小さな海(リコ)
抱き締められた感触に、体から力が抜けていくのがわかる。桟橋の真ん中でレオンの影に包まれ、その居心地のよさに瞼を閉じた。今朝、目が覚めた時も、こんな風に彼の腕の中にいた。二人とも裸で……何でだかわからないけれど、触れ合う肌が急に熱く感じた。
もう怒っていないってレオンは言ったけれど……どうしたの? レオンの瞳が哀しげに曇っている。昨日、太陽を隠してしまった雲のように、何かがレオンから光が奪っている。そんな瞳で見つめられると、冷たい雨をポツポツと落とされたような気持ちになる。ぐっしょりと濡れて、レオンに暖めてもらいたいような疼きがわいてくる。
胸がきゅって息苦しくなった。やっぱり、あたしはすごくいけない事をしたんだと思う。勝手にオンラインルームに入ってエリーと接触した。どうして、そんな事が出来のかはわからないけれど、とにかくレオンをすごく困らせたに違いない。もしかしたら、番人の偉い人に、レオンは怒られてしまうのかもしれない。
ごめんなさい、レオン。今度はあたしが暖めてあげるから……ね。だって知ってしまった。人の温もりがこんなにも心を柔らかく安心させるものだって。
不思議、ねぇ不思議だね。さっきまで怖くて仕方がなかった海が、またキラキラと輝いている。独り桟橋にしゃがみこんだ時は、飲み込まれるような恐ろしさを感じ、綺麗なこのブルーが澱んで見えたのに。
不思議、ねぇ不思議だね。あなたが一緒だと、身体の奥から何かが溢れてくる。嬉しいのと楽しいのと……だけどそれだけじゃなくて……胸を痛い程に締め付けてくるものも混ざっている。
黄色い花模様のワンピースは、床で濡れたまま丸まっていた。だから椅子に掛けてあったこのシャツを借りてみたのだけれど。服を着てみて、レオンとの身体の違いをはっきりと感じた。目覚めた時、首の下に差し込まれていた長い腕の感触が蘇る……。
あ、ほら、まただ。そんな事を思い描くと、胸の奥ががちりちりと熱くなる。桟橋の真ん中で、堪らずレオンの背中に腕を回す。そっと指で彼の感触を確かめて身を寄せてみる。ぴったりと、少しの隙間もなく合わさっていたい。もっと、もっと……そんな不思議な感情に、いつの間にかあたしは心を覆われている。
結局、帽子は見つからなかった。風にさらわれ何処かへ飛んでいってしまったのだ。ウフには風なんてない。島に来て初めて風を知った。優しく髪をすいてくれる柔らかい風もあれば、木や花をみんな同じ方向へ引っ張ってしまうほどの力持ちの風もある。何処からやってくるのか……一度レオンに聞いてみたが、答えはまったく分からない単語ばかりだった。
瞼を閉じると風の声が聴こえてくる。葉っぱをカサカサと揺らし、レオンのシャツとあたしの身体の隙間を、パタパタと足音をたててすり抜けていく。姿は見えないのに……ここは不思議がいっぱい。ずっとレオンとこの島に居られたら、どんなに楽しいだろう。
時間は、今までただの数字の区切りに過ぎなかった。けれども太陽や月が、空を沢山の色彩で染め上げ、時間の経過を描いく様を知ってしまった。珊瑚に群れる魚の鱗模様を、色鮮やかに際立たせる強烈な陽射し。太陽が沈む瞬間に、蒼い海を塗り替える赤や紫のグラデーション。闇色に浮かぶ月光は、銀色の糸垂らし視線を誘う。
何処かの絵画で目にしたことのある風景……けれども画家が内なる想像力で描こうとした現実を知らずして、どうしてその芸術性をはかれるというのか。なんて素敵。肌を焦がす程の光の渦。癒すよう冷たく触れる白い砂。
もうウフには帰りたくない。だけどそんな事を口にしてしまったら、またレオンを困らせてしまう。やはり危険分子だと、直ぐに送り帰されてしまうかもしれない。……嫌だ。イヤダ。いやだ。思わず繋がれたままの大きな手を、ぎゅっと握りしめる。 レオンの視線が、頭ひとつ上より注がれる。
「そんな難しい顔をするな。売店で代わりの帽子を探してやる」
違う、そんなんじゃないの。心の中のもやもやを、上手く説明することが出来ずに黙りこみ、レオンに導かれるまま売店の扉の中に入っていく。初めて足を踏み入れた時にはただ、周囲を見回し珍しい品物の数々に溜め息をついていた。でも今日は二度目という事もあり、少しだけ余裕をもって店内を探索することが出来る。賑やかな柄を連ねる布地、魚の写真が飾られた回転棚、足の指で挟んで装着する不思議なぺったんこの靴。レオンが帽子を探し出してくれた。無くした物と同じ……じゃない。両脇から紐のようなものが垂れている。
「この紐はなぁに?」
頭に被りサイズを確認しながらレオンに聞いてみる。レオンはしばらく黙り込んでいたが、おもむろにその紐をあたしの顎の下で結んでみせた。そして、大きな手の平で帽子の頭を掴むと、ぐいっと引いて、ふいに吹き出した。
「……よく考えてあるな、こんなもので……」
口元を緩め、笑いを噛み殺す彼を不思議な気持で眺める。何が可笑しいの?
「風が強く吹いても、この紐があれば飛ばされないぞ」
「えっ、本当に?」
「今、俺が引っ張ってもビクともしなかっただろう」
顎の下で、ぷらぷらと揺れる紐を指の先でいじくってみる。風が吹いても飛ばされない……
「すごい!レオンすごいねっ。本当だ、これならもう大丈夫っ」
鏡の中の自分を確認する。顎の下で結ばれた紐が、不思議な形をしている事に気付く。
「ねぇ、レオンこの紐の形、昨日見た蝶みたいじゃない?……ふふっ可愛い」
レオンの口元の笑みが、すっと消え失せた。その様子に、どきりと胸が跳ね上がったが、誤魔化すよう話を続ける。
「レオン、アレは?キラキラ光っているよ」
壁に埋め込まれたスケルトンケースの奥で、不思議なものが光を放っている。
「昔、この島の隣国では、国土の九割から宝石が掘り出せたんだ」
「ほうせき?」
レオンは並んだ石をひとつづつ指差して教えてくれた。
「赤はルビー、紫はアメジスト、水色はアクアマリン、青がサファイア……」
滑らかなレオンの声。綺麗な響き。
「石に名前があるの?」
「まぁ、そんなところだ」
「どうしてみんな輪っかの上に乗っているの?」
「あれは、指輪と言うんだ」
「ゆびわ?」
「肖像画で見た事があるだろう。指につける装飾品だ」
肖像画……頭のなかでパラパラと、記憶している絵画がめくられてく。あれもこれも、確かに指だけではなく首にもこんな石がかけられていた。そうなんだ、この輪っかに指を通すんだ。
触れてみたい。赤い石は太陽のように熱いのだろうか。青い石は海のように、意外な冷たさを秘めているのだろうか。
「さすがにここには鍵がかかっている。残念だったなリコ」
「カギが?」
「貴重な石だからだろう。宝石など、限られた数しかもう地球には残っていない」
「赤いのも青いのも、もう最後の一個って事?」
「最後の、ということもないかもしれないが、まぁそんなところだ」
じっと眺める。どの絵の具を混ぜ合わせたら、こんな色が出来上がるだろう。小さな石なのに、不思議なまでの存在感。
「……欲しいか?」
肩越しにレオンに問われる。囁くような低い声と共に、吹き付けられた息がうなじをかすめ、肌がぞくりと音を立てた。
「ううん。綺麗だから、こうして見ているだけでいい」
心と反対の言葉を口にしている。
“欲しいか?”
欲しいわ、レオンがくれるならば……でも、カギがかかっているものに、手を触れてはいけないって知っているもの。ウフにも、私達、歯車が手を触れる事の出来ない扉が幾つもある。ルールは絶対だ。カギを持つ者にしか扉を開く事は出来ない。レオンはこの扉のカギを、持ってはいないでしょう? 私の為に罪を犯してはいけない。
違反した者がどうなるのか、その先なんて知りもしない。ただ消えてしまうのだ。まるで存在しなかったかのように忽然と。
足の指先を、魚がかすめ通り過ぎていく。ごろんと寝転ぶと、耳元で水がチャプチャプと音を立てた。柔らかく揺れる波に、髪を弄ばれる感触が心地いい。レオンが売店で見繕ってくれた小さな服……水着は、水分を含みぴったりと身体に張り付いている。肩も脚もない不思議な服。黄色いワンピースは濡れると足にまとわりついて重くなるから、この服は余分な布が無い分快適だ。
レオンも同じように隣に寝そべっている。昨日よりも、濃く色付いたレオンの肌。彼の水着はもっと小さい。……あたしも、レオンと同じのでいいのにね。海に足を踏み入れる最初だけは怖いと感じたが、もう平気。レオンが一緒にいてくれるから大丈夫だって心の中で繰り返したら、いつの間にか落ち着いていた。
ほんの三日前まで暮らしていたウフの生活が遥か遠く感じる。明日、あたしは一体何処で目が覚めるのだろう。ウフに戻り、今までと同じ生活ができるのだろうか。わからない……ただ今は、そんな事を考えたくない。
「リコ、昨夜も夢を見たのか?」
海の続きのような空に目を細めたレオンに問い掛けられる。昨日、朝食の時に話をした、あの夢の話の続きをしているのだろうか。
“どんな夢を見た?”
“目が覚めると忘れちゃうの……それでね、探すの……夢に出てきたはずの誰かを”
「今朝は……うん……見た気がする……」
思い出そうと瞼を閉じると、ゆらゆらと綺麗な羽模様が浮かんで消えた。
「蝶々が……見えた気がする」
「昨日飛んでいた、あの蝶か?」
ぱちゃんと、音を立てて、レオンは頭を上げた。その形の良い顎から、ポタポタと滴が落ちるのを、綺麗だなと眺める。
「カルロという男を知っているか」
カ……ルロ……。
「ティルという名は、覚えがないか」
ティ……ル。
「だぁれ、その人達、レオンのお友達?」
「夢で会った事がないか、リコ」
「……わからない」
カルロ……ティル。小さくその名を口づさんでみれば、不思議な響きを添えて耳の奥でこだまする。何度も……何度も。
「やっ……あたま、イタい」
濡れた手で顔を覆う。軽い吐き気が込み上げてきた。この感じ。前、ずっと前、目が覚めたら凄く不安になって涙が止まらなくなった事がある。大切なものをどこかに置き去りにしてしまったような気分に襲われ、カプセルベッドを抜け出したものの、途方に暮れてしまった。頭を抱えて床に座り込んでいたら、いつの間にかエリーが現れた。リアルプレビューのエリーの姿が暗闇の中にぽっかりと浮かんでいて……そうだこう慰めてくれたのだ。
“無理に思い出さなくてもいいのよ”
だけど今、レオンは夢を掘り起こせと言う。
「……無理に誰なのか思い出さなくてもいいって、昔エリーが教えてくれた」
「エリー……昨日アクセスしてきたメールフレンドの?」
「うん」
またレオンは怒り出さないだろうか。探るよう彼を見詰め返す。怒ってはいないようだ。ただ、もっと話を続けるようにとチャコールグレーの瞳が催促をしてくる。
「エリーはずっと友達。あたしが小さい頃から、側にいてくれるの……みんな、リアルプレビューのメールだけど。今回の当選も、自由を使う場所を指定できるってエリーが教えてくれた」
レオンと同じように身体を起こすと、膝を抱えて海を眺める。エリーはあたしの心の内を何だってお見通しだ。いつも見守ってくれている、そう感じるだけで大きな安心感にくるまることが出来た。
「アートヒューマンの仲間か?エリーと実際会ったことは……」
その問い掛けに、首を振って否定する。幼かった頃、一度だけ会ってみたいのだと駄々をこねたメールを送った事がある。返信は何も語らないエリーのリアルプレビューだった。困った顔で哀しげに彼女は首を横に振ってみせたのだ。求めてはいけないのだと、あの時、幼心ながらに悟った。エリーを困らせてはいけない。彼女が消えてしまうような不安が、全ての疑問を閉ざした。
「レオンにも、いるでしょう?誰かメールフレンド。あたしには、エリーだけだけど」
「任務以外でメールを使うことはない」
「じゃあ、ウフに帰ってからあたしがメールしてあげる」
曖昧にレオンは笑ってみせた。その様子に、レオンにメールを送ることなど許されないのだと感じた。レオン……ねぇ、海の向こうには他の島がたくさん散らばっているんでしょう? どこかに隠れようよ。ずっと一緒にいられるように。そう望むのはあたしだけ?寂しそうに首を横に振るエリーの表情が、隣に座るレオンの横顔と重なる。
カルロ……ティル。頭の隅でその名が再び小さく響く。ざわりざわりと、胸がざわめく。思い出したい。夢の中で髪を撫でる指の感触、頬を寄せた肌の温もり……エリー……ねぇ、エリー。教えて、あれは誰?カルロ……ティルってどんな人なの。
レオンはどうしてその名を口にしたのだろう。ねぇ、知っているの? ギアは夢までも管理されているのだろうか。
「ぼんやりしてると、やられるぞ」
海を眺められるテーブルでランチを頬張っていると、レオンにそう注意を受ける。その意味ありげな視線の先を辿ると、小さな鳥が舞い降りてきた。砂浜に可愛らしい足跡をつけながら、こちらにトコトコと近付いてくる。ほんの一瞬の隙をついて、お皿にのせた齧りかけのパンをさらわれる。
「あ、あたしのっ」
小鳥はひょいとテーブルから地面へ飛び降りると、一目散に離れた木陰へと走り抜けていった。早い。それに、あんな小さな体だというのに、なんて大胆な行動。感心しながら新しいパンを取り、再び自分の皿に置く。あ、このパン。一番好きなやつ。クルミって木の実が混ざっているの。ふわふわのパンとカリカリした舌触りがたまらないご馳走だ。もちろん、この島に来るまで口にしたことすらなかったのだけれど。
早速頂こうと指を伸ばしたら……あれ、ない。ほんの一、二回、瞬きをしたら無くなったよ。嫌な予感がして辺りを見回すと、またあの小鳥がパンをくわえて走っていく後ろ姿が見えた。
「やっ、それはダメっ」
小鳥はさっきと同じ木陰の穴に入っていく。走り寄り、そっとその中を覗くと……頼りない小さな鳴き声が聞こえた。小鳥が自分より小さな鳥達の口へと、齧り取ったパンの欠片を放りこんでいる。もっと頂戴と言わんばかりに皆、口を大きく開けて自分の順番を待ちわびている。
「ヒナに餌を与えているんだ」
「偉いのね、小さな子の面倒をみるだなんて」
ウフにも小さな子供だけが暮らす一角がある。あたしも十才まではそこで暮らしていた。数少ないアートヒューマンの子は、他の子供達から隔離されていた。感性を磨く特別な環境。その中には同じくらいの年の子もいたけれど、すれ違うだけで交流はなかった。面倒をみてくれる大人は皆、淡々とその任務をこなすだけ。この鳥のように、子供の為に走ったりなんてしない。
「親鳥なんだろう」
「親……鳥?」
「自分で産み落としたって意味だ。命を与える元の存在が親だ。ほら、脇にまだかえっていない卵があるだろう」
「卵……この鳥が作ったの?」
「そうだ。雌は自分の体から、ヒナが入った卵を産み落とす」
雌は女って意味だ。雌鳥は子供の入ったカプセルみたいな卵を、自分の体内で作ることが出来る? すごい……じゃあ人間は……
歯車番人も全ての源はマザー・コンピュータ。ずっと、そう聞かされてきた。
絶対的な存在。一体、どんな姿をしているのだろう。
「人間の親は、マザーコンピュータ・エリザベスって事?」
「……そんなとこだな」
「人間の雌は卵、産めないの?」
「説明してもお前には理解できない。……いや、アートヒューマンは避妊処置されていないらしいから、お前は産めるかもしれないな。……卵ではないが」
「えっ、本当に?」
「自然分娩が可能かは未知数だが」
しぜんぶんべん?レオンの話は知らない言葉ばかりで半分も理解できない。でもアートヒューマンは産めるかもしれないと言った。そうだ、いくつも見たことがある。裸の小さな子供を胸に抱く女の絵画を。あれはきっと親に違いない。幸せそうな薔薇色の頬を、子供の髪に寄せていた。
「どうやったら産めるの?」
知りたい。いつ、どこで、何をどう申請したら子供を産めるのか。足りない画材を補充するのは奇数日の19時から20時までの間にA3窓口にアクセスして申請する。絵画資料の申請はC3窓口。ねぇ、レオン……子供を産みたい時は? すがるようレオンを見詰めると、ついと彼は絡んだ視線を振りほどいた。
「申し訳ないが、俺の管轄外だ。これ以上提供できる情報は持ち合わせていない」
話を打ち切られ、突き放されたような気分になる。主が不在のテーブルへ、親鳥は再び餌を選びに忍び寄っていく。ヒナ達はまだ催促をするような鳴き声を続けている。そっと指先で小さな小さな身体に触れてみる。暖かい。生まれたばかりの命の温もり。指先から伝わってきた衝撃に、ぱっと手を引っ込める。
あれ……やだ……どうして……。咄嗟に立ち上がり、この場を逃れるよう歩き始める。
「リコ」
呼び止めるレオンの声が聞こえたけれど、振り向く事が出来なかった。涙が溢れて止まらないのはどうしてなんだろう。ヒナの身体に触れた途端、自分の奥底にぽっかりと空いた大きな隙間に気付いてしまった。
どこ……どこ? 何を探していいのかも分からないままに、当てもなく島の中を歩き回る。
どこ……どこに行ったの? 一体あたしは何を無くしたというのだろう。
水上コテージに向かうものとは違う桟橋を通り抜ける。桟橋の先端には日影を作る屋根があり、汗ばんだ肌をそっと休ませてくれた。しゃがみこみ手で顔を覆う。まだ、涙は止まらなかった。きっとすごい顔をしているに違いない。ゆらり、ゆらり。透かした太陽の光を混ぜ合わせながら、揺れる海が指の隙間から見えた。顔に押し当てた手をゆっくりと離しながら、小さく息を吐く。サンゴに魚達が群れている様子が、桟橋の上から見えた。海の中に花が咲いていると言った時に、あれはサンゴというのだとレオンが教えてくれたのは昨日……それともおととい? あらゆる記憶が絡まって、何が現実なのかふいにわからなくなる。
いたい、イタイ、痛い。頭が割れるように締め付けられる。探し物は何だろう? その奥を真剣に探ろうと心を覗き込むと、遮るような壁が立ちはだかる。助けて……。知りたい……ううん、知ってしまうのが怖い。込み上げる嗚咽に身体を震わせながら、感情の高ぶりが通り過ぎるのをただひたすらに待ちわびる。
ふわりと、頭に何かが覆い被さってきた。うつ向いたまま薄く瞼を開く。顎の脇で揺れる赤い紐が見えた。風に飛ばされない魔法の紐。頭に手を添えると、編み込まれた帽子の感触があった。レオンだ。彼の気配が、丸めた背中に覆い被さってくる。どんな顔を見せたらいいのか分からなくて、ただじっと床についた自分の手を眺めていると、そこにレオンの腕が伸びてきた。
え……何? すっぽりと大きな手に指が包まれると、何かがするりと滑りこんでいく感触が通り過ぎた。放たれたあたしの手に、キラキラ光るものがぶら下がっている。青い……海の滴を閉じ込めたような……。
「旧式の鍵だから、針金一本で簡単に開いた。指輪なんて誰かの指に飾られてこそ存在価値があるものだ。今日一日くらい拝借しても、最後に戻しておけば問題ない」
「……綺麗」
スケルトンケースに飾られていた時よりもそれは、太陽の陽射しを吸い込み艶やかに息づいている。小さな石がひとつ飾られるだけで、指の持つ役割さえ変わってしまったようだ。色々な角度に傾けると、ブルーの色調が移り変わって見えた。飽きること無くその様を眺めているうちに、ふと自分の顔が既に泣き顔ではない事に気付く。隣に座るレオンにおずおずと顔を向ける。
「なくすなよ」
海を眺めながら、レオンは素っ気なく言った。うん、と素直に頷く。ついさっきまで頭を締め付けていた頭痛は、いつの間にかすっかり消え失せていた。
「夢の話は、もう思い出さなくていい。ただの夢だ、リコ」
……ただの夢。隣に座る色付いた肩に、そっとおでこを寄せてみる。現実の温もりにもたれ掛かる心地良さ。キラキラと誘うような青い光の存在を、指先でそっと撫でてみる。毎夜訪れる夢と同じように、明日には終わってしまう幻なのかもしれない。でも、確かな感触……これはいつもの夢じゃない。あたしはこの瞬間を、いつでも繰り返し思い出すことが出来る。何度も、何度も……だ。
瞼を閉じて指輪を耳に寄せると、レオンがくれた小さな海が、ちゃぷりと音を響かせている気がした。