記憶の片鱗(リコ)
『当選しました』
その知らせは、あまりにも不意打ちに届いた。封筒に入れられた一枚のカードが、カプセルベッドの上にポツリと置かれていた。
ペーパーは貴重な資源。そこに印字された手紙など、自分宛に届いたのは初めての事だ。一瞬頭が真っ白になった。これはなぁに?
ピカッピカッ……部屋の中央に置かれた楕円形のテーブルが青く点滅する。テーブルの表面を人差し指でちょこんと触れると、メールのマークがふわりと浮き上がる。
あ、エリーからだ。たった一人のメールフレンド。ワクワクした気分で人差し指を再び軽くテーブルに乗せる。
くるくる。
触れた指先の下から渦巻模様が描かれ、女の子の顔が浮かび上がる。やがて顔だけのリアルプレビューがテーブルの上に立体的に映し出される。
あ、可愛いね今日のエリーの髪。お花の輪がお姫様みたい。
「ハロー」
はにかんだ顔でエリーは笑いかけてくる。
「ハロー」
メールだというのに、ついつい挨拶を返してしまう。
「ねぇねぇ、知ってるのよあたし……」
エリーがもったいぶった様子で話を始める。彼女はいつまでもいつまでも小さな子供のままだ。最初にメールを貰った頃と何も変わらない。この姿はただの架空のイメージなのか、どうして子供の姿なのか、実際会った事がないので分からない。ずっとエリーは5,6才の少女のままだ。あたしはいつの間にか彼女を追い越して、すっかり大人になってしまったというのに。
「宝くじ、当たったでしょう? すごいねリコ」
え、なぁに? あの封筒ってもしかしてエリーの悪戯?
「ほら、十年に一度の自由はリコのものなんだって」
……ジユウって何だっけ?
「買ったでしょ、宝くじ。あれ、好きな所で好きなように過ごしていいんだって。
ねぇ、リコは何処に行くの?」
プチッと小さな音と共にエリーの顔が消え、テーブルの中央から小さな映像がぐぐっとクローズアップされてくる。あ、これって……。
「リコ、前に行ってみたいって言っていたの覚えている?」
誘うようなエリーの声。テーブルから溢れるように映し出された『sea(海)』は、不思議な音をたずさえて、すぐそこで揺れている。思わずそっと波を撫でてみた。どんな感触が伝わってくるのか、少しドキドキした。けれども、指先に触れた感触は、いつもの冷やりとしたテーブルの表面。そう、これはただの映像なのだから……。
宝くじ。あれって皆がエントリーするんだよ? 誰でも夢を手に入れるチャンスがあるんだって値段もあってないような金額だった。
いつも無表情なギアの人々が、高揚した顔で列にならび宝くじにエントリーしていた。そう、あれは確か1ヶ月前だ。
……本当に? あたし、当選したのっ?
えっ、ええっ。すごい。すごい。ずっとしてなんて居られず、意味もなく小さな部屋をぐるぐると歩き回る。どうしよう。どうしよう。
壁には埋め込まれたカプセルベッドに寝転び、届いた封筒を繰り返し眺める。
“好きな所で好きなよう過ごしていいんだって”
さっきのエリーの言葉が耳の奥で繰り返される。
“ねぇ、リコは何処に行くの?”
ドクンっ。本当に?行けるの?好きな所に……
アートヒューマン。過去の芸術を未来に引き継ぐための修復作業や、新たな現代美術を感性で産み落としていく仕事を請け負う。ギアの中でも一握りしかいない希少種。過去の著名な芸術家達の遺伝子を持って生まれてきたと言われているが、事実なのか知るよしもない。その育成プログラで、あたしは数世紀前の生活や地球の自然を、当時の絵画より垣間見る事が出来た。
燃えるような黄色で、太陽が生む光を描いたゴッホ。睡蓮を映す水面の、光と影を追い続けたモネ。
人々の溢れる生命力を、見事に表現したルノワール。黄金のベールを纏い、甘美で妖艶な女性の美しさと残酷さを匂わせたクリムト。
題材になった情景は、、ギアの目には決して触れる事のないものばかり。
整備された巨大なドーム型の街、ウフ。白い壁。白い廊下。この中で規則正しく生活すれば、一生、不自由のない生活が約束される。
皆、ウフの外に何があるのか知らない。知る必要もない。だけど、アートヒューマンという立場上、あたしは皆が知らない地球の断片を知っている。
キャンバスに描かれた情景は、今でも地球のどこかに存在するのだろうか。男と女は、クリムトの描く絵画のように愛し合うのだろうか。外の世界はどんな色彩が溢れているの?
とりわけ、あたしを魅了したのは青だった。
パステルブルー。マリンブルー。スカイブルー。ラベンダーブルー……画家達の好奇心を駆り立てるブルー。その色彩が織り込まれた『sea(海)』の存在に、心を奪われずにはいられなかった。
“ねぇ、リコは何処に行くの?”
……あたしの行きたい所。
目を覚ますと、見覚えのない天井が見えた。いつもなら、手の届く距離につるりとしたカプセルベッドの上部がある。だけど今日は……はるか遠い天井には見た事のない大きなプロペラがあった。カタカタと音を立てて回り、そよぐような風を送ってくる。心地よくてあたしは再び瞼を閉じた。
いつもと全く違う朝。身体にまとわりつく眠気が思考回路を奪っていた。
ギシッ。耳元で聞いた事のない音が響く。視線を流すと、こちらを覗き込む人影が見えた。ぼんやりとした視界が、少しづつ晴れていく。男……の人。黙ってこちらを見詰める彼の存在感に圧倒された。
冷たい炎を宿した、チャコールグレーの瞳。ギアにはない、支配者の眼差し。
知らない人。なのにどうしてだろう。不思議。ね、不思議。懐かしいだなんて。
輪郭を覆う濡れたような漆黒の髪。形の良い薄い唇がゆっくりと動くのが見えた。
「リコ……コードNO.38569268−RICO」
胸の奥を震わせる低いアルトの不思議な響き。呼びかけられる前から、彼がこんな声色だって知っていたような気がする。