蝶の温もり(レオン)
心拍停止。気道を確保する為にリコの顎を持ち上げる。ワンピースの胸元をはだき、両手を添えて心臓マッサージを行った。即座に唇を近づける。血の気を失った紫色の唇。合わせれば、ひんやりとした体温を伝えてきた。
時間は見計らったつもりだ。溺れるという先入観が皆無だった事が災いしたのか、リコはなすがままに海の中へと沈んでしまった。だからほんの一、二分その身体を探し当てるのに時間がかかってしまったのだ。この状況での数十秒は生死を分ける。
ぐっしょりと濡れた身体に浮かび上がる胸元の蝶の痣。同じだ。あの夢に出てきた女、モニカの襟足の小さな蝶と……。死の淵をさ迷うモニカの冷たい唇が甦る。あれは夢だ。俺が生きているのは、ぺストが蔓延した中世などではない。
動け。息をしろ。強く胸を押すたびに、リコの身体が力なく揺れる。俺は何をした? 確かめたのだ、リコの裏の顔を。全てが演技かもしれない。何も知らない仕草、小さな出来事に目を丸くしてみせる、あどけない笑顔さえも。
あのオンラインのパスワードを探り当てるなど、個人の力では到底無理なこと。それなりの組織が絡んだ画策だと伺えた。ならばリコ自身、何らかの訓練を受けた工作員という事になる。どんなに完璧に取り繕い仮面を被ってみたところで、命に関わるような窮地に立たされれば、生きる本能が優先される。その術を身体に塗りこまれているのならば、必ず行動に移すはず。もしくは命乞いと共に、罪を告白するかもしれない。背中を押され海に落ちていくリコの、無防備な様子が繰り返し脳裏を横切っていく。海に漂いながら見上げてきた哀しげな眼差し。
政府中枢の幹部にのみ解放されたヘブン。万が一の時、シェルターにも変わるここのシステムは、マザーコンビューター・エリザベスに直結している。アクセスする権限はキーパーである俺にさえない。今の状態は向こうからの呼び掛けが無い限り、オンラインは立ち上がらないはずなのだ。
メールフレンドとは何者だ? リコに関する身辺調査は徹底して行った。個人的なメールなど、やり取りしている痕跡は何処にも無かった。過去二十年間、一通もだ。
唇を重ね繰り返し息を吹き込む。
「戻ってこいっ……リコっ!」
思わず喉元を滑り落ちた己の叫びに我に返る。瞼が熱い。スコールが椰子の葉を伝い、更に粒を膨らませて滴り落ちてくる。沸き上がる焦燥感は何だ? 頬を濡らし顎から滴るものは雨なのだろうか。
ふわり。何もかもを濡らす空間を、一匹の蝶が舞い降りてきた。信じられない。華奢な羽で、スコールの中を飛び回る事など有り得ない状況ではないか。リコのおでこに優雅に羽を休め、二・三度小さく体を震わせてみせる。その時だった……。
ゴボッ。リコの喉が音を立てて、海水を吐き出したのだ。慌てて喉をつまらせないよう、顔を傾けさせ胸を再び押してみる。
ゴボッもう一度、リコは海水を吐き出した。息を吹き込むと、呼吸を始めた息遣いが聞こえる。祈るよう握り締めた拳を額に当て、リコに覆い被さる自分がいた。早く部屋に運んで身体を暖めなくては。唇を覗き込むと、僅かに明るい色を取り戻し始めている。
リコのおでこから、蝶がひらりと飛び立った。反射的に羽に手を伸ばしたその瞬間……するりと蝶は手のひらを通り過ぎた。逃げたのではない。俺の肉体が存在しないかのよう、すり抜けていったのだ。リアルプレビュー……信じられない。ちらちらと羽模様が乱れたかと思うと、目の前でかき消えていく。深く考える猶予など今は無い。リコの身体を抱き上げ、スコールが降りしきる中、コテージへと向かい走り出した。
肌に張り付いたワンピースを引き剥がす。タオルでリコの身体を包み込み、ベッドの上にそっと横たえた。滴るほどに濡れた髪から、丁寧に水分を拭き取ってやる。そしてすばやく薄手のブランケットで、再びリコの身体を包みなおす。冷たい、冷たい身体。
蘇生させることが優先だったとはいえ、椰子の木陰ではスコールをしのぎきれず、リコの体温を奪ってしまったようだ。耳を傾けると、安定した呼吸を確認できた。あと必要な処置は復温か。裸になり、リコのブランケットをめくると、そっと中に忍び込む。ひんやりとした身体。どこもかしこも頼りなく柔らかい、女の肌を抱き締める。
「っ……れ……ぉん……」
リコの柔らかな曲線を描いた睫毛が細かく震える。安心させるため、背中をそっと擦り上げてやる。リコの細い腕が、そっとこちらにしがみ付いてくる。
「ごめ……さぃ……、れお……ん。も……おこ……なぃで……」
熱帯の雨にも似た大粒の涙がひとつ、リコの頬を流れ落ちた。胸の奥がずきりと痛む。うわ言を呟くリコの顔を、じっと凝視する。目を覚ます気配は無い。再び静かな寝息を立て始める。しばらくそうしていると、リコの唇が更に明るく色を含み始めた。そっとその唇に指を伸ばす。先程何度も触れた柔らかい感触が、指先に伝わってくる。
リコは男など知る由もない。男女を問わず性欲は、日々の栄養キューブの中に含まれた薬剤で管理されている。自然妊娠など過去の遺物だ。健康な卵子や精子を人工的に受精させ、あらゆる見解から適切な受精卵のみがカプセルの中で育てられる。更に万が一の間違いがないよう、卵子精子提供者に選ばれなかった者は避妊処置が施行される。アートヒューマンはその独自性の遺伝子を守るため、優先的に種の保存対象になっていると耳にした事がある。
そしてキーパー(番人)の中でも俺のように特殊部隊に所属する者は、また違った扱いを受ける。戦闘状態において人間は、アドレナリン分泌とともに性腺が異常刺激され、性欲が過剰に高まるとされている。だが、性欲を薬で押さえ込むのは男の闘争心を下降させる。だから冷静さを欠かないよう、精神力で性欲を制御する事を要求されるのだ。
「れ……ん」
再びリコは小さく喘ぎ、ぴったりと身体を擦り寄せてくる。俺がかつて訓練で相手にしてきた女達は、男の本能をくすぐる術を身に付けていた。彼女達はあらゆる媚態を尽くし、男をベッドへと誘い込む。恍惚とした快楽の海に放たれながらも、合図ひとつで瞬時に兵士の仮面を被る精神力が要求される。
彩られた爪、赤い唇、淫靡な身体に張り付いたドレス。候補生の2/3は快楽に溺れ、脱落する甘美な訓練。そんな女達と、同じ性とは思えないリコのあどけない抱擁。駆け引きなど微塵も匂わせずに手を伸ばしてくる無頓着な仕草が、こんなにも男の理性をかき乱すのものだと、身をもって思い知らされる。
「……ん」
リコが薄く瞼を開いた。こちらに視線を上げ、ぼんやりとした眼差しでふんわりと笑ってみせた。甘えるように俺の肩に額をそっと乗せてくる。
「一緒……ねようね、お歌う……ってあげるから」
寝ぼけた声でボソボソと、耳朶に唇が触れる距離で囁いてくる。
「C'est…… vraiment ……merveilleux……(本当になんて素敵)」
最初、リコの口が眠気に回っていないのだと思っていた。
「tant de……bleu(こんなに青いなんて)」
いや、違う……これはフランス語ではないのか。英語を原型にした世界共通語になってから二世記。脳内チップの瞬時通訳がなければ今や解読不能の言語だ。何故リコが……。
彼女の顔を覗き見ると再び瞼を閉じている。唇が溜息のような子守唄をゆっくりと綴っている。今、問わなくては……そう思うのだが、目眩にも似た睡魔に包まれる。瞼の裏側で、あの蝶の羽模様がチラチラと浮かんでは消えていく。昨夜と……あの時と同じ感覚だ。ぼんやりと漂う意識。夢と現実の狭間をさ迷う。
遠くから音楽が響いている。滑らかに響く音色、いくつもの楽器がマーチを陽気に奏でている。視界がぼやける。……霧……いや、あれは何の煙だ? 長く連なり黒光りする機首。その頭にそびえる煙突からは、もうもうと白煙が立ち上っていた。 脳内チップが検索を始める。
Steam Locomotive(蒸気機関車)。
駅とは思えない広野に、それは停車している。薄汚れた貨車の扉が開くと、お粗末なプラットホームに人の群れがぞくぞくと降りたつ。よろよろと足元から崩れ落ちる者も少なくない。おびえた眼差し、憔悴しきった顔、皆すがるように家族とおぼしき者と身を寄せ合っている。
こんなに小さな貨車に、これほどの人数が詰め込まれているとは……異常な状況を更に際立たせるのは、彼らを出迎えるリズミカルなハーモニーだ。バイオリン・ビオラ・チェロ・コントラバス…フルート、トロンボーン、アコーディオン。土煙が漂う中、十人程の演奏者は皆、観客の前に立つとは思えない、よれた服を纏っている。だが汽車より降り立つ人々の中には、この賑やかな音色に安堵の色を見せる者も少なくない。到着した場所は地獄ではないのだと、自分に言いきかせるかのように。
赤い腕章をぶら下げた軍服の男が、人々をより分けている。右の列には老人と子供、左の列にはそれ以外の者。人々は流れるままに列を成し建物へと歩いていく。ここはどこだ? 蒸気機関車が走る時代を上空から見下ろす。煉瓦を積み上げた門をくぐり、黒光りする一台の車が到着した。兵士達が敬礼をしている姿を見ると、彼らの上官といったところか。
二人の男が車から降り立つ。黒い軍服に飾られた勲章を見れば、中年の男はかなりの身分だと伺える。そして連なるよう姿を現した若い男に視線が奪われた。緑色の軍服、乗馬用ズボン、黒いロングブーツ。背の高い男だ。青い瞳、撫で付けた金色の髪。歳は三十手前といったところか。
ぐんっ。意識がその男に吸い寄せられる。磨きあげられたロングブーツと、爪先を合わせる程の距離に向かい立つ。幾多もの修羅場を垣間見てきた戦士の瞳がそこにあった。蒼い瞳に漂う深い闇。車を降りた二人は、楽団に視線を泳がせながら会話を始めた。
「ティル・ハイルマン、よく遥々訪ねてきてくれた。今夜は我が家で歓迎のパーティを開くつもりだ。
姪が君に会いたがっていてな。噂の英雄……我が命の恩人にだ」
「任務を遂行したまでです、コーネン所長」
「ほぅ……だが上官の為とはいえなかなか命を張れるものではない。怪我はどうだ。背中に二発も銃弾を浴びたまま、私を背負える部下は君くらいなものだ。一生の借りが出来た。お礼がしたいのだが、君は何も望まないときている」
「階級が飛び越しで二つもあがりました。しかも極寒のソビエト前線から配属を変えてくださったのはコーネン所長、貴方ではないのですか」
貨物車から出てくる人の列が途切れた。兵士が合図をすると、縞模様の上下を着た男達が中に入り、何かを運び出している。あれは……死体か?家畜のごとく運送され、過酷な環境に力尽きた屍の山。子供、老人……妊婦と思われる女まで混じっている。男達は見慣れた光景だと言わんばかりに、淡々と死体を運ぶ作業を進めるだけだ。
マーチは続く。まるで人々の重い足取りを軽くするかのよう、美しい旋律が繰り返し奏でられる。……と、その時だ。一瞬、音がひとつ調子を外して響きわたった。コーネン所長と呼ばれていた男が、鋭い目付きで楽団に視線を流す。脇に控えていた兵士が、楽団の中に分け入っていった。そしてすぐにひとりの男を引きずるように連行してきた。バイオリンを抱き締め、真っ青な顔をしたその男の膝は、情けない程に震えている。兵士は男の手からバイオリンを取り上げると、腕を捻り上げ、その手のひらを皆にさらしてみせた。一文字に刻まれた傷。血が滲み痛々しい。
「えっ……演奏前に調整していたら、弦が…きっ切れてしまって手を……すぐに治りますから明日は傷も塞がり、きっとっ……」
コーネンは兵士に小声で指令を下している。バイオリニストは両脇を抱え、引きずられて行った。兵士が人の群れに向かい、叫び始める。
「バイオリンを弾ける者はいるかっ。楽団にひとつ空きができたぞ」
兵士と目が合わないように、人々は視線を落としている。引きずられていったバイオリニストの行く末を思えば、手など挙げる気も失せるというものだ。静まり返った中、行列を離れ一人の女が手を上げながら歩み寄ってくる。
見事なプラチナブロンド。だがレディとは言い難い程に、結い上げた髪は乱れていた。仕立ての良さそうなツーピースも皺が無数に刻まれている。
爪先を合わせて向かい合っている男……ティル・ハイルマンが息をのむ気配が伝わってくる。近付く女の姿を、食い入るように凝視している。そして無意識にもっとよく見えるようにと、ティルが一歩足を踏み出した時だった。この男の肉体と、俺の意識がひとつに重なる。
……感じる。ティルの驚き、戸惑い…何もかもをだ。暗い穴に吸い込まれていく。また始まるのか? こんな狂気の舞台で、一体何が始まるというのか。
リコ……こんな状況でも彼女より伝わる体温が、不安を癒すよう纏わりついてくる。脳内チップが分析を続ける。
兵士達の腕を飾り立てる赤い腕章には、黒の鉤十字が張り付いている。襟章は稲妻を連想させるSSの文字。トーテンコップ……髑髏の徽章付き制帽。
カタッ……最後の検索をチップが弾き出す。カタッ……意識が途絶える音が遠くで聴こえた気がした。
ナチスドイツ親衛隊(SS=Schutzstaffel)ホロコースト……ギリシャ語でそれは「焼かれた生贄」の意味を持つ。なんて忌まわしい。ここは民族抹殺を目的とし構築された、人類の罪深き汚点の地、死の収容所。