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羽化(ジャンヌ)

 唇に導いたティルの指先が首筋にのびてくる。激しく抱きすくめられ、軍服に染み込んだ雨の匂いに包まれる。待っていた。この瞬間を……伝たわるだろうか、あなたに抱かれる日をどんなに夢見ていたかなんて。気の遠くなるような歳月。それは空白の七年などというものではなく、遥か昔から待ち望んでいた肌の温もりなのだと、漠然と感じた。

 全てが欲しい。吐息さえも私のものだ。言葉で語り尽くせぬ想いなら、身体で伝えればいい。おでこに触れる位置にあるティルの顎を、上目遣いに見上げ視線を交える。ぞくぞくとした痺れが、欲情と共に背筋を伝い這い上がってくる。

 もっと、そばに来て。もっと、もっとよ。もどかしい気持ちでティルの軍服に手をかける。だが、彼の方が女のドレスを脱がせる手腕に長けているようだ。あっという間に裸にされ、私はそんな姿のまま、もたつく指を懸命にティルの固いボタンに絡ませた。

 ふと、幼い頃大好きだったキャンディの包み紙を、小さな指で懸命にこじあけた記憶が蘇る。味わうために、薄いセロファンに辛抱強く不器用な指を絡ませた。私はきっと今、あの時と同じ顔をしているに違いない。

 ぶちんっという鈍い音と共にボタンが弾けた。口に含む寸前でキャンディが足元に落ちたような絶望感に襲われる。昔からヴァイオリンの弓は器用に動かせるくせに、他の事に関しては呆れる程に不器用だった。大体、男の服を脱がせることなど初めてなのだ。今まで寝た相手の中に、そこまで手間をかけたいなどと思わされる男など他にはいなかった。求められ、値踏みし、楽しませてくれそうな男達を選んできただけの事。経験を積み、大人の女になった自分をお披露目するつもりが何て不様な……と、泣きたい気持ちでティルに視線を流す。けれども、思いがけず本当に泣き出しそうな瞳と出くわし、ドクリと胸が跳ね上がった。

「もう……降参だジャンヌ……焦らすのは……」

 上ずり震えるティルの言葉が、耳元にとろりと流れ込む。

「こうしているだけで、気が狂いそうだ」

 懇願交じりの溜息が、ねだるよう首筋に吹き付けられる。……この台詞を、知っている。誰? 過去に誰が私にそう囁いたというのだろう。鼓膜の奥底を甘美に震わせる記憶。言葉ひとつで私をこんなに昂ぶらせるのはティルしかいない。けれどもあの頃の彼は、瞳ではそう訴えながらも決してそんな台詞を口になどしなかった。

“こうしているだけで、気が狂いそうだ”

 思い出そうと目を閉じれば、水面に揺れる銀色の月が揺れる様が浮かんで消えた。ティルの手の平に頬を包まれる。瞼の下をそっと吸い上げられ初めて、自分が涙を流していることに気付かされる。壊れ物を扱うよう唇を塞がれる。繰り返しティルの唇についばまれる心地良さ。だが、やがてそれは奪うような激しさを帯びていく。

 口付けを交わしながら、ティルは軍服のボタンを片手で器用に外してみせた。彼の皮膚が覆い被さってきた時、馴染んだ羽毛に全身を包まれた気がした。体温を混ぜ合わせる素肌の感触……もう二人を隔てるものは何もない。空気すら入り込む隙間も許さぬ程に肌をぴったりと擦り合わせる。

 割れたコインが合わさる。ひとつに繋がって、私たちはやっとありのままの姿を取り戻す。

左右に広がる蝶の羽のよう、片方だけでは今まで飛び立つことなど叶わなかった。けれども今、甘く切ない産声をあげ、鼓動のリズムをひとつに重ねながら私達は羽化する。新しい肉体に生まれ変わる感覚。男でも女でもない。愛で繋がった完璧な生命。

 ティル……ティル。私達、やっとひとつになれた。上から垂れてくる彼の髪が、私のうぶ毛を悪戯に撫でていく。快楽に震える身体から、七色に輝く燐粉が溢れ、はらはらと二人の肩に舞い落ちる。

 ジュテーム……je t'aime……うわ言のよう繰り返す。ジュテーム……je t'aime……永遠にあなたの鎖で囚われていたい。


 もしかしたら私は、少し眠っていたのかもしれない。情事の後の気だるさに投げ出した腕が、ソファーから床へと垂れ下がっていた。髪を優しく撫でる指の感触に薄目を開く。床に座り、ソファに片肘をつくティルがこちらをのぞきこんでいた。目を覚ました私に、安堵した表情を見せる彼にどうしたのかと問い掛ける。

「息をしていないのかと不安になった」

 指の背で確かめるよう頬を撫でられる。

「今、死ねたら幸せかもしれないわ。あの屋敷でどのくらい生き長らえるかわからないもの」

「……もう、あそこには戻らなくてもいい」

「二人で逃げるの?」

 知らずと声が弾んだ。だがティルは黙り込み立ち上がると裸のまま窓辺に向かって歩いていく。のろのろと起き上がりその後ろ姿を見送る。と、視界に見馴れないものが映った。今まで気付かなかった、彼の腰の辺りに……これは何だろう。カーテンの隙間から外を伺い雨足を確認すると、ティルは再びこちらに戻ってきた。

「この傷、どうしたの?」

 隣に腰を降ろしたティルの背に手を添え、そっと彼の身体を覗き見る。

「弾痕だ。以前ソ連兵に二発打ち込まれた」

 ケロイド状に引きつった弾痕が二つ、腰の上に並んでいた再会した最初の朝、背中にガウンを羽織らせてあげた時には気付かなかった……あの時の私は、斜め後ろから伺える彼の横顔にばかり視線を奪われていたのだから。こんな傷を負っても彼は生き延びた。今日、この時の為に。

「変わった痕跡は他にもある」

 ティルは腕を上げ脇の下を指し示した。Aと文字が刻まれている。

「これは?」

「ナチスの親衛隊員は皆、腕に血液型の刺青を刻まれている。優先的に輸血がされるようにと。だけど実際戦場の混乱に巻き込まれたら、こんな所をいちいち確認するのか疑問だがね」

「あなたが撃たれた時に、この刺青が役に立ったのではないの?」

「あの時は陸軍の兵士でまだ親衛隊に所属しては無かった。それでも輸血はしてもらえた」

 ティルは口の端を上げ、皮肉な笑みを浮かべた。

「……君の腕が綺麗なままで良かった」

 強制収容所の囚人は皆、番号を刺青される。ピアニストのマリーが以前見せてくれた、腕に刻まれた数字の羅列を思い出す。ティル、あなたが守ってくれた。様々な仕打ちが私の命を救う画策だったのだと今更に思い知る。憎まれているのかもしれないと、一瞬でも思った私はなんて愚かだったのだろう。

 美しい筋肉で覆われたティルの背中へと手の平を添える。南フランスの潮風が漂う坂道で、彼に背負われながら鼻先をすり寄せた襟足へと唇を寄せる。少しづつ背骨を辿りながら、口付けを落としていく。そして辿り着いた弾痕をそっと唇で塞いでみせると、ティルの体がびくりと跳ね上がった。

「……まだ痛い?」

「半年も前の傷だ。痛くなど無いが……」

 首をこちらに回し、ティルは懇願の眼差しで訴えてくる。悪戯はやめてくれと。けれども再び宿った欲情の色を、私は見逃しはしない。

 私は人差し指を立てると、真上を差した。ティルはその望みを叶える為に、おもむろに私の身体を軽々と抱き上げる。不意打ちに足元がふわりと宙に浮く感覚に、思わずしがみ付く。

「あの頃より重くなった」

「……レディに失礼ね」

「お望みの場所は二階のベッドルームでいいのかな?」

 ティルは全てを心得ている。指先が指し示す意味を…どんな願いを込めているかを。

「俺もさっきは…夢中で……」

 まだ続く激しい雨音に掠れたティルの囁きが混じり合う。降り続く雨はこの密会を覆い隠すよう、幾重にも重なりあった雫のカーテンで山荘を包み込む。

「今度は……もっとゆっくり、君を愛させてくれ……」

 彼の言葉を噛み締めながら瞼を閉じる。

“二人で逃げるの?”

 先程の問い掛けに、結局はティルは答えなかった。いいわ、何も言わないで。今はただ、あなたの温もりを感じていたい。 






 五月のセントラルパークは抜けるような青空と向き合い広がっている。この空の何処かで、未だ戦争が続いているだなんて嘘のようだ。

「あのドイツでさえ降伏したっていうのに、日本なんて東洋の小さな島が、まだアメリカを手こづらせているだなんて不思議ね」

 ベンチに並んで腰を降ろした老婦人がフランス語で話しかけてくる。

「えぇ……本当に」

 二週間前にドイツは無条件降伏をした。新聞は派手な見出しをつけ、ヒトラーの自殺を伝えた。首に巻いていたシルクのスカーフが風にさらわれ、ふわりと芝生の上に舞い落ちる。立ち上がろうとする私を婦人は制止し、ゆったりとした動作で代わりに拾ってくれた。

「そんなに急に立ち上がったりしたら、お腹に障るわ。大事にしなくちゃ」

 彼女は私の知らない結びかたで、スカーフを首に巻いてくれた。そして愛しそうに、そっと私の膨らんだお腹を撫でた。

「女にとって子供を持つ事は最高の悦びよ。きっと顔立ちの綺麗な赤ちゃんに間違いなくってよ。あなたも旦那さまも美男美女ですもの」

「あら、彼はマダムのお好みかしら」

「ウィ(えぇ)。亡くなった夫と同じ瞳の色でときめいてしまうわ。あなた達を見ると五十年前の私達を見ているようで……すごく幸せな気持ちになるのよ。ニューヨークを離れる前に、素敵なご夫婦とお友達になれて嬉しいわ。あら噂をすれば……よ。」

 歩道を隔てて並列した木々は、上部で新芽を抱いた枝を寄せ合い、隙間だらけのトンネルを描く。そんなザ・モール(並木道)を彼がこちらに向かって歩いてくる。

「ボンジュール マダム」

 白髪の老婦人に人懐こい笑顔で、彼は親愛のキスを贈る。彼女の瞳に添い遂げた夫の姿がよぎるのがわかる。はにかむ笑顔がまるで少女のようで、私は微笑ましい気持で老婦人の横顔を見つめた。

「ジャンヌ、春とはいえベンチは冷えるよ。これを」

 見慣れたラベンダー色のショールを差し出してきた。受け取る為に指が触れ合うと同時に、彼の唇が頬をかすめる。

「今日は天気がいいし、カメラを持ってきた」

 彼はお気に入りのレイカのカメラを私達に向け、シャッターを押した。

「あらっ、あらあら大変! だったらもっとお洒落してくればよかったわ」

 彼女は恥かしそうに手で髪を整える仕草をしてみせる。

「ありのままがいいんですよ。パリジェンヌの美女が二人、文句無しの被写体だ」

 心地良いシャッター音が、繰り返し響き渡る。

「こんなおばあちゃんに、フィルムがもったいないわ。ほらほら今度は私が撮ってあげる。ここを押せばいいのね?」

 彼女にもっと寄り添うようにと注文をつけられ、仰せのままにカメラの前に立つ。一生懸命ファインファーを覗き込む姿が健気で可愛らしく、自然と笑いがこぼれる。

 カシャッ! 

「すごくいい写真が撮れたと思うのよ。あなたの大きなお腹もちゃんと写したわ。三人も子供を産んだのに、考えてみれば妊婦の時の写真は一枚も無いの。今からじゃもう無理だし……勿体無い事をしたわ」

 カメラを返しながら彼女は寂しそうにため息をついた。だがすぐに気を取り直し、話を続ける。

「そうそうあなた達、結婚して何年経つの?」

 彼がその質問に答えようとするより先に、私はさらりと口にする。

「丁度、一年ですわ」

「まぁ素敵、薔薇色の人生ね」

 そう微笑むと彼女は、はっとしたように品のいい腕時計を覗き込んだ。

「大変、こんな時間だわ。娘夫婦が今日こちらに到着するの。家にいないと怒られてしまう。……パリジェンヌの私が、最後に行きつく先がカリフォルニアだなんて、数奇な運命ね。向こうでフランス語を使う事なんてもう無いかもしれないわ。ジャンヌ、短い間だったけれど、こんなおばあちゃんの話相手になってくれてありがとう」

 メルシー(ありがとう)と、もう一度繰り返すと、彼女はベンチから立ち上がった。大きなお腹越しに別れの挨拶を交わす。住所を書いてくれれば写真を送ると手帳を差し出すと、嬉しそうにカリフォルニアの住所を綴ってくれた。去っていく後姿を二人並んで見送っていると、肩にかけたショールをそっと彼が整えてくれる。

「あなた優しい旦那様ね、カール」

「いつだって、君の為に跪くよ」

 片目をつぶって、カールはおどけてみせた。ゆっくりと二人で並んで歩き始める。お腹の重みでおぼつかない足元の私に、カールは腕を差し出してくる。その肘に腕を絡ませ、私達は緑溢れる草花の向こうにそびえ立つニューヨークの摩天楼を眺めた。

「品のいい方だったね。パリジェンヌはおばあちゃんになっても華がある」

「旦那さんが亡くなって、二年一人暮らしをしていたんだけれど、カリフォルニアに住む娘さんといっしょに暮らすことになったのですって。一週間だけのお付き合いだったけれど、何だか寂しくなっちゃうわ」

 そう、ベンチでフランス語の小説を読んでいたら彼女が声を掛けてきたのだ。ボンジュール、って。英語が飛び交う日常の中、母国語で話し掛けられ嬉しかった事を思い出す。

「ジャンヌ、君の英語は俺のフランス語よりはるかに上手いよ。でも君が望むなら二人の会話はフランス語にしようか、僕もいい勉強になる」

 数ヶ月前まで、カールと交わしていた会話はドイツ語だった。だが今回の選択肢にその言語は含まれない。公園のあちこちで見掛ける軍服姿のアメリカ兵が、戦争が未だ終わってはいない事を物語っていた。

「いいのよ英語で。私もう少し上達しないと」

 カールは「ウィ(わかった)」と フランス語でからかうように相槌をうってみせる。笑い合い、緑豊かな公園の中を寄り添いながら家路に向かう。あの老婦人にもこんな時代があったのだろうか。年老いるまで添い遂げ、愛を貫き通した時、人は何を悟るのだろう。少女のようあどけなく微笑んだ、彼女の顔が脳裏をよぎった。

 肩にカールの腕が添えられる。手の平の温度がいつもより熱く感じ、不思議な気分で彼の横顔に視線を流す。カールは少し照れ臭そうな眼差しでこちらを見つめ返してきた。

「結婚して丁度一年前なんて君が言うから……驚いたよ」

「あら、ごめんなさいね」

 くすくすと、込み上げる笑いを噛み殺す。

「だってあの方、あなたと亡くなった旦那様がよく似ているって……私の事も、パリから遥々アメリカに嫁いできた花嫁だと思い込んでいるものだから、新婚の頃の自分と重なるっていつも嬉しそうに言うのよ。だから、今更夫婦じゃないなんて言い辛くて……ね」

「勘違いされたままでも、俺は全然構わないけれど」

 カールの真っ直ぐな眼差しに射抜かれ、返す言葉を見失う。

「……君を口説いている現場を見つかったら、ハイルマン大佐に大目玉を食らうな」

 カールは肩をすくめておどけてみせた。

「……そうよ。妊婦を口説くなんて、あなた余程変わった趣味をしているわ」

 大きな口を開けて、カールは可笑しそうに笑った。この人の優しさに甘えている。そんな自分は卑怯者だと思う。




 一あの嵐の日、雨足が止んだ明け方に山荘を抜け出すとティルはカールの自宅を訪ねた。ノックをする前に扉は音も立てずに開いた。夜も明けぬ早朝にも関わらず、カールは眠っていた様子も見せない。

「……ジャンヌが一緒とは驚いたな」

 カールは神妙な顔でティルを見つめた。

「君がこんな時間に俺を訪ねてくる程の用件だ。ただ事ではないと心得ている。だけどこの状況は予測もしてなかったね、一体どういう話かな?」

 居間と呼ぶにはあまりにも殺風景な部屋で、密談は始まった。

「コーネン所長へ用立てしている物資を見れば、カール、君が闇ルートに強力なパイプを持っているのは一目瞭然だ」

 それで? と言いたげな眼差しで、カールは煙草に火を移しながら話の先を促してくる。

「女一人、闇で他国に流すことなど君には容易い事だろう。手間を省く為に身分証は用意した。彼女を安全な場所に移して欲しい」

 カールは目を見開き言葉を失っている。けれどしばらくすると口の端を歪め薄く笑ってみせた。

「ジャンヌ……か、確かに彼女には男の理性をかき乱す妖しさがある。だが親衛隊の君とあろう者が随分と酔狂な…ソフィと婚約が決まったばかりだというのにもう愛人づくりとは、さすが抜け目のない男だ」

「姑息な輩だと笑われるのは覚悟の上だ。報酬は持ち運びの勝手がいいものを用意した」

 軍服の内ポケットから黒い布を取り出すと、ティルはパラリと開いてみせた。見事な小振りのダイヤが数粒、見せびらかすような光を放つ。

「……やめてティル……」

 唇が不甲斐なく震える。

「こんな場所でやっと再会出来たというのに……あなたの知らない所に行くのなんて……嫌。私あなたが守ってくれなくても、ちゃんとあの屋敷で上手く生き延びてみせるわ。戦争が終わるまで待っているから……迎えに来て頂戴」

「知り合いだったのか? だったら何故ジャンヌにあんな仕打ちを……守るため?……まさか、わざとあんな事を?」

 信じられないと小さく呟き、青ざめた顔色でカールは立ち尽くしている。

「俺はこれからベルリンに召集される。その先は最悪前線に送られるかもしれない。そこまでドイツの戦況は悪化しているようだ。あの忌まわしい行いを隠すために敗戦時ナチスはユダヤ人に何をするかわからない」

「どうしてジャンヌと一緒に逃げない」

 責め立てる口調で、カールはティルに問いただしてくる。

「脱走するのが彼女だけならば、コーネンは苦々しく思いながらも執拗に追いかけたりはしないだろう。だがソフィを裏切り親衛隊である俺が、ジャンヌと逃亡したとなれば話は違う。奴が見逃すと思うか? 特別な捜査網を張り巡らせ徹底して追いかけるはずだ。そんな茶番にジャンヌを巻き込みたくはない」

 私は死ぬことなど恐くはないのに、胸を締め付ける恐怖は永遠にあなたを失う事だ。耐えられない、ねぇ、それだけは耐えられない。

「親衛隊員には血液型の刺青が刻まれている。見つかれば逃れようのない証拠になる。……皮肉なものだ、優先的に救われる為に刻まれた印が、今は命を脅かす」

 ティルの言葉が遠くに聞えた。泳がせた視界に、軍服のボタンがひとつ千切れているのが入り込む。情事の痕跡をそこに見た気がして、身体の奥底でティルの体温が蘇る。そっと手を伸ばし、無くしたボタンの存在を指でなぞってみた。ほんのひと時の別れ道だ。そう自分に言い聞かせる。七年待った。いつか巡り会えると絡んだ運命を信じて。あと数年待つことなど大した回り道ではない。永遠に失う事を思えば……久しぶりにはめた指輪をそっと指先で撫でながら、息を吸い込む。

「私、カールと行くわ」

 そうきっぱりと言い放つと、しんとした沈黙が部屋を包んだ。

「居場所が落ち着いたら……そうね庭番のジョンに伝えておくわ。覚えている? 彼を」

 ティルは小さく頷いて真っ直ぐに私を見つめた。視線を絡め、私達は心の中でお互いの決意を確かめ合う。私はその視線を一度足元に落とすと、ティルの隣に立つカールに目を向ける。

「ね、カール。今日の私、いつもと違うって気付いている?」

「え……」

 おもむろに話の矛先を変えた私に、カールは戸惑いを隠せない様子で慌てている。私はくるりと踊るように柔らかな生地のスカートを翻してみせた。

「喪服みたいなメイド服は、もう懲り懲りだわ」





 戦争を始めるのはいつも男達だ。女は、子供を恋人を夫を父親を…奪われた悲しみに耐え忍ぶ。今、誰かの帰りを待つ女達が世界中にどれくらい溢れているのだろう。愛する人が家の扉を叩くその瞬間を、息を潜め待ちわびているに違いない。

 私の知らない東洋の小さな島で、まだ戦争は続いていると老婦人は言っていた。けれどもナチスは命尽き、ドイツの戦争は終ったのだ。ティルは私を見つけ出す事が出来るだろうか。庭番のジョンに手紙でニューヨークにいる事を伝えてある。誰かに私の居場所を尋ねられたら、答えるようにと頼んでおいた。

 南フランスの果樹園の屋敷では、父の後妻と弟が暮らしている。父が事故で他界した今となっては、二人は縁遠く、交流は途絶え何年も経ってしまった。嫌いじゃない。小さな弟は愛らしく思う。けれどもやはり、あそこはもう私の帰る家ではない。間もなく臨月を迎える身体はずっしりと重かった。

 窓辺の椅子に座り、銀のポットからお茶を注ぐ。窓の外にはビルの合間から覗くセントラルパークが見渡せた。マンハッタンの一等地で私はカールと暮らしている。一緒に住むことになるとは予想だにしていなかった。職場の持ち物で家族向けだが、丁度空きが出たのだとカールは言った。

 妊娠が発覚し、つわりで寝込んでいた私を一人には出来ないと、なかば強引に連れてこられた。無事引き渡すまでの報酬を、ハイルマン大佐から受け取ってしまったのだからと、カールはもっともらしい言い訳をしてみせた。

 広々としたダイニング、リビング、ベッドルームが三つ。アパートの入り口には制服に身を包んだ守衛がドアを開けてくれる。時折カールを送迎する車がアパートの外で待機している事がある。運転手付の黒塗りの車。その先端に小さな星条旗がなびいているのが見えた。国家機関に関わる仕事なのだと悟った。だけど私は何も尋ねない。そしてカールも多くを語らなかった。

 ドイツの敗戦を新聞よりも早く私に伝えたのは、カールだ。ティルの消息を掴む為に手を尽くすから、私一人で何処かへ探しに行ったりしないてくれと彼は言った。こんな大きなお腹で、私が他の国へ飛び出していくと思っているのだろうか。いや、そこに居るのだと知ってしまえば、やはり私は飛んでいってしまうに違いない。ティルに会う時に、もう子供は生まれているだろうか。突然、父親になる事実を、彼はどう受け止めるのだろう。

 チリリンと電話が鳴る。アパートの看守からだった。告げられた来客の名はカールの友人だった。カールの不在を告げると、届けものがあるようなのだが、ではここで預かっておきましょうかと尋ねてきた。私が受けとるから、看守に彼を通すようにと許可を与える。

「ここの看守はよく教育されているね。俺の顔は知っているくせに決して馴れ合いで通してくれたりはしない」

 スマートにスーツを着こなしたカールの友人が、苦笑いをしながら部屋に入ってきた。部屋の引っ越しをした時に手伝ってくれた、カールの職場の同僚だ。

「これを渡して欲しいんだ。頼まれていた探し物が見つかったと言ってくれればわかるから」

 黒い革の書類ケースから、彼は茶封筒を取り出した。

「ちゃんとあいつに手渡したいのだが、僕はこれから急遽イギリスに出張になってしまって、多分帰国するのは来週末になってしまいそうだから……」

「カールは仕事であなたと一緒ではないの?」

「今は同じ仕事ではないんだ。あいつは優秀だからね、エリートコース真っしぐらってやつでさ。僕なんて足元にも及ばないよ」

「あら、カールって私の前じゃふざけてばかりで、全然エリートになんて見えなかったわ。能ある鷹は爪を隠すのね」

 話を茶化し笑ってみせた。

「……そう、アイツはいつも隠し事ばかりだ」

 意味深な眼差しで彼はこちらにちらりと視線を流してみせた。

「おっと、留守の間にあなたに言い寄ったと、怒られてしまう。僕はそろそろ……」

「あ、今お茶を」

「いや、残念だけど急ぐから今日はこれで。そうそう、最近僕の妹も子供を産んでね、おてんばだった彼女がすっかり母親の顔をしている。女性はすごいね」

 優しく微笑む笑顔を見て、この人がカールの友人である訳を悟った気がした。帰り際、茶色い封筒を差し出される。話に夢中で肝心な物を渡しそびれるところだったと、彼は苦笑いをしながら去っていった。

 封筒の上から中身の形が伺える。長方形の……手帳のように感じた。興味本位に詮索するのは止めよう。普段は足を踏み入れないカールの書斎に入り、机の上に封筒を置く。

 チクリとお腹が痛んだ。と、同時に背筋に悪寒が走る。春が来たかと思えば、今日は急に寒さがぶり返していた。ニューヨークの春は不安定な気候だ。ティルの友人が訪ねてくる少し前、散歩がてらにセントラルパークに出向き、ベンチでひとり本を読んでいた。あの老婦人がいないと、すっかりと本だけに集中してしまい時間の感覚を忘れてしまう。向かいのベンチ越し、少し奥まったところにミモザの木が花をつけていた。枝をもたげるほどに黄色い花をつけ、際立った存在を匂わせている。ミモザの木が連なるあの懐かしい坂道は、今も変わらないのだろうか。そんな事をぼんやりと考えていたら、冷たい風が吹き始めたのだ。本を閉じ、いつもより早く切り上げ帰宅したつもりだったが、迂闊だったのかもしれない。妊婦は風邪薬など飲めない。自分一人の身体ではないのだ。もっと気を使わなくては。冷えた書斎から早々に退散する。居間で温かいお茶をもう一杯頂く事にしよう。

 カールが帰宅したのは夕方だ。近くのビストロに食事に行こうと誘われたが、少し風邪気味だからと断わった。

「身体が温まるようにってオニオンスープを作ったの、大した夕食じゃないけれどあなたも食べる?」

「調子が悪い時に、料理なんかしなくていいのに。そういう時は僕が作るよ。知ってるだろう?いい腕しているって」

「えぇ、あなたのパスタは最高だわ」

「昔、イタリア料理屋でアルバイトをしていた事があるんだ」

 自慢げに語るカールは、新しいおもちゃの自動車をお披露目する子供のようだ。はたから見れば私達は仲睦まじい夫婦に見えるのかもしれない。こんな風に恋人でもない男と暮らすのはやはりおかしな事だろう。誰も知らない国で、妊娠という状況に翻弄される中、カールは心のよりどころだった。いや、さりげなく一緒に暮らしながらも距離を保ち、彼が私の居心地の良い空間を作ってくれていたのだ。

 だけど私は……どうしてティルでなければ駄目なのだろう。こんなにも魅力溢れる男が傍らにいながらも、心が決して奪われないのはどうしてなのだろう。ねぇ、早く迎えに来て。私はカールを傷付けてしまう。

“アイツはいつも隠し事ばかりだ”

 カールの友人の台詞が頭をよぎった。

「あぁ、ごめんなさい。すぐに言うのを忘れていたわ。あなたに渡して欲しいって届いたものがあるの」

「俺に?」

「ほら、引越しの日に手伝ってくれた……」

 その名を告げると、カールは怪訝そうな顔をした。

「あなたに頼まれていたものだって言ってた。彼、急な出張で留守にするから取り急ぎ届けてくれたみたい。書斎の机の上に置いておいたわ」

 はっとした顔でカールはスーツの上着を脱ぐ手を止めると、私から視線をそらした。

「ちょっと、見てくる」

 ぱさりと、リビングの椅子に上着を掛け、カールは部屋を出て行った。すぐに戻ってくるかと、スープを温めていたが、煮詰まってしまうほどの時間が経ってしまい一度鍋を火からおろした。どうしたのだろう。よっぽど大切な内容だったのだろうか。

 大きな窓硝子に歩み寄り、外を伺う。セントラルパークは闇に包まれ、ビルの間に漂う大きな湖のように見えた。今、ティルは何処にいるのだろう。彼のそばにある窓の外には、どんな風景が広がっているのだろう。

 窓硝子が暗い鏡のように私の姿を映し出す。目を凝らすと背後に立つカールが浮かび上がって見えた。いつの間に……全然気が付かなかった。きっと私を驚かすつもりなんだわ。かくれんぼの鬼が足跡を忍ばせ近づいてくる。知らんぷりを装う事が愉快に感じた。一歩先回りをしているのだという子供じみた優越感。前にも同じ手口で驚かされた事がある。その時は全然後ろに忍び寄ったカールに気付かなくって、不意打ちにほっぺたをつねられ大声を上げてしまったのだ。懲りない人。あの時こっぴどく叱りつけたら「ごめんなさいママ」とカールは大袈裟にうな垂れてみせた。

 カールは私を笑わせたり驚かせたり、退屈を吹き飛ばす才能を持っている。私は瞼を閉じた。カールが触れるより先に振り返り驚かせてやろうとタイミングを見計らう。だけど背後から伸びてきたのはいつもの指先ではなかった。振り向くより早く、私の身体を包み込む彼の腕に絡めとられていた。

「どうしたの?カール」

 平静を取り繕い薄く目を開く。背後から私の肩に顎を乗せ、うつ向く顔から表情は読み取れなかった。決して踏み込んでこなかった二人の隙間。彼の背を押したものは何?

「……ジャンヌ……」

 小さくその名を囁かれる。愛している、振り向いてほしい、言葉にしなくてもそんな想いが彼の震える吐息に溢れている。この一歩が二人の関係を崩すものだとカールは悟っているはずだ。何故今なのだろう。帰宅した時にはいつものカールだった。私がスープを温めている間に、彼に何があったというのか。

「君……熱がないか?」

「あら、じゃあそれはきっとあなたのせいね。ハンサムなアメリカ人に迫られたらパリジェンヌも形無しだわ」

「……ごめん」

 カールははっとしたように、いつもの距離まで身体を引いた。

「カール……」

 彼の頬に手を添える。叱られてうつ向く子供に手を差し伸べる。

「あなたは魅力的だから、女なら皆あなたに愛されたいと願うわ。本当よ」

「君以外は、ね」

 拗ねた目で睨まれる。その仕草にはいつもの愛嬌が含まれていて、少しだけ救われた気分にさせられる。

「甘えんぼさんは、泥だらけかしら」

 え? と目を丸くしカールがきょとんとした顔をした。

「あなた汗臭いわ。まさかスーツで一日走り回っていたんじゃないでしょうね」

「まさか」

 クンクンとシャツの袖に鼻先を当てて、カールは慌てている。

「妊婦は匂いに敏感なの。スープを温め直す間にシャワーを浴びてきて」

 カールは素直にバスルームに消えていった。水音が響くのを確かめると、私はそっと廊下に出て書斎の扉を開く。汗臭いなどとは言い掛かりだ。封筒の中身を確かめる時間を作る為の嘘だった。ごめんなさい、カール。だけど確かめずにはいられない。私とカールの隙間にはティルがいる。その境界線が崩れた訳がそこにある気がした。

 机の上に置かれた封筒の中身は空になっていた。連なった引き出しを上から順番に探っていく。整えられた書類の隙間に、黒い手帳が不自然に挟みこまれていた。形、大きさ、厚み……これだと直感した。カールの物ではない、その表面は随分と薄汚れていた。

 ぞくぞくとした悪寒が足元から這い上がってくる。きゅっとした痛みが二、三度、腹部を締め付ける。口をすぼめ、短い息継ぎを繰り返しながら片手でお腹を擦り、震える手で表紙をめくった。最初の頁はオランダ語らしい単語が綴られていた。途中から記述は英語に変わっていた。日付の後に幾つかの名前が連なっている。五月七日ドイツ降伏の日からそれは始まっていた。『ナチス狩りリスト』、そうタイトルがつけられていた。

 ぱらりと震える手で頁をめくと、紙に飛び散った小さな染みを見つける。その赤黒いものが血であるなどと、繋ぎ合わせようとする思考を振り払う。

 五月十日……銃殺、ティル・ハイルマン大佐。四つ並んだドイツ兵の名の中に、その綴りを見つける。ティル・ハイルマン……。あのティルであるはずがない。同姓同名の別人だ。ティル・ハイルマン大佐、階級まで同じティル・ハイルマン。

 ポーランドの収容所へ向かう列車に乗り込む時、大声を張り上げ、叫びはじめた老人に、ドイツ兵が銃口を向けた瞬間を見たことがある。乾いた銃声。崩れ落ちた身体。こめかみから吹き出した血が兵士の頬にまで飛び散っていた。

 五月十日……銃殺、ティル・ハイルマン大佐。身体中が凍り付いた。込み上げる嗚咽を塞ごうと、両手で強く唇を覆う。

 嘘だ、嘘だ、嘘だ。ティルは私を置いていったりはしない。私が潮風と共に扉を開くのを、今でもあのボート小屋で待っているに違いない。すぐに行くわ。あなたに会うために。けれども唐突に下腹部を貫いた鈍いの痛みに、視界がぐらりと歪んだ。

「うっ……」

 自分のものと思えないくぐもった呻き声が、繰り返し部屋の中に響く。赤ちゃん……赤ちゃん。ティルと私が愛し合った証。

 嵐の中、繰り返し彼の背中に腕を回した感触が蘇る。ティルという毛布に包まれ、汗ばむほどに体温は熱を帯びた。溶けてしまう。満たされた幸福感に身体中をかき回され愛する人に抱かれる悦びを噛み締めた。あれは幻だったのだろうか。もっと欲しいと強く抱き返したら、砂のごとくこの手からすり抜ける。

 痛い、痛い、痛い。身体を引き裂くような激痛に膝から崩れ落ちる。ひんやりとした床に頬が触れた時、ドアを開く振動が伝わってきた。私の名を叫ぶカールの声……。

 何度も何度も呼びかけられるその声が、濁った闇の中でこだまして聞えた。


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