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真珠の乙女(モニカ)

 ラウラが死んだ。告げられた時には現実感がなかった。その時は涙など、一粒も溢しはしなかったというのに、カルロには最後まで取り繕う事ができなかった。

 誰かを失うのは初めてではない。神様の気紛れには、もう馴れてしまった。人はいつか死ぬのだから。もう、私は傷付かない。だけど感情をせき止めていた境界線を、あのカルロの一言が呆気なく崩した。

“愛想笑いは不要だ”

 自分でも心臓が凍り付くのがわかった。貴方なんて……同じゴンドラに並んでいても、こちらに視線を流そうともしない。重い沈黙に押し潰されそうだ。同じベッドで眠った晩など存在しなかったかの振る舞い。微笑みは仮面マスケラだ。心から滲む影を覆い隠す、美しくも哀しい仮面。涙に縁取られた憐れな人生など、私の微笑で霞めてしまえばいい。

“愛想笑いは不要だ”

 マスケラの下の素顔など、もう忘れてしまった。そんな惨めさをさらすくらいなら、舌を噛み切った方がどんなに楽だろう。

 カーファ(コーヒー)に濡れた床が、湯気をあげていた。身体を引き寄せられた時、通り過ぎていった男達とカルロが重なった。気紛れに、時には不可解な程の執着心で、私に金貨を積み上げた男達。

 やめて。嫌悪感に一瞬、身体が強ばるのがわかった。けれどもカルロはそれ以上、腕に力を込める事もなく、身を寄せる空間を差し出してくれるのみ。見返りの代償など期待しない広い胸を、不意打ちに差し出され戸惑ってしまった。

 力を抜き、吸い寄せられるよう目の前の温もりにもたれてみる。涙はとりとめもなく流れた。何をやっているのだろう。こうして、こんな男に寄りかかっているのだろう。

“貴方なんて……大っ嫌いよ”

 ほんの数分前そう吐き捨てた男の腕で、泣いているだなんておかしいではないか。躊躇いの隙間からひたひたと滲み出る安堵感。振り払うことが出来ないのは、どうしてなのだろう……。



 花で埋め尽くされたゴンドラに、ラウラの棺は置かれていた。遺産の話を耳にした時には、彼女の深い愛情を感じ胸がつまった。

 ラウラ。ラウラ。母でもない姉でもない。彼女は生きていく道標だった。暗闇に差し込んだ一筋の光。男の持て余し方を、花開く女の生きざまを、そして絶望を微笑みで封印する術を教えてくれた。コルティジャーナとして初めての客をとる夜、ラウラは言った。

『貴方の部屋をリアルト橋の側に用意したわ。もう、ここに戻ってきては駄目』

 ラウラは優しく微笑むと、妖しげな香りがする香油を私の耳朶に塗り付けた。多分あの時、私は戸惑った顔をしていたのだと思う。ラウラに突き放されたような気がした。

『笑顔を作りなさい、モニカ。自分の力で歩かなければ人生に深い足跡を残す事は出来ないのよ。それに貴女は優秀過ぎて、私もう教える事がないの』



 白百合の花を乗せた棺が、ゆっくりと岸を離れていく。私は一歩離れた場所で見守るカルロを振り返り、彼に向かって歩き出した。カルロの黒髪が海風になびいている。歩み寄る私の姿を捕らえる深緑の瞳。目をそらさずに、顎をあげ、真っ直ぐに一歩づつカルロに向かう。辿り着くまでのわずかな道のりは、未だラウラが導いている気がした。わき上がる馬鹿げた感覚に失笑する。運命……なんて陳腐な言葉だろう。

 どうかしている。すぐ傍らまで近づいた私を、カルロは神妙な面持ちで迎え入れた。いいのか? 瞳がそう語りかけてくる。ラウラの相続の事を言いたいのだろうか。コルティジャーナは金の亡者だという常識を持つ頭には、解読不可能な行動だったのであろう。

 嫌味のつもりで口にした。そう、嫌味だ。

「暖かいお茶をご馳走してくださる?カルロ様」

 カルロは一瞬目を丸くし、皮肉そうに薄く唇だけの笑いを浮かべた。そして、冗談めいた仕草で腕を差し出してみせる。当たり前のようにエスコートの腕に指を絡める。

 とくんっ。胸の奥で爪弾かれる何かが、切なく甘美な旋律を小さく奏でる。

“ねぇモニカ、男を愛した事はある?”

 初めてラウラと出会った日の会話が頭をよぎる。

 無いわ、ラウラ。今までも、これから先もずっと……私は愛を売るコルテジャーナなのだから。誰かを想えば、気持を抱え込み、惜しみなく分け与える事など出来なくなるかもしれない。けれども今だけは……ラウラの居なくなった空洞を埋め込む温もりにすがりたくなる。そう、ひと時の戯れだ。自分に言い聞かせ、傍らの腕に甘えるよう寄り添ってみた。

 カルロに連れられて辿り着いた場所は、大運河沿いの小さな館だった。ブレンダ河沿いに連なるヴィッラには及ばずとも、土地の狭いヴェネチア中心地でこれほどの中庭を抱く館は贅沢極まりない。庭から階段を登り建物の中に忍び込む。

 金色に縁取られる装飾など無縁な、落ち着いた室内。格子型にはめ込まれた大理石の床が、落ち着いた色合いを微妙に変化させながら連なる。濃い艶やかな木の柱が漆喰で白塗りされた壁や天上に映えていた。窓を縁取る形のよい煉瓦。上階に繋がる階段は、濃い紫色の絨毯が敷かれている。霧のように漂う、しんと落ち着いた空気。

 カルロは壁際に置かれていた小さなテーブルをおもむろに持ち上げると、中庭に運び始めた。突飛な行動が飲み込めず、その様子をただ眺める。中庭から再び戻ったカルロは、今度は椅子をも運び出す。窓から階下の中庭を見下ろすと、緑の草の上にテーブルがポツリと置かれていた。椅子を抱え階段を下ったカルロが、そこに向かって歩み寄るのが見える。

 外で何をしようというのだろう?疑問が湧きあがるものの、誘われるよう自分も中庭に続く階段を降りていく。カルロが椅子を引いて招いてくれた。思わぬ特等席が、自分のものだという現実に高揚した気分が込み上げる。

 カルロが次に用意したのは、暖かいカーファ(コーヒー)だった。ポットから注がれる見慣れた色の液体。だが、自分の家の物とは全く異なる香り漂ってくる。

「カーファにも色々な種類があるのだ」

 柔らかい草の感触を足元に感じながら、カルロの淹れたカーファを口にする。この光景に似つかわしい不思議な味わい。鬱蒼と中庭を取り囲む木々の間から、雀の鳴声が響いていた。言葉少なげな私達を気遣うよう賑やかに。

「ご家族は、お出掛けかしら?」

 退屈で陳腐な話題だなんてわかっている。太陽の下、面と向かってテーブルを囲んでいる状況が馴れなくて、苦し紛れに投げ掛けた言葉。

「両親は亡くなっているし、気ままな独り暮らしだ」

 ……え? 咄嗟に返す言葉を失った。

「別に気にすることはない。珍しい事でもあるまい。黒死病ぺスト、天然痘、コレラ、流感……流行り病はいつだって、呆気なく人が群れる都を飲み込む」

 ふと、カルロは視線を館に向けた。誰も居ない抜け殻のような館を。家族を失う苦しみを、この男も味わったのか。不意打ちにさらけだされた過去に、自分と同じ傷跡が覗いている。一瞬忘れていた呼吸。音を忍ばせて深く吸い込むと、喉の奥で小さく息が震えるのがわかった。

「……こんな時につまらない話をしたな」

 テーブルの向こうからカルロの手が伸びてくる。ゆっくりと……。ふわりと髪をかすめる指の感触。髪に絡んだ何かを、そっと摘み上げられる。花びらだった。ラウラの棺を飾り立てていた花が落としていったのだろうか。カルロが息を吹きかけると、指に乗せた花びらはくるくると回りながら落ちていった。

「運命を感じる事がある? 自分の人生に」

 私の問い掛けに、カルロは花びらに向けていた視線を上げた。ゆっくりと視線が絡み合う。この瞬間を、この刹那を味わう為、あの時生き延びたのかもしれない。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、己の心に湧き上がった慣れない感情を、誤魔化せない自分がいた。

「父上がよく母に出会えたのは運命だと口にしていた。母に先立たれた後もずっとだ」

「幸せなお父様ね」

「全くだ」

「お母様も」

 視線は絡んだままだ。絡んだまま「だけど……」とカルロは言葉を続けた。

「己の矛盾だらけの人生に、運命なんて高尚な言葉は似合いそうもない」

 投げやりな台詞を、さらりとカルロは言い捨てた。

「モニカ……」

 再び、カルロの手が伸びてくる。今度は髪ではなく、大きな手が頬を撫でる。

「そんな目で見るな」

 ポツリと漏らされた言葉に、胸が跳ね上がる。その動揺を押し殺し、おどけたように言葉を返す。

「……どんな目かしら?」

「お前を見ていると、母上と重なるのだ。運命などという戯言を、父上に植え付けた母にだ」

 憎んでいるのだと言われた気がした。

 がたんっ。咄嗟に、椅子から立ち上がり、逃れるように私は歩き始めた。頭が真っ白で、何も考えられない。背後から追いかけてくる足音が聞こえた。目の前に立ちはだかった壁に、肩からぶつかる。それは弾力のある男の胸だった。今朝、私を包みこんだ、カルロの広い胸。

“貴方なんて……大っ嫌いよ”

 朝、そうカルロに言い放ったのは私自身ではないか。なのに、言い返された言葉には、ナイフのごとく胸を切り裂かれるなんて。

 馬鹿みたいだ。こんな男を運命だと感じた自分を恥じていた。馬鹿みたいだ。他人より遠い関係ではないか。なのに、どうして私を追いかけるの?

「離してよ」

「待て」

「私の事、嫌いだなんて最初から知っていたわ」

「落ち着けモニカ」

「私だって、貴方なんて……」

「……モニカ」

 引き寄せる腕の力は朝のそれとは全く異なるものだった。強引な程に強く、息が詰まるほどに激しく抱き寄せられる。眩暈がした。奪われるように口付けられる。熱くて、苦しくて、だけど溢れるほどに満たされていく。心の底からこれが、自分の欲していたものなのだと思い知らされる。その時だった。

 バサバサバサバサッ。一斉に連なった雀が、空に逃れるよう飛び立っていく。羽音の方を視線を泳がせると、そこには見覚えのある人影が立っていた。ビアンカ……。彼女の紅潮した頬が、青ざめていく様が見て取れた。カルネヴァーレの夜とは違った、腰を締め上げない薄紫色のドレス。肘から切りかえされたたシルクの薄布が、ビアンカの細い腕を優しく透かしている。そして首元を飾り立てる二連の真珠の首飾り。小振りながら贅沢に連なった真珠が、太陽の光を吸い込んでは光沢を放っている。その眩しさに弾かれそうになる。

 隠しようもない程に哀しみの色を浮かべる彼女の瞳は、カルロへの深い愛を物語っていた。この純朴な愛に跪かない男などいるのだろうか。打ちひしがれる程の苦境の淵に立っても尚、凛とした気品を崩さないのは高貴な血筋のなせる技か。

 所詮、私など猿真似なのだ。着飾り、貴婦人の真似事をしてみたところで貴族になどなれるわけも無いのだから。ビアンカのかもし出す独特の雰囲気。家柄という硬い殻に守り育まれた、一点の汚れ無き真珠にも似た乙女。ビアンカの父の事なのだろう……以前グリマーニ侯爵に挨拶をと、カルロは言った。グリマーニ侯爵。数あるヴェネチア貴族の中でも大貴族と呼ばれる家柄。カルロの叔父であるバルゾ男爵に勝らずとも劣らない。

 貴族には貴族がお似合いだ。姉を見てみるがいい、平民の娘など、ひと時の気紛れにしかならないのだ。コルティジャーナとて同じ事。

 カルロの肩越し、ビアンカに微笑みかけてみる。目の前の現実を硬直した身体でビアンカは凝視していた。人の気配に反応したカルロが、ゆっくりと後ろを振り向いた。ビアンカの姿を認めると、背中に回された腕からするりと力が抜けた。抱きとめてくれる腕を見失い、私は苦笑いをしながらビアンカのほうに向かって歩き始めた。背中にカルロの視線を感じながら、ゆっくりと歩く。

「いやね、殿方は誘惑に弱くって……ね、ビアンカ様」

 優しく、彼女に話し掛ける。馴染んだ笑顔というマスケラが、いつの間にか顔の上に被さっていた。

「精算していただこうかしら」

 唐突にカルロを振り返り、そう言葉を投げかける。彼の瞳が、みる間に曇っていくのが分かった。

「カルロ様は私の唇に、いかほどのお値段をつけて下さるのかしらね」



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