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ミモザの冠(ティル)

 バイオリンの音色が響く。豊かな音域は、ジャンヌの成熟さを物語っているようだ。まさか、こんな…こんな場所で再会するとは。囚人リストには、ユダヤ人と記されていた。ジャンヌがユダヤ人? 有り得ない。ユダヤ人狩りの人数合わせのために、フランスでは一般市民でさえ無作為にユダヤの烙印が押されているとでもいうのか。

 ジャンヌ……記憶の中の彼女は、まだあどけなささえ残す少女。彼女と過ごした時間に思いをはせれば、いつだって蘇るのは……。もがいても、もがいても、蜂蜜の糸のように甘美な快楽が身体を絡め取る。逃れられない……理性と本能の狭間で気が狂いそうだった。

 固い蕾がゆっくりとほころんでいく様を眺める高揚感。一体何人の男が、こんな魅惑の官能に堪える事が出来るのか。この上ない幸福と底無しの絶望を、常に背中合わせに感じていた。


「ティルって呼んでもいいかしら? 叔父からいつもお噂は聞かされてましたの。お会い出来る日を楽しみにしてたのよ。私、ソフィです…あぁ、まずお礼を……命懸けで叔父を救ってくださったのよね、勇敢でいらっしゃる」

 コーネン所長が先程姪だと紹介していた女を眺める。ドイツ女にしては小柄な体。遠慮深い口調を装いながらも勝ち気な眼差しはコーネン所長にそっくりだ。悪くはない、清楚さが好みのヒットラーには受けないかもしれないが、男ならそそられる奔放そうな美人だった。

「お礼など。ドイツに欠けてはならない人材を守っただけの事です」

 ソフィは満足気な含み笑いをこぼした。

「あの方……囚人? には見えないわ。ここはユダヤ人以外の者も捕らわれているのかしらね」

 ソフィは演奏するジャンヌに視線を流した。地味な黒いワンビース。だがそんな装いだからこそ、一層ジャンヌの美しい肌とプラチナブロンドは控えめな照明の中で妖しく浮き上がる。息を潜め闇に紛れれば、蛍のように美しくも儚い輝きで目にする者を魅了するのだ。変わらない……七年前と何一つ。

 弓を大きく振り上げて、ジャンヌは“シャコンヌ”を締め括った。称賛の溜め息が部屋を包む。

「バイオリニストをここに」

 給仕をしているボーイに声を掛けると、彼はジャンヌを従えてこちらに戻ってきた。

「この女はなかなか掘り出しものだったな」

 ソフィの脇に立ったコーネン所長が満足気に呟く。目の前まで辿り着いたジャンヌは、全く感情をみせない表情で息を殺し立っている。こんな至近距離で顔を突き合わせても、感情を全く伺わせない無表情な眼差し。

「コーネン所長、今更ですが是非ひとつお願いがあるのですが……」

「なんだ改まって」

 俺の言葉に興味深そうに耳を傾けてながら、コーネンの口元がゆっくりと持ち上がる。

「今日から一ヶ月、こちらの屋敷でお世話になる訳ですが、メイドを一人つけて頂きたい」

「メイドを? 別に構わんが」

「この囚人を指名したいのですが」

 意外な申し出だったのだろう、きょとんとした眼差しを向けてくる。そして、一瞬黙り込んだあと、可笑しそうに笑い始めた。

「この女をね……いや、無理もない。確かに興味をそそられる女だ。だが、ユダヤ人の女と関係を持つのは君も知っていると思うが」

 会話を交わす間に挟まれているソフィーが、明らかに居心地の悪そうな顔をしている。自分を差し置いて、他の女が注目されるのはお気に召さないらしい。

「関係? 男と女のですか。とんでもない、そんな事をしたらゲルマン民族の血が汚れてしまう」

 そう俺は判で押したような、ヒットラーの思想を復唱してみせた。

「私はこの女の世話をさせられていた事があるのです。戦争が始まる前、ほんのひと時ですが」

「世話を? まぁ、この方ティルのお知り合いだったの」

心底驚いた様子で、ソフィーが話に分け入ってくる。

「まるで奴隷のようにこき使われたのです。まだ子供みたいな年だったこの女にね。その家は南フランスでは有名なワイン畑を持つ資産家で……出稼ぎの私は奴隷のように働かされたのです。こんな偶然に自分でも驚いていますが、あの時のツケを精算する絶好のチャンスなのかもしれない。私にとって人生の汚点ともいえる時代だった。下働きなど縁もゆかりもないこのブルジョワ娘に、俺の歩いた床を磨かせるのですよ。ユダヤ人である自分の立場ってモノを思い知らせるいい機会だ」

「ほう、こんな場所での再会とは偶然だな。しかも、ティル・ハイルマンを奴隷のようにこき使っていたとは恐れ入った」

 コーネンは興味深げにじろじろと、ジャンヌを舐めるように眺めている。どう決断を下したらよいのか考えているようだ。 

 俺はベルトからぶら下げたダガー(短剣)を抜き取ると、おもむろにジャンヌの目の前にかざしてみせた。手入の行き届いた刀身に、刻まれた親衛隊のモットーが浮かび上がる。

“忠誠こそ我が名誉”

「跪け」

 低い声でそう令を下すと、ジャンヌは躊躇う事無く従った。ピン一本で結い上げていた髪を崩し、乱暴にひと房手に取る。隣に座るソフィーが息を呑む空気が伝わってきた。

 ザクッ、ザクッ。

 切り取ったジャンヌの髪が、はらはらと床へと舞い落ちる。

 ザクッ、ザクッ。

 途惑うことなく淡々と髪をナイフで切り刻んでいく。

「この長い髪でどれだけの男達をたぶらかせてきた? …だからユダヤの女には悪魔が宿っていると言われるのだ。どうだ、今のお前に相応しい髪にしてやったぞ」

 顎のラインでジャンヌの髪はぷつりと断ち切られた。ダガー(短剣)のせいか、長さが不揃いになっている。彼女は一切の抵抗をしなかった。生き延びる為の立ち振る舞いは心得ているらしい。

「いい趣味だな、ティル。お前を奴隷のようにこき使ったユダヤ女への復讐とは面白い。この女はここにいる間、お前の世話に使うがいい。収容所から通わせるとシラミを持ち込まれる。屋根裏の女中部屋がひとつ空いているから、そこで寝泊りさせろ」

 ゆっくりとジャンヌは立ち上がった。そして何もなかったような落ち着きのある足取りで、ピアノの前へと戻っていった。自分の手に握り締めていたジャンヌの髪をそっとポケットにしのばせる。

「随分と手荒な事をなさるのね」

 途惑った表情でソフィーが話し掛けてくる。

「相手によりけりですよ。私はちゃんとしたレディーには紳士だ」

 思わせぶりな視線でソフィーを見つめると、その台詞は彼女の自尊心をくすぐったようだ。満足げにシャンパングラスを傾け視線を絡めてくる。

 ソフィーのものとは違う視線を感じた。ピアノの方角…バンドネオンを抱えた男が、こちらを見据えて歩み寄ってくる。

 ぞくり、青白い炎のようだ。この男、ただのバンドネオン奏者という訳ではなさそうだ。

「コーネン所長、お望みのものを手に入れて参りました」

 男はふいに視線をコーネンに向け、一瞬にして愛想の良い笑顔を溢してみせた。ボソボソと、コーネンの耳元で声を潜めなにやら囁いている。男が差し出した葉巻を、コーネンは満足げに受け取る。そして、先端をナイフでカットすると差し出されたマッチで火を付けた。

 この香り、コイーバではないか。キューバ産の最高級だ。戦況の行き詰まった今、やすやすと手に入るものではない。

「大佐殿もいかがですか?」

 男が不意に話し掛けてくる。コーネンに向けていた時と同じ笑顔。

「いや、私は煙草はやらないので結構だ」

「ではコニャックはいかがですか? フランス産の最高級物をお持ちしますが」

 ブラウンの髪を無造作に伸ばし、長い睫毛で視線を流されると女に誘われているような気さえする。体つきを見てみれば、線が細いながらも男らしい筋肉が服越しに伺える。

「カール、もう一曲タンゴを弾いてくれ。女が情熱的になるようなやつをだ」

 コーネン所長が、そうリクエストをすると、カールと呼ばれた男はうやうやしくお辞儀をした。そのうしろ姿を見送りながら探りを入れてみる。

「あの男……何者ですか? こんな葉巻を一体何処から」

「ポーランド育ちのドイツ人だ。街でドイツ兵を相手に洒落たナイトクラブを経営している。色々とこの物資不足のご時世に役に立つ男でな、まぁ、ここポーランドでは顔が広いのだろう。何かと欲しいものを調達してくれるのだ。しかもバンドネオンも得意だというので、パーティがあるとたまに演奏を頼んでいる」

 ポーランド育ちのドイツ人……。ドイツ主要の強制収容所はほとんど、占領国であるこのポーランドに点在する。あちこちの収容所で、闇市から仕入れた高級品を売りさばいているという事か。だが、侮れない男だ。本能がそう囁いてくる。

 演奏者達の居る場所に奴が近づいていく。ジャンヌの脇を通り過ぎ様に、奴はそっと彼女の肩をいたわるかのように触れた。先程の騒ぎで、ジャンヌにユダヤ人の烙印が押されている事は承知のはずなのにだ。再びタンゴの音色が響く。

「踊ってくださる?」

 ソフィーが立ち上がり手を差し伸ばしてくる。

「喜んで」

 指を絡め、頬を合わせ、タンゴの小気味の良いリズムに身を任せる。力を抜いてソフィーをリードする。バイオリンの音だけが際立って鼓膜を揺らす。ジャンヌ、君の奏でるタンゴで他の女と身体を寄せ合うとは……一体どんな運命の悪戯だ?

 夕陽が落ちる浜辺で、君にタンゴを教えた。ちぐはぐな背の違い。この胸に頬をすり寄せ、裸足の君が悪戯に脚を絡めてくる感触が蘇る。どんな女も代わりにはならない。ソフィーと踊りながらそれを改めて噛み締める。


 ジャンヌがボーイに連れられ部屋に連れて行かれる後姿を見届け、自分もあてがわれた三階の角部屋へと戻る。大きくせり出したバルコニーからは、収容所の灯りが眺められた。何重もの有刺鉄線に囲まれた建物が不気味に広がっている。

 冬はマイナスニ十度にも気温が下がるこの地も、まだ夏の名残を感じさせ風は心地良く頬を撫でる。ポケットに手を入れると、ジャンヌの柔らかい髪が指先をくすぐった。そっと取り出し、手の平をひらくと、夜風にぱらぱらとさらわれていく。

 ジャンヌ、ジャンヌ。この僅か数百メートル向こうの敷地で、どんな悲劇が繰り返されているか……。想像を絶する。口にするのもおぞましい光景だった。戦争とは全く関係ない無意味な殺戮。人間とは思えない程にやせ細り、生気を抜き取られた人々の群れ。

 嫌悪感で吐きそうにさえなった。悪魔に心を売り払ってでも、あんなところにジャンヌを行かせるわけにはいかない。真っ直ぐに見つめてくるジャンヌの眼差しは、ガラス球のように静かなものだった。

 俺との再会をどんな気持で受け止めたのだろう。彼女にとって一緒に過ごしたあのひと時は、ほんの戯れのお遊びだったかもしれない。目の前に現われたのは、ただ忌まわしいナチスの男だと、心の底から俺を嫌悪しているかもしれない

 憎まれてもいい。それが彼女を生かす道ならば。ひと時、収容所行きを免れたとはいえ、ここはあの隙のないコーネン所長の屋敷。どこで監視の目が光っているか気を許せない状況だ。

 ジャンヌにすら悟らせてはならない。彼女の命を守る為に俺が画策している事を。




 出逢いは南フランスの片田舎だった。高台に広がる町をミモザの花が染め上げていた。黄色いボンボンにも似た花弁は春の柔らかな陽射しを含み、ふわふわと悪戯に揺れている。溢れるほどにその花を纏った木の下で、ジャンヌは片膝を抱えて座っていた。

 学生服に相応しく髪を三つ網に編んでいたが、その装いとは不釣り合いな大人びた眼差しを向けてくる。街に向かう小道に人影はなく、時間が止まったかのような午後。俺は海沿いの道よりバスを降り立ち、右も左もわからない状況で街を目指し坂を登り始めたところだった。何故、こんな所に少女が座っているのか不思議に思った。彼女の頭上でミモザの花が、黄金色の冠のように垂れ下がっている。

 視線が絡む。ここで出逢うと知っていた……そんな不思議な感覚に包まれる。一歩づつ坂を登り、少女に近づいていく高揚感。変な外国人だと怪しまれるのではないか。そう自覚しながらも視線を反らせられない自分がいた。

 鞄を握りしめる自分の掌が、汗でじっとりと濡れている。何を意識している。たかが子供みたいな女ではないか。彼女の視線がふと俺の肩越しの海に流れる。潮風が、昂ぶる神経を優しく撫でていく。その風さえも彼女に操られている錯覚。

 何に翻弄されている、湧きあがる心のざわめきは一体なんだ? 彼女の横を素通りする事ができなかった。立ち止まり、真正面からその姿を捕らえる。投げ出した片足の白さが、眩しいほどの若さを物語っていた。緩く編み込んだ三つ網が、彼女の両頬で揺れている。白いブラウス、紺色のプリーツスカート、ジャケットには凝った金ボタンが並ぶ……こんな田舎町には不釣合いな学生服だと思えた。

「見ない顔ね、旅行者?」

「いや、働きに来たんだ」

「こんな街で働きたいなんて、物好きな人がいるのね」

 からかうような声色。ルージュなど引いてはいないものの、果実のようにふっくらとした唇。どうかしている…。覗き見をした時のような罪悪感さえ湧いてくる。

「足をくじいちゃったのよ、これじゃあ、歩けないわ」

 そっと、少女は指先で足首を撫でた。蝶が……彼女の手の甲に小さな蝶が止まっている。無意識に視線は囚われていた。その眼差しに気づいたのか、もっとよく見えるようにと彼女は手を差し出してみせた。

「私の小さなパピオンに挨拶してくださる?」

パピオン……フランス語で蝶を意味する。彼女の手の甲で羽を休めているのは、決して飛び立つ事のない蝶の形をした痣だった。

「この痣……足をくじいた時にぶつけたのか?」

「いいえ、生まれつきよ」

“私の小さなパピオンにご挨拶してくださる?”

 頭の中でさっきの台詞がこだまする。レディのように差し出された手に、気付けばそっと口付けていた。

「あたしジャンヌよ、あなたフランス人じゃないわね。でもフランス語、上手だわ」

 つられて、自分の名を告げていた。

「ティルだ……家は遠いのか?」

 ジャンヌは言葉で答える代わりに、指で示した。坂の下の海岸線に広がる……あれは葡萄畑か? 広大な敷地。

「ねぇ私、イエスが背負った十字架よりは軽いわよ」

 一瞬、唐突なその言葉が意図するものが掴めなかった。ジャンヌはくすくすと笑いを噛み殺している。まさか、おぶって連れて行けといいたいのか。登ってきた坂道を再び下れと?

「俺が君を背負う? 十字架を背負うみたいにか。一体どんな罪でだ」

 ジャンヌは唇の端を上げてみせた。いっぱしの大人の女のように艶やかに、だ。

「年端のいかない女に、欲情した罪よ」




 コーヒーの匂いが漂う。香りに誘われ、目覚めの余韻に浸る。背を向けた女が、テーブルに朝食を並べていた。乱雑に切りそろえられた髪から青白い首筋が覗いている。昨夜と同じ黒いワンピースに腰を包む白いエプロン。

 夢を見ていた。懐かしいミモザの花が溢れていた。三つ網のおさげ。初めて口付けたジャンヌの皮膚の感触。

 ギシッ。身体を横に傾けると、ベッドのスプリングが僅かな音を立てた。びくりとメイドの肩が跳ね上がる。そしてゆっくりと振り向いた。

「……グーテン・モアゲン」

 随分と他人行儀な朝の挨拶をドイツ語でしてくる。幼さなど微塵もない、大人の女に変貌したジャンヌがそこに居た。ベッドから裸の上半身を起こすと、ジャンヌは椅子にかけてあった薄手のガウンを肩にかけてくれた。添えられた白い手の甲には…あの時と変わらないパピオン(蝶)の痣が刻まれていた。懐かしさに眩暈がする。俺の世話を焼きながら、ひらひらと飛び回る紫の蝶。

「ジャンヌ、靴を磨いた事はあるか」

 その問いかけに、彼女はゆっくりと首を横に振った。ジャンヌの細い手首を掴み、引きずるようにバルコニーに連れて行く。そして収容所の一角から煙を流す、煙突を指差してみせた。

「何の煙かわかるか?」

 ジャンヌは再びゆっくりと、首を横に振ってみせた。

「役に立たないユダヤ人を焼却している。お前もあの仲間に入りたいか?」

 ジャンヌはじっと収容所を眺めた。その瞳からは、恐怖やおびえた様子は伺えない。ただ真実を確かめようと、食い入るように収容所の煙突を眺めている。

「俺は昼間、仕事で出掛けている。その間メイドの仕事を他の者からじっくりと教えてもらえ。何も出来なければ役に立たない人間として、辿り着く先はあの焼却炉だ」

……本当は、抱き締めてしまいたいのに。小さな君のパピオン(蝶)に、再会の口付けを捧げたい。こんな異常な状況でさえ、彼女を求める火種をくすぶらせるとは。

 まだ夜気の名残のある朝の空気が、さらさらとジャンヌの短くなった髪をなびかせる。あそこまでのパフォーマンスをみせなければ、コーネンはジャンヌをメイドにする事に興味を示さなかっただろう。ジャンヌが俺の視線をはぐらかすように、すっと部屋に戻っていった。見つめすぎたのかもしれない。その時だった、ドアをノックする音が響いたのは。訪れたのはソフィーだった。既に着替え、化粧まで済ませてある。

「ねぇ、よかったら、一緒に朝食をいかがかしら?」

 気をつけなければ、そう、特に同じ屋根の下で一緒に過ごすソフィーには。女は勘が鋭い。釘を刺しておく必要がありそうだ。

「彼女の朝食をこちらの部屋のお運びしろ」

 そっけなく言い放つと俺は立ち上がり、レディの為に椅子を引いた。

「こんな寝起きで失礼。今朝は少し朝寝坊をしてしまった」

 いいのよ。そうソフィーは口にすると、いつもの自分はもっと遅くに起きるのだと告白してくる。ここにいる間は家族みたいなものよ。堅苦しいのは私趣味じゃないの。こんな女はお嫌いかしら?」

「……いや、大歓迎だ」

 ジャンヌがソフィーの分の朝食を運び込んでくる。黙々と静かに、意外にも手馴れた様子でメイドの役を見事に演じている。時々ソフィーがジャンヌの様子をチラリと盗み見ている。明るい色のワンピースを艶やかに纏う女の隣で、影のように色を潜めながらもジャンヌは美しい。気になるのだろう。女のサガというものだ。

「おい、朝食の準備が済んだらさっさと靴を持っていけ。三十分後には綺麗に磨き上げてここに運んで来い」

 部屋の隅に置いてあった軍服用のブーツを、俺はわざと乱暴にジャンヌの足元に投げつけた。ジャンヌがかがんでそれを拾い上げる。

 自分の椅子に戻る前に、そっとソフィーの背後に忍び寄る。アッシュブロンドの巻き毛。その髪をひと房すくい上げると、意味ありげに口付けてみた。

「ティル……くすぐったいわ」

 媚を匂わせる甘えた声でソフィーは顔を赤らめた。媚を含んで見上げてくる瞳はシルバーグレイに輝いている。黙り込んだままジャンヌが、靴を抱え部屋を出て行くのが目の端に映る。

 どこかで安堵している自分がいた。だが、観客が退散しても続けなければ。ソフィーが期待している気配が伝わってくる。

 そっと目を閉じると、夢の続きが浮かんで消えた。瞼の奥の残像は、三つ網をほどいたジャンヌのウェーブを描くプラチナブロンド。柔らかな髪をこの手で梳いた感触が蘇る。身体の奥底でぶすぶすと、欲情の火種がくすぶる。

 たまらない気分でソフィーの髪に、鼻先を埋め再び口付ける。けれども俺の鼓膜を蕩けさせる、あの甘い吐息とは違う女の息づかいが聞こえるだけ。

 ミモザの花は何処にもない。短い夏を終え冬に向かえば、何もかもが死に絶える、荒れた大地が広がる事だろう。

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