戸惑い(ジャンヌ)
開け放った窓からは、ささやかな波音が滑り込んでくる。ティルが眠るボート小屋では、同じリズムが耳元で響いて聞こえるのだろう。
レッスンからの帰り道、恋人がいるのかと尋ねたら、彼は忘れ物でも思い出したかのように一瞬黙り込み、そしてさらりと言ってのけた。
“……ベルリンに”
どんな女かと尋ねると、自分には勿体無いくらいの人だとティルは告白していた。大人で、思いやりに溢れ、頭のいい、きっと美しい人。
ベッドの上で枕を抱え、こみ上げる笑いをそっと堪える。いいじゃない。そうでなければ……ね。今までティルを通り過ぎていった様々な女達は、彼を磨きあげる踏み台だったと思えばいい。そして私のもとに辿り着いた。
あの時、一度だけティルは私の手を握り返してきた。横顔をそっと覗きこむと、何かに堪えるように真っ直ぐに前を見据える瞳があった。私の存在は彼に苦悩を埋め込んでいる。愛しい男が途方に暮れる姿が、こんなに女心をくすぐるだなんて。歯を食いしばり、理性を保とうと必死にあがいている。
まだ男と寝た事も無いというのに、そんな彼に欲情する自分いた。二人を隔てるものを全て取除き素肌を合わせ抱き締めてあげたら、私の腕の中で彼はどんな顔を見せてくれるのだろうか。
キャビア、シャンパン、エスカルゴ、彩り鮮やかなオードブル。本物のコーヒーさえ一般市民は何ヶ月も口に出来ないというのに、ここは別世界だ。いや、立派な軍服を纏ったドイツ人将校でさえワインを手にとって唸っている。カールが闇市から仕入れてくる様々な物資は、コーネンを鼻高々にする舞台に一役買っていた。
カール……不思議な男だ。所詮ナチスに媚を売る男だと、向けられる笑顔も疑心暗鬼な気持で眺めていた。けれど、彼の奏でるバンドネオンは、包み込むような豊かな音色でヴァイオリンをリードする。音楽で触れ合えば、その人柄というものも滲み出て感じるものだ。視線を絡め、即興でのやり取り。彼は心の底から演奏する事を楽しんでいた。澄んだ瞳に秘密めいた妖しさはあるものの、人殺しを楽しむナチスのような狂気はそこには無かった。
音合わせをする別室にカールが現われると、気が散るからと監視を追いやり、甘いお菓子などを差し入れてくれた。それでもドイツ人だ。女三人気軽に話し掛ける事はしなかったが、気を許している事は確かだった。
外でひと息ついていたのだろうか。テラスに抜けるガラス扉を開けて、カールが居間に入ってきた。私に向かって真っ直ぐに歩いてくる。後ろ手に悪戯を隠し持った子供のような笑顔。女のような繊細な顔立ちと裏腹に、少年のような邪気の無い笑顔をカールは見せることがある。こんな時は私も警戒心を失って、ついつられて微笑んでしまう。
夜が更けるにつれ宴は淫靡な空気を漂わせ始める。着飾った女達を一人……いや時には数人引き連れて客人たちは部屋へと消えていく。これもコーネンが用意した特別なもてなしだ。ティルが女と消える姿をまだ一度も見た事は無かった。取り囲む女達を、いつもさりげなく他の将校たちに譲り、そっと部屋へと引き上げてしまう。
けれども今夜はコーネンの姪、ソフィーに捕まってしまったようだ。随分と酔った様子で、ソフィーはティルを話に付き合わせている。
楽団もこの時間になるとおひらきだ。マーリーのピアノだけが、耳障りの良い静かな曲を奏で続けている。
「今日は人手が足りなくて……ジャンヌ、書斎にブランデーを用意してくれ。コーネン所長が十分後に部屋を使うとおっしゃっている」
ホールを担当するボーイに頼まれ、私は二階にあるコーネンの書斎に向かった。階段を登って右の廊下にはコーネンの仕事部屋が連なり、さすがにこの時間に人影は無い。廊下を歩きながら、先程甘えるようにティルに寄りかかっていたソフィーの姿が頭をよぎった。上等なシルクのドレス。結い上げた髪が露にする耳元には、光り輝くダイヤのイヤリングが揺れていた。
あの頃、早く大人になりたいと願った。彼に似つかわしい大人の女に。今の自分はどう彼の瞳に映っているのだろうか。
上の空だった。迂闊にもノックさえ忘れ、おもむろに書斎の扉を開いてしまった。誰もいないはずの暗い室内。けれども、書斎机のライトが消し忘れられていた。ブランデーの瓶とグラスをソファー席に並べると、再び違和感を感じ書斎机に視線を流す。消し忘れ……いや、机の後ろにかがみこみ、身を潜める男の姿があった。見覚えのあるシャツ。
「……カール? ここで何をしているの」
ガタンッ。そっと後ろ手に何かを隠し、カールが立ち上がった。
「いや、コーネン所長に頼まれ事をされてさ」
不自然な笑顔。開いたコーネンの引き出し。隠し持った書類。コーネンはもうすぐ客人を連れてこの部屋に来るはずだ。
「早くそれを元の場所に戻してっ。所長がすぐにここに来るわ。廊下に出て左に行くと、外に抜けられる別階段がある。そこから出て行くのよ、誰にも気付かれないように」
カールは素早い動作で手にした書類を机の中に忍ばせると、ドアの前に立つ私のほうに足早に歩み寄ってくる。
「こっちよ」と、扉を開けて廊下に導いた時だった。
「おい、そこの二人何をしている」
廊下の向こうから咎めるような男の声が響いた。見なくてもわかる……コーネンの声だ。カールと二人、書斎のドアの前で立ち尽くす。これから先何が起こるのかと考えると、心臓がひやりと凍り付く。鼻先にあるカールの顔が強ばっているのが見て取れた。
視線が絡み合う。一瞬カールは片目をつぶり何かの合図をよこした。その意図が掴めず、もう一度すがるようにカールの顔を覗き込もうとした時だった。
ドンッ。カールが私の身体を唐突にドアに押し付けてきた。不意打ちの行動によろめき、ただされるがままになっていた。そして次の瞬間……おもむろにカールの長い睫毛が近づいてきた。唇を塞がれる。息が詰まるほどに深く、だ。
「……んっ」
濃厚な口付けにぐらりと視界が歪んだ。
「カールか? お前、そこで何をしている」
今その声に気付いたという様子で、カールが唇を離し、うしろを振り返ってみせた。
「いや……コーネン所長…まいったな、こんなところを見られちゃって……」
酔いを装ったおどけた口調。だが、私を押し潰すその胸からは、明らかに早い鼓動が波打っているのを感じた。
「お前が女を連れ出すだなんて珍しいな……いや、その女……」
そっと、カールが私から身体を離す。彼の胸に遮られていた視界がひらけると、そこには目を丸く見開いたコーネンがいた。そして、その隣には……ティル。感情を見透かせない無表情な彼が立っている。
「ジャンヌか……。カール、お前のお陰でパーティはいつも華を添えさせてもらっている。だから、どの女を選んで連れていこうが文句など言いはしない。だが知っていると思うが、この女はユダヤ人だ。そんな女を選ぶとは、あまり感心せんな」
コーネンの声は低く威圧的な響きを持っている。そんなコーネンに臆することなくカールは言葉を返した。
「このチケットをここでも使えるのかと、ジャンヌに尋ねていたんですよ」
「チケットだと?」
カールはごぞごぞとポケットを探ると、小さな紙切れを差し出した。
「アウシュビッツの親衛隊員に貰ったんです。ポーカーで負けた支払いの代わりにと」
コーネンは、目を細めてその紙切れを覗き込んでいたが、おもむろに愉快そうに笑い始めた。
「ふっ……ハッ傑作だな。アウシュビッツではこんなものが出回っているのか。あそこはなかなか趣向を凝らした出し物をするんだな。見てみろ、ティルこれを」
ティルは手渡されたチケットを一瞥すると、不愉快そうな様子でカールにそれを返してきた。
「アウシュビッツには労働意欲を高める為に女性囚人による売春宿まであるんですよ。もちろんそこを使えるのはユダヤ人ではなくドイツ人の囚人ですがね。それで、そのチケットを持って早速品定めをしにいったのですが……ロクな女がいない」
「それで、そのチケットがジャンヌに使えるか尋ねていたというのか? ハハハッ、ジャンヌはなんて答えていた?」
「答えを聞く前に、あなた方に邪魔をされましたよ」
カールは肩をすくめてみせた。その様子は益々コーネンの笑いを誘ったようだ。
「あぁ、でもすっかり悪酔いしたようだ。ジャンヌはハイルマン大佐のお抱えでしたね。今夜はもう退散いたしましょう。外に待たせている運転手が眠りこけてしまう」
カールは会釈をすると、おぼつかない足取りでコーネンとティルの間をすり抜けた。
「……待て」
その背中を呼び止めたのはティルだった。
「お抱えとは随分な言い草だな。お前のように、ユダヤ女を手篭めにする為にこの女をメイドにしている訳ではない。一緒にしてもらっては困る」
カールはゆっくりと振り向いた。形の良い唇を片側だけ持ち上げ、真っ直ぐな眼差しでティルを見詰め返してみせた。
「彼女の美しさに我を忘れてしまった。愚かな男の気の迷いだと、どうぞお見逃し願いたい」
ティルは何も答えずに、冷たい視線を返すだけだ。カールは、苦笑いを溢すと去っていった。
「悪い男じゃないんだ、大目に見てやってくれ」
コーネンは、そうティルに声をかけると、書斎のドアに歩を進める。さっと道を譲り頭を垂れて、二人が通り過ぎるのを待った。その時だった。耳元でヒュンと風を切る音が聞こえ、頬に痛烈な一撃が降ってきた。
パンッ。耐え切れず転がるように尻餅をつく。
「お前に隙があるからつけこまれるのだ。俺に恥をかかせる気か」
頬を叩いた手の持ち主は……ティルだった。唇の端から滲んだ血が舌を濡らす。熱を帯びる頬を抑える事など許されはしない。私は立ち上がり、再び頭を垂れて足元に視線を落とした。
誰かに殴られた事などあるはずも無い。耳元にまで這い上がる脈打つ痛みを噛み締める。書斎のドアが閉まる音を聞き届け、歩き始める。いつもよりもこの廊下が長く感じられた。
ぼんやりとしていたせいか、階段の手すりに背を預け立つ女がソフィーだとは随分と近づくまでわからなかった。ソフィーは探るような眼差しで、じっとこちらを見ている。その視線をすり抜け、足早に階段を登っていく。三階の廊下を横切り、一番端にまで歩くと明らかに他の部屋のものとは異なる木のドアがある。その扉を開くと、屋根裏へと続く粗末な階段があった。
ギシッ。足を乗せると木が軋む音をたてる。
ギシッ。登りきると、この階段が導くに相応しい屋根裏部屋が連る廊下に出た。
部屋は三人でひとつの相部屋だ。お情け程度に設置された肌電球に、淡い光を灯す。まだ誰も部屋には戻っていない。のろのろと服を脱ぎスリップ一枚になると、窓ガラスが映す己の姿をじっと見つめる。頬の赤みまではガラスで確認できない。そっと指先で頬をなぞると、ぴりぴりと痺れるような疼きを伝えてくる。息を深く吸い込む。そして呪文のように繰り返す。大した事ではない。大丈夫よジャンヌ、大丈夫だから……頬に触れていた指先を唇に移す。
カール……。戦争中は、誰もが裏の顔を持つ。様々な歯車が歪み、人は思いもかけない人生を歩むことになるのだ。詮索はしまい、ただ言えることは、ナチスの敵であるというならば私の敵ではないということだ。奪われた唇は、激励の接吻だったと思えばいい。ティルの目の前でというのが、意外な展開ではあったが。
ティル……憎んでいるのだろうか、私の事を。それでも構わないと思った。再び巡り会えた。神が授けた偶然のもと、あなたはこんなにも傍で息づいている。
ボート小屋を包む波音は、畑仕事に疲れたティルの子守唄になる。寄せては引いていく地球の息づかいが、ティルの寝息と重なる。彼の寝顔を暗闇からすくい上げる銀色の月光。伏せられた瞼の裏に潜む瞳の色を知っている。海にも似た蒼。空にも似た青。
真夜中に忍び込んだ私は、ベッド脇の椅子に座りながら、ティルに悪戯を仕掛ける。シーツに投げ出された手のひらに、自分の手を重ねてみる。大きな手、男のくせに長い指。そっと手を離し、代わりに自分の頬を彼の手のひらに乗せてみた。
ギシッ。身体をティルの隣に横たえる。葡萄畑で大地に触れている手が、私の枕になる。違和感を感じたのか、ティルの眉間に皺が刻まれた。その様子を笑いを堪えながら見つめる。手のひらの枕は、眠るティルの鼻先にあった。寝息が、私のおでこをくすぐる感触。瞼を閉じ、彼の温もりを深く味わう。
ふと途切れた息づかいに瞳を開くと、ぼんやりと寝ぼけた眼差しのティルと目が合った。
「……お嬢さん、一体何時だと思っているんだ」
寝起きの掠れた声が呆れた色を含んでいる。
「お休みのキスを貰いに来ただけよ」
ふふっ、と語尾に意味深な笑いを挟み込む。ティルはノロノロと上半身を起こすと枕がわりにさせられていた手を引き抜き、眠気を振り払うためにか、小さく首を振ってみせた。
「……あんたさ」
不機嫌な声。普段冷静を取り繕った男が見せる素の感情は、不思議なほどに心地良い。
「いっぱしな振りをしたって、なんにも知らないお嬢ちゃんだろ?男を舐めたら痛い目に合う。初めての時の女っていうのは血にまみれるんだ。俺は優しくなんて出来そうにない。だからこんな真似はもう止めた方がいい」
威圧する眼差しは怒りで青白い炎をちらつかせていた。私の肩を押さえ込み、ティルは立場を誇示してみせる。
「初めてよ。だけど優しくなんてしてくれなくていいわ」
手を伸ばしティルの頬を撫でる。その顔が絶望に歪む様が見て取れた。
「……君は幼すぎて、俺の言葉が持つ意味を、よくわかっていないんだ」
「だって、経験しなくちゃ、学べないわ」
ねぇ、よくわかっていないのは、あたなの方なのよ。途方に暮れる瞳を導く、母親のような気分にさせられる。
「借金の肩代わりをしたのは、こんな事を望んで……なのか?」
「そうよ」
呆気に取られ、ティルはすぐに次の言葉がみつからなうようだ。渇いた喉をごくりと鳴らし、彼はやっと言葉を繋げる。
「そんな事を……」
語尾を濁すと、ティルは頬に触れている私の手に指を伸ばしそっと触れてきた。手の甲をなぞられると、その感触に小さな蝶の痣がぞくりと疼く。
ゆっくりと、触れるか触れないかのじれったさで、腕を伝い彼の指が降りてくる。鎖骨を越え、首筋を横切り、ティルの指先が顎をおずおずと登ってきた。やがて唇に辿り着くとティルは、小さな溜め息で震える口元を歪めた。
「…出来ない」
それは懇願だった。許しを請い彼は覆い被さってくる。
「こんな華奢な身体で……まだ無理だ。壊してしまいそうで……俺には出来ない」
「いいのよ」
ティルの髪に指を差し入れ、そっと抱き締める。
「私はね、慎み深いクリスチャンよ。一度に欲張ると神様に咎められるって、ちゃんと知っているの」
ティルはゆっくりと顔をあげ、少し安堵した溜め息をついてみせた。そしてこの苦しみからの解放を願い、息を潜め私の更なる言葉をじっと待ちわびる。薄い涙の膜で覆われた彼の瞳を、下から見上げた。七色に輝くオバールと引き換えに手に入れた、私だけの秘宝なのだとその価値を噛み締める。
そっと瞼を閉じる。彼がどんな顔で私を見下ろしているのかが、容易に思い浮かべる事が出来た。
「用事を済ませたら帰るわ」
「……用事って?」
「言ったでしょ、お休みのキスを貰いに来ただけだって」
瞼は開かない。静まり返った部屋には、さっきより波音が際立って響いている。
ギシッ。ベッドのスプリングが音をたてる。まるで何かの合図のように。ティルの唇がおでこに触れる。けれども、それでも瞼を開かない私に観念したのか、崩れ落ちるような口付けを落としてきた。塞がれた唇に呼吸さえ奪われ、恍惚としたひと時を味わう。やがて少し乱れた呼吸で彼はこう呟いた。
「部屋に戻るんだ……ジャンヌ」
まだ男を知りもしない身体で漠然と私は悟ってしまった。耳元に吹き込まれる彼の困惑は、ありきたりに営まれる男と女の情事よりも、甘い快楽を私の心に産み落とすのだと。