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幸福に似た夢(ティル)

 あの時と同じように、扉は音も立てずに開いた。目の前に立つ男の顔色が、蒼白になっていく様が見てとれる。この男に歓迎されると期待などしてはいなかったが…まるで死人に遭遇したかのような眼差し。

「門番の看守にジャンヌの部屋をと頼んだのだが、ルームナンバーを聞き違えたらしい」

「いや、看守からの電話を受けて、部屋に通すよう言ったのは俺だ。……ティル……ハイルマン……」

 男は絞り出すような声色で、やっと俺の名を呟いた。

「カール、久し振りだな」

 手にしたブーケをさりげなく後ろ手に隠す。何故この男がここに居る。疑問に思ったが、平静を装い疲れた顔のカールを正面から見据えた。ジャンヌは? 視線でそう探りを入れる。

 カールは押し黙ったまま、俺を部屋の中に通した。暗く重い空気が二人にのしかかる。招かざる客人だったのだと感じ取る。だが、そんな事はどうでもいい。ジャンヌの居場所を聞きさえすれば、早々に退散するまでの話。その意味も込め、勧められた椅子に腰をおろすこともせず、居間を取り囲む大きな窓硝子に歩み寄る。

 空襲で叩きのめされたベルリンの街とは何もかもが違う、ニューヨークの摩天楼。そのビル群の谷間には広大な緑のオアシスが、アメリカの余裕を象徴するかのよう広がっている。ふと、窓辺に置かれたキャビネットの上に、写真が立て掛けられている事に気付く。その脇には綺麗にたたまれたラズベリー色のショールが置かれていた。女物の……。歩み寄り銀の額縁に入れられた写真を手にとる。肩まで伸びたプラチナブロンドをなびかせたジャンヌがそこにいた。机に置かれている物と同じ、ラズベリー色のショール。

 愛しさに胸が高鳴る。けれども次の瞬間、冷水を浴びたように血の気が引いていった。腹部に手を添えた不自然な姿勢。まさか。まさか。春の日差しの中、寄り添う二人は何の違和感もない幸せそうな夫婦に見えた。ふと、アパートの看守にジャンヌの名を告げた時の、意味ありげな眼差しが頭をよぎる。恋人気取りの男は、さぞかし奇妙な来客に見えたことだろう。

 この男にジャンヌを託したのは俺だ。あの時、もう離ればなれになるのは嫌だと、すがってきたジャンヌを振り払ったのも俺。

 子供……当たり前ではないか。ジャンヌの男はこの世に自分一人だとでも自惚れていたというのか。そうだ、自惚れていた。あの嵐の夜に確信したからだ。ジャンヌに愛されている事実を。一点の汚れもなく、真っ直ぐに愛を注がれた。

 子供……あの暗黒の時代を乗り越え、平穏な地に辿り着いた彼女が、女としてのささやかな幸せを望んだとして、どうして攻められる? 儚い希望にすがり、愛する男の不在を噛み締め絶望を抱きながら生きていく人生など幸せであるはずもない。今、生きて俺がここにいる事自体が奇跡の産物なのだ。偶然の重なり合いで死の淵から這い出ただけの事。

 カールに寄り添い、微笑みを向けるジャンヌの写真を再び見つめる。幸せそうで、良かった。ひたひたと押し寄せる悲しみよりも、愛する女の幸福が嬉しかった。戦争に全てを奪われ、煙突の煙と化していった人々の無念を思えば、当たり前の人生がなんと素晴らしく価値があるものか思い知らされる。親衛隊の刻印が身体に刻まれた俺など、一生縁遠い生活。これで良かったのだと自分に言い聞かせる。ジャンヌがこんな顔で暮らせる日常がここにあるのならば、死んでしまった男を演じ続けるのも悪くない。

 海を見るたび、タンゴの音色を耳にするたびに、彼女は小さな痛みを感じるかもしれない。甘い疼きを添えて……。心に突き刺さる棘の欠片でもいい。この後に及んで、そんな事を願う俺は女々しい男だろうか。

 ジャンヌが帰る前に姿を消そう。名残惜しむようラズベリー色のストールをそっと指でなぞる。振り返ると、いつの間にかカールの姿は消え失せていた。何処に行った? 長居は無用だ。カールにとって俺の存在は、やはり家族の幸せをかき乱す疫病神以外の何者でもないはず。このまま声もかけずに立ち去るのが相応しい。どんな痕跡も残すべきではない。そう自分に言い聞かせ、手にしていたブーケを握りしめる。

 忌まわしく背負った罪を償えというのならば、それが俺が生き長らえた真意なのだろう。だがどんな仕打ちをされようと、神でさえも引き剥がせない己の聖域を俺は守りぬいてみせる。ジャンヌを愛し続ける。誰の妻になろうと、二度と会うことがなかろうとも、俺の心を永遠に捕らえるたった一人の女。同じ銀の月をジャンヌも眺めているかもしれない。そう思いをはせる夜があれば、生きる糧となる。

 ジャンヌ、ジャンヌ、君を愛し続ける。今までもそうであったよう、これからもこの想いが変わる事はない。そう……ただ、それだけ。

 小さな音を立て、居間の扉が開く。ジャンヌかと思い、ドクリと胸が跳ね上がった。カールだった。思い詰めた顔で、つかつかと此方に歩み寄ってくる。無言のまま奴は何かを差し出した。その指先が小刻みに震えているのを見逃しはしない。

 何だ? 一体何だというのだ。カールが差し出したものは何の変鉄もない黒い手帳だった。怪訝な気分で受けとり、視線に促されるまま、パラリと頁をめくる。知っている名ばかりが連なっていた。オランダで終戦まで任務を共にした親衛隊員ばかり。手帳には皆の身体を貫いた銃弾の返り血が、模様のように染み付いている箇所すらある。そこに、己の名を見つける。

“五月十日、銃殺、ティル・ハイルマン大佐”

 運命の歯車がカチリと音を立て、死神が差し出した手が、するりとすり抜けたあの瞬間。……どこかで紙を滑るペンの音がする。そうだ、黒い手帳だ。、この手帳に書き込むペンの音が、あの時耳鳴りと共に鼓膜を震わしていた。





「……ティル・ハイルマン大佐殿か」

 腕の太い男が、軍服から抜き取った身分証を眺めながら、黒い手帳にその名を書き込む。

「……うっ……」

 頭が割れるような激痛を訴えてくる。さっき殴られた拍子に、軽い脳震盪をおこしたようだ。何が起こった?そうだ、敗戦の混乱の中、ドイツへと撤退する引き揚げ船に乗り込むため車を走らせいる時、武装した民間人に襲撃され捕らえられたのだ。連行された場所は、町外れの廃屋の地下室。奴等の言動からオランダ人反ナチ勢力レジスタンスだと伺えた。

 こめかみを押さるため手を上げようとし、手首を縛られている事を今更に思い出す。からかうよう、男が俺の軍帽を摘まみ上げる。

「冠を取られちまったんじゃ、裸の王様も同然だな」

 訛りのあるドイツ語で皮肉った口調には、忌々しさが滲んでいた。

「へぇ、見てみろよコイツの顔」

 乾いた血を拳にこびりつけた男の指に顎を掴まれる。

「見事までの金髪蒼眼だぜ。女みたいな白い肌をしやがって、まさにヒトラーが賞賛したアーリア人って面をしてやがる」

 取り囲むよう男たちが群がり、ゲスな笑いを漂わせる。口々にはやしたてる言語に、オランダ語が混じる。

「皆、こいつらの前じゃ下手でもいいからドイツ語を話せ。助けてもらえるかもしれないなんていう希望の欠片すら持たせない為にも、冥土の土産に俺達が何を言っているのか、知らしめてやるんだ」

 男たちは頷くと、咳払いをし仕切り直した。

「よぉ、アンタその綺麗なお顔で、何人のオランダ女をたぶらかせた?」

 再びどっと笑いがおきる。黙り、男の視線を真っ直ぐに睨み返すと、分厚い手のひらに頬を張り飛ばされた。

 ドカッ。同じように手首を縛られ転がされた親衛隊員の脇になだれ込む。よく知った顔が腫れ上がり、鼻の周りを血だらけに染めながら虚ろな眼差しをこちらに向けた。自分もまた殴られると思ったのか、奴は怯えた眼差しで俺から視線を反らすと、床に頭をつけたままブルブルと震えだす。ひと月前、連行する途中に逃げ出したレジスタンスを、薄笑さえ浮かべ撃ち殺した男と同一人物とは思えない。

「ひっ、止めてくれっ。俺は違う、コイツとは違うっ。ほら、見てくれ髪だって黒だし瞳だって青くなんかない。だから……だから……っ」

 バスンっという鈍い銃声と共に、そいつの身体が跳ね上がる。

「けっ、ヘドが出るぜ。まるで密告屋だ。こういう野郎に何人の仲間が売られたか……」

「おい、コイツの名前はもう書いたっけな」

「今日は四人だ。全員書き記した。あと生きているのは、その色男だけだ」

「誰が殺る?俺は今日はもう二人仕留めたから他に譲るぜ」

 先程発砲した男が、拳銃を弄びながら皆の前に差し出すと、数人の男達の瞳に殺意が宿るのが見てとれた。その時だった。地下室の分厚い鉄扉が、不自然なリズムで叩かれた。一人の男が踵を返し、隠し穴から確認すると、引きずるような音を立て鉄扉を開いた。入ってきた人物に、男達の視線が集中する。俺の軍帽をふざけてかぶっていた奴が慌ててそれを隠す仕草をみせる。登場した男は、リーダー格なのだろうと理解する。鋭い眼光を際立たせるよう、顔に無数の古傷が刻まれていた。

 緊張した空気が周囲を包む。男は床に投げ出された親衛隊員の死体にチラリと視線を流すと、あの黒い手帳を持つ男に歩み寄る。命令調の短いオランダ語。声を掛けられた男は、おずおずと手帳を差し出した。

「……ティル……ハイルマン……」

 手帳を眺めながら交わされるオランダ語の会話の合間に、自分の名が挟み込まれる。俺の軍帽を手にした男が、こいつだと差し示すよう、こちらに指先を向けた。

 ゴツリ、ゴツリ。床に着けた頭に、歩み寄る靴音が響く。あの射るような眼光を、真上から注がれ、俺は死を意識しながら視線を絡めた。男は身を屈めると、至近距離で俺を眺める。声を落とし、この中の誰よりも完璧なドイツ語の発音で奴は話掛けてくる。

「お前、本当にティル・ハイルマンか?」

「……偽者が横行するほど有名ではないつもりだが」

 俺の皮肉に、男は口元だけで薄く冷笑する。胸ぐらを捕まれ乱暴に引き寄せられる。そして内緒話のよう唇をこちらの耳元に近づけ、小さな…俺だけに聞き取れる程の小さな声で囁いた。

「ポーランドで拾い物をしただろう。親子だ、幼女を連れた親子だよ。あの子に変わった挨拶を教えたのを覚えているか、アンタ、何て仕込んだ?」

 ……収容所から逃げるため、俺の車に乗り込んでいたあの親子か? 何故この男がそんな事をしっている。疑問に思ったが、頭がうまく回らない。

「どんな挨拶を教えたのかを、答えろ……ティル・ハイルマン」

 仰せのままに答えを口にする。ヤケクソのよう、声を張り上げて、だ。

「っハイル、ヒトラー……!」

 バスンっと鈍い銃声が響く。胸ぐらを掴んでいる男ではない。親衛隊員を射殺していたあの男が、天井に向かって引き金を引いた音だった。怒りに理性を失った目付きで、銃口を此方に向けながら歩み寄ってくる。

「手を出すな。この男は俺が始末する」

 銃を振り回していた男が、その言葉に制され、ピタリと足を止める。

「連れて帰り、俺が始末する……俺のやり方でだ」

 威圧する低い声に、文句などつける者は誰もいない。奴は俺の襟足を掴むと、もの凄い力で引きずり始めた。男達は道を空け、固唾を飲んで見送っている。哀れむような眼差しさえ投げ掛けてくる者がいて、生き地獄という名の切符を手にしてしまったのだと悟る。

 ブルンッ。泥だらけの車の後部座席に転がされ、走り始めた車の振動に頭を揺さぶられる。逃げなければ……ジャンヌの姿が脳裏を横切りもがいてみたが、身体中殴られた傷が今更のように疼き出す。

 ジャンヌが待っている。俺が迎えに行くのを待っている。ぐらりと視界が歪んだ。遠のく意識の向こうで、ジャンヌの微笑みがかき消えていった。

 

 目が覚めたのは意外にもベッドの上だった。さっきまで拘束していたロープも手首から消えている。ここはどこだ?

「起きたか」

 低い声色に心臓が跳ね上がる。声の主は、机に脚を乗せ、一人用のカウチに背をもたれながらこちらを見ていた。顔に無数の古傷……あの男だ。

「手荒に扱ったな。ま、命があっただけでもめっけもんだ」

「……一体どういう事だ?」

「まさか実際のティル・ハイルマンに会うとは、しかもあんな場所で……運命とは悪戯なものだな」

 この男の話している事が、全く理解できない。のろのろと起き上がり、床に足をつける。

「本物かどうか、さっきは試させてもらった。見事合格だったな」

「ハイル・ヒトラーが?」

 男が意味ありげな眼差しを俺の背後に投げる。その視線を辿ると壁に掛けられた写真が目に止まった。赤ん坊を抱えた夫婦が映っていた。夫と思われる男は、目の前の男とは全く違う人物だ。この女……。

「俺の妹だ。子供はそこまで小さいとわからないだろうな」

 おじちゃん、おじちゃんと、無邪気にこちらを覗きこんでいた少女の瞳を思い出す。

「妹の夫は、ドイツ人だったが俺等の活動を支持してくれた。率先して、ナチスの盗聴も手伝ってくれた。いい男だった」

“夫は……射殺されたわ……私達を守ろうとして”

 あの時、震える声で彼女が語った言葉を思い出す。

「二人は無事にチェコへ?」

「あぁ、来月にはこちらへ帰ってくる」

 男は、懐かしむような眼差しを見せた。

「あちらに逃れていた仲間が、先日妹からの手紙を届けてくれた。それに書いてあった、どんな成り行きで収容所を抜け出たのか。アンタの名前もな」

「……俺の名前が?」

 名前など名乗っただろうか? あぁ、列車の中で兵士に声を掛けた時、自分の名と階級を告げた事を思い出す。

「その軍服では襲って下さいと言っているようなもんだ。ドイツにもぐりこめる国境まで、送っていこう。自分で立ち上がれるか?」

 パサリと男は私物と思われる服を投げてよこした。取り上げられたと思っていた身分証もその上に置かれる。

「……ダンク ユーウェル(ありがとう)」

 半年以上駐留し、その間に覚えた数少ない挨拶のひとつを、オランダ語で口にする。男は、相槌を打つこともせずに俺を見据えた。そして一言、淡々とした口調で言い放った。

「妹の事だが……俺はナチに礼など言う気は無い。ただ、借りを返すまでだ」





「何故、この手帳がここに?」

 俺の問いかけにカールは肩をすくめた。

「経緯は語れない。ただ、君の捜索をある機関に依頼をしていた。とはいえ、偶然手に入れたものだ」

 ただ者ではないと思っていたが……だが、もう戦争は終ったのだ。詮索するに及ばない。この暮らし振り、ジャンヌと家庭を築く男として、申し分の無い立場にいるのだろう。

 アメリカまでの旅費、入国する為に闇で手に入れた偽の身分証…ここに辿り着くまでに俺は全てを使い果たしてきた。こんな俺が、彼女にどんな生活を与えられるというのか。働いて働いて、ささやかな暮らしでも、二人が共に生きていけるのならば幸せなのだと、そう信じて……。

「亡霊が現われたとあっては、驚かせたな、カール。これで失礼する」

 手帳を置き、歩き出したところでカールに腕を掴まれる。

「何を言っている。ジャンヌに会いにはるばる来たのだろう?」

 怒りを滲ませた瞳に捕らえられ、俺は混乱した。

「……会えるのか?」

 すがるよう問いかけた言葉に、カールの顔が強張る。返事をする代わりに、奴は俺の腕を引いた。


 ここはセントラルパークの一部なのだろうか? 車に少し揺られ降り立った所から、広大な芝生の合間に敷設された道の上を歩かされる。所々に天使の彫像が立ち、静かに通り過ぎる俺達を見守っている。セントラルパークには回転木馬や湖までもがあると聞いたことがある。こんな場所まで付属しているとは……。公園に来たついでに気軽に立ち寄れるようにと、アメリカ得意の合理主義というやつか。だが、ここを抜ければ向こう側に、子供が遊べるような遊戯場でもあるのかもしれない。そこでジャンヌは赤ん坊を抱え、もしかしたら、まだ大きなお腹を撫で、初夏の陽射しのなか木陰でまどろんでいるに違いない。

 カールに問いただしたい事は山のようにある。だが黙り込み一歩前を歩く男の背中は何故だか痛々しく、俺は喉元まで出かかった幾つかの言葉を飲み込みながら足を進める。子供までいる状況を思えば、戸惑って当然だろう。全てをさらわれるのではと、葛藤が渦巻いているのかも知れない。失う事への恐怖。皮肉なものだ。立場が違いながらも、味わっている思いは同じだなんて。

 さっきまで静かに立ち去ろうと心に決めていたというのに、一歩一歩ジャンヌに近づく高揚感に高鳴る鼓動を抑える事ができない。どんな顔をすればいい? そうだ、取りあえずこのブーケを彼女に差し出さなくては。ジャンヌの為に選んだ。持ち主を見失えば、道端に捨てられる運命の美しい花々。

「……ここにジャンヌはいる」

 立ち止まったカールの背に遮られ、その先にあるものが見えない。込み上げる違和感。状況が理解できず、奴の背を追い越し、その先にあるものを目にする。信じられない光景があった。

「……どう……いう……ことだ」

 混乱する思考に言葉が詰まる。悪い冗談に固く拳を握りしめた。俺はふらふらと歩み寄ると、そこに膝まづき、石に刻まれた文字に視線を走らせる。

“ジャンヌ・ブルーニ。天使を抱きここに眠る”

 日付はほんのひと月前のものだった。何だこれは? 悪い夢を見ているに違いない。

「……ティル、君の子供は……男の子だった」

 背後から震える声で語り掛けてくるカールを振り返る。

「俺の……子供?」

「そうだ、NYに辿り着いてからジャンヌは妊娠していることに気付いたんだ」

 大事そうにお腹を支えるジャンヌの写真が脳裏をよぎる。どうして? あのジャンヌがどうして土の下にいるのだ。

「産気づいたのは、あの黒い手帳を目にしてしまったショックからだった。酷い難産で……ジャンヌは半分錯乱し、半分は失神した状態で子供を産み落とした……死産だった」

 カールの瞳からぽたぽたと涙が溢れた。悲しみを隠そうともせず、子供のように泣きじゃくり始める。あの強制収容所で様々な地獄を傍観してきたこの男が……。

「子供の事を何て伝えよう…君を失ったショックに打ちのめされている彼女に、この上、子供まで……そう迷いながら薬で眠っているジャンヌの病室の扉を開いたら……ベッドから姿を消していた。産後の出血がひどくて、輸血の点滴をしている最中だったというのに……いなくなっていた」

 その時の情景を、途切れ途切れに語るカールの言葉が、凍りついた心を滑っていく。現実の話として受け止められない自分がいた。涙など一粒も溢れはしない。認める証のような気がして、必死に喉元に込み上げる嗚咽を飲み込んだ。

「セントラルパークで見つかったと、早朝警察から連絡が入った。散歩を日課としている老夫婦が、ミモザの木の下で横たわるジャンヌを……見つけたんだ」

 語尾は嗚咽にほとんどかき消されていたが、墓場はカールの息遣いさえも際立たせるほどに静まり返っていた。そう、一面に広がる墓地……俺は馬鹿だ。ここはセントラルパークなんかじゃない。摩天楼の喧騒から逃れ、死者だけに休息が許される、緑豊かなただの墓地。

「俺が駆けつけた時には、もう……息絶えていた……眠っているのかと錯覚するような穏やかな顔で……握りしめた手の中に……指輪があった…ティル、君が昔ジャンヌに贈ったという……あの小さなダイヤの指輪だ」

“大事にするわ……死ぬまで……ずっとよ”

 まだ少女だったジャンヌの指にはサイズが合わず、落胆する俺に彼女が囁いた言葉が甦る。クルクルと回る指輪を彼女はよく弄んでいた。その存在を確かめるかのように。

「彼女を愛していた」

 きっぱりとカールは迷いのない眼差しで俺に言い放ち更に言葉を繋げた。

「だけど、彼女の気持ちが揺らぐことは決してなかったよ。……ただの一度たりともね」



「どうしたの? おじちゃん、どこか痛いの」

 薄く目を開くと、青空を背景にした金髪の少女に、顔を覗き込まれていた。

「転んだの?」

「……いや」

「一緒に芝生に寝転びたいけど、新しいお洋服にドロをつけるとママに叱られちゃうの」

 五、六歳とみられる少女の、あどけない笑顔に目を細める。

「おじちゃん……大人でも泣くのね。なでなですると、痛いの消えちゃうよ。どこ?」

 問いかけられるまま、素直に指を指す。少女は小さな手のひらを、俺の胸にそっと押し当てた。そして可愛らしい声で、おまじないらしい言葉を唱えはじめる。

「この木はね、綺麗な黄色いボンボンの花が沢山咲くのよ。こないだママと来たときは綺麗だったのに」

 芝生の上に散り落ちて色褪せたミモザの花びらを、少女は指先で弾いてみせる。ジャンヌが最後に眠った場所。横たわった彼女が見つめた光景は、どんなものだったのだろうか。枝をしならせる程の花が咲き誇り、芝生のベッドに黄色いカーテンを垂らしていたに違いない。初めて出会ったあの坂道のように。

「泣き虫さんね。ふいてあげる」

 ゴシゴシと柔らかい手のひらが俺の頬を拭う。涙は止めようもなく溢れていた。こんな子供に慰められている自分が情けないなどと感じる思考回路も消え失せたまま。すっかり、いいおままごとの道具にされてしまったらしい。少女は俺の世話に瞳を輝かせている。屈託のない眼差し。

 子供……ジャンヌと俺の子供。信じられない。ジャンヌの身体に二人の血を分け合った命が芽生えていただなんて。黒い手帳を彼女が目にするとは……命を切り裂くほどの絶望をジャンヌに与えたのは、結局は俺なのだ。その上、子供まで彼女の手から剥ぎ取ってしまっただなんて。

 どうしてこんな事になった。俺なんぞが身の程をわきまえず、ジャンヌを愛したが故に、神の怒りに触れたというのか? ほんの数時間前、花屋の店先でジャンヌに相応しい花を選んでいた。これから彼女のアパートを訪ねるという状況に、目眩がする程の幸福感に包まれて。柄にもなく神に膝まづき、感謝の言葉を捧げたいと願った。ひと時の安息は、突き落とす奈落の底を、更なる深みにする為に神が仕掛けた悪戯だというのか? 俺は愚か者だ。何て馬鹿な男だろう。

 その時だった、鼻先をふわりと何かが横切っていった。そしてそれは吸い寄せられるように、少女の手の甲に止まった。見事なアゲハ蝶。彼女は目を丸くし、じっとその蝶を眺めている。少女の瞳から、すっと幼さが消え失せた。そして視線を蝶から俺へと流してくる。透き通るようなグリーンアイズに囚われる。

 知っている、この瞳を。俺の心を絡めとる、魅惑の眼差し。これは……これは。

 横たわる俺の頬に、少女の髪が覆い被さってきた。ふわりと小さな唇についばまれる。ほんの一瞬の出来事。だが、唇に触れた温もりが夢ではない事を物語る。

 ふふっと、彼女は髪をかきあげた。その手には、いまだ羽を休める蝶が留まっている。

「ローズ、ねぇローズどこにいるの?」

 少女ははっとしたよう、声のする方向を振り返った。小さな手から、ひらりと蝶が飛びたっていく。

「あっちでママが探してるから、またね、おじちゃん」

 ローズと呼ばれた少女は、はにかみながら手を振ってみせる。その様子には年相応のあどけなさが戻っていた。たった今、目の前の男に口付けた事など、忘れてしまったかのように……。

「バイバイ」

 走り出したローズの頭上で蝶は気紛れに漂っている。やがて葉だけを残すミモザの木へと方向を転回し、高みへと羽ばたいていった。

「……っ待ってくれっ」

 ジャンヌ……と、小さく叫び蝶の羽へ手を伸ばしたが、届くはずもない。そっと目を閉じると、ジャンヌの姿が瞼に浮かんだ。透明な海の色にも似たグリーンアイズが静かに見つめ返してくる。

“知ってる? 私達はひとつのコインだったの”

 知っているさ。だって君が教えてくれた。瞼を開くと、誘うように揺れる羽の紋様が、遠い青空にかき消えていく。

 ジャンヌ……ジャンヌ。その姿を、いつまでも見送る。雲ひとつない空。夜になれば銀色の月が、絶望という名の暗闇を一筋の光で照らしだす。あの頃のように息を潜め、ドアノブが小さく音をたてる瞬間を、俺はうす暗い部屋で独り待ち続ける事だろう。

 もしかしたら……もしかしたら。蝶に導かれ、気紛れに扉の隙間をすり抜ける君が、目の前に現れるかもしれない。そんな幻を追い求め、年老い命尽きるまで、何千、何万という夜が通り過ぎていくのか。終わることのない希望と絶望の狭間に見るものは……。

 もしかしたらそれは、幸福とよく似た夢なのかもしれない。





 波音がベッドの下から響いてくる。どのくらい眠っていたのか……いや、本当に眠っていたのだろうか。ずっしりと身体が重い。瞼を開くのをためらう自分がいた。ここはあのボート小屋かもしれない。起き上がり鏡を覗いたら、絶望を深い皺に刻んだ老人が、そこに映るのではないか。

 馬鹿な。夢だ……全ては夢だ。邪念を振り払い瞼をひらく。天井でゆっくりと回るファンが見えた。……違う。ボート小屋ではない。シーツを握り締める拳にも、皺などは見当たりはしない。俺はどうかしている。夢と現実の区別さえつかなくなってきたのか。のろのろと起き上がり、裸の身体に肌着を着用する。

 中世のベネチア、第二次世界大戦のナチス……。目覚めた後にまで尾を引く、引き裂かれるような胸の痛みは一体何なのだ?いない。リコがいない。隣で眠っていたはずの女の姿が見えない。己の任務を思い出し、慌ててコテージの扉へと手を掛ける。

 水上コテージから砂浜へと伸びる桟橋の真ん中で、うずくまる人影があった。胸がドクリと跳ね上がる。溺水後遺症……昨日は回復したかに見えた。だが…

「リコっ!!」

 彼女のもとに走り寄るまでほんの数秒間。わすがな距離だというのに、もどかしいほどに遠く感じた。リコは裸に俺のシャツを羽織り、小さくうずくまって震えている。痙攣か? いや、痙攣とは違う。背中に手を添えると、すがるように腕を絡めてくる。細かく身体を震わせながら、涙ぐんだ瞳で俺を見つめてきた。

「…昨日砂浜に帽子を忘れてきちゃったの」

「帽子?」

「レオン……くれたあの茶色い草の帽子……取りにいこうと思ったんだけど……」

 眩暈がするのか? どうして立てない。何故こんなに震えている。

「昨日まで平気だったのに……怖いの…足の下の水……見てると怖くて歩けなくなっちゃった」

 水が怖いのだとリコは訴えてくる。昨日までこの桟橋の上を嬉しそうに、瞳を輝かせて走り回っていたというのに。

 心的外傷後ストレス障害。溺れた恐怖がリコの心に刻んだ爪痕。俺のシャツの中で、泳ぐほどに華奢な身体。こんな小さな背中を、海へ突き落としたのは……この俺。

「大丈夫だ。手を引いてやるから、一緒に捜しに行こう」

 リコの指に手を添えると、ぎゅっと握り返してきた。そしておどおどとした眼差しで、周囲に視線を泳がせる。

「レオン……もう……怒っていない?」

 独り言のような小さな声が、問い掛けてくる。

「怒ってなどいない」

 はっきりと、そう言い切ると、リコの瞳が少しだけ輝きを取り戻す。

「……本当に?」

「本当だ」

 リコは思い切ったよう、立ち上がった。だが、重心がぶれるのかフラフラと足元がおぼつかない。リコの胸元に、あの痣が覗いていた。羽を広げた蝶にも似た……。

 どうして…どうして。

「レオン?」

 細い身体を両腕で抱きすくめる。キーパー(番人)として、どんな感情にも揺さぶられない精神を要求されてきた。己の死に対する恐怖心さえも、俺に特別な感情を呼び起こしはしない。……なのに、どうしてこの女に心が騒ぐ? 腕の中の温もりを離したくないなどと、身体の奥底から込み上げてくる熱い感情は……。

 おずおずと、リコが俺の背に指を這わせる。彼女の震えは、いつの間にか消え失せていた。安心したかのよう、身体の力を抜きもたれてくる。さわりさわりと吹き抜けていく海風が、悪戯にリコの髪を弄んでいく。

 なんという光の渦。彼女の肩に顎を乗せながら、桟橋の真ん中より望む小さな島の情景に改めて息をのむ。波打ち際へと色合いを変化させていくブルーのグラデーション。南国の太陽を弾く白い砂浜。息づく熱帯の緑は艶やかな花々を散りばめている。初めてこの島に足を踏み入れた時と何も変わらないはずの情景が、輝きを増して心を揺さぶってくる。

 二人きりだ。まるで地球上に産み落とされた神話のように、たった二人きり。

 あとどのくらい一緒にいられる? 明日の朝九時で、36時間与えられた自由は終わりを告げる。この時初めて俺は、楽園にいられる残り少ない時間を意識した。

 もう二度と、会うことなど叶わない。だからどうした? お互い生まれたときから定められた人生に戻るだけの事。そう自分に言い聞かせながら、どうしようもなく溢れてくる慣れない感情に、歯を食いしばり耐え忍ぶ。

 生きている。生きている。この腕の中で息づいている。当たり前の事が悦びへとすり変わる。

 堪えきれず…リコを抱く腕にそっと力を込めていた。

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