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移動遊園地(ティル)

 コーネンの書斎を出た後、真っ直ぐに部屋に戻り軍服を脱ぎ捨てる。ガウンを羽織り、グラスにウィスキーを注いだ。一体、あの二人はコーネンの書斎で何をしていた? カールがジャンヌを売春宿の女達と、同じ扱いをするはずもない。コーネンには愉快な話だったかもしれないが、疑いの目を持って見れば、不自然極まりない状況だった。カールの機転でジョークに話が転ばなければ、行く末には銃殺もありえたのだ。あの身のこなし……ただ者ではないと感じてはいたが、やはりそれなりの訓練を受けた工作員という事か。ソビエトか、イギリスか、アメリカか、どこの回し者だ?

 いや、そんな事はどうでもいい。ジャンヌを巻き込む事だけは見逃せない。ただでさえ、ユダヤ人のレッテルを貼られ、明日の命さえ保証されない状況だというのに。手のひらに染み付いている。ジャンヌの頬を弾いた感触が。白い肌が見る間に赤く染まっていく様子が脳裏に焼き付いていた。

 パリンッ! 握りしめていたグラスが手の中で音をたてて砕ける。

「……っ」

 グラスの破片が手のひらを突き刺さす痛みなど、胸をえぐるこの葛藤に比べれば他愛ない事。

“ジャンヌはハイルマン大佐のお抱えでしたね”

 そんな甘い認識は徹底して覆さなくてはいけない。だから手をあげたのだ。指先で触れるだけでも愛しさに震えるであろう、彼女の頬を殴り飛ばした。

 コンコンっ。ドアを叩く音で我に返る。もしかしたらジャンヌが仕事を片付けに来たのかもしれない。いや、そう装って、あの頃のようにお休みのキスをねだりにきたのかも。

 ジャンヌ……ジャンヌ……。

 様々な感情が絡みあい、思考が混乱する。抱き締めてひざまづき、君に許しを乞おう。扉の向こうに立つのがもし君ならば、追われるのを覚悟で地の果てまで逃げてもいい。高揚した気分でドアノブに手を伸ばす。茶番は終わりだ。この手にかき抱き、離しはしない。もう二度と……永遠に二人きりだ。

 ガチャッ。だが、目の前に立っていたのは、ソフィだった。華奢な肩紐で吊ったワインレッドのドレス。指先には紫煙を漂わせる細巻きの煙草。夢物語から現実に引き戻される。

「……眠れなくて……」

 ソフィはバツが悪そうに笑ってみせたが、俺の手元に視線を流すとその笑顔はかき消えた。

「ティル、怪我をしてるわ!どうしたのっ」

「あぁ、グラスを割ってしまって」

 大した事はないさと、心の動揺を押し隠し、努めて素っ気なく言い放つ。

「大丈夫なんかじゃないわ。待っていて」

 ソフィは神妙な顔で踵を返すと、直ぐに薬箱を手に戻ってきた。椅子に座り彼女より治療を受ける。ソフィはまるで自分が傷付いたような痛々しい面持ちで、包帯を巻く。

「こんな時間に面倒をかけて、すまない」

 ソフィは俺の言葉に弾けるよう顔を上げ、ふるふると力なく首を横に振ってみせた。

「押し掛けたのは私よ」

「あぁ……何か話でも?」

「こんな怪我をした時でも、あなたって冷静なのね」

 机の上に広げた薬類を片付けながら、ソフィは苦笑いを溢している。

「ねぇ……あの子の事、愛してるの?」

「あの子?」

「バイオリニストのあの子……よ」

 ドクンっと胸が跳ね上がる。

「何を突然」

「だって、ぶったあなたが傷付いたように見えたから」

「俺が?」

 冗談じゃないといった仕草で、ソフィを見詰める。だが躊躇することなく真っ直ぐに、ソフィは視線を返してきた。

「君には、俺の気持ちなど理解できないだろうな」

 あえて突き放すように、わざとそっけなく言い放つ。心外だといった表情で、ソフィの顔が一瞬にして曇る様が見て取れた。

「俺が大学に行く年まで、親父は小さいながらも親族で営む製紙会社の社長をしていてね、事業は程々うまくいっていた。だが不意打ちの不渡を掴まされるハメなって……呆気なく会社は潰れてしまった。

無責任な事に親父は借金を抱えたまま自殺。会社に関わっていた親族は皆、自分の持ち分の借金を清算するために出稼ぎに出たんだ。ベルリンはまだ失業者も多く職はなかなか見つからないかった……」

 唐突に身の上話を始めた俺に、ソフィはじっと耳を傾けている。

「家庭教師くらいは経験があったが、本当の意味で働くのなんて初めてだった。大学を中退し突然の環境に納得がいかなくて、どうして自分がこんな惨めな生活をと、悪夢のように感じていた」

 ソフィはそっと手を伸ばすと、包帯が巻かれた俺の手を癒すように撫でてくる。

「葡萄畑で土にまみれながら、貧富の差という屈辱をこの身をもって味わったんだ。戦争が始まり軍人という職業で、やっと自分の歪んだ人生を修復できた。忘れたかに錯覚していた、そんな惨めな時代があった事を……けれどもあのユダヤ女と再会して、全く自分の中でそれが整理なんて出来ていないことに気付かされた。刻み込まれた過去の自分を葬り去ろうと、彼女を…ジャンヌをメイドになどにしてみたが、こき使われる彼女があの頃の自分と重なって、嫌悪感すら抱くことさえある。けれども同時に今の己の優位な立場を噛み締めてもいる。……いや、こんな歪んだ感情はソフィー、君には理解し難いはずだ」

 ソフィーは立ち上がると、そっとその胸に俺の頭を引き寄せた。お涙頂戴の同情を得るほどに悲惨な人生だろうか。だが真実だった。ただひとつ、ジャンヌに心奪われてしまった自分を隠している事を除けば。

「ごめんなさい、辛い話をさせて……私が馬鹿だったわ。ティル、許して頂戴」

 その行為に便乗し、俺は彼女の身体にもたれかかる。もう二度とジャンヌを愛しているのではないかなどと、ソフィーに疑問を抱かせてはいけない。女の嫉妬は、思いがけない結果を招くものだ。今の状況、それはジャンヌの死さえ現実にさせる。ジャンヌの為になら、俺は悪魔にでも魂を委ねよう。

「ソフィー、君といると安らぐ気がするのはどうしてだろう」

 俺に気があるのはわかっていた。それを逆手に取り、罠を仕掛ける。本当に? そう言いたげな眼差しが目の前で問い掛けてくる。

「いつも冷静を取り繕い誰も信じられない。そんな俺が、君といると寛げるだなんて。いや、酔っているんだ。君が優しいから、調子に乗ってしまっている」

 そっと離れようとしたその時だった。延びてきた指先に腕を掴まれる。

「私もよ、ティル。あなたの事すごく気になって。だからあの子の事を引き合いに試すような事を……嫌だわ。いいのよ、あの子を利用する事であなたが救われるなら。殴ったりするのは…仕方ないわ。だって彼女はユダヤ人だもの」

 ユダヤ人……ドイツ人の多くが錯覚している。善良な一市民のソフィーでさえ、ヒットラーに吹き込まれた妄想に洗脳されているのだ。戦争による様々な負担を国民に強いる時、溢れるであろう不満をナチスに向けさせない為のはけ口を作ってやっただけの事。ユダヤ人という蔑む対象がいるというだけで、人は己よりまだ救われない人間ががいるのだと安堵感を覚える。

 何という浅ましさ。だが、この収容所で行われている地獄は想像を絶する。ヒットラーの底知れぬ狂気が渦巻いていた。ソフィーになど想像もつかないであろう、すっかりと見慣れた収容所の煙突。列車から降り立ち、収容所に吸い込まれていく人々の、あれが唯一の出口だなんて。

「ティル、ねぇ私を見て」

 唐突にソフィーに口付けられる。

「欲しいものは手に入れる主義なの。全然慎ましい女なんかじゃなくってよ」

 甘い吐息を吹き掛けながら、彼女は耳元で囁きかけてくる。

「……俺もだ」

 ソフィーのドレスの肩紐に手をかける。するりと薄布が足元に滑り落ち、白い裸体がさらけ出された。悪くない。誘うようなキスを返す。その世界に引きずり込む、淫靡な香りが漂う深い口付け。ソフィーは戸惑うことなく、俺のガウンの襟に手をかけてきた。絡み合うようにベッドにもつれ込む。ソフィーの柔らかい身体を押し潰しながら自分に問い掛ける。

 この女とジャンヌのどこが違うというのだろう? …何もかもだ。俺にとって女はジャンヌかそれ以外、そのたった二種類しかないのだから。




「初めてよ。だけど優しくなんてしてくれなくていいわ」

 ジャンヌは全く予測できない台詞で俺の思考回路を混乱させる。真夜中に男の部屋に忍び込んできた、この世間知らずなお嬢ちゃんを、脅すつもりで凄んでみせたというのに。思いもかけない返答に、こちらが狼狽させられるだなんて。

 男を知らない少女の無防備さ……いや、ジャンヌは知り尽くしている、欲するものが何であるかを。こんな事が目的で、俺の借金の肩代わりをしたのかと問うと、涼しい顔でそうだと素直に認めてみせた。

「そんな事を……」

 返す言葉を見失う。頬に触れるジャンヌの手のひらへ、すがるよう指を伸ばす。なぜ俺を? 何もかもが華奢な体……確かめるようそっと指でなぞってみた。まだ男を知らない肌が、指に吸い付いてくる。その感触にじわじわと理性が剥ぎ取られていく。誘うような艶を瞳に浮かばせ、ジャンヌが下からこちらを見上げてくる。

 あぁ、この瞳だ。これから十五歳になろうという少女を、年不相応に塗り替えてしまう妖しい光を帯びている。そしてジャンヌは、おやつをねだる子供のように、ちろりと紅い舌さえ覗かせてみせるのだ。このまま流されて抱いてしまえばいい。欲望が満ちていくのを感じながら、指先がジャンヌの唇にへとたどり着いた時だった。

 さっきよりもいっそう明るさを増した月明かりが窓から差しみ、ジャンヌの身体のラインを柔らかく浮かび上がらせる。俺の腕の中で横たわる身体が、自分のひと回りも……いや、ふた回りも小さいのだと改めて気付かされた。

「……出来ない」

 寝る相手に困った事などない。恋人でも行きずりでも、だ。だが、いま腕の中に佇む女の抱き方を俺は知らない。

「こんな華奢な身体で……まだ無理だ。壊してしまいそうで……俺には出来ない」

 無様な男だと笑われても仕方がない。けれども許しを乞う罪人のように、うな垂れるしかなかった。

「いいのよ」

 転んだ子供をいたわるような優しい声色でジャンヌは言った。救われた気持でおずおずと顔を上げる。慎み深いクリスチャンなのだからと語るジャンヌは、おどけた仕草さえ見せていた。全てはちょっと度の過ぎた冗談なのだと、そう彼女が口にするのをじっと待ちわびる。だが、ジャンヌは静かに瞼を伏せてみせたのだ。痛いほどに真っ直ぐな眼差しから解放はされたものの、ペーパームーンのように、柔らかな曲線を描く睫毛に視線は奪われたまま。

 そして彼女が最後に求めてきたもの、それはお休みのキスだった。お望みのまま、おでこにそっと触れるだけの口付けを落す。けれども、ジャンヌは瞳を開こうとはしない。子供だましなどでは誤魔化されないのだと、無言の抗議が空気を震わせる。

 これ以上、あがらうことなど許されない。彼女は雇い主なのだから。そう言い訳をしてみれば、強ばった身体から力が抜け落ちるのを感じた。ジャンヌに覆い被さりお休みのキスを捧げる。ほんの一瞬のつもりが……溶け合うような唇の感触に、すっかりと理性を失っていた。二人の隙間から洩れる溜め息が絡み合い、熱を帯びた空気がベッドの上を漂う。ジャンヌから分け与えられるわずかな空気で、この瞬間を生きながらえる喜び。もうこれ以上触れ合っていたら、我を失いジャンヌの身体を引き裂いてしまう。合わさった身体を離す時に、目に見えない金色の糸が淫らに引くのさえ感じた。

「部屋に戻るんだ……ジャンヌ」

 身体の奥からくすぶる熱に堪えながら、やっとの思いでそう呟く。

「また明日来るわ」

 悪びれもせず、ジャンヌは微笑んでみせた。かつて味わった事ない罰を下された絶望感。

“私達、元々はひとつだったの”

 バイオリンのレッスンからの帰り道、ジャンヌが口にした言葉が頭をよぎる。その意味の奥深さをこんな形で思い知らされるとは。再び巡り来る官能のひと時を、待ち望む自分を誤魔化す事など出来ない。甘美な首輪に繋がれてしまった。手綱の先を握るのは、言うまでもなくこの少女。

 ジャンヌ……ジャンヌ……。




 コーヒーの香りが漂う。カチカチと食器の音を響かせ、ジャンヌが朝食の皿を窓際のテーブルに並べている。いつか眠っている振りをしながら、その一連の作業を盗み見ていたことがあるが、ちらりとも彼女はベッドに視線を流したりはしなかった。俺が起きている気配を感じれば、振り返り挨拶の為に頭を下げるが、そうでなければ一心に仕事をこなすメイド役を演じている。

「……ねぇ、私はカフェオレがいいわ」

 背中から、細い腕が甘えるように抱きついてくる。昨夜、そのままソフィーがこのベッドで眠っていた事をすっかりと忘れていた。

 ガチャンッ! 注文を申し付ける予期せぬ声色に驚いたのか、ジャンヌが手元を狂わせ食器の音を立てた。ゆっくりとジャンヌがこちらを振り返る。その頬が赤く腫れているのを目にし、ズキリとした痛みが胸を貫く。

「あと、クロワッサンを二つ頂戴。何だか今朝はお腹がすいちゃったわ……あなたのせいよティル」

 からかうような声色でソフィーは腕を絡めてくる。

「それから、私の部屋からガウンを持ってきてくれない?昨夜の服じゃ皺くちゃだわ」

 枕に頬杖をつき、ソフィーは惜しげも無く一糸纏わぬ素肌をさらしている。まるで昨夜の情事の痕跡を、ジャンヌに見せ付けるかのように。ジャンヌは顔色ひとつ変えずに淡々と仕事をこなしてみせた。ソフィのシルクのガウンなど、丁重に肩から羽織らせてさえしてくれる。その物腰に安堵しながらも、何故そんなに冷静なのかと、問いただしたい衝動に襲われる。俺と同じように仮面をかぶっているのか、どうでもよい他人事だと感じているのか。

「ねぇティル、昨夜の話、本気にしてもいいのかしら」

 ジャンヌが引く椅子に腰掛けながら、確かめるような口調でソフィが尋ねてくる。

「叔父様に私達の事……言ってもいいのよね?」

「勿論だ」

 どうせバレる。それに、よりコーネンの懐に近づく立場が必要なのだ。

「叔父様ってあたしの事となると自分の娘のように大袈裟なのよ。婚約しろとか騒ぎ出すわ…きっと」

「……じゃあ、そうしようか」

 その台詞に、ソフィは驚いたよう目を丸くしてみせた。すぐ隣に立つジャンヌが、銀のポットから俺のカップにコーヒーを注ぐ。手元を震わせる事もなく、湯気をたてて弧を描き、コーヒーはカップに流れついた。ジャンヌの手にとまる蝶の痣を眺めながら、こんな現実は夢ではないのかと叫び出したくなる。だがその慟哭を喉元で押し殺し、平静を装い話を続けた。

「……もちろんソフィ、君さえ良ければの話だが」

 テーブルの向こうから、ソフィは満足げに微笑みかけてくる。

「ティル、ここの仕事が終わったらベルリンに戻るのかしら?」

「多分、戦局によっては配属が変わるかもしれない」

「じゃあ、確実に一緒にいられる今のうちに、お披露目のパーティを開きましょうよ。ほんの小さなパーティでいいわ。そうだわ、ここから一時間ほどのところに、前に叔父様が連れて行ってくれた山荘があるの。軍の幹部だけが使える素晴らしく見晴らしがいい山荘なの。パーティはそこでやりましょうよ」

 俺の気が変わるとでも疑っているのか、随分と性急に話を薦めてくる。いや、それでいい。もうここに居られる時間はわずしかないのだ。俺がいる間に、ジャンヌの身の安全を確保しなくてはならない。その為になら、どんな芝居でも打ってみせよう。

「ジャンヌ、婚約に相応しい曲を知っているか?」

 給士をする為に、後ろに控えたジャンヌに振り返らずに声をかける。

「パーティで一曲弾いてくれ。幸福の門出に相応しい曲を」

“私達、元々はひとつだったの”

 あの時と同じ気持ちを欠片でもジャンヌが抱いていたら…今俺がしている仕打ちはどんなに罪深い事か。だが、見てみろソフィの安堵した顔を。やはり心の奥底では、どこか拭えない疑心がこびりついていたに違いない。婚約の日にジャンヌにバイオリンを弾かせるという俺の提案は、その疑心を振り払う決定的な証拠になったようだ。今や憐れみさえ、ジャンヌを見詰める瞳には漂っている。愛されているという確信は、慈悲深ささえ生み出す源となるのか。

 俺の本心を知ったら、ソフィは傷付くだろう。だが、その傷を癒す男に彼女なら、やがて巡り合うに違いない。だがジャンヌは……この先の人生の保証すらないのだ。こんなやり方は、ジャンヌもソフィも深く傷つけてしまうとわかっている。だが手段など選ぶ余裕など、あるはずもないのだ。

 ジャンヌ、いつか君に償うから。あの頃のように君に繋がれ、気紛れな杖に振り回されてもいい……だから。

「“愛の挨拶”なんて素敵だと思いますわ」

 背後から響いた声が、誰のものかすぐには理解できなかった。再会して初めてジャンヌが意味のある会話を俺に投げかけてくる。

「あら、素敵な曲名ね。どんな旋律かしら」

 ソフィが興味深そうに、ジャンヌに問い掛ける。

「愛妻家で知られる作曲家、エドワード・エルガーが妻に捧げた曲なんです。お祝いの席に相応しい、美しく輝くような旋律ですわ」

 その場面を思い描いたのか、ソフィは遠い眼差しで小さな幸福の溜め息を洩らす。

 振り返り、ジャンヌの表情を確かめずにはいられなかった。彼女は……微笑んでいた。頭を垂れ視線をはぐらかすいつもの姿はそこにはない。真っ直ぐにこちらを見据え、友人の幸せを願うような眼差しで微笑を携え立っていた。眩しいものを見た時のよう、目を細め息をのむ。

“私達、元々はひとつだったの”

 本当にジャンヌは忘れてしまったのかもしれない。あの日々を胸に抱き、愛しさに切なさを噛み締めているは、俺だけなのかもしれない。




「九時になったら戻るわ。それまであなたも好きにしていていいわよ」

 広場は様々な出し物で賑わっていた。臨時に設置されたスクリーンに映し出される映画。ミニチュアながらも線路が広場に一周設置され、子供達が小さな蒸気機関車に群がっている。電飾で彩られた小さなメリーゴーランド、様々な出店、町の皆が着飾って楽しいひと時を過ごす移動遊園地の夜。

 ジャンヌは白地に黄色い小花模様のワンピースを着ていた。半袖の袖口からは凝ったレースが覗き、俺が開いた車のドアから蝶のようにふわりと舞い降りる。

「ジャンヌ!」

 親しげに彼女の名を呼びながら、待ち伏せをしていたかのように見覚えのある顔が近づいてくる。自転車に乗った、ジャンヌの同級生だ。

「あなたここまで自転車で来たの? 随分と遠かったでしょう」

 ジャンヌが呆れた声色でからかってみせた。

「一時間くらいだよ。海沿いを真っ直ぐに走ると気持いいんだぜ」

 ちらりと奴は俺に視線を流す。邪魔者だと言いたげな眼差し。この男の誘いを、結局ジャンヌは受けたのだと今更に気付かされる。そしてデートの場所まで俺は、ジャンヌを運ぶ役を仰せつかったという訳だ。

 行くなと、腕をつかみたい衝動をじっと押し殺す。いや、彼女には遊園地なんかで年相応の男と遊んでみる経験が必要ではないのか。毎夜、キスをねだりに異国の男の部屋に忍び込むなんて……どうかしている。その異常な状況に、すっかりと囚われてしまった俺は一体何なのか。

「あっちに観覧車があるんだ、行こう」

 奴の指が、ジャンヌの手を取る。ちらりとジャンヌは俺を振り返った。だがそれに気付かない振りをして、車に向かう。二人の後姿を、眺めている事に堪えられない自分がいた。

 昼間の農作業の疲れが、車のシートにもたれているとじわじわと身体を這い上がってくる。馬鹿だ俺は。ジャンヌが指定したこの場所に辿り着いたとき、何故か二人の為にここに来たのだと思い込んでしまった。ジャンヌを連れて歩くのは自分なのだと疑ってもみなかった。浮き立つ気分を悟られまいと、わざと憮然と振舞ってさえみせた。 馬鹿だ俺は。大馬鹿者だ。車のシートに深く座り、目を閉じ現実から逃避する。

 どのくらい眠ってしまったのか……ぼやける視界にキラキラときらめく電飾の明かりが映りこんでくる。その輝きを引き立てる夜の闇が、すっかりと経過した時間を物語っていた。時計に目をやると、もう九時を少し回っている。

 ジャンヌはどこだ?車を降り広場に足を踏み入れる。楽しい夜に時間の経過など忘れているだけだなんてわかってる。広場を走る蒸気機関車は、子供達がそろそろお休みの時間のせいか、すっかりと人気がまばらになっていた。九時も過ぎれば大人の時間だ。一番の賑わいは野外映画だった。暗がりで恋人達が寄り添い、甘いラブロマンスを眺めている。

 ジャンヌはどこだ? 映写機が置かれたテントの裏に雑木林があった。その木の影から、白地のスカートがなびいているのが見えた。あれはジャンヌの……?

 木に重なり彼女の存在を伝えるのは、スカートの裾だけ。だが、その向かいに覆い被さる男の姿があった。状況を考えれば、キスのひとつでも味わっているという事か。

 馬鹿だ俺は。ジャンヌの唇に触れる特権をもっているのは、自分だけだと自惚れていただなんて。静かにこの場を立ち去り、身の程をわきまえ、主人の帰りを車の中で待てばいい。そう自分に言い聞かせ、目をそらそうとした時だった。男の手が、スカートの裾に躊躇無く伸びていくのが見えた。

「……っおい!!!」

 気付いた時には走り寄り、男の胸ぐらを掴もうとしていた。

「きゃっ」

 驚いた女の声色に我に返る。……ジャンヌじゃない。カップルは、唖然とした顔で乱入してきた俺を眺めている。

「失礼……人違いだった」

ふざけるなと、舌打ちする男の怒鳴り声。

「すまない」

 頭を下げその場を後にする。どくんどくんと脈打つ鼓動が全身を包む。一体、何をやっているのだ。羞恥心で顔が熱くなるのがわかった。ジャンヌの事となると、どうしてこんなにも冷静でいられない。苦笑いが零れる。こんなにも心奪われるだなんて。

 屋台に群がる人のざわめきが聞こえる。

「ほらほら、こっちのお兄ちゃんは有り金全部はたいて何度も挑戦しているんだ。狙いの品は最大の難関、ダイヤの指輪だよ!正真正銘ピカピカのダイヤモンドだ」

 バキュンと空気を震わせる発砲音のあと、人々がはやし立て騒いでいる。射的場だった。様々な品が並べられ、おもちゃの空気銃で商品を撃ち落す。人の輪の中心は……ジャンヌとあの男だった。

「ぼうず、もっと大きい品物を狙いなよ。ダイヤの指輪なんざ十年早いんだよ」

「うるせえなっ、最後の一発なんだ、気が散るんだよおっさん!黙って見てろよ」

 どっと、笑い声が響く。ジャンヌはカウンターに肩肘をついて可笑しそうにその様子を眺めている。手前の棚ほど当たりやすいキャラメルの箱などが並び、遠くになるほどに品物は小さく撃ち落しにくくなっている。そして客引きの目玉なのだろう、ダイヤのリングが棚の一番上に、剥き身のまま小さな台座に置かれていた。こんなおもちゃの銃であれを撃ち落すなど、素人には針の穴に弾を通すようなものだ。

 バキュン! ダイヤの指輪はピクリとも動かない。再び人々の落胆した声が響き渡る。

 指輪……指輪……。ダイヤだなんて嘘に決まっている。程度のいい硝子玉だなんてわかっているというのに。

「オヤジ、弾をくれ」

 小銭をポケットから取り出しカウンターに置くと、うな垂れた男から銃をもぎ取った。

「あんた……」

「子供には銃より自転車の方が似合ってるぞ」

 カチンとした顔で奴は俺を睨みつけてくる。ジャンヌは変わらぬ仕草でカウンターに肩肘をついて、男同士の小競り合いを笑いを噛み殺し眺めている。

 バキュン! 弾は弧を描いて飛んでいった。

「全然、駄目じゃん。俺より的が外れているぜ」

 隣で奴が、安堵したように、にやりと口の端を上げてみせる。

「随分と、酷い銃だな」

「負け惜しみはいい大人がみっともないよ」

「そうだな」

 突然乱入した俺に、人々の好奇の目が絡みつく。小さく息を吐き気持を集中させると、人々の喧騒が引潮のようにさらわれて、無音の世界に放り込まれる。軽い銃声と共に、弾が飛んでいくのが見えた。細工がしてあるのだろう、真っ直ぐに飛ばずに僅かに弧を描いて小さな的に向かっていく。

 弾道は先程見極めたつもりだ。小さな光が弾け飛ぶのが見えた。どっと沸きあがる歓声、ジャンヌが両手を合わせ手を叩く仕草が見えた。

 ……やっぱり安物だ。入れ物を見れば中身の価値など大体わかる。ダイヤの指輪はそんな箱に入れられ手渡された。

「アンタすごいよ、たった二発で撃ち落すなんてさ」

 さっきまでの忌々しい視線はどこへやら、ジャンヌのボーイフレンドは羨望の眼差しで俺の後をついてくる。

「車で送って欲しいのか?自転車は積めないぞ」

 はっとした顔で奴は立ち止まった。

「ジャンヌをここまで送っただけだ」

「お休み、ダニエル。ダイヤの指輪残念だったわね」

「来年は撃ち落してみせるさ」

 屈託無く笑う顔はやはり年相応の少年のものだった。踵を返し自転車に向かう後姿を眺めながら、こんな子供と張り合ってしまった自分を恥じる気持が湧いてくる。

 車に戻りエンジンをかける。心の中ではいつこれをジャンヌに渡そうかと思いを巡らせていた。……こんな安物を彼女に? すぐに渡せばよかったのだ。キャラメルを手に入れた調子で気軽に、だ。改まって渡すにはあまりにもお粗末な代物に思えた。けれども、こんなものを俺が持っていても仕方がないではないか。

 運転席から車を降り、後部座席のドアを開く。ジャンヌがきょとんとした仕草でこちらに首を傾ける。一度も腰を降ろした事のないその座席に忍び込み、ジャンヌの隣に座ってみる。

「……君に」

 重みのない安っぽい箱を、彼女の前に差し出す。

「あら、ベルリンの恋人にあげなくてもいいの?」

「……いいんだ」

 ジャンヌは黙って箱を受け取り、蓋を開けた。広場から漏れてくる電飾の灯りが、小さな硝子玉をキラキラと輝かせてくれる。

「ねぇ、はめて頂戴」

 え? と驚く俺に彼女はくすりと笑って見せた。

「ほら、あの映画みたいによ」

 野外のスクリーンはラストシーンを映し出していた。ヒロインがウェディングドレスを纏い、牧師の前で永遠の愛を誓っている。ジャンヌの指を取りそっと指輪を滑り込ませる。まだ華奢すぎるその指には、サイズが全然合わなかったようだ。映画のように完璧に事は運ばない。落胆した気分に襲われる。

「大事にするわ。死ぬまで……一生よ」

思いもかけない言葉に、どくりと胸が跳ね上がる。大袈裟な……と笑って誤魔化そうとしたが、ジャンヌの瞳の端にふくらむ涙の粒を目にした途端そんな思惑はかき消された。彼女はゆっくりと瞼を閉じた。はらりと彼女の顔に落ちた前髪を、花嫁のベールを上げる気分でそっと摘み上げる。

 いつか本当のダイヤモンドを君に……せめて、この夜を特別に仕立て上げる口付けを捧げよう。何度も唇を押し付ける。優しく激しく。体温にゆっくりと溶けるショコラのように、ジャンヌの唇は柔らかく形を変え甘い匂いを漂わせる。このまま食べ尽くしてしまいたい。

「ねぇ……」

 耳朶に唇が触れる距離でジャンヌが囁いてくる。

「もっと早く迎えに来るかと思っていたのに、あなたって強情なのね」

 試されていたのだと悟った。どのくらいで痺れを切らした俺が追いかけてくるのかと、ジャンヌが仕掛けたゲームだったとは。眠りこけて正解だったのだ。この小さな悪女もそこまでは読めなかったというわけだ。少しはこの我侭なお嬢さんに、世の中は思う通りには運ばないと教えてやるのも悪くない。実は眠ってしまったなどと、決して口にするものか。

 ジャンヌがそっと指輪に口付ける。そして甘えるようその指を俺に差し出してきた。お望みのままに小さな石に口付ける。まるで儀式のように。その瞬間、何ともいえない不安に駆り立てられ、無意識のうちに乱暴なほどに強くジャンヌを引き寄せていた。この満たされた気持と引き換えに、彼女が消えてしまうような気がして……。

「ティル?」

 ジャンヌを愛し始めている自分を認めざる得ない。けれどもそれと同時に俺は失う恐怖との葛藤をも背負ったのだ。もう、離せない。俺は幸福なのか不幸なのか……彼女との未来図など、舞台が違うとは百も承知だ。この一瞬が永遠の意味を持つ。二人で過ごせる僅かな時間を、繋ぎ合わせて生きていけばいい。




 あの時、俺はジャンヌを愛していた。そして愛されていた。世界中にありふれた感情が、こんなにも全てを支配するだなんて。

 どうしてこんな事になった? 再びめぐり合った地が、人の命を弄ぶ地獄とは…これは神の悪戯か? ジャンヌの髪を刈り上げ、頬を殴り、跪かせ、昨夜抱いた女の世話をさせる。

 どうしてこんな事になった? 俺は無力だ。けれどもこのままジャンヌが煙へと消えていくのを傍観する事など出来ない。

 彼女は幼かった。離れていた七年は、精神的にも肉体的にも女としてジャンヌの全てを塗り替える歳月だったはずだ。何もかもが変わってしまったとしても、全てを受け入れよう。けれどもこの異常な状況で今の俺を支える源はやはり……。

 あの時、俺はジャンヌを愛していた。そして愛されていた。これが全てなのだと。

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