輪廻を繋ぐ印(レオン)
ヒナに触れた時のリコの反応といったら……一瞬ビクリと跳ね上がったかと思うと、見る間に顔がくしゃりと歪んでいった。頬に涙がこぼれ落ちると同時にリコは立ち上がり、逃れるよう歩き始める。
「リコ」
呼び掛けてみたが、振り向きもしない後ろ姿をただ見送る。何がそんなに彼女を動揺させたのか。思い当たる節はある。でもまさか……俺もどうかしている。本気でリコと夢を共有していると思っているのか。そしてあの夢が過去に経験した、お互いの人生なのだと。子供を失ったジャンヌの絶望を、リコが受け継いでいるとでも? ならば彼女の命も、この手をすり抜けていくというのか?
ドクリと胸が跳ね上がる。リコがそんな運命を引き継いでいたとしても、俺と何の関係がある。もう二十時間も経てば、二度と会わない相手だ。だが、気付いたら後を追うように歩き始めていた。監視など必要ないのだ。海に囲まれた孤島で、泳げもしない女など、何処にも逃れようがないのだから。
小さな売店に足を踏み入れてみる。……いない。踵を返しドアに手を伸ばした所で、先程リコと眺めたスケルトンケースが視界に入った。
“綺麗……”
彼女が溢した感嘆の溜め息を思い出す。モニカの指に飾られた純白のパール、ジャンヌが最後まで握りしめていた小粒のダイヤ。
“欲しいか?”
どうしてあの時そう訪ねたのだろう。麦わら帽子を拝借するのとは訳が違う。触れる事など許されない身分不相応な代物だというのに……。
「なくすなよ」
俺の命令口調に、リコは頷きながら指を飾るサファイアを眺めている。嬉しそうに微笑むと、甘えるよう俺の肩に頭をもたれてきた。俺はどうかしている。鍵をこじ開け、指輪に手をかけるなんて。俺の心中など知るよしもなくリコは、無邪気にはしゃいでみせた。
「ゴハン途中だった。戻って食べよ、ね」
ちゃっかりしている。だが一体、あのテーブルに何が残っているやら……。すっかりと泣き顔の消えたリコに手を引かれ、陸地へと導く桟橋を並んで歩き始めた。リコの指にぶら下がるサファイアが熱い太陽に溶かされたならば、きっとこの浅瀬のような水溜りができるに違いない。揺らめく波は海を柔らかくカットし、屈折させた光の渦でクリスタルブルーを混ぜ合わせる。目を開けていられないほどの眩しさ。
奇跡のように美しい島での穏やかな時間が、ゆっくりと通り過ぎていく。名残惜しむかのように。
手の平にのせた数え切れない砂粒が、零れ落ちすり抜けていく感覚を味わう。永遠など幻だ。だが、明日も明後日も、こんな時間が当たり前に訪れるであろう錯覚が胸を締め付ける。残り時間など気にするな。あがらわず、流れるがままに過ぎ行く時間に身を任せてみる。
椰子の木陰が彼女に落とす影模様。日焼けした肌にまぶされた白い砂粒。瞳を覆う海の色、空の色。風に弄ばれ流れるリコの髪。
積み重ねられていく。不思議な程に満たされた時間が。傍らにはいつもリコがいた。まるでそれが当たり前のように。
沈みゆく太陽が、二人の影を砂浜へと長く伸ばしていく。濃い影を産み落とす灼熱の陽射しが、力尽きる間際の淡い閃光。海を……空をも紫色に染ながら光の渦が、水平線へと崩れ落ちる。鮮やかな色彩に包まれた島が、ゆっくりと闇にのまれていく様をリコと歩きながら眺めていた。
知り尽くしているつもりでいた。歴史、言語、科学……地球上で人類が積み上げてきたあらゆる知識を詰め込む脳内チップ。隙などありはしない。これから夜空を埋め尽くすであろう星屑の名前さえ、ひとつづつ弾き出す事が出来る。だが、そんな知識などこの大自然を前にしてみれば、なんてちっぽけな存在かを思い知らされる。
ふと、リコが足を止めてうしろを振り返った。凝視するその視線を辿ると砂に刻んだ二人の足跡があった。穏やかに押し寄せる波が、その痕跡を綺麗に拭い去っていく。
「……ずっとずっと、残ればいいのにね」
リコは小さく呟くと、頭ひとつ低い位置からこちらを見上げてくる。
「あ、でもここにちゃんと残っているから、大丈夫」
人差し指で、リコは自分の頭を指差して見せる。
「ね、レオンも?」
ちゃぷん。足元を濡らす波が、音を立てる。すがるような眼差しに触れ、身体の奥で何かが疼く。このまま二人で何処かへ逃げてしまおうか。ふと浮かんだ信じがたい思考を、苦笑いと共に振り払う。馬鹿な……何を考えている。
「俺はお前と違って記憶力を増幅する訓練を受けているからな。昨日の昼にお前がパスタを平らげながら、何回フォークを皿の上に落としたかなんて、どうでもいいことまで覚えている」
「パスタ、つるつるして滑っちゃうんだもん」
そう、どうでもいい出来事ばかりが刻まれている。
“レオン……レオン”
何度その名を囁やかれ、どんな眼差しで俺を覗き込んできたのか。そんな記憶は、頭の片隅に追いやってしまえばいい。
「今日は眠らない。もったいないからずっと起きているの」
いいでしょう? そんな言葉を秘めた仕草で、リコが微笑みかけてくる。勝手にしろと、呆れた溜息で応える。一体、何時までその決意が持つことやら。あっという間に闇色に滲んでいく夕暮れの空で、淡い光を放ち始める一番星へと視線を流す。リコはおもむろに砂浜へ寝転ぶと、浮かび上がる星々を指差してみせる。その指にはめられたサファイアも、海や空と共にその色彩を暗く潜ませてしまった。隣に並ぶよう身体を横たえ、夜へと変貌していく空を眺める。
もう二度と見る事のない風景。いや、世界中でこの情景を目にしたことのある人間が、一体何人存在するというのか。リコが伸ばしてきた指が砂を這い、俺の手の平に辿り着く。繋がった温もりを感じながら言葉も途切れ、どのくらいの時間が経っただろうか。手の平に触れるリコの指が、重みを増した事に気付く。隣に横たわる、リコを覗き込む。伏せられた睫毛が、柔らかい曲線を描いていた。穏やかな波音の合間に挟み込まれる寝息。いいのか? さっきの決意は何処にいった。
夕食に混ぜようと思っていた眠剤を飲ませるまでもなかったか。いや、目覚めの時間を調整しなくてはいけない。食事の支度が整ったら揺り起こし、投薬しなくては。羽織っていたシャツをリコにかけると、調理場に向かって歩き始める。売店のわきを通り抜け、食糧が備蓄されている倉庫へと足を向ける。
その時だった……違和感を感じ振り返る。たった今、通り過ぎた扉から灯りが漏れていることに気付く。僅かに開いたオンラインルームの扉。ほんの数秒前は、なんの異変も見当たらなかったはず。リコの仕業では有り得ない。ならば一体何者が? そっと忍び寄り、不意打ちにドアを開け放つ。
バンッ! 同時に部屋に響いたのは、クスクスと噛み殺した笑い声だった。信じられない。白いワンピースを着た、少女が座っていた。金色の細かい巻き毛が、あどけけない笑顔を包んでいる。
「見つかっちゃった」
悪びれる様子もなく、収まらない笑いをいまだ溢している。
「一体、どうやってこの島に……」
リアルプレビューか?いやオンラインはどれも立ち上がってはいない。ならば生身の人間のはず。
「はじめまして、レオン。あたしエリーよ」
暢気な様子で自己紹介をはじめた少女に、怪訝な眼差しを向ける。リコのメールフレンド…あのエリーか? リコは幼い頃からの付き合いだといっていた。だが、どう見ても五、六際の少女にしか見えない。
「迷子にでもなったのかな?」
警戒しながら話し掛けてみる。少女は屈託ない返事をよこした。
「ううん、大丈夫、遊びに来ただけだもん」
エリーは机に頬杖をつくと、おどけた眼差しをしてみせた。全く不可解だ。こんな子供が独りで、どうやってヘブンの内部へ潜り込んできたというのだ。汚染された地球の環境から隔離する為、目に見えない特殊シェルターで覆われた楽園、ヘブン。シェルターの下部は地球の地殻の底にまで続いている。反対に上部は対流圏、成層圏、中間圏、熱圏を通り越し、宇宙に接する外気圏にまで及んでいるという。外部からヘブンへと侵入する経路はトップシークレットだ。マザーコンピュータが許可し、シェルターの一部が開かれる。
「ね、ヘブンにどのくらいの島があるのかを知っている?」
「ヘブンの地図は脳内チップの対象外だ。地球中枢管理レベルの高官しか立ち入る事は許されない場所だからな」
そう、例外なのだ俺とリコは……。二十一世紀後半に、この辺一体は温暖化による海面上昇で全ての島が海の底へと消えた。そして、気の遠くなるような歳月経て、特別保護区域に指定されたヘブンは修復が施された。
「今はねそうね……三十八の島があるの。一見バカンスで賑わっていた頃の21世紀を真似てレトロな雰囲気をみせているけれど、
シェルター全体を帆にしたソーラーシステム、海水淡化プラント、作物の培養を目的としたスケルトンハウスが連なる島もあるの。もし外部から完全に遮断されたとしても限られた人数ならば、このヘブンで自給自足しながら生きながらえるわ。何世代先までもね」
「貴様…シェルター全体を何者だ?」
ただ者ではない。ヘブンの実態をここまで知り尽くしているだなんて。
グォンッ。異常な電子音と共に突然、全てのオンラインテーブルが立ち上がり、青く点滅し始める。
「……をがっ……我々の…っ」
浮かんでは消える男のリアルプレビュー。この制服は……。コックス(舵手)と呼ばれる、中枢管理者のものだ。世界に八つ存在するウフを取り仕切る、最高責任者の一人なのだと伺える。
「エリ……ザベ……スっ、機能……てい……し、機能……停止」
途切れ途切れの呼びかけに相応しく、男の姿も雑像と化していく。オンラインテーブルに指を添え、応答しようとするが何の反応も示さない。
「こちら、コードNO.88765599−LEON、メインコンピュータへのアクセス許可を!」
全く無反応だ。機能停止?マザーコンピュータ・エリザベスが…そんな事がありえるのだろうか。
「ねぇ、フランケンシュタイン・コンプレックスって知ってる?」
こんな緊急事態だというのに、全く無関心といった様子でエリーが話し掛けてくる。
「人間を模して造られた創造物は、やがて人間を疎ましく思い、創造主である人間に対し、いつか反乱を起こす可能性があると危惧する事だ」
脳内チップが弾き出した答えを、棒読みで口にしながら頭の中で現状と照らし合わせてみる。人間を模して造られた創造物……マザーコンピュータ・エリザベス。プツンッと、小さく弾ける音と共にオンラインは全てダウンした。
「人間の被害妄想よね。コンピュータだからって休み無しで働かせておいて、こんな言い掛かりって酷いわ」
ふわり。俺の頬をかすめ、何かが通り過ぎていく。エリーは指をひとつ差し出すと、それを迎え入れる仕草をした。蝶だ。何度も目にした……あの黒アゲハ。モニカの襟足、ジャンヌの甲、リコの胸に刻まれた輪廻を繋ぐ印。導かれるがままに、エリーの指先にそれは羽を休めた。
チラチラと羽の紋様が乱れ始める。昨日スコールの中で見た時と同じ…本物じゃない、リアルプレビュー……。オンラインは立ち上がっていない、死んだように静まり返っている。どうしてこの状態でリアルプレビューが?
遠くで地鳴が響き、やがて足の下を通り過ぎていった。大きなものではない。窓がカタカタと音を立てる程度の震度。
「独り占めしようなんて愚かな人達。ヘブンは選ばれしアダムとイヴの楽園。誰も入れないわ。もう門は二度と開かない」
エリーの声が、感情を含まない淡々とした響きに変わる。……何を言っている? どういう意味だ。
「リコは思い出さないわ。それほどに子供を失った傷は深かったの。己を壊すほどにね」
「子供だと?」
「あなたとジャンヌの子供の事よ」
何もかも知り尽くしたような物言いに、唖然とエリーを凝視した。指に止まった蝶の残像を、目の前の少女は愛しそうに撫であげている。エリーの綿毛のような金髪が、白いワンピースが……チラチラと揺らぎ始める。まさか、まさか……この少女も?
「あなたが全て背負うの。課せられた運命の重みを認識し、鍵を開く強さを持ち合わせているのだから」
消えてしまう。エリーの体が透けて、座っている椅子の背が見える。行かせるものか。思わせぶりな事ばかり言い放って、そのままなど消えるなど……問いただしたい事は山のようにある。
「一体何なんだ。お前は誰だ?」
「エリーよ。エリザベスなんて名は長ったらしいでしょう?」
……エリザベス……エリザベス。その名に触発され、脳内チップから弾き出される断片が、頭の中を駆け巡る。フランケンシュタイン・コンプレックス。機能停止。全てをつかさどる万能の神、マザーコンピューター……エリザベス……。
「もうひとつだけ扉を開くわ。旅立つのよ、あなた達の愛を再びなぞる為に」
エリーが両手を広げると、羽を広げた蝶が飛び立っていった。視界が歪む。意識が暗い穴に吸い込まれる。もうひとつの扉だと? 一体どこへ引きずりこもうというのか。この感覚……同じだ。カルロの、ティルの元へ飛び立った時の浮遊感。また迷い込むのか、絶望を味わう為に?
……見える、光の街だ。様々な電飾の灯りが、夜を艶やかに彩りながら街一面に広がっている。複雑に入り組んだ橋の上に連なる車の後部ライト。流れを無視した速いスピードで、赤い車が走り抜けていく。
運転しているのは、女だ。ショートカットの黒髪。ハンドルを握る爪は真珠色に染められ、ゴールドのリングが光っている。屋根のないオープンカー。風に身を任せ、流れるがままに髪をなびかせる女は、猫科の野生動物を思わせる雰囲気を纏っている。
車は迂回し橋……いや、高速道路を降りた。しばらく直進し、人が溢れる交差点を左折する。華やかな街並みの中で、際立って存在を主張する建造物へと続く道を車は向かう。大きく広がる足を地面に伸ばし、白とオレンジ色の光で包まれた美しい塔がそびえ立つ。脳内チップが解析を始めた。街並みを照合し場所と時代を模索する。21世紀初期……TOKIO(東京)。
ブルンっ。一呼吸おくようなエンジン音の後、車はスピードを緩め道路脇に止まった。女の隣には男が座っている。若い男だ。拗ねた目で女を睨むと、男はふて腐れたように視線を歩道に反らした。
「どうしちゃったんだよ由美さん、急に今日で最後だなんてさぁ、俺、結構本気だったんだけど」
女はハンドルに片肘を付きながら、男の様子を眺めている。この状況を楽しんでいる女の心理を、弛んだ口角が物語っていた。
「恋愛はね引き際が肝心なの。お互いもう少し欲しいなって思うくらいが良いタイミングな訳」
「俺の事、愛してるって言ったじゃん」
「そうね、でも心地いいでしょう?そんな言葉って…特にベッドの上では…ね」
「俺知ってるんだ、本が書きあがったからだろう?主人公のイメージに使われただけなんだ」
女は男の頬に長い指先を伸ばした。
「そうね、あなたのお陰で、イケメンモデルの男の子って素材を、克明に描写できたわ。そういうのに憧れちゃう女の子達に、ウケる事間違い無しって出来ね」
「……何だよ、本当に俺って利用されただけって事?」
二人の会話を眺めながら、違和感を感じた。レオンやティルの時と異なり、この男に何の共感も感じられない。だというのに、不思議と女の心理は手にとるように流れ込んでくる。
「遊びで色んな女と付き合ってきたけどさ、由美さんは運命の人だって感じたんだよね」
「光栄だわ。でも大袈裟ね」
子供をあやすような眼差しで、女は男を軽くあしらう。
「この原作で、ドラマの企画が持ち上がっているの。だからプロデューサーにイメージに合う人がいるって、あなたの名前を伝えておいたわよ。モデルを脱皮して俳優になりたいって言ってたでしょう」
男は一瞬言葉を見失い、目を丸くして女を見つめた。
「……別れるからって、悪い冗談……やめてよ由美さん」
「事務所に近いうち、局から連絡が入るわよ」
「え、マジ?ヤバイ俺、ずっと携帯切ってた。」
「早く確認しなくちゃね。。最終はまだだから、電車で帰って貰える?別れる男を送り届ける趣味はないの」
「うっ……うん」
男は落ち着かない様子で相槌を打つ。
「由美さんさぁ、もしかして俺の未来の為に身を引くってヤツ?」
「えっ?」
しばらく黙りこんだ女が、堪えきれないといった様子で唐突にクスクスと笑い始めた。
「そうね……そうよ。健気な女でしょう?」
男は大袈裟な仕草で両手を広げると女を抱き締める。
「絶対、頑張る俺。由美さんさ、カッコ良すぎ」
唇を軽く合わせると、車を降りた男は、走るよう去っていった。女は銀色のライターで、咥えた煙草に火をともす。
「新人を使いたいけど、イメージに合う人材はいないかなって、本当に相談されちゃっただけなんだけどね」
女は独り言を呟くと、再び口端をゆっくりと上げた。噛み殺した笑いが溢れるたびに、紅い唇から紫煙が立ちのぼる。
「利用しただけって、ビンゴなんだけどなぁ」
車内のトレイに煙草を押し付けると、女はおもむろに指のリングを抜き取った。躊躇なく運転席から放り投げられた金の輪は、小さな金属音を響かせ道端に転がっていく。
“運命の恋なんて、何処にもないのにね”
女は心の中でそう自嘲し、皮肉めいた眼差しで歩道を行き交う恋人達を眺める。ブルンッ。美しい曲線を描く車のエンジン音が響きわたった。赤いボディの鼻先に立つ俺を通り抜け、車は再び走り始める。押し寄せる風圧。ハンドルを握る女が近づき、俺と一瞬重なる。
この女が? まさか……女だなんて。由美という女の身体に意識が吸い込まれていく。走り出してほんの数分で、車は光の塔に辿り着き、その足元を通り過ぎていく。
カタンッ。意識の奥で脳内チップが鈍い音を立てる。
“東京タワー”
前を走る車が、不自然に車体をふらつかせ、けたましいクラクションを鳴らした。
「馬鹿野郎っ!死にたいのかよっ」
前方より、怒鳴り声が響く。クラクションに追いたてられ、道路に立ち尽くす男がいた。肩をすくめて一歩退いたものの、奴はこちらに気付くと嬉しそうに親指を立てる仕草をして見せる。女が冷やかな視線を流す。既にその目線は俺と同一になっていた。
男を無視し一度反らした視線を、通り過ぎ様に再びちらりと横目で盗み見る。人なつこい笑顔で、奴は立てた親指を大袈裟に振ってみせた。派手なブレーキ音と共に車が急停車をする。バックミラーを覗くと、数メートル通り越した場所から、男は嬉しそうに走り寄って来た。
「ヒッチハイクしている人なんて、実際に見たの初めてよ」
呆れた口調で女は、男をまじまじと見据えた。癖のある肩まで伸びた髪。濃い睫毛で縁取られた瞳。二十歳くらいだろうか、顔はどこか少年のようなあどけなさを残している。なのに、美しいラインを描く筋肉で覆われた身体は、男への脱皮を匂わせていた。発展途上がゆえのアンバランスさ。
“悪くないじゃない”
さっき男をひとり捨てたばかりだというのに、この女はもう新しいゲームを楽しみ始めている。
「こんなに沢山の車が通るのにさ、止まってくれたの初めてだよ」
「異常な状況に興味があるの。ネタ探しよ」
「ネタ?」
「何でもないわ……ところでどこまで行きたいっていうの?」
「道に迷っちゃってさ。とにかく近くの駅に行って欲しいんだけど」
「もう終電間に合わないかもよ」
「終電って?」
「終電は終電よ。……もしかして酔ってるの?」
男はとんでもないと言いたげに、肩をすくめてみせた。ヒッチハイクなどしている状況を見れば、酔っぱらいより面倒な相手を招いてしまったに違いない。
「いいわ、乗って」
その言葉に男の瞳が輝く。ぐるりと車を半周し、助手席のドアのふちに手を添えると、男はひらりとシートに飛び乗った。思わぬ行動に、女は言葉を失う。
「素敵な車だね、君に似合ってる」
二人の視線が絡み合う。身体の奥から沸き上がる、この不思議な感覚は何だというのか。……もう耐えられそうにない。深い……深い穴へと落ちていく。
「あなたも似合ってるわよ。男の子なのにロマンティックなタトゥ(刺青)がね」
まさか……まさか……。
次々と通り過ぎていく車ヘッドライトに男の身体が照らし出されていた。タンクトップから覗く肩に刻まれたそれは……。
カタンッっ。
意識が……途切れる。限界が来た事を知り、俺はあがらう事を諦めた。
「あぁ、これタトゥじゃないんだ。生まれつきの痣」
また巡り会ってしまった。輪廻を繋ぐ美しき印に。
それは、羽を広げた…スワロウテイルバタフライ。