魔法の指輪(ジャンヌ)
あの頃の私は、乾いていた。ひび割れるほど干からびた心に、一滴の恵みの雨が落ちる日をじっと待ちわびていた。
坂道を登ってくる男の姿を見たあの瞬間。海からそよぐ潮風も、ミモザの木陰が作る影模様も、時が止まったかのよう私の心に焼き付けられた。くじいた足など大した事はなかったのだ。ただティルという名の背の高い男を、繋ぎ止めるいい口実にはなった。
学校の男の子達とは違う、パパとも違う、大人の男。私と出会ってしまった戸惑いを、瞳に滲ませ立ち尽くす姿が愛しいと思った。そんな瞳で真っ直ぐに射ぬかれた瞬間……私はこの男に選ばれたと感じた。必要とされているのだと。それは私の身体の奥底を爪弾いた。震える振動は甘い渦きを伝えてくる。
逢いたかった。
初めて出逢った見ず知らずの外国人に、どうして懐かしいなどという感情が芽生えるのか。
逢いたかった。
今日まで、ずっとずっと見失った何かを探し求めていた気がする。私を背負う広い男の背中の温もり。ひたひたと心を満たしていく安堵感。そっと背後から男の肩に顎を乗せてみる。
話はとっくに途絶えていた。だが沈黙は決して重苦しくのしかかる種類のものでなく、私は少し早い彼の呼吸に耳を傾けた。
庭番のジョンが私達の姿を認めると、慌てた様子で走りよって来る。私が子供の頃からずっとこの家に務めている古株の使用人だ。口調が田舎者丸出しだったが、のんびりとした様子がこの土地らしさを物語っている。
「お嬢さま、どうされた。またお迎えの車をまいて歩いて帰られたんですかい。転ばれたのか? おや、どこぞ怪我をされた? 大変じゃ」
幼い頃からよく知るこの庭番は、しおらしく私が男の背におぶわれているとは信じ難く、余程の怪我を負っているのだと勘違いしてしまったらしい。
「大した事ないわ。足をちょっとくじいちゃったのよ」
ティルの背中から降り、ひょこひょこと歩いてみせる。
「どうもお嬢様がお世話になって…おや、あまり見掛けない顔だね、旅の方ですかい」
「いや、ホテルに職があるというので働きに来たのです。道の途中に荷物を置きっぱなしなので、これで失礼を」
ティルの旅行鞄は私を背負っては持てないので、ミザモの木の影に隠してきた。あんな年季の入った鞄、誰も盗らないわよ。引き返そうと急ぐティルに、心の中でそう毒付く。
「ホテルですかい。なんてホテルかね」
「……サンセット・ヴィレッジ」
「えっ、そりゃ大変だ」
すっとんきょうな声を出してジョンは目を丸くしてみせた。
「何か?」
怪訝そうな顔でティルは短く問いただす。ジョンは言いづらそうに答えた。
「二週間ほど前あのホテルはひと騒動あってね、なんでも奥方が愛人と売り上げを持ち出して駆け落ちしたそうでな。旦那は月末の支払いに首が回らないわ、いい笑いものだわで、ホテルは人に譲ることにしたって噂を聞いたがね」
「そんな……従兄が仕事があるからと……こんなところまで足を伸ばしたというのに」
「その従兄って口髭生やした黒髪のドイツ人かい」
ティルが肩をすぼめながら頷く。
「そいつだよ、奥方の愛人は。一年前から住込みであのホテルで働いていた」
ティルは黙り込んだまま踵を返し、2.3歩進むと立ち止まった。私達に背を向け、押し殺した声でドイツ語を呟いた。
「Zum Teufel(畜生)」
夕陽が彼の髪を金色に染め上げている。苛立ちに震える男の背中に、そっと手を添えてあげたい。大丈夫よ、私が守ってあげるから。
けれども、意外にも救いの手を先に差し伸べたのは、世話好きでお人よしのジョンだった。
「あんた、どっから来たんだい?」
「ドイツ。ベルリン……だ」
「そりゃまた遠くから来たんだねぇ。まぁ、若いうちは国を出て色んなところで働いてみたいもんだ。
良かったら、しばらく葡萄畑で働いてみたらどうだね。ワイン工場の方も人手はいつも足りない」
「え……」
ティルは驚いた顔で振り向いた。きょとんとした顔でジョンを見詰め、そして途惑った眼差しを私に向けた。
「あ、でも住込み用の部屋は余っていたっけな」
ジョンが今更に困った顔をしてみせる。私はさりげなく助け船をだしてあげる。努めて素っ気なく、だ。
「ボート小屋の休憩室を使ってもいいわよ」
あとはジョンに任せればいい。皆に、ティルを紹介してまわるのだろう。
偶然の運命で絡み合ったティルとの接点。だけど、不思議とそれは約束されていたものなのだと思えた。もっともっと、彼に関わりたい……。けれども、どう振る舞っていいのか分からなかった。意識する程に、冷静を装ってしまう。
「私、部屋に戻るわ。運転手にあなたの鞄を運ばせるから取りに戻らなくてもいいわよ」
くじいた足のせいにして、わざとゆっくりと歩き出す。背後でティルとジョンの話し声が聞こえる。
「……ンヌお嬢様ですかい、来月十五歳になられるんじゃなかったかの」
余計なお喋りを……舌打ちしたい気分で振り返った。ジョンは背を向けている。その肩越しに見えるティルと視線が絡んだ。
私の噂話はそのくらいにして。そう言いたげな眼差しで、人差し指を口元に立てる仕草をしてみせる。ティルは最初出逢った時と同じ困惑を浮かばせている。大人びた真似をしても、所詮まだ子供だったのかと、呆れているのかもしれない。
そう、子供だ。同じ年頃の男の子達と交わす、おふざけのキスしか知らない。未知の快楽に足を踏み入れる高揚感で、少年等は相手の心中など探る余裕など無い。ためらいや、戸惑い、困惑などを漂わせた男の瞳で、女の背中を優しく撫でる術など持ち合わせてはいない。
ティルの瞳に溺れる息苦しさ。初めての感覚なのに何故か懐かしいと感じた。
首元で途切れた髪が、首筋を悪戯に撫でる。短くしたのは初めてだ。髪を掴まれるときに触れたティルの指の感触……殺してくれるのかと思ったのに。チラチラと光を弾くダガー(短剣)が鼻先に触れた時、恍惚とその冷たさを味わった。
収容所まで辿り着く道のりで思い知らされた。人の命が虫けら以下と見下される狂気が存在する事を。おもちゃのように他人に運命が弄ばれる。私は煙突から立ち昇る煙になんてなりたくはない。
ティル、ティル……。いつかその日が来たら、貴方の手で私を楽にしてくれるのよね? 自分が奏でるヴァイオリンの音に揺れる、ティルと女のシルエットが脳裏をよぎる。二人の為に朝食の皿を運ばされた。馬鹿ね。何とも無いわ、こんな事で私は傷付いたりなんてしない。
心を閉ざそう。何を目にしても、何を聞いても感じる心を凍らせてしまえば、固い殻が私を守ってくれる。彼の為に靴を磨く、シーツを洗う、床を磨く。
ティル、ティル……。今回は、貴方の為に私が跪く番。喜んでその役目をこなしてみせよう。だって……ねぇ目を閉じると浮かんでくるでしょう? あのボート小屋の窓から覗いていた海の色が。ブルーいや紺碧。どんな過酷な環境にいようとも、南仏の温暖な陽射しを映す碧い海が、幸福のため息を添えて瞼の裏を覆い尽くす。
屋敷の裏庭を抜けると、海岸に面して建てられたボート小屋があった。数隻のヨットが収納され、海に面したテラスを持つ居間がひとつ作りつけられている。初めて出逢った日よりティルは、波音に包まれた小さな部屋に住みついた。テラスの先からのびる桟橋は、海へと続いている。突き出た岩に囲まれた小さな入り江には人気が無く、いつもひっそりと静まり返っていた。パパが夏にパリより訪れる日まで、このボート小屋からヨットが出航する事は無い。桟橋は私のお気に入りの場所だ。そこに立ち、海に向かってヴァイオリンを奏でると、波音が伴奏をつけてくれる。
砂浜が夕陽に染め上げられる頃、仕事を追えたティルが葡萄畑から小屋に戻ってくる。そのタイミングを見計らい、私はボート小屋の扉をノックした。思わぬ来客だったのだろう、ティルは突然目の前に現われた私を、どう扱ったらいいのか途惑っていた。まだ仕事を始めて三日目だというのに、彼の顔は最初に会った時よりも随分と日焼けして見えた。
「あなた、車の運転は出来る?」
唐突に尋ねた質問に、ティルは返事もせず不機嫌さを漂わせる。そして小さなため息と共に、吐き出すよう口にした。
「お嬢様の気紛れに、振り回されるのはこりごりだな」
ティルの髪は濡れていた。葡萄畑の脇にある、樽をぶら下げた使用人用のシャワーを使ってきたのだろう。前髪からポタポタと落ちる滴が、彼の肩を濡らしていた。
「街の本屋に行きたいのよ。なのに運転手はさっき帰ってしまったの。奥さんが急に産気づいたのですって」
ティルの瞳から威嚇するような鋭さが消えた。身構えすぎたバツの悪さからか、絡んでいた視線をはぐらかす。
「……運転できる者は他にもいるでしょう。何でわざわざ俺なんか……」
「あなたがいいのよ」
私はまっすぐに、背の高い彼を見上げた。不意討ちに投げつけた告白は、彼を一瞬放心させたようだ。呆然とした眼差しは無垢な少年のようで、私の心を摘まみあげる。
「ベルリンの話なんて聞いてみたいもの、ねっ」
無邪気を装う事で、先程の思わせ振りな台詞を誤魔化してみる。ティルは観念したように扉の外に足を踏み出した。
ミザモの花が咲き乱れる道を、車はゆっくりと駆け抜ける。高台より海を見渡せる小さな田舎町へと向かう。パリの洒落た空気に馴染んだ私にとって、欠伸が出そうな程に退屈な場所。
「旦那様はパリに住んでいるんだってね。どうして君一人こんな所で暮らしているんだい?」
手馴れた様子でハンドルをさばきながら、ティルは後部座席に座る私に話しかけてくる。狭い空間の中での沈黙は、居心地が悪いようだ。ぴったりと身体を張り付かせていた三日前には、言葉など必要なかったはずなのに。
「パパを自由にしてあげるためよ。パパにね恋人が出来たの。ずっとママの死に囚われていたパパが、やっと他の人を愛し始めたって訳」
意外な台詞だったのだろう。ティルは返す言葉を失い黙りこんだ。開け放った窓から忍び込む風が、彼の悪戯に髪をもてあそぶ。背負われた時、頬に触れていた髪の感触が蘇る。風に吹かれすっかりと乾いたティルの襟足を、眺めながら話を続けた。
「自分の命が尽きるまで、生涯愛するとママに誓ったのに……そんな呪縛がパパを苦しめ始めたの。
いいのに、他の人を愛しても。パパが幸せならばそれでいいじゃない。馬鹿みたいに真面目で不器用な人」
でも、そんなパパだったから私はすんなりと、新たな恋人の存在を受け入れられたのかもしれない。
「私ね、死んだ母によく似ているの。年を重ねるほどにママに似ていく私の存在は、もうパパにとって微笑ましい愛の証しではなくなってしまったって訳。罪悪感を蘇らせる憂鬱の種なのよ」
葡萄畑を携えるワイン工場は、父の生家だ。祖父母が亡くなってからは、夏のヴァカンスを楽しむ別荘として使用していた。葡萄園と醸造所は、昔から勤める腕の立つ職人達に任せておけば安心だ。パパはパリに暮らしながら、生産した最高級ワインを世界中に売りさばいていた。ミモザの花を描いたラベルが目印のボディ。パリのどんな高級レストランにも、うやうやしくそれは並べられていた。
丁度、この街の外れにパリ音楽院管弦楽団を引退したヴァイオリニストが一人住んでいた。そんな偶然も、この町で暮らす決意を後押ししてくれたのかもしれない。先生は個人レッスンを申込むと快く引き受けてくれた。他に生徒はいない。有能な先生を独り占めとは贅沢な事。半年前からここに住みはじめた。学校は馴染めない。でも独りが好きな私にはそんな事はどうでもいい。
町の本屋は雑貨屋やカフェも兼ねている。別に欲しいものなど無かった。ただ、ティルを連れ出すきっかけが欲しかっただけだ。店の前に止めた黒塗りの高級車に、女店員はちらりと視線を向けた。この店に足を踏み入れる事など滅多に無い。珍しい客が来たものだと思っているのだろう。
ちらりと、彼女は店の隅に立つティルを盗み見ている。値踏みするような視線。合格だとその眼差しが物語っている。
「アイスキャンディー頂戴、ふたつよ」
視線を遮るよう、私は注文を申し付けた。彼女は曖昧に頷くと、のろのろとストッカーから品物を取り出した。
「ねぇ、お宅の運転手……最近ベルリンから来たっていうあの人?」
気になって仕方が無いという様子で、彼女は私に探りを入れてくる。ベルリンから来た……狭い町ではもうティルの存在は広まっているようだ。
「そうよ、でも手を出さないでね、私の恋人にするんだから」
彼女は一瞬目を丸くして、そして可笑しそうにクスクスと笑い出した。冗談だと思っているのだろう。
「あら、素敵な指輪ね」
代金を差し出す私の手に彼女は注目した。女は本当にこういう物には目ざとい。
「すごいわ、小さい石なのに良く見るといろいろな色が浮き上がってくるのね」
「特別な指輪なの。オパールよ」
しばらく眺めた後、彼女は肩をすくめて見せた。
「でも、まだアイスキャンディーが恋しいお嬢ちゃんには早いんじゃない?」
からかうような声色。私はむっとした顔で彼女を睨み、失礼な女の姿を眺める。豊かに成熟した身体が、透かし模様の入ったコットンブラウスに包まれている。唇の存在を主張する赤いルージュ。
あなたなんて……。
この指輪はママの形見だ。小さな頃からこの不思議な石を、憧れの眼差しで眺めてきた。爪先程の小さなオパールが、リングの曲線に沿って五つ連なっている。七色に滲むグラデーションが、願い事を口ずさめと語りかけてくる。魔法の石だからと。
早く大人になりたいと思った。ティルを誘惑する女達がかすむような大人の女に。そして、彼を跪かせるのだ。お金が沢山あっても、心の底から欲したものなど記憶に無い。けれどもティルの全てが欲しいと、私の中で本能がこの石に囁きかける。
お釣りを受け取ると、真っ直ぐにティルに向かって歩く。私が近づく様子を、彼は壁にもたれながら眺めている。と、その時だった。背後から私を追い越した男が、ティルの胸ぐらを掴んで外に引きずり出したのだ。
ガタンっ! けたたましいドアの音に、私にからかいの眼差しを向けていた店員も目を丸くしている。ドアの外に飛び出すと、車の陰で男がティルに向かって拳を振り上げるのが見えた。思わず体が強張り、手にしていたアイスキャンディは足元にぽとりと落ちていった。
ティルの頬に向かって勢い良く飛んでいく拳が、鈍い音を響かせるかに思われた。が、ティルは寸前のところでヒラリと身をかわしてみせた。
「……の、ドイツ野郎っ」
ティルに襲い掛かる男の声は少し酔っているようだ。やみくもに拳を振り下ろすものの、ティルは弄ぶようにその攻撃を避けてみせる。
「お前、あの男の従兄なんだってな。落とし前はつけてもらうぜっ。よくノコノコと、この町に顔を出せたもんだ」
肩で息をしながら、男はそう吐き出した。男は、ティルが最初目指していたホテルの主人だったのだ。もう、殴りつけるのは無駄だと悟ったのだろう。赤らめた顔で恨めしそうにティルを睨みつけてくる。
「あの男が持ち出した金を精算してもらおうか。それでなけりゃ、ドイツまで出向いて奴の親に掛け合うまでだ」
「何を……」
「ったく、いい笑いもんだぜ。女房までそそのかされてよぉ……この町にゃもう暮らしちゃいけねえや。このまんま泣き寝入るするなんざ、腹の虫がおさまらねぇんだよっ。あいつが持ち出した金の額を知っているか? ホテルを改装する為に貯めていた、有り金全部持っていっちまったんだぜ」
黙って話を聞いていたティルが、おもむろに頭を下げた。
「……申し訳なかった」
その様子を目にし、調子付いた男は更に声を荒げて言葉を続ける。
「頭なんか下げられたってどうしようもねぇんだよっ」
だが、ティルは更に深く頭を垂れた。
「あいつの実家には年老いた母親がいるだけだ。代わりに金は、俺が働いて返す」
きょとんと、目を見開くと、男は顔を歪めて笑い始めた。
「あぁ? 少しづつ返しますなんて、お涙頂戴のこと言ってるんじゃねぇよなぁ」
雑貨屋の客達が、窓からこちらの様子を伺い見ている。騒ぎを大きくしても面倒だ。私は二人の間に割って入った。
「話の続きは車の中でしましょう。お宅までお送りしますから」
小娘が……と男が、喉元まで出かかっている言葉を飲み込む気配が感じられた。あのワイン工場の令嬢だと、臆するものが彼の言葉を閉じ込めたようだ。
ティルは男を車に乗せることを拒んだ。「お嬢さんには関係ないことだ」小さく押し殺した声色で私を諭す。
「昼間と違って私、こんな夜道を歩いて帰る趣味は無いの。こんなところで騒いでいたって埒があかないでしょう? それに皆が見ているわ。私、さらし者になるのなんて真っ平ごめんですからね」
走り出した車の中には、男が吐き出す酒の匂いがすぐに漂い始めた。さりげなく窓をおろし、後部座席で居心地悪そうに座る男の顔を間近に見据える。この男はとんだ拾い物に違いない。素晴らしいと言う意味でだ。込み上げる笑いを押し殺し、私は子供だと見くびられないよう、顎を上げて男と向かい合う。
「精算するわ、利子をつけてね」
中指にはめてあったオパールの指輪を、そっと抜き取る。
「どれだけ価値があるものか、まさか私の持ち物を疑ったりはしないわよね? この町で売れるような代物じゃないわ。それなりの宝石店でちゃんと鑑定してもらって頂戴」
親指と人差し指で摘んだリングを、男の目の前にちらつかせる。男の喉がごくりと上下するのが見えた。
「へっ、いやもうそういう事ならば……さすがブルーニ家のお嬢様だ。話がわかるってもんだ」
男は物欲しげに手の平をさらしてみせた。早くこの上に置いてくれと言わんばかりに。
「彼女は関係ないだろう! お嬢さん、あんたもあんただよ。大人の話に口を出すのは止めてくれって言ってるんだっ」
動揺しているのだろう、ハンドルさばきを誤ったのか、車は一瞬ぐらりと揺れた。キキッと、甲高いタイヤの叫びが暗い夜道に響き渡る。
「ちゃんと運転して頂戴。この町には腕の立つ医者はいないのよ」
この商談にティルは邪魔者だった。彼に深いかかわりがある出来事だというのに、本人を疎外したまま話は続いた。まだ…まだだ。思わせぶりに手の平に指輪を落す素振りを見せながら、私は条件をひとつ提示してみせる。
「明日には町を出て行って欲しいの。ホテルはもう買い手が付いたそうね。それから今夜のことは他言無用よ。皆が噂好きなのは知っているでしょう。あなただって、下手に喋って損はしたくないはずよね?」
「……そりゃごもっともで」
この尋常ではない行為が知れ渡ったら、ウチの人間が指輪を取り返しにくるかもしれない。男は酔っていながらも、金勘定をする思考回路は残っているようだ。
「とめてくれっ」
男の叫び声にティルはブレーキを踏んだ。
「お嬢さんの気紛れが変わったらたまんねぇや。今からでも町を出ますぜ」
男は素早く車の扉を手をかけると、勢いよく外へと飛び出した。
「おいっ、待てよ!」
ティルは慌てた様子で車を降りた……が、もう夜の闇に紛れて、男の姿ははるか遠くに消えていた。興奮の為か、息を荒げていた男の酒臭さが再び車内で鼻につく。新鮮な空気を味わう為に、私も外に足を踏み出した。
「……取り返してくる」
独り言のように呟き、走り出そうとするティルを私は制した。
「こんな所に私を置き去りにする気?」
「いい加減にしてくれよっ!」
暗い車のライトに照らされたティルの瞳には、苛立ちが滲んでいた。けれどもそんな威嚇に私はひるんだりはしない。リングをあの男の手に落とした瞬間、身体の奥底に潜んでいた隙間が埋められていく安堵感に包まれた。高揚感に眩暈がしそうだ。
「さっき、店員に話していただろう?大事な指輪じゃないか。金は俺がなんとか……」
「あら、あげた訳じゃないのよ。ちゃんと返していただくわ。ただし、時間外労働でね」
予想もしない台詞だったのだろう、ティルは言葉を失い立ち尽くしている。
「私のために働いてもらうわ、支払いが終るまで……ずっとよ」
何をしろというんだ? 言葉の代わりにティルはそんな眼差しを投げかけてくる。怯えさえ伺わせる彼の戸惑いが、ただ愛しい。
大切な指輪だった。かけがいのない程に。けれども願い事と引き換えに、虹色の魔法の指輪は消えただけの事。ありがちな童話のようにだ。
「私、すごく退屈しているのよ。遊び相手が欲しいの」
「……遊び相手」
「葡萄畑て働いている間は声をかけないわ。でもそれ以外で私があなたを欲したらいつでも側に来て。それが仕事の内容よ」
「……よく……分からないな。そんな仕事は経験がない」
「もう賃金は先に払い済みよ。あなたもさっきの男みたいに逃げ出す? 私、追い掛けたりなんかしないわよ」
からかうように口の端を持ち上げ、ティルに笑いかけてみる。
「俺は逃げたりなんかしない。ただ何をしたらいいのか具体的に教えて欲しいと言っているんだ」
覚悟を決めたのか、きっぱりとした口調で挑むようティルは言った。
やっと捕まえた。私はもう夢中だった。これから始まる日々を思うと鼓動の音さえ早まっていく。
「お嬢様の気紛れに、日々付き合ってくれればいいだけの事よ」
さぁ、行きましょうよ。と、ティルの手を取る。大きな手。私のものだ、手の平の温もりも、戸惑いさ迷う指先も。迷子の子供が手を引かれるよう、ティルは私に従っている。
私はあなたと出逢ったほんの一瞬で、悟ってしまった。運命だなんて陳腐な存在を。でもきっとあなたはまだ、その本当の意味に気づいていないのでしょう? だから導いてあげる。あなたの為に私が存在しているって気付く場所にまで。
ざわめく夜の隙間から、運命の歯車が絡みあう音が、静かに響き渡ってくるような気がした。