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タンゴの調べ(ジャンヌ)

「何か一曲弾いてみろ。コーネン所長が直々に審査してくださる」

 ドイツ人兵士が楽器を手渡してくる。ヴァイオリンを手にし、そっと左手で指を揉み解す。失敗すれば、先程のヴァイオリニストと変わらぬ運命が待っている事だろう。

 だが何を躊躇する必要がある? もう二度と楽器を手に出来ないのだと、あの貨車に乗り込む瞬間感じた絶望を思えば、これは神が授けてくれた最後のチャンスに違いない。

 真っ直ぐに黒い軍服の男を見詰める。その時だった、斜め前に立つ制帽を目深に被った男が視線に入りこんだのは……。どくんっ。と、心臓が大きく跳ね上がる。

 悪い癖。記憶の片隅に刻まれた男と似ている人に、つい目をとめてしまう。こんな時にまで。演奏前だ。心をかき乱さぬよう小さく息を吐き瞼を閉じる。だが瞼の裏から色褪せる事無く、彼はいつだって私の心に覆い被さる。

 人生最期の演奏になるかもしれない。ならば、せめてこの曲を捧げる相手は素直に心委ねるままに。とりあえずは命を繋ぐため、招かざる観客に向かってお辞儀をする。そして顎にヴァイオリンを添え、一気に弓を引いた。

 選曲はChaconne……バッハ、「パルティータ第2番ニ短調 第5楽章シャコンヌ」

 四本の弦を同時に弾く事が出来ないヴァイオリンに、あえてこの曲は三重四重の重音を要求してくる。音を微妙にずらしながら、連ね奏でる高度な技法。だが冒頭のほんの数小節で、観客を虜にする魔力が秘められている。

 もしもバッハがこの一曲しか作曲せずにこの世を去ったとしても、彼は大作曲家として後世にまで名を残したであろう。ヴァイオリンの持つあらゆる技法を組み合わせ、極限にまで高めた傑作。運命を、宿命を…たったひとつの楽器が魂の叫びを響かせる。旋律と一体化する至福のひと時。何処に立っているのかなどという感覚は、あっという間に消え失せていた。観客がナチでもゲシュタポでもヒトラーでも、そんな事はどうでもいい。生きている。ただこの瞬間を、和音進行257小節の中に燃やし尽くす。


「クラッセ(素晴らしい)」

 パンパンと響く低い拍手に我に返る。拍手の贈り主は、意外にもコーネン所長と呼ばれていた黒い軍服の男だった。額に流れる汗を手の甲で拭い初めて、最後まで演奏し終わったことに気付く。十五分以上もあるこの曲を、聞き届けてもらえるとは思ってもみなかった。

「ドイツの誇る偉大な作曲家バッハを選ぶとは、なかなか身の程をわきまえている。どこのオーケストラに所属していた」

「いえ、音楽院の学生です、オーケストラに所属する機会にはまだ……」

 貴方達の戦争のせいで。その一言はぐっと飲み込んだ。この男が、全てを握っている。私の命の行く末そのものさえ。視線を流してはいけない。気になる隣の親衛隊員に視線を移そうものなら、どんな言い掛かりをつけられるか分からない。

「この女を今晩のパーティの演奏者に混ぜろ。収容所には今日は連れて行かずに、監視人のシャワーにでも放りこんで、その薄汚れたなりを整えさせろ」

 カシッ。コーネンの言葉に踵を合わせ兵士が敬礼をする。とにかく、審査は通過したらしい。

 右と左。どちらの列にも並ぶ事なく、訳が分からないままに、歩き出すようにと兵士に背中を押される。視線を背後に感じながら、頭の中では先程視線を奪われた親衛隊の男が、ヴァイオリンの音色と共に繰返し浮かんでは消えていた。

 似ていた……七年前の記憶の彼に。いつの間にそんなにも月日は経ってしまったのか。薄い唇。滑らかな顎の形。制帽に遮られ、他は比べようもなかったけれど。こんな場所でさえ、彼の面影に惑わされるだなんて。しかも見間違えた相手は、侵略者ナチス親衛隊の男ではないか。

 ナチス、ナチス。私から全てを剥ぎ取り、ユダヤ人の烙印を押した張本人。ほんの一週間前まで私は音楽院に通うありふれたパリジェンヌだった。そう、ほんの一週間前までは……。

 かつて国王の首と引き換えに手にしたフランスの自由は、一体何処に消え失せたというのだろう。ナチスドイツ占領下パリの人々は、一見平静を装いながらも、容赦無い監視と干渉に神経を高ぶらせていた。服従の姿勢を崩さなければ、侵略者達は紳士的ですらあった。だがそこからはみ出した者や、ユダヤ人に対しての扱いは常軌を逸するものがある。

 音楽院では、見慣れた教授や生徒が、ある日突然胸にユダヤの印、黄色い星を縫い付ける事を強要された。才能溢れる彼等が目立たぬようにと息を殺している……魂を抜かれたように。そしてある日、忽然と姿を消すのである。安全な場所へ身を潜めているのだと願いたい。だが何人ものユダヤ人が、ゲシュタポ(秘密警察)に連行されていく姿を日常的に目にしていた。

 悲しい出来事だと胸を痛めながらも、所詮私は傍観者であった。自分がユダヤ人狩りの対象になるなどと、夢にも思っていなかった。

 きっかけは父が残してくれた遺産のひとつ、セーヌ河を眺められ洒落た外観で人目を引く高級アパートメント。ただここにナチの将校達が、居心地の良い住居を構えたいと思い付いただけなのだ。アパートメントの住人は徹底して身元を洗われ、言いがかりとしか思えない理由で次々と追いたてられた。抵抗をすれば反ナチ主義、黙りこめばレジスタンスだと密告された。適当な……けれども抜け目のない理由を掲げ住人を追い立て、奴等はカッコウの雛のように他人の巣に居座るのだ。

 今すぐにフランスを出よう。スイスあたりへ戦争が終るまで、身を置くのも悪くない。音楽院はまた平和な時代に復学すればよいのだ。そう覚悟を決め、身支度を始めようとした時だった……呼び鈴が鳴ったのは。武装した三人の兵士を従えたドイツ人将校が、薄い笑いを浮かべて立っていた。

「ジャンヌ・ブルーニだな。21歳、パリ・エコール・ノルマル音楽院在学」

 値踏みするような灰色の瞳に、ドイツ軍人特有の冷淡さが滲んでいる。

「マドモアゼル、貴女はご自分にユダヤの血が混じっている事をご存知だったかな?」

 言い掛かりだ。血の気が引いていくのがわかった。

「……この私の何処にユダヤの血が混じっているというのですか」

 あまりの衝撃に、声が震えていた。

「貴女は母方の祖父母の事を、何処まで知っている?」

「母の……?会った事もないですわ。私が生まれるより以前に、亡くなられたと聞かされていました」

「母上がオランダ人だということは?」

「知っています。でも、母も私が十歳になる前に他界しておりますの」

 頭が上手く回らない。質問に答える自分の声が、他人のもののように感じていた。

「母方の祖父母はオランダ人でユダヤ教徒だった。つまり貴女は、一親等ユダヤ混血児ということになる」

 こんな……こんな事は言い掛かりに違いない。私をここから追い出す為の作り話だ。

「母上は、フランスに来てから改宗している。国をまたがり結婚している家系で、貴女のような半ユダヤ人の認定は難しくてね。全くタチが悪い。ちゃっかり皆の中に紛れ込み、普通の市民のような顔で生活しているのだからな」

 忌々しいとでも言いたげな口調。そう、私の存在自体が。ぞくり。背筋が寒くなる。

「私、今日このアパートメントを引き払う予定ですの。家具も置いていきますから、お好きに使って下さって結構ですわ」

「おやおや、これは物分りの良いお嬢さんだ。なにも連行しに来た訳ではない。一親等ユダヤ混血児は、自身がユダヤ教を信仰していない限り、ユダヤ人とは区別している」

 強制収容所への連行対象ではないのか……ほっと胸を撫で下ろす。ずいっと、軍服の男が歩を進め、互いの距離を狭めてくる。そして、息がかかるような距離で値踏みするような眼差しを向けてきた。

「プラチナブロンドにグリーンアイズ。貴女のように美しいパリジェンヌをユダヤ系だと疑う者は皆無だったはず。いや、もう一度良く調べてみるか。もしかしたら万が一の間違いということもありえる。

汚名を晴らすチャンスがあるかもしれない。ただ、貴女が私をその気にしてくれると言うのならば…だが」

 その気? 回らない頭で。ぼんやりと頬に伸びてくる男の指を眺める。ねっとりとした男の指の感触で我に返り、反射的にその手を乱暴に振り払っていた。

「女を口説くのに条件を出すなんて……だから、ドイツの男は野暮なのよ」

……しまった、と思った時には遅かった。口は災いの元、けれども時、既に遅しだ。憮然とした表情で男は肩をすぼませて見せた。けれども、部下の前で恥をかかされた怒りが、瞳から滲んでいた。彼はコツコツとブーツの踵を響かせリビングの中に入っていく。蓄音機の脇の棚に並べられたレコードを眺めては、一枚、二枚と抜き取り、テーブルに並べはじめた。

「音楽院生だそうですな。さすが、レコードのコレクションが充実している。……だが」

 男の唇の端がゆっくりと持ち上げる。

「やはり、あなたの身体に流れるユダヤの血は隠しようもないらしい。これらユダヤ人が作曲した退廃音楽はヒトラー元帥より排除令が出ているはず」

 ドイツ将校が並べたレコードに視線を走らせる。マーラ、メンデルスゾーン、シェーンベルク……。机の上の作曲家達がユダヤ人なのだと意識した事もなかった。音楽を人種で区分けすることなど無意味だ。魂にどう響くか、それが全てではないのか。

「マドモアゼル、残念です。他のレコードは私が大切にお預かりいたしましょう。貴女が再びここに戻ってくる日までね。一親等ユダヤ混血児である上にユダヤ人の退廃音楽を保護している事実は、貴女を最終的にユダヤ人として認識する有力な証拠となってしまった。ユダヤ人は有害だ。一般市民からは隔離する必要がある。持てる荷物は鞄ひとつ。十五分で新しい生活の為の荷造りをして頂こう」

 私はこの瞬間からユダヤ人になった。そしてパリの街から姿を忽然と消す、ありふれた運命をなぞる事となる。私はこの収容所までの数日間で悟ってしまった。戦争という名の狂気がどんなに人を残虐にできるのか、また命の価値を石ころのように変えてしまうのかを。

 忽然と姿を消したパリのユダヤ人達は、フランス国内の収容所に一時皆集められる。そして各収容所へと振り分けられるまでの数日間で、死と馴れ合いになるという異常な感覚を身に付けてから汽車に乗り込むのだ。パリ市民の前で、ナチによる公然とした残虐行為は控えられていた。実際に連れ去られた人達がどんな目にあうのか……様々な噂はあったが、どれも到底信じられない話だった。だが全ては現実だった。

 塀の中では人間の尊厳は剥ぎ取られ射殺は日常、裁判もなく看守の判断ひとつで命が弄ばれる。そして更なる地獄と噂されるこんな場所に辿り着いてしまった。絶望の中、降りたったこの地で軽快なマーチに出迎えられ、自らもヴァイオリンを奏でる事になるとは。人生とは思わぬ出来事がきっかけで、全く予想もしない歯車が回るものだ。



「もたもたするな。シャワーが済んだらこれに着替えるんだよ。コーネン所長のお宅にシラミなんか落としてきたら、ただじゃすまないからねっ」

 シャワー室についてきた女監視員が、舌打ちを鳴らし服を投げつけてくる。何もかも顔のパーツが大きい、野暮ったいドイツ女。口のききかたをみれば、教養の無さがわかるというものだ。無知な者ほど権力に溺れ、声を張り上げて己の優位性を誇示してみせる。けれども、こんな女ですら私の命を誰の許可も取らずに弄ぶ事が出来るのだ。

 狂っているおかしいではないかと、声を張り上げ言いたい事は山のように積み重なっている。けれども口にすれば、行く末には死があるのみ。私は死ぬ事が恐いのか。一体、何に未練があるというのか。自分でもよくわからない。

 女監視員に渡された服は、質素ながらも清潔な黒いワンピースだった。袖を通し髪を整えると、更に別室へと連れて行かれる。同じワンピースを纏った女性奏者が二人、チェロとピアノの音合わせをしていた。

 ちらりとさえ彼女達は、新参者の私を見ようともしない。お互いに、挨拶を交わす事もなく黙り込んだまま楽器を鳴らし始める。窓の外は、夕日が空を染め始めていた。なんと長い一日だろう。つまらなそうな様子で椅子に座っていた女監視員が、ふと部屋の外に出て行った。重苦しい空気の隙間で深い溜息をつく。

「ボンジュール(こんにちは)ジャンヌよ。今日ここに着いたの」

 ドイツ語でも英語でもなく、今宵のパートナー達にフランス語で声を掛けてみる。二人は顔を見合わせると、少し安堵した様子を見せた。

「……さっきプラットホームで貴方が演奏したシャコンヌ、素晴らしかったわ」

 小さく声を落としてチェロリストが、少したどたどしいフランス語で囁いてくる。

「今日のパーティに出られるなんてついてるわよ。ほんの少しだけど、甘いものを口にできるの」

 ちらちらとドアに警戒した視線を泳がせながら、流暢なフランス語でピアニストが笑いかけてくる。二人とも若く、世代も同じくらいだと伺えた。チェロリストはカリス、オランダ人。ピアニストはマリー、フランス人。ここがパリのカフェならば女同士、おしゃべりに花を咲かせる事だろう。

「綺麗な髪、でも目立つわよ。これで隠した方がいいわ。ここではね人目を引くというだけで、死に結びつく事があるの」

 マリーが自分の髪を覆っていた黒いスカーフを手渡してくる。露になったマリーの黒髪は随分と短いものだった。私の視線を感じたのだろう、マリーが「これでも大分伸びたのよ」とおどけてみせた。

「ジャンヌ、あなた、皆と違って列に並ばずにそのままここに連れて来られたから、切られなかったのね。最初、女でも髪を刈られるの。まるで男のように……それにほら」

 マリーはそう震える声で話をしながら、袖をまくり細腕をさらして見せた。彼女の白く細い腕には、刺青された数桁の英数字が並んでいた。


 コーネン所長の屋敷は、収容所から車で数分ほどのところにあった。車になど乗らずとも、収容所の門まで歩ける距離だ。優雅な外観、美しく連なる外灯。まるで別世界だ。すぐ隣に飢えと暴力が渦巻く強制収容所が存在するとは信じられない。室内では既に着飾った人々が賑やかに談笑していた。

 磨き抜かれたピアノの前で、いつどのように演奏を始めてよいのかわからず、女三人背筋を伸ばしただ立ち尽くす。限られた時間でとりおこなった先程のリハーサルは、上出来と言っていい仕上がりだった。渡された楽譜には意外な選曲もあり、演奏する楽しみさえ湧いてくる。堅苦しいクラシックだけではなく、雑食とも言える好奇心で様々なジャンルに手を出した経験が、こんなところで役に立つとは。

 一人の男が見慣れない楽器を手に近づいてきた。アコーディオン?いや鍵盤がない、これはバンドネオンだ。話し掛けられた言葉はドイツ語だった。日常会話程度なら理解できる。

「アンタが新入り? 大丈夫かよ、俺、今日は他の収容所に借り出されていてさ……一緒にリハーサルもできないままだったけど」

 囚人なのだろうか? 白いシャツを纏い身なりは整っている。ブラウンの髪を長めになびかせ、中性的な顔立ちをしていた。唇を尖らせ不機嫌を装う子供のような仕草に違和感を感じさせないなんて、不思議な印象を受けた。年は同じくらい……だろうか。

「リードしてくださる?ついていくから」

 男は椅子に座るとバンドネオンを手に小さく息を吐いた。

「グリュース・ゴット(あなたに神のご加護がありますように)」

 私の耳元でそう小さく呟くと、始めるぞと皆に目配せをよこす。マリーは素早くピアノの前に腰を降ろした。

 唐突に鳴り響いた旋律はタンゴ。皆の視線が一斉にこちらに注がれるのがわかる。独特なタンゴのリズムを、歯切れよく細かく刻んでいくバンドネオン。情熱を叩き出すピアノ、哀愁を帯びたヴァイオリンとチェロの音色が絡み合い、酔うような雰囲気を紡いでいく。

 肩を露にするドレスを華奢な紐で吊った異国の女達が、軍服を纏った男達に誘うような眼差しで手を差し伸ばす。彼らの妻と言うには色香が溢れすぎていた。何処から調達してきた女達なのか。

 切ない音色、タンゴは男と女の色恋沙汰をなぞるよう、時には優しく、時には激しく鳴り響く。恋を奏でるのに、これ以上相応しい音色があるだろうか。そして、それは淡い恋の日々をも回想させる。

 この旋律を耳にするといつも、潮風の香りがした。裸足のまま、タンゴのステップを踏んだ柔らかい砂浜の感触が蘇る。あの人も覚えているのだろうか。何処かでタンゴの音色を聴いた時に、私が絡めた指の感触を思い起こしてくれるのだろうか。

 あ、いた。あの男だ……。ダンスフロアの向こう端に、あの親衛隊の制服を着た男はいた。背の高さと金色の髪の色合いで私の目を引いた。ボーイからシャンパングラスを受け取っている。うしろ姿まで似ているだなんてね……苦笑いを噛み殺す。

 彼に女がひとり近づいていく。途中、女は助けを求めるように振り返り、コーネン所長に目配せをした。コーネンは笑いながら立ち上がり、女の手を引くと彼の背後へと近づいていった。

 バンドネオン奏者がちらりと合図を送ってくる。その意図を読み取り、楽譜より早いタイミングでエンディングのフレーズを奏でる。不自然さの欠片も匂わせず、完璧にドラマティックに。音色が途切れるのと共に拍手がおこった。その称賛を自分のものだとでも言いたげに手を挙げながら、コーネン所長がフロアの中央に歩み出る。

「お集まりの皆様に紹介したい人物が二人おります。一人はこの麗しい乙女、姪のソフィー。独り身の私を案じてベルリンから遊びに来てくれました。そしてこちらは陸軍の英雄を、私が親衛隊に引き抜いたティル・ハイルマン大佐。大佐には収容所の親衛隊員に特別訓練を叩き込む為、一ヶ月の期限付きで来ていただいた。最近親衛隊入隊の規定が緩くなったのか、ひ弱な輩が多い。軍人の鏡であるハイルマン君に、皆の根性を叩き直していただきたい」

 ティル……ハイルマン。

 どくりと、心臓が跳ね上がる。鼓膜にまで響く心音を、沸きあがる拍手がかき消していく。拍手に応え、男が制帽に手をかけた。

 ティル・ハイルマン。

 感情を見透かせない蒼い瞳が露になる。まさか、まさか。

「おい、大丈夫かよ。震えているぜ」

 バンドネオン奏者が、そっと耳打ちをしてくる。

「なにか暖かいものでも飲むか?」

「……大丈夫よ……」

 目が離せない、食い入るようにティルと呼ばれた男を見つめる。七年の歳月は彼をより完璧な大人に仕立てていた。私の知っているティルとはどこか……いや、何もかもが違って見えた。

 腕を前方上方に伸ばし踵を合わせると、ティルは客人に向かい「ジーク ハイル(勝利万歳)」と、ドイツ軍人らしい挨拶をしてみせた。

「本日、コーネン所長よりお招きいただき、初めてこちらに足を踏み入れました。統制の取れた誇るべきドイツ帝国の収容所です。ただ、先日囚人に襲われ歯を折った者がいるとか。前線と変わらずにここも、小さな戦場であることを忘れてはいけない。己を高めなければそこには死あるのみ」

 女達が熱を帯びた眼差しでティルを見つめている。ヒットラーが賞賛するような完璧なアーリア人がそこにいた。背が高く強靭な肉体を持ち金髪蒼眼、そして一点の濁りもない白い肌。これらの要素を持つものは少なくはない。だが全てがバランスよく、美しさをも漂わせる男となれば稀な存在だ。

 前途有望な親衛隊のエリート。いつだって若さと美しさを武器にする女達は、より居心地の良い男の腕を探している。ティルは女達の熱い視線の中で、再び話を続けた。

「芸術を愛でるコーネン所長の演出に相応しく、収容所の入口ではバッハの音色に出迎えられました。

優秀なゲルマン民族はあらゆる分野で輝いている。戦いの合間に音楽で心の豊かさを味わうような余裕も必要です」

 心の豊かさ? あれは混乱した人々を音楽で操る為に奏でられているのではないか。死の収容所へ向かう行進の為のレクイエムではないのか。シャンパングラスを運ぶボーイが、バンドネオン奏者に何か伝言を伝えてくる。彼は頷くと素早くグラスをひとつ取り、ちゃっかりと口をつけた。

「アンタも飲む?」

 バンドネオン奏者が飲みかけのグラスを差し出してくる。周囲を見回すと皆の視線は主賓に向いていた。ぐいっと、彼の指の上から手を添えて、グラスを傾け一気に飲み干す。シャンパンの香りがふわりと鼻腔をくすぐった。

「アンタの出番だってさ、大佐から直々のリクエストだ。“シャコンヌ”だってよ……やれるか?」

 ティルがリクエストをしてきた。私の存在に気づいている。その事実に胸が高鳴った。

 ナチス親衛隊とユダヤ人の女。喜劇のようではないか。でもそんな運命の悪戯が、私達には似合っている。

 あの頃14歳の少女だった私は、目配せひとつでこの男を跪かせる術を持っていた。ベッドの上で愛し合う代わりに、いつでも望めば彼は口付けてくれた。彼は既に大人だった。そう、今の私と同じくらいの年。けれども私の従順なる奴隷だった。甘美な屈辱に溺れてもがいていた。あがらい苦しむ彼の姿が愛しくて……愛しくて、まだ膨らみさえ控えめな胸をときめかせた。

 再び巡り会えると信じていた。ねぇ、もう跪かなくてもいいわ。ヒールを履き背伸びをすれば、今なら貴方の唇に届くかもしれない。私が初めて愛した男。いや、あれを愛だったと当時、彼には理解出来ただろうか。

 愛を語るには私は幼すぎ、だが純真で残酷だった。

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