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スコール(リコ)

 瞼から柔らかい光が透けている。暖かくて、ふんわりとした、目覚めを誘う光。初めてだ。こんなゆったりとした気分で瞼を開けるのは……。

 コードナンバーを読み上げる無機質な音声はここに存在しない。自分で目覚める心地よさを再び瞼を閉じて味わってみる。背中にかつて触れた事のない不思議な温もりを感じた。腰に回された腕の感触。

そっと体をよじり、温もりの主と向かい合ってみる。

 名前……ナマエ、聞いていない。キーパー(番人)にもギア(歯車)のようなコードナンバーはあるのだろうか。腕、あたしのと全然違う。太くて……力がいっぱいつまっていそうな逞しい腕。

 くんっ、鼻がひくひく反応する。彼の髪からなんともいえない良い香りが漂ってくる。くんっ。くんっ。あ、バスに浮いていたフワフワの泡。あれと同じ。あの匂い、ずっと身体に残るんだ。寝転んだまま、自分の髪を一束つまみ、鼻に寄せてみる。くんっ。くんっ。あ、あたしもその匂いがするよ。素敵、素敵。

「随分とご機嫌なお目覚めだな」

 はっと視線を向けると、直ぐそばに開いた瞳があった。あれ、もしかして眠っていなかった? 眠気など、微塵も匂わせない、眼差しに囚われる。

「……あたし、知らないわ」

「何をだ」

「あなたの名前」

「別に知る必要もあるまい」

 素っ気なく言い放つと、彼はベッドから床に足を伸ばした。

「でも……じゃあ、あたしが勝手につけた名前で呼んでもいい?」

えっとね……。怪訝そうな顔で彼はこちらを眺めている。お尻が柔らかく埋もれる感触を味わいながらベッドに座り、あれこれと頭を捻らせる。

「ピカソっ」

 昨日、そういう名前の魚を教えてくれた人だから。目の前の彼は何の反応も示さない。だが…あまりお気に召した様子ではなさそうだ。

「ゴッホ、ドガ、シャガール……」

 知る限りの名前を並べてみる。彼の眉間に皺が一本刻まれたのは気のせいだろうか。

「カ……」

 その名を口にしようとしたら、ピクリと、彼の肩が震えた。戸惑いの色が浮かんだ瞳にじっと見つめられる。息を潜めてあたしの言葉の続きを待っているのが分かった。だから、お望みの名がある事を期待しながら、再び思い付くままに名前を綴り始める。

「カシニョール、モディリアーニ、ルノワール……クリムト、ムンク、シャガール」

「……いい加減にしろ」

呆れた溜め息を添えて、彼はまだまだ続く名前の羅列を遮った。

「俺は画家じゃない」

 だって、ほとんど他人と接触がないから、他の名前なんて知らないもの。メールフレンドのエリーは女の子の名前だし。

「レオンだ」

「れ……おん」

 初めて耳にする響き。レオン。レオン。繰り返し小さく口ずさんでみる。名前を知っただけで、ずっと距離が縮まった気分。

「見て、レオン。どの窓からも海が見えるよ」

 朝の太陽を吸い込んで、キラキラ光っている。なんて眩しいのだろう。ウフの窓から遠くに見える太陽とは違う。空を青く、雲を白く、島を取り囲む草花を艶やかに染め上げる光の渦。なんて美しいのだろう。昨日と変わらない、胸を揺さぶるブルーが視界に覆い被さってくる。こんな場所にいる事を不思議に思う。そして同じものを眺め、語りかける相手がいる事の喜び。生まれたての朝を味わいに、今日も裸足で飛び出そう。

 ほら、綺麗だね。ねぇ、風が気持ちいいよ。レオン……レオン……。名を呼び掛ければ、不思議な安堵感が満ちてくる。しかめっ面をされたって、怖くない。だって、ここに二人きりでいる事が、何故か不思議な程に心を穏やかに満たしてくれるから。不思議だね。不思議、不思議……。

「今朝は何故、俺のコテージで寝ていた」

 カフェのテーブルに朝食のお皿を置くと、レオンは尋ねてきた。答えようと思うのだが、初めて目にする不思議な食べ物に視線は釘付になってしまう。

「えっと……」

「サンドイッチだ。パンにハムやチーズ、野菜を挟んで食べる」

パン……は食べた事がある。野菜も細かく刻まれスープに浮いたものなら口にした事がある。でも、普段は固形の栄養キューブがほとんど。こんな食べ物は見た事も無い。サンド……イッチ? 恐る恐るパンとパンの間に挟まっている物体を覗き見る。この黄色いの……それに平べったいピンクの薄いもの、なぁに?

「見てろ、こうやって食べるんだ」

 挟んだ具を落さないよう、両手でしっかりとパンを押さえ、パクリとレオンは齧ってみせた。クスクス。やだ、思わず笑いが零れる。何だ? と言いたげな顔を向けられる。

「だって、……大きな口」

「こうやって食べる物なんだ」

 こうやって? レオンの真似をして、サンドイッチを持ち上げる。

 これくらい? 口をあけて彼にサイズを確認する。すると、レオンはもう少しと、指の形でジェスチャーしてみせた。

 このくらい? 顎がもちそうにないので、口を閉じるついでにパクリとかじってみる。しゃりしゃりと心地よい葉っぱの食感。ふわりと鼻孔をくすぐる濃厚な薫り。初めて口にする味覚が、パンの柔らかさと共に喉元を通り過ぎていく。もっと食べてみたいという欲求に駆られる。

 いつもは、小さな栄養キューブひとつ口に放り込めば、食事など終わるというのに。今、食べたサンドイッチは飲み込むことさえ名残惜しいと思えた。昨日だって……パス……タという不思議な食べ物を食べさせられた。長いの、びっくりするくらいに。つるつるって食べるの。他にも見た事がないものばかり。

「キーパーはいつもこれ食べてるの?」

「いや、同じ栄養キューブだ。体験としてこういう食べ物を口にした事はあるというだけだ」

「他にはどんな物が?」

「ここにいる間は、キューブでは無い食事にありつけるようだから、自ら味わえばいい。食物庫に食べきれない程の食材が備蓄されているからな。ボタンひとつで暖かくて調理される。そんな事より最初の質問に答えろ。何故、俺のコテージで眠っていた」

 何故って……。もう一口齧りつきたいけれど、そんなにじっと見られていたら、大きな口をあけるのが恥ずかしい気がする。昨日、勝手に彼のコテージに行った事を怒っているのだろうか。だって、だってね。

「……夢を見たの」

 あぁ、やっぱり怒っているみたいだ。レオンの顔が険しくなった。

「どんな……どんな夢だ?」

 どんな? 続きを話そうとしたその時だった。ふわり。風に乗った何かが、視界の端を漂い横切るのが見えた。

「あっ、見てっ」

 ふわり、ふわり。花びらにも似た不思議な生き物が、あたしのワンピースの胸元に舞い降りてきた。

「……蝶だ。お前のワンピースの花を、本物と間違えて飛んできたようだ」

「ちょう?」

 見た事がある気がした。誰の絵画だったか……すぐには思い出せないけれど。飛ぶんだ。こんな小さな羽で? すごい、すごい。それになんて複雑な色彩を身体に纏っているのだろう。描いてみたいと思わされる。

 ふわり。

「……あっ、待ってっ」

 飛びたった蝶を立ち上がり追いかける。本当に綺麗。この島に似つかわしい住人ではないか。しばらく追いかけると、生い茂った葉の間から顔を覗かせる大輪の花にとまった。パタパタと、からかうように羽を揺らしている。急に走ったので、息が上がる。何度か深く空気を吸い込み呼吸を整えようと試みる。そして、レオンに教えてあげようと後ろを振り返ると……。彼はそこに居た。物音ひとつ、呼吸ひとつ乱さず、振り返った視界を遮る程の至近距離に立っていた。がっしりと、大きな手に両手首を捕らわれる。

「きゃっ」

 驚き思わず声をあげてしまう。

「答えろ、どんな夢を見た?」

 キーパーの眼差し。私達、ギアを管理し、全てを知り尽くす選ばれし者の瞳。

「……目が覚めると忘れちゃうの」

 夢は毎晩見る。いつも、いつもだ。

「それでね、探すの……夢に出てきたはずの誰かを」

 手、熱い。レオンの手がじっとりと熱を帯びている。

「いつもはカプセルの中で目覚めて、探しようにも一人きりでしょう? でも昨夜は……隣のコテージにあなたが居ると思ったら安心しちゃって、そっとお邪魔したの」

 話をしていると、昨夜レオンを見つけた時のときめきが蘇ってくる。探して、探して、いつだって見つからなかったものが……。

「やっと見つけたって思った。嬉しくって、隣に横になっていたら、いつの間にか……」

 ふっと、手首を掴み上げていたレオンの指が揺るんだ。

「夜は勝手に出歩くなと言ったはずだ」

 淡々とした口調でレオンは釘を刺してくる。

「だって……逃げたりしないのに…それに、レオンは嘘つき」

 ぷいっと、彼の手を振り払う。そんな行動をした自分に、驚かずにはいられない。キーパーの命令は絶対、な筈なのに。

「嘘などついた覚えは無いが」

 レオンが一歩踏み出そうとしたあたしの前に立ちはだかる。

「だって、宝くじ当てたもの。ここにいる間、誰にも命令されない自由をくれるって……言った」

 こんな感情は初めてだ。何を訴えたいのか、自分自身よくわからない。でも、知ってしまったのだ。目覚めた時、手の届く場所に彼がいる心地よさを。72時間……期日が過ぎればまたひとりきり、カプセルで目覚める朝が繰り返される。

「ここにいる間はレオンと寝る。それなら、逃げられる心配もしなくていいでしょ?」

「……は? 何を……」

「サンドイッチ食べよ。ねっ」

 レオンの手を取り、テーブルに向かって歩き始める。黙りこんだまま、彼は手を引かれている。あたしは…今更に気付いた事実に胸が押し潰されそうだ。72時間の期限、島での時間は夢のように通り過ぎるひと時の幻。胸が痛い。喉が締め付けられるように息が……苦しい。あたし、どうしちゃったんだろう。

 お日様が少しだけ傾いた頃、少し離れた海の真ん中にゆらゆらと揺れる影が、ひとつ、ふたつ、みっつ見えた。跳ねるよう、元気よく並んで泳いでいる。あれ……魚? あんなに大きな魚?

「レオン、見て。すごく大きな魚がいるよ」

「イルカだ。魚に見えるが人間と同じ哺乳類だ」

 人間と同じところなど、どこにも見当たらない気がする。もしかしたらここから見えない海の下に、足があったりするのだろうか。木陰に寝転んでいたレオンが、シャツを脱ぎながら海辺へ歩いていく。綺麗な背中……不意に目にしたレオンの素肌にトクリと鼓動が弾ける。

 パシャンっ。大きく跳ね上がった水飛沫が、光を孕んで飛び散る。レオンは、あっという間にイルカの群れに向かって泳いでいった。あんな風に人間が、海の中を自在に泳ぎ回れる事を驚かずにはいられない。レオンの周りをからかうように、イルカ達が取り囲む。そして彼を追うように、今度は連なって後をついていく。ふふっ。思わず笑いが溢れる。……その時だった。


“……リ……コ”

 え? 島を吹き抜けていく海風に、名前を囁かれた気がした。だぁれ? きょろきょろと、辺りを見回すと、見覚えのある羽模様を見つけた。朝、あたしのワンピースに降り立った蝶が、誘うように目の前を横切っていく。ふわり、ふわり。漂いながら美しい羽をちらつかせる。ちょっとだけ……優しくするから、ちょっとだけ……触ってみたい。どんな感触がするのだろう。

 待って。思わせ振りに羽を休めては、ひらりと指先をすり抜けていく。いつの間にか、売店の脇にある、木の扉の前に立っていた。ドアノブに蝶はとまっていた。優雅に羽を揺らすと、朝と同じようにワンピースの胸元に飛んできた。可愛い。意思が通じ合っているみたいだ。

“……リ……コ”

 あれ、やっぱり気のせいなんかじゃない。聞こえる、聞こえるよ。……この声は。

 ギイッ。木のドアは、手をかけただけで呆気なく開いた。まるで招き入れるかのように。

「あっ、エリーだっ」

 テーブルの上に腰をかけたエリーが、こちらを見ている。

「どうして……もしかして、エリーも遊びに来たの。あれっ本物? リアルプレビュー?」

 そろそろと近づき、エリーの綿帽子みたいな、蜂蜜色の巻き毛に指を伸ばす。ぱっと、ワンピースから飛び立った蝶が、エリーの身体を真っ直ぐに擦り抜けていった。リアルプレビュ……いつものエリーのようだ。やっと本物に会えたのかと思ったのに。苦笑いが零れる。

「ハロー」

 はにかんだ顔でエリーは笑いかけてくる。

「ハロー」

 メールだというのに、いつもの癖でついつい挨拶を返してしまう。

「リコは海、気に入った?」

 思わず深く頷いてしまう。気に入ったなんてもんじゃない。想像していたよりも遥かに素敵。くすくす。エリーが笑っている。

「気に入ったはずよ。ね?」

 からかうような口調でエリーは話を続ける。

「リコはレオン、気に入った?」

 さっきと同じ調子で再び頷こうとして……ぴたりとその動作を止めた。

「気に入ったはずよ。ね?」

 可笑しそうにくすくすと、エリーはまた笑いを噛み殺す。海、素敵。気に入った。レオンは……レオンは?

 バタンッ! 胸が跳ね上がるような音を立てて、木のドアが勢いよく開いた。レオンの黒い影。背後から差し込む光が悪戯に彼を黒く染め上げている。だから、レオンの表情がわからなかった。今の、聞かれていないよね。

“レオンは気に入った?”

 顔が熱くなる。エリーは何でも知っている。何故か不思議な程に昔から、あたしの事を知り尽くしているのだ。一歩、二歩、レオンがこちらに歩み寄って来て初めて、射抜くような鋭い眼差しを向けられてる事に気付かされる。

「ここで何をしている」

 何の感情も見せない淡々とした声色に、ぞっとするほどの冷淡な瞳。……怖い。レオンが怖い。

「……エリーがメールをくれたの」

「なんの話だ?」

「メールフレンドのエリーが……」

「ここまで俺を誤魔化し続けられたというのに、随分とお粗末な嘘をつくものだな」

「嘘なんて……」

 助けを求め、テーブルに視線を移すが、エリーの姿は何処にも無かった。テーブルの上では次の指示を待つメッセージが浮かんでは消えている。

「どうやってオンラインを立ち上げた。一部のものしか知らないコードを入力しなければアクセスできないはずだ」

「だって初めから立ち上がっていたもの」

「とんだ食わせ者だ。アートヒューマンの中にお前のような危険分子が紛れているとは迂闊だった。

かなり、調べ上げたつもりだったが……」

 危険分子……? 違う。違う。あたし、そんなのじゃない。何か言わなくちゃ。ちゃんとレオンにわかってもらえるように。そう焦れば焦るほど言葉が何も出てこない。ただ彼の目を見ながら、ふるふると首を振ることしか出来なかった。

「来い」

 手首をぐっと掴まれる。

「……やっ」

 どうして? もしかしたら今すぐウフに送り返されるのかもしれない。必死に両足を踏ん張り、抵抗してみせる。帰りたくない。きっとレオンにはもう二度と会えないに決まっている。このまま……誤解されたまま離れるのなんて嫌だ。嫌。片方の手で、開け放たれたドアの縁にしがみ付く。

「いやっ、いやっ!帰りたくないっ。離してっ、離して……っ!!!!」

 涙が溢れた。自分の叫び声に嗚咽が混じり、驚くほどの大声を張り上げていた。痛いくらいに握り締められたレオンの指が、ふと緩む。

「誰も帰るとは言っていない。落ち着け」

 呆れ果てた声。

「リコ……」

 レオンは小さく溜息をつくと、さっきまでの様子が嘘のように優しい声で話し掛けてくる。

「こっちにおいで。一緒に散歩へ行こう」

 もう怒っていない? 本当に? おずおずとレオンの顔色をうかがう。彼の瞳から冷たい炎は消え失せていた。差し伸べられた手に指を伸ばす。大きな手……この島で見つけたあたしの宝物。さくさくと柔らかな砂に、二人の足跡を刻みながら歩き始める。なかなか収まらない小さな嗚咽が、繰り返し込み上げる。嫌われたと思った。でも、こうしてまた手を繋いで島を歩いている事実に、心の底から安堵する。

 あの部屋には入っちゃ駄目。もう絶対に入らないと誓おう。エリーには、ウフに戻ってから返事を送ればいい。ここにいる間は、ちょっとだけサヨナラしていよう。……ごめんね、エリー。だって、だって、離したくないの。時間はどんどん過ぎていく。今だけ、今だけだから。レオンとただ一緒にいたい。

 見上げた空に違和感のあるものが浮いている。目が覚めるような青空に、黒い雲が吸い寄せられるよう集まってくる。ざわり、ざわり。花模様のワンピースの裾が、風に乗ってなびく。帽子、ビーチの木陰に置きっぱなしだ。この風に飛ばされないだろうか。気になるけれども、今はただレオンの指に導かれていたい。ぽつぽつと、空から何かが降ってきた。足元の砂一面に、小さな模様を塗り付けていく。

「レオン、空からシャワーが……」

「雨というんだ」

 あめ? ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ。可愛らしい音を響かせて、海に浮かぶコテージを繋ぐ木の橋にも、雨は砂浜と同じ模様を刻んでいく。陽射しは変わらず照り付けている。太陽の光が水の粒になって、落ちてきているのだろうか。綺麗、綺麗。胸のわくわくが高鳴っていく。ウフハ毎日が晴れだ。判を押したように変わらない天気が擦りガラスの向こうにぼんやりと見えるのみ。

 水上コテージを通り過ぎ、木の橋の先端までレオンは連れて行ってくれた。昨日は危ないからと止められた、海の先っぽにまで手を引かれる。この先端を境に、海のブルーがぐっと深い色になっている。

砂地が透けて見えるような水が、その先端からストンと深くなっていた。光が届かない程に……。影を混ぜ合わせたブルーに、ふと心を奪われる。そして漂う、色とりどりの魚の群れ。すごい数だ。波打ち際とは全然違う世界。

「レオン見て、魚が沢山、数え切れないくらいいっぱい」

 興奮のせいか、さっきまでしゃくりあげていた息づかいは、どこかに行ってしまった。海に落ちていく雨は、砂に染み込んでいく様とは違い、小さく跳ね上がり踊っている。一体、幾つ落ちてくるのだろう。ぼんやりとそんな事を思った。

 さっきまで泳いでいたレオンの髪は、ぐっしょりと濡れている。するすると、裸の上半身を、水粒が滑り落ちていく。あ、まただ。自分の鼓動がトクリトクリと、少しづつ早くなっていくのがわかる。熱を帯びた頬に打ち付ける、雨のひんやりとした感触が心地いい。

「リコ、ほらあそこにさっきのイルカが見えるぞ」

 レオンが海を指差す。

「え、どこに?」

 遠くまで見えるよう背伸びをして、視線を泳がせる。……その時だった。

 ドンッ。背中に衝撃が走った。ふわりと宙に身体が浮く感覚…。ザブンッ! 何が起きたのか一瞬わからなかった。

 ゴボッ。水から顔を上げたら、桟橋の上にいるレオンが見えた。あの瞳に戻ったレオンが、見下すようにじっとこちらを眺めている。

 仲直りできたと思ったのに、やっぱりまだ怒っていたんだ。どうして? どうして……。水を含んだワンピースが、身体に纏わりついてくる。

 ごぼっ。息をしようと思うのだが、もがく程にどんどん沈んでいく。ザアッッッ……。勢いを増した雨が降り注いできた。昨日浴びたシャワーと違うのは、何処にも足がつかないという事だろうか。

 ごぼっ。海の中で聞く雨の音色は悲しい響きだった。一緒にレオンが泳いでくれたならば、きっと全然違ったリズムに聞こえたのかしれない。この広い海に一人きり。橋の上から見えた綺麗な魚達も、雨から逃れるように深く深く潜っていってしまった。もう、自分が何処にいるのかわからない。波にもまれ、方向感覚が全く失われてしまった。

 ごぼっ。見上げると、波に揺れる太陽の光が水越しに見えた。ゆらりゆらり。水の中から覗く太陽は、もうすぐ黒い雲に呑み込まれようとしている。もがく事を諦め、流れに身を任すとしんと静まり返った静寂が訪れた。夢の中に入り込む時にも似た、堕ちる感覚に包まれる。 目が覚めたら……あたしは何処にいるのだろう。

 レオン、レオン。さっきの優しい声色を必死に思い返してみる。

“リコ……こっちにおいで”

 目が覚めたら、あなたは隣にいてくれるのだろうか。光が消えた海の中で、そうだといいな……と、呟いてみた。

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