら、行くぞ」
手を差し出したのは何故? 放っておけばいいものを。
リコは素直に腕を伸ばし、俺の手の平に指をのせてきた。
もう、誤魔化しようもない。再び繋がれた温もりに胸を撫で下ろすなんて。知っている。そう確信した。リコを? いやこの感覚を。
アートヒューマンとは一度も会った事などない。生まれてからこのかた一度も、だ。すべての接触は管理され記録される。……なのに。知っている…この女を。重ねた指先からひたひたと忍び寄る満たされた幸福感も。そしてもうひとつ俺の胸を締めあげる遠い記憶。
暗い、暗い。
それは奈落の底までも続く、果てしない絶望。