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永遠の愛(カルロ)

 母の面影は片鱗すら記憶にはない。身体のあまり丈夫ではなかった母にとって、出産はまさに命を分け与える行為だった。母子共に助からないと医者も匙を投げた難産の末、神は奇跡の思し召しを下さったのだと父は語った。

 抱かれた感触も、呼びかけられる声色も知らない。私にとって母はいつだって、叔父上が描いたキャンバスの中で静かに微笑んでいるだけの存在。だから、こんな遥かな時を経て今更、母上からの伝言があるなどと言われたところで……。

「何の話です唐突に…私が今話をしているのは、何故こんな嘘までついて呼び戻したりしたのかと叔父上に問うているのです」

「だから、今その理由を話したはずだ。マリアの……お前の母からの伝言を伝えるためにだとな」

“バルゾ男爵が病の床についておられます。すぐにヴェネチアへお戻りを。手遅れにならぬよう直ぐに”

 辿り着いた港を後に逆戻りし、慌てて駆けつけたというのに…病の欠片すら見当たりはしない。よく考えれば、このお方が床に伏せっている姿など、今だかつて無かったのだ。いや、だからこそ余程の事と、胆を冷やして出戻ったというのに。一体これは何の冗談だ?しかも、怒りが押さえきれず問い詰めてみれば、今度は母の伝言などと…病は脳を蝕んでいるとでも言うのだろうか。

 叔父上は、ことりと小さな音を立てて小箱をテーブルの上に置いた。すず製の小さな箱の蓋には、男爵家の紋章である蜂が掘り込まれている。

「マリアから受け取ったその日から一度も、この箱を開けたことは無い。二十年も歳月が経ったとは…本当にお前にこれを渡す時が来たとは嘘のようだ」

 全く予測がつかない。小さな蓋にずっしりと重みを感じるのは気のせいか。中に入っていたもの、それは女物のリングだった。見事なシードパール(芥子ケシ真珠)が零れるように連なっている。花びらのように連なった小指の先ほどの上質な真珠は、時にしてダイヤよりも貴重と賞賛される逸品。しばし、その優雅さに目を奪われ魅入ってしまった。

「マリアの形見だ。時が来たらカルロ、お前に渡してくれと死の淵にいるマリアから預かっていた」

「……時が来たら?」

「本気で愛する女性が現われたら、その想いを伝える時に愛の証しとして捧げるようにと」

 ドクリと胸が鳴る。いるはずの無い母上が、どこかで心の内を見透かしているのかと。

「モニカがお前の帰りを待っているぞ」

「そんな訳が……」

「全くお前はわかっているようで、肝心な女心の内は読み取る術を持たないらしい」


 ちゃぷりちゃぷり。気持が浮き立つと、ゴンドラが立てる水音も心地良く響くとは不思議なものだ。待っているなどと叔父上は言ったが、疑心暗鬼でモニカの住まいを訪ねた。バルコニーに姿が見えた時には、高鳴る胸が堪えきれず、つい視線を外してしまったのだが……。船着場に着くなり、階段を駆け下り、出迎えてくれているとは驚かされた。

 この手に飛び込んできた身体を受け止めた時、夢を見ているのかと思った。力を込めたらするりと飛び立ってしまいそうな気がして戸惑ってしまった。けれども真っ直ぐに見詰めてくるその視線に囚われた時、決して離すまいとかき抱いてしまった。

 カルロ、カルロ……。小さく求められるように囁かれ、口付けられ…身体の奥底から湧き上がる熱に体が溶かされてしまう感覚。

「こうしているだけで……気が狂いそうだ」

 モニカの頬に添えた手の平に、そっと彼女の指が重なる。父上から贈られた指輪を、母が受け取った時にはどんな時間が流れたのだろうか。

 ちゃぷり、ちゃぷり。二人で並んでゴンドラに揺られるのはいつぶりだろう。爪先のような三日月が、控えめに夜空を照らしてる。

「アトリエに避難するほどに病気は蔓延しているのかしら?」

「ヴェネチアの中心地は人が群れすぎている。気休めでも安全の為人のいないヴィッラでしばらく過ごした方がいいと、叔父上が言ってきかないのだ。なんでも、昼間訪ねてきた客人がペストを発症させていて、気付いた小間使いが門前払いしたらしい」

「男爵様のお知り合いが?……どなたですの」

「いや、誰とは決して口にしないのだが」

「では、男爵様も今夜からアトリエのヴィッラにお越しになるのかしら」

「いや、叔父上はもうひとつ所有しているヴィッラに家族と共に移るらしい。あの母上の絵ばかり飾ってあるアトリエに、本妻を連れて行くのはさすがにばつが悪いというものだ」

「あら、男爵様も奥方様には細やかなお気遣いをなさるのね」

「……アトリエのヴィッラは叔父上の聖域なのだ。あの人は一生あそこに囚われて生きて行くのだろう」

 ちゃぷり、ちゃぷり。胸元に忍ばせた小箱がゴンドラと共に揺れてる。父上を、叔父上を通してしか母の存在を垣間見る事が出来なかった。だから、母にとって自分の存在も、真っ直ぐに向けられる事など無いのだと思い込んでいた。妻として女として、父との愛を成就させる為に命をかけて子を産み落としたのだと……。母は自分の死期を悟っていたのだろうか。母を失って生きて行く幼子の運命を案じていたというのか。

“本気で愛する女性が現われたら、その想いを伝える時に愛の証しとして捧げるように”

 父を通しての存在ではなく、私自身、愛されていた? コルティジャーナだった母への想いを時として、憎しみにさえ変えていた己の心の歪み。なんと浅ましい。こんなに時間を経て触れた母の思いやりに、込み上げてくる切なさを噛み締める。

 狭い水路を通り過ぎ、開けた運河に差し掛かる。月が水面に映った姿から、柔らかな輝きを漂わせている。

「海よ、ヴェネチアは汝と結婚せり……」

 ポツリとそう口にすると、モニカはそっとより添ってきた。

「海との結婚の式典で、ドージェ(総督)が唱える誓いね。海に投げ入れる金の指輪…水と契りを交わしたこの都らしいロマンティックな祭典だわ」

 さりげなく、モニカの肩を温めるように拳で包む。頬に触れる彼女の柔らかな髪。腕に絡む細い指の感触。

 愛なんて、滑稽な物語だと思っていた。母に囚われている父上や叔父上の人生をこんな身近に感じながらも、どこか覚めた目で傍観している自分がいた。けれども今、魂を揺さぶられる女を目の前にし、その切なさが愛しさが……こんなにも理性を奪うものだと教えられる。

 モニカの瞳に囚われ溺れていく心地良さ。抗う事を諦め、漂う想いに身を任せれば、心を満たすのはただひたすらに甘美な幸福感。小さく息を吸い込むと、瞼を閉じてしばし己の心と向き合う。胸元に忍ばせた小箱が、コツコツと音を立てているような気がした。いや、これは自分の鼓動の音か……。自嘲するような笑いが込み上げる。それを喉の奥でそっと押し殺した。もう、お手上げなのだ。体裁も男の沽券もかなぐり捨ててしまおう。

「モニカ……」

 席を立ち彼女の足元に跪く。突然の身のこなしにモニカは、少し戸惑った眼差しを投げてきた。じんわりと。身体の奥底から汗が滲み出てくる。彼女にとって、こんな事は日常なのかもしれない。ありきたりの取り巻きの一人に成り下がる行為なのかもしれない。いや、何も考えるまい。今、必要なのは、ただ素直になることだ。

「貴女だけを愛すると誓おう。生涯、私だけのコルティジャーナになって欲しい」

 胸元の小箱からリングをそっと取り出し、モニカの指に滑り込ませる。新しい主の手に飾られ、真珠の粒は月の光を糧に輝き始める。モニカは、じっとうつ向いてそれを眺めた。まるで真珠を初めて目にするかのように…不思議なものを眺めるかのごとく。モニカはそっとリングを撫でた。

「何という純白……私などの指に飾っては汚れてしまう気がいたします。コルティジャーナは真珠で装う事を禁じられているのをご存じかしら」

「耳にしたことはあるが、誰も気に留めない建前だ。コルティジャーナが真珠を買わなければベネチアの宝石商は傾いてしまう」

 そうねと、モニカは小さく笑ってみせた

「母の形見なのだ」

「お母様の……」

「母もコルティジャーナだった」

「……えぇ、美しいお母様ね」

 モニカの真珠で彩られた指がそっと伸びてくる。くしゃり。髪を優しく梳かれ、その心地よい感触に、不覚にも小さな溜息が溢れる。

「私の事などまだ大してご存知無いはず……だというのに、このように大切な物を贈られるだなんて、随分と性急な事をされるのね」…

後悔なさってよ…そうモニカは呟くと、頭ひとつ高い位置から挑戦的に此方を見下ろしてきた。怒りにも似た光が宿る瞳に打ち抜かれ、今与えられた甘い温もりに冷水を浴びせられた気分にさせられる。飴と鞭。すっかりと自分はこの女の手中で、弄ばれているのかもしれない。

 けれども、モニカが問いただしてくる事実は確かに的を得ているのだ。生涯の愛を誓う程に、お互いを知り尽くしている訳ではない。寝顔を知っていても、まだ一度も肌すら合わせた事がないのだから。理由なんて無い。今この瞬間に渡さなければならないのだと、本能がそう囁いた。

「後悔などするはずも無い。何故なら今までもこれから先も、これほど魂を爪弾く女に巡り合うことは無いからだ」

「……思い込みですわ」

「幸福な思い込みだ」

 迷いなど微塵も匂わせず、きっぱりと言い放つ。ふっとモニカの攻め立てるような瞳の色が消え失せた。くしゃりと口元を歪めると、彼女の目から、涙がこぼれるのが見えた。ガーネットの瞳は溶け出したかのように、次から次へときらめく涙を生み落とていく。モニカの両手に頭を包み込まれる。小刻みに震え、嗚咽を噛み殺す愛しい女の吐息が髪に降り積もる。

「ほら……ね、心と裏腹な強がりばかり口にする可愛げのない女ですのよ」

 モニカの体から、とくとくと早く脈打つ鼓動が伝わってくる。

「幸せに慣れていないから、拒む癖がありますの。素直じゃなくってよ」

「それはよく存じている」

「……嫌味な方ね」

 拗ねたような声色。頬を濡らした涙を、モニカは手のひらでさりげなく拭い去っている。気高い彼女が垣間見せる女の脆さに足元をすくわれる。愛しくて、愛しくて。

「ずっと私を捕らえていて。ずっと、よ」

「月の女神に誓おう、永遠の愛を手に入れた月の女神にだ」

 髪に顔を埋めていたモニカがそっと首を傾ける。儚げに浮かぶ細い月を眺めているのだろう。

「私もあの三日月に誓いましょう、生涯、貴方だけのコルティジャーナに……」

 弾けるように顔を上げ、二人の視線を絡める。額が合わさる程の距離で、お互いの意思を沈黙のままに再び確かめ合う。どちらからともなく、吸い寄せられるよう唇を重ねれば、胸の奥の欲情がざわりと音を立てた。

 ゴンドラが船着き場に滑り込む。浮き立つ気分で地に足を着けた。初めてモニカと訪れた時のように、ヴィッラは静まり返り人気は無い。絵を描き終えたので召使いには暇を出していると、叔父上は言っていた。明日には誰かを遣わせるから、今宵一晩は我慢しろと。その方がいい。モニカと二人きり誰の目にも触れず、ただひたすらに愛し合う夜を過ごそう。指を絡め、ヴィッラの扉を開き、もどかしい口付けを交わしながら危なげな足取りで螺旋階段を登る。

「カルロ様、まだ出来上がった絵を見ていらっしゃらないでしょう」

 直ぐにでも寝室になだれ込みたい男の欲情に、モニカは焦らすような提案を差し出してくる。

「ここに来たなら、先にご覧にならないと駄目」

 ひらり、ひらりと、からかうように、この手を擦り抜ける美しい蝶。艶やかな羽模様をちらつかせ、追いかける者の心を昂ぶらせる。モニカは繰り返す接吻で誘いながら、やがて三階にあるアトリエの扉にまで導いた。

 ぎぃっ。静まり返った館に扉を開く音が響き渡る。そっと中に忍び込み、ランプの明かりで室内を照らし出す。……なんだ? 違和感を感じた。ほのかな光で照らされる、室内の澱んだ雰囲気に。ひらりと、揺らめくものが見える。ベッドを覆う天蓋が風に煽られはためいていた。小間使いが窓をひとつ閉め忘れたのか、バルコニーに抜ける扉がひとつ開け放たれたままになっていた。

「カルロ、……絵が。私の絵が……」

 モニカの指差す方には叔父上の机があった。画材が並べられた叔父上のいつもの机。その脇に置かれたイーゼルには、キャンバスがひとつ置き去りにされたままになっている。ゆっくりとそこに歩み寄る。信じられない状況に血の気が失せていく感覚。横たわった女が描かれているのは見て取れた。だが、一体これはどういう事だ?頬杖をつく腕に乗せられた筈の顔が……無残にも切り刻まれていた。鋭利なナイフで何度も何度も突き刺されたような痕跡。

 冷たい汗が流れるのがわかった。壁際の燭台に火を灯す。そしてテーブルの上に注意深くランプを置いた。壁にかけられた母上の絵が、灯りに照らされぼんやりと浮かび上がる。どれも損傷をうかがわせるものは無いかに見えた。ただひとつの絵画を除いては……。等身大の見慣れたはずの絵。そこに違う女が描かれていた。母の黄金色の髪が、黒く塗りつぶされている…そして毒々しいほどに赤い唇……。

 いや、違う。これは……これは……。絵の女が、ゆっくりと口の端を持ち上げ、妖しいまでに薄く笑う様が見てとれた。絵ではない……背筋が凍りつく。隣に立つモニカを、手でうしろに押しのける。

 ガタンッ! 黒い影が目にも止まらぬ速さで襲い掛かってきた。一歩身を引き、目の前をかすめる刃から逃れた……つもりでいたのに、逃げ遅れた右足にざっくりと痛みが走る。太股が、焦げ付くように熱い。身体を支えきれず、ぐらりと床に膝をつく。

「カルロっ」

 背後からモニカが飛び出そうとするのを両手を広げて制する。次に襲われたら……けれども、黒い影は、こつこつと靴音を立てて離れていき、イーゼルの脇でこちらを振り返った。

「そなた……アン……ナ?」

 叔父上の長年の愛妾、アンナだった。いや、何かがおかしい。何かが違う。じっと招かざる客人の姿を凝視する。いつもと変わらぬ闇色の艶やかな髪と瞳、琥珀色の抜けるように白い肌……。ぞくり。悪寒が走った。喪服のごとく闇にまぎれる黒いドレス。そこから覗く肌には、目を覆いたくなるような青黒い斑点が無数に浮かび上がっていたのだ。手に握られた短剣はちらちらと妖しい光を放っている。

「お久しぶりですわね、男爵様。随分と足が遠のかれていると思ったら、こんなヴィッラに篭っていらっしゃたのですか」

「何を言っておられる、叔父上は今ここには居ない」

 アンナは鼻先で笑ってみせた。

「男爵様、何をおっしゃいます戯言を。貴方様は今、私の目の前にいらっしゃるではないですか」

 まっすぐにこちらを見据えてくるものの、その瞳には狂気が滲んでいた。

「お会いしたかった……つれない方。今日は意を決して本宅をお尋ねしましたのに、失礼な召使いに邪魔をされましたの」

 アンナ……アンナだったのだ。召使いが門前払いをしたという客人は。ペスト……黒死病という厄疫を携えて訪れたのはこの女だったというのか。病が蝕んでいるのは身体だけではないらしい。演技をしている様子は伺えない。この私を叔父上と思い違えているとは。

「決して……一度たりとも私をこのアトリエに呼んでくれたことなど無かったというのに……」

 ダンッ! おもむろに机の上に置かれたペインティングナイフを掴むと、アンナはイーゼルに立てかけられたキャンバスにそれを突き立ててみせた。再びアンナはコツコツと部屋を歩き回る。そして興味深そうに、壁に飾られた母の絵画に視線を走らせた。

「知っておりますわ。この方がヴェネチアの紫の薔薇……そう呼ばれた男爵さまの想い人。でも、私この方へは何も感じませんの。だって、私達が出会うよりずっと前の出来事ですもの。しかも彼女は兄上様を愛された。人は誰でも儚い恋心を愛でるものです。どうして今更この方に怒りを向けましょう……それくらいの器量は持ち合わせておりますのよ」

 くるりと、アンナはこちらを振り返る。異様に見開かれた瞳、上ずった声色、死神に見初められた女は妖気に包まれている。

「もう二度と人物を描かなかった貴方がっ、何故ですの、こんな……こんな女にっ。私を追い払い、今宵もここで二人、過ごすおつもりだったのですか? お恨みします男爵様、あまりの仕打ちでございますわ。お戯れが過ぎましてよ、さぁ、私と共にいつもの部屋に帰りましょう」

 アンナが手を差し伸ばしてくる。気休めでもその手を取り、意のまま共にこのヴィッラを抜け出れば、モニカだけでも助けられる気がした。目の前に差し出されたアンナの手は、指先までも病の痕跡が蝕んでいる。歩けるだろうか……その手を支えに立ち上がろうと、こちらも腕を伸ばした時だった。目の前にモニカが立ち塞がった。

「汚らしい女ね、そんな手で私の大切なお方に触らないで頂戴」

 やめろ……そう諭そうとしたのに……。

 バシッ! 乾いた音を立て、モニカはアンナの頬を張り倒した。ガタタタっガタンッツ! 激しく二人は掴みかかった。髪を掴み、頬を叩き合い、男同士の争いごとなど足元にも及ばない激しさで。アンナの手からいつの間にか短剣消え失せていた。床に転がったのだ。薄暗い床に必死で視線を走らせる。

「お前が奪ったんだっ!人の客に手を出しやがって畜生っ」

 髪を振り乱し、汚い言葉で罵るアンナの形相には、いつもの優雅さなど微塵も消え失せていた。ドンッ! ニ人の身体が弾け合い、よろよろと女同士は距離をあけた。

「疫病に侵された娼婦など、抱く男がどこにいるの?ましてや、妻が住む本宅に押しかけるなど……身の程をわきまえなさいな。所詮……ひと時の気紛れに愛された……コルティジャーナだという事よ」

 モニカの背中が荒い息に上下している。背後からは彼女がどんな表情なのか、窺い知る事が出来ない。

「多くを望みすぎて……神の怒りに触れたのよ……貴女も私も……」

 神の怒り?何を言っている、モニカは今宵、月の女神の祝福を受けているのだ。神の怒りなど降りかかる訳も無かろうに。

「男爵様は貴女に目をかけて、長い歳月大切に愛でて……下さったのでしょう?」

 息が上がっているのか、モニカは喘ぐよう途切れ途切れに言葉を綴る。だが声色は駄々をこねた子供に語りかけるよう、優しいものに変わっていた。

「これ以上あのお方を困らせる……つもり?今ならまだ……病に儚く消えた愛妾のまま男爵様の……心に残ってよ」

 二人の成り行きをモニカの背後からじっと見守る。凶器を持たぬアンナの扱いは、モニカの方が長けている気がした。

「もう、あがらわずに……現実を見るの。ほら……あなたの後ろにある……鏡を覗いて御覧なさいな」

 びくりと肩を震わせ、アンナは恐る恐る振り返った。彼女の背後には。姿見の鏡が壁に立て掛けられていた。

「っ……ひっぃ……っ」

 悲鳴ともうめきともつかない声を上げ、アンナは顔を両手で覆い隠す。がくがくと身体中を震わせ、定まらない眼差しを窓の外に向ける。

「……男爵様、男爵様。今宵の舞踏会は青いドレスがよろしいでしょうか」

 アンナがうわ言のよう口にしながら、ゆっくりと途方に暮れた眼差しを流してくる。

「……そうだな」

 いたたまれない気持ちで、相槌を打ってやる。何故応えてやったのかなど、自分でもよくわからないのだが。アンナは嬉しそうにはしゃいでみせた。

「ふふっ、男爵様は青がお好きね。では私直ぐに着替えて参りますわ。直ぐ……直ぐですわ。だからそこでお待ちになって……」

 ふらふらと、アンナはバルコニーに向かって歩き出した。途中、一度振り返り、少女のようあどけなく微笑んでみせた。冷淡な雰囲気をさらりと纏う女がこんな顔をするとは。いや、叔父上と二人きりの時にだけのぞかせていた、アンナの知られざる一面なのかもしれない。アンナは何のためらいもなくバルコニーの柵に手をかけると、その上に登り立ち上がった。

「何を……」

 止めろと口にしようとして、その言葉を飲み込む。この病の壮絶な終焉を思えば胸が詰まった。ドレスの裾をなびかせ、アンナの後ろ姿がぐらりと傾いたかと思うと、頭から飛び込むよう暗闇に落ちていくのが見えた。ドスンっと、鈍い音が階下より響き渡る。結末を見届ける必要もあるまい。しんとした静寂が全てを物語っているのだから。 

「憐れなこと……」

 モニカはひと言溢すと、部屋の隅に置かれたカナペ(カウチ)に向かって歩き始めた。その足取りの不自然さに違和感を感じる。ドサリッ。なだれ込むよう、モニカがをそこに腰を降ろす。


……ドクンッ……信じられない。

……ドクンッ……これは悪い夢だと、誰か私を揺り起こしてくれ。


 モニカの胸に食い込んでいるもの、それは床に転がったのだと思い込んでいたアンナの短剣だった。

「モ……ニカっ」

 床を這い、彼女の元に向かう。その様子を蒼白な顔で、彼女は放心したままに眺めている。足元に辿り着き、横になるようモニカに命じて祈るような気持で傷口を確認する。傷の深さと突き刺さった場所をみれば、絶望的な状況である事が思い知らされる。深々と埋もれるこの剣を引き抜いたならば、溢れるほどの出血が始まり、あっという間に死に至るであろう。それでもじわりじわりと、薄紫のドレスには血の花模様が刻まれていく。現実とは受け入れ難い。ほんの少し前、永遠を誓い合った命が消えかけているだなんて。

「私の絵……酷いわ。……だから嫉妬深い女は…苦手なのよ」

 この異常な状況の中、まるで日常のような会話をモニカは投げかけてくる。

「カルロ……これであなたの足を止血して、ちゃんと……固く縛らなければ駄目」

 するりとモニカは髪に飾られていたレースの紐を引き抜き手渡してくる。

 血……血……血……。止めなければならないのは貴女ではないか。なんて自分は非力なのだろう。胸を痛めている刃ひとつ取除いてやる事が出来ないだなんて。

 モニカはじっとこちらを見ている。その視線に促され、お望みのままに足の傷口を縛り上げてみせる。安心したようにモニカはカナペにもたれた。額にそっと手を伸ばし触れると、ぐっしょりとした汗が指先を濡らす。

「心を奪われた男と……抱き合うのってどんな気分なのかしら……。ふふ、可笑しいわね。星の数ほど男となんて寝てきたのに……私、馬鹿だったわ。知らないまま終るなんて……」

 跪き、モニカの顔を真上から見下ろす。顔に張り付いた髪を、そっと摘み上げて整えてあげる。

「嘘みたい……私達、まだ一度も愛し合ってなかったわね。ほら、あの夜に戻れたら……そう、初めてこのヴィッラを訪れたあの夜……よ。私、こんな私…誰かを愛したりしたら、汚してしまう……大事な人を。怖かったの……怖かった……」

 モニカはそっと口付けてきた。その唇の冷たさに、我に返る。この手にモニカが堕ちてきた高揚感。そして味わう間もなく失う恐怖の狭間で、奈落の絶望を噛み締める。

 何が起きた? どうしてこんな事になった?

「カルロ、愛してる……馬鹿ね今ごろ……でも……愛してるわ」

 神など信じるものか。愛という名の夢を与えては、無情に剥ぎ取る神なんぞ。腕の中で命尽きようとしている女は誰だ? だから、こんな女に関わりたくなど無かったのだ。私の心を鷲掴みにしたまま、何処に行こうとしている?

「泣かないで……カルロ……私の為に泣いたりしては……駄目」

 突き上げてくる慟哭を堪える事など出来なかった。この身を持って知っている。死というものの意味を。失った時よりもそれは、長い年月をかけて虚無感を積もらせていくもの。温もりも感触も声色も……二度と与えられない現実。全てが風のごとく無になる。気が遠くなる程に果てしない、永遠の無にだ。

 モニカが小さく喘ぐ。打ち上げられた魚のように苦しげに。寒い……小さく呟いて、すがるように寄り添ってくる。冷たくなっていく身体を、抱きながら、その華奢な肩をさすってやる事しか出来ない。子供のように泣きじゃくりながら、すがるような祈りを繰り返す。

 奪わないでくれ、奪わないでくれ。この望みが叶うのならば、悪魔にでも跪こう。

「カ……ルロ」

 吐息のような呼びかけに胸が詰まる。モニカは己の指に輝く真珠にそっと口付けると、甘えるようにその手を差し出してきた。純白の真珠は飛び散った血で染まっていた。両手で温めるように包み込み、何度も何度も祈りを込めてリングに口付ける。

「きっと……また……巡り会うわ。永遠の愛を……誓ったのですもの」

 置いていくな。行くな……逝くな。

 哀しみ、苦しみ、絶望。闇だ。一筋の光も与えられない、真っ暗な闇。

 堕ちていく……堕ちていく……。口を広げた底の見えない奈落にゆっくりと呑み込まれていく。







 ガシャンッ! びくりと身体が跳ね上がる。唐突な目覚めに振り上げた手が、ベッドサイドテーブルに置いてあったウイスキーのグラスを払いのけたようだ。割れはしなかったものの、テーブルの上で横たわるグラスより零れた滴が、濃厚なアルコールの匂いを漂わせている。

 夢……? 夢を見ていたのか、この俺が夢を……。長い夢だった気がする、記憶を辿ろうと自分の額に手を添えると、髪を濡らすほどの寝汗にまみれていた。とんだ様だ……。

 天井で回るファンが、窓から入る潮風を優しくかき混ぜている。ギシッ。スプリングの音を軋ませ、上半身起こしたところで、俺は信じられない光景を目のあたりにする事となる。

 何故、お前がそこに居る? 白いバスローブを羽織ったまま、身体を丸めて眠る女の背中があった。こんな至近距離に近づかれ、この俺が気付かないまま眠り呆けているなど……ありえない。一体どうしたというのだ。寝酒に煽ったウィスキーに何か仕込まれていたとでもうのか。いや、それとも……まさか……この女、何も出来ない振りをして、実は特殊な訓練を受けたテロリストだったりするのではないだろうか。

 身構えた体勢で、そっと背中を向けた顔を覗き見る。子供のようにあどけなく唇を尖らせて眠る、女の寝顔があった。じっと、その様を眺める。彼女のバスローブの紐は、結び目がないまま、ただぐるりと巻かれ、だらしなく緩まりその機能をはたしていない。大きくははだけた胸元。

 ドクンッ。音が聞こえるほどに胸が跳ね上がる。どうして、どうして、どうして……。淡い照明に浮かぶ白い肌。豊かに膨らんだ女の胸。その少し上中央に小さな痣が見て取れた。身体が震えた。あれは……あれは……。一瞬にして波のように押し寄せる夢の記憶の渦。

 ただの夢な筈だ、睡眠中に知覚現象を通して現実ではない仮想的な体験を体感する……夢。羽を広げた小さな蝶。そうだ、先程バスルームで彼女の脇を擦り抜ける時に、垣間見えたではないか。その記憶が勝手に複雑な夢を組み立てたのだ。自分自身にそう言い聞かせながらも、確かめずにいられない。どうしても、どうしてもだ。

 触れないよう、その身体を乗り越え彼女の向かいに横たわる。バスローブの襟に手を伸ばし、そっと肩まではだけさせた。……馬鹿だ、何を安堵している。こんな自分らしくも無い……。露にされた胸に、傷など見当たらなかった。滑らかな肌、柔らかく膨らんだ女の乳房。血の痕跡などどこにも見当たりはしない。心底胸を撫で下ろし、込み上げてくる嗚咽を喉元で押し殺す。

「う……ん」

 女は眉間に皺を寄せると、ゆっくりと丸めていた足を伸ばしてみせた。今、目が覚めたら、この失態を知られてしまうかもしれない。息を潜めて女の様子を伺う。もぞもぞと、動いていた指先がシーツの上を探るように滑ってくる。ふと、指先が触れる感触がしたかと思ったら……ぐいっと腕を掴まれ引き寄せられた。女の顔が鼻先に触れるような距離。目の前の唇がゆっくりと動く様が見て取れた。 言葉を彼女は綴らなかった。ただ唇だけを動かし、そして小さな寝息を再び立てた。ぎゅっと、背中に回された女の指に力が込められる。もう離さないのだと誇示すかのように……。

 暖かい女の温もりに包まれ、心音までもが触れる肌から伝わってくる。さっき目にした唇の動きを、頭の中で何度も何度も繰り返す。読唇法……俺は唇の動きで全てを読み取る訓練を受けていた。

「リコ……何故その名を知っている?」

 小さな声で、彼女の耳元に囁いてみる。何も答えず彼女は素知らぬ振りで眠り続ける。堪えきれず、もう一度声を掛ける。

「リコ……コードNO.38569268−RICO、何故その名を知っている?」

 さっき確かに彼女は吐息と共に、こう口にしたのだ。声には出さずに……唇の動きだけで。


“カルロ…カルロ”



【つづく】


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