悪い夢(カルロ)
羽化したサナギが衣を脱ぎ捨てたように、毛布はモニカの身体を形どったまま空洞になっていた。蝶は既に飛びたった後らしい。独り目覚めたベッドの上でその脱け殻をぼんやりと眺める。あの髭を再び貼り付けて帰ったのだろうか。ひとり、笑いが込み上げる。
モニカの行動は、全く奇想天外だ。淑女のごとくとりすましているかと思えば、子供のような悪戯を仕掛けてみせる。可愛げの欠片もない憎まれ口を叩いたかと思えば、幽霊に怯えしがみついてきたり。あの女は苦手だ。そう感じながらも何故か意識してしまう。コルティジャーナか……。
朝陽を浴びた母上の肖像画がこちらを眺めている。からかうように微笑んで見えるのは気のせいだろうか。
そして数日後、モニカはアトリエを訪れた。その送迎役を叔父上は、再び私に言いつけてくる。
「大事な客人、送迎はお前が適任だ」
そう言い放つ叔父上にどんな不満げな眼差しを向けようとも、一向に気にとめる様子もない。
「モニカ嬢を女ひとり人目にさらしてみろ。言い寄ってくる男達に遮られ、ゴンドラが止まってしまうではないか」
「叔父上、私だってそんなに暇な訳ではないのです。仕事だっていつまでも放っておく訳にもいかないですし……」
「絵が描き上がるまで、貿易に長けた優秀な男を代わりに貸してやろう。基盤もフィレンツェからヴェネチアへ移すよう、その男に任せておけばよい」
「そんな人任せにするわけにも……」
「そんな事より、どうだ。この絵の構成は。彼女は顎のラインが息を呑む程に美しい」
キャンバスにはまだ全体像を大まかに示すデッサンが描かれているだけ。だが、ラフに刻まれた木炭の軌跡が、美しい女の姿を浮かばせている。
「どうして彼女を?」
訊ねずにはいられない。ずっと人物画から離れていた叔父上が何故? あんなに長い付き合いの黒髪の愛娼、アンナですら描こうとはしなかったくせに。
「コルティジャーナは男にとっては理想の女神だ。だがモニカ程にその偶像を見事に演じてみせるコルティジャーナは、滅多にいない」
一目惚れだよ……そう言いたげな眼差しを叔父上はキャンバスに向ける。
「……モニカ嬢にモデル以外の役柄をお求めなのですか?」
「随分無粋な事を尋ねるものだな、カルロ。お前らしくもない。気になるのか?」
気になる? なにが? あぁ、そうだ。知りたかった事は他にある。ずっとずっと、口にする事をはばかれた遠い昔の出来事だ。
「どうして……」
なんだ? 叔父上の視線が興味深そうに私の口元に注がれる。モニカの話の続きだろうと思っている彼の瞳には、からかうような色さえ浮かんでいた。
「絵のモデルをしていた頃、母上はあなたのお気に入りのコルティジャーナだったのでしょう。愛していたから描いたのですか? それなのに父上がさらっていった」
決して口にする事はないと思っていたのに……私は何を言い出しているのだ? どうして今更こんな事を……。モニカの話だったのではないか。モニカと母上が重なるのかと。だったら、それでいいではないか。所詮、母上もモニカもコルティジャーナなのだ。男達に見せかけの愛を切り売りする、女神の仮面を被った娼婦なのだから。
叔父上の瞳から、茶化すような色合いは消え失せていた。そして視線は私の背後にかけられた、母上の肖像画にゆっくりと移っていった。
「彼女に……お前の母上に心奪われない男などいなかったさ。ただ、運命の糸で結ばれていたのが私ではなかったというだけの事だ。カルロ、私は絵を描くという才能を神が与えてくれた事を、あの頃ほど感謝した事はない。彼女の陽射しのように輝く髪を、すみれ色の瞳を、息づく肌を、この手で写し取る事が出来たのだからな」
臆する事無く愛の告白を口にする叔父上の、真剣な眼差しに胸を突かれる。
「では、モニカにも同じ思いを抱いているのですか?」
わざとおどけたように口にしてみた。再び話をモニカに戻している自分に呆れる。もう、いいではないか。何を確かめたい。何を知りたい。思いの他、するりと告白された母上への想いが、尚更に心を揺さぶる。その動揺を悟られたくなくって、冗談めいた口調で尋ねていた。
「画家としてモニカにはこの上なく創作意欲を駆られるのだ。あれだけの逸材、残り少なくなった人生に再び巡り会えるものではないとな。こんな事を考えるなんて、私も年をとったものだ」
叔父上は再び、真っ直ぐにこちらを見据えてきた。
「カルロ、お前は髪や瞳の色は兄上と同じだが、顔立ちは生き写しだな、そなたの母に……実際、心の内を彼女に打ち明けた事などなかったというのに心臓に悪い。モニカに手なんぞ出さないから、そんな風に攻め立てるな。大体、そんな振る舞いをしたらアンナが黙ってはいないというものだ」
「何も攻めてなどしておりません。ただ、送迎役を仰せつかうなら、事の真相を知っておきたかっただけです。それにアンナは叔父上の浮気心なんぞ慣れたものでしょう」
「いや、相手がモニカ程のコルティジャーナとあっては話が違うというものだ。アンナは冷静なようでいて燃えるような激しさを秘めた女だ」
「そこが気に入っているのでしょう」
からかうように話の流れをアンナに反らしながら、心の奥底で何かを安堵している自分をどう感じたらよいのか戸惑っていた。モニカはモデルとしての逸材……叔父上も、それ以上この話に踏込んでこようとはしない。
「男爵様、モニカ様のご用意が出来ました」
召使が、髪を結い上げたモニカを連れて部屋に入ってきた。叔父上の指示で髪に花を飾り立てたモニカが……。その装いに満足そうに頷くと、叔父上はベッドに横たわるようモニカに命じる。先日、モニカと眠ったあのベッドにだ。
このベッドは元々母上の為に備え付けられたものだった。病を患い体が弱った母が、このヴィラで過ごす時、何処でも寛げるようにと。特にこのアトリエは母のお気に入りという事だった。
コルセットなどに形どられない寛いだドレスが、モニカの身体のラインを艶かしく浮かび上がらせている。髪に飾られた椿の花が、歩く度に誘うように揺れ動き、匂い立つ。私の横をモニカは擦り抜けていった。一瞬目が合ったが、先程の叔父上とのやりとりが頭に浮かび、噂話をしていたような後ろめたさに視線を反らした。
「私は、下の階で仕事をしております」
このアトリエで自分の存在は必要ない。そう抜け出す言い訳をつくってみる。背中に視線を感じた。だが、それはモニカなのか、叔父上なのか……確かめる事もせず、ドアに手を掛け外へとすり抜けていった。
これで何度目だろう。モニカを出迎える為、見慣れた水路にゴンドラを進めるのは。キャンバスは日々モニカの姿を色濃く染め上げていく。憂鬱だと思った。モニカがではなく、自分自身が……。モニカと並んでゴンドラに揺られていても、言葉を交わす事は稀だった。別に険悪な空気が流れる訳でもないのだが、お互い何かに躊躇するよう口を閉ざしていた。己の不自然な振る舞いに、息が詰まる。他のゴンドラとすれ違う時、橋の下を擦り抜ける時、モニカの姿に目を留める男達の視線をいつも感じた。彼女の存在に魅入られ、しばし奪われた眼差しが、やがて探るように隣にいる自分に注がれる。値踏みされているのがわかった。モニカの隣に相応しい男かどうか。答えの行く末を見届けるより早くゴンドラは流れ、男達を視界から遠ざけていく。いつもモニカはそんなあからさまな眼差しを、髪をなびかせる風のごとく受け流していた。
モニカの住まいのある建物へと、ゴンドラは大きく弧を描きながら迂回する。違和感を感じた。ゴンドラを出迎えるモニカの姿が見えない。いつもなら身支度を整え、船を着ける目印のように立つ彼女の姿が見えるのだが。代わりに一艘のゴンドラがとまっていた。こんな朝に誰だ?
先着しているゴンドラ漕ぎの様子を伺うと、ほんの一時立ち寄ったという雰囲気で待ち人の帰りを待っている。一夜を明かした主人を待っているという訳ではなさそうだ。そんな憶測をしている自分に呆れる。どうでもいいではないか、そんな事など。
ガタンとドアの音を立て、見慣れない女が出てきた。すっぽりと黒い外衣に身を包んだ女の痩せた顔は青白く、疲れ果てた表情を浮かばせていた。どこぞの召使いだというのは、かもし出す雰囲気で伺える。無言のまま女はゴンドラに乗り込むと、肩を落とし眉間に手を寄せた。
誰だ? モニカの客人か? そうなのであろう。ならば不在の理由がつくというものだ。女のゴンドラが漕ぎ出すのを見届け、陸に降り立つ。建物の入り口の扉に手をかけ、階段をあがり、居間の扉を開く。窓辺に立つモニカの後姿があった。バルコニーへ抜ける扉は開け放たれたまま。振り向きもせずじっと外を眺めている。
この窓からは目の前の水路が見渡せた。モニカに近づき肩越しに外を覗くと、先ほどの女のゴンドラが小さく見えた。身支度は整っているようだ。モニカは青いドレスを纏っていた。たっぷりとしたプリーツでボリュームを出したスカートが優しく膨らんでいる。白銀の糸が袖口に薔薇の刺繍を描いていた。仕上げに細く締め上げたウエストが、隙のない完璧な淑女の装いを演出する。
「お出迎えに間に合わなくって申し訳ありません、カルロ様」
振り向いたモニカは不自然な笑顔を向けてくる。
「今日は迂闊にも朝寝坊をしてしまいましたの。ドレスが決まらなく手間取ってしまいましたわ」
出迎えに間に合わなかったのは客人の相手をしていたからだろうに。嘘を覆い隠すように饒舌なモニカを、じっと観察する。手にしている扇が、小刻みに震えていた。血の気が失われた蒼白な顔色を、紅を引いた唇がより引き立たせている。ざわりと血が騒ぐ。モニカの様子がおかしい。
「何かお飲みになります?カルロ様、カーファ(コーヒー)を味見した事はございますか。癖になりそうな苦味が不思議な味わいですの……」
私の返事も聞かずに、モニカはテーブルの上に並べてある銀のポットに手をかけた。カップに触れる注ぎ口が、モニカの指の震えを伝え、カチカチと小さな音を立てる。モニカは慌てた様子で、誤魔化すように銀のポットをテーブルに置いた……筈だった。
ガチャンッ! 湯気を立ててモニカの足元に食器が転がり落ちていった。モニカは放心したように立ち尽くしている。
「大丈夫かっ?」
思わず発した大きな声に、モニカはびくりと身体を跳ね上げた。足元に広がるカーファの水溜まりを避けようともしない身体を、こちらに引き寄せる。
「せっかくのお茶を溢してしまいましたわ…嫌ね私、ぼんやりして……」
気まずそうな微笑を向けてくる。気づかない素振りは限界だと思った。
「愛想笑いは不要だといった筈だ」
腕を掴んだまま至近距離のモニカを見下ろす。彼女の顔が、ゆっくりと歪んでいくのが見えた。
どんっ。私の身体を押しのけ、モニカは後ずさりをした。信じられない事に、こちらを睨む瞳から溢れ出た涙がモニカの頬を濡らしていた。
「貴方なんて……大っ嫌いよ」
ぞくり。すくうように見据えてくるモニカの視線に打ち抜かれる。その冷たい眼差しに囚われた瞬間、背筋が凍りつくほどにざわめいた。
どうかしている。こんな時に……どうかしている。怒りを孕んだモニカの瞳に、魅入られている自分に気付きうろたえてしまう。
「蔑むといいわ。私の事を。もう、目を合わせるのも言葉を交わすのも汚れる気がするのでしょうね」
貴方なんて……小さく呟くモニカの声色が震えている。
「どうした? 悪い夢でも見たのではないか。私はただ、いつものように迎えに出向いただけだ」
心の動揺を振り払い気持を押し殺し話かけるが、自分でも驚くほど冷めた物言いになってしまう。どうしてこう気の利いた事が言えない。彼女が何かに傷付き、心がささくれだっているのは明らかだというのに。どうして優しい言葉のひとつもかけられない。
絡んだ視線をそらし、モニカは瞼を伏せた。小さく溜め息を吐き、高ぶる感情を封印するよう黙りこむ。そして、ポツリと口にした。
「悪い夢……そうよ悪い夢だわ。けれども私に降り掛かる悪夢は覚める事がないのよ」
噛み締めた唇が耐えきれず小刻みに震えている。病んだ蝶の羽のように……。
無意識に手を伸ばしていた。傷口を癒すよう、そっとその身体を抱きとめる。拒絶のごとく強ばった身体の感触。だが、次の瞬間あがらう事を諦めたのか、モニカから力が抜け落ちた。胸にもたれ掛かる重みは熱を含み、腕の中の空気は涙のせいかじっとりと重い。
「神は私の大切な人達を特に愛でるの、まるで嫌がらせのように……そして代替えに絶望という名の置き土産を下さるのよ」
喘ぐようなモニカの息遣い。背中をさ迷っていた細い指が、居場所を求め服を握り締めてくる。
誰かが亡くなったのか……そう察したが何も尋ねなかった。気の利いた慰めの言葉など思い浮かばない。出来る事といったら、彼女がもたれる場所をひとつ差し出す事のみ。それがモニカにとって必要か否かなど、知るよしもないのだが。
母の死は幼すぎて記憶にない。脳裏をよぎったのは三年前の父上の死顔。葬儀が終わった後、ぽっかり空いた心の隙間を抱き締めてくれたビアンカの温もりが蘇る。あの時、初めてビアンカに愛されている事実を悟った。
愛だと? 愛とは何だ? 惜しみなく分け与えられるビアンカの溢れる想いは躊躇いなど微塵も無い。のしかかる哀しみを払おうと、小さな手を伸ばして庇い立ち向かうそのひたむきさ。今、自分の心に覆い被さるこの気持は何なのだろう。腕の中で泣く女の哀しみを、癒してあげたいなどと湧き上がる、この想いは何なのだろう。
どれくらいそうしていたのか……落ち着きを取り戻したモニカがするりと腕を擦り抜けた。
「ゴンドラを待たせたままですわ。男爵様もアトリエにいらっしゃるのでしょう。行かなくては」
「断わりの伝言を言付けよう。今日は体調がすぐれず休息が必要だと。叔父上はそんな事に目くじらを立てるほど心の狭いお人では無い」
それでも行くと言い張るモニカを制し、ひとり階段を下る。伝言を伝え、ゴンドラをヴィラへ送り出す。居間に戻ると、モニカの姿は消えていた。入れ替わりに姿を見せた小間使いが、床に散らばった食器を片付けている。バルコニーへ出て、伝言を携えたゴンドラが水路を流れていく様を眺める。肩を落す叔父上の顔が目に浮かんだ。
モニカが再び姿を現した。黒い喪服に身を包んだモニカが。幾重にもドレスを覆う闇黒のベールが、金色の朝日に透け溶けている。ふわりとなびく薄布と共に、不安げな光が瞳の中で揺らめいていた。
サン・ミケーレ島に死者を運ぶゴンドラには、溢れるほどの花が積まれ出発を待っていた。春が近いとはいえ、ここまで贅沢に花々を揃えられるとは、故人は資産家だったと伺える。花に埋もれるように横たわる棺に、モニカは自分が用意した花をそっと捧げた。見事な白百合の花。モニカは名残惜しむようようにそっと棺を指でなぞる。参列者は早朝見かけたあの召使いだけだ。
「奥様の遺言で密葬にして欲しいと、最後の仕事を言付かりました。でも……モニカ様にだけは葬儀の件をお知らせしようと、私が勝手にご報告したのです」
「そう、ラウラは貴女を信頼していたもの。私はここで見送るわ。だから最後までお願いね」
「モニカ様……島には御一緒に来られないのですか?」
「ええ。ラウラはそう望んだ筈よ。でも…知らせてくれてありがとう」
モニカと話をしている女は涙ぐみながら話を続ける。
「奥様は遺言を残されました。モニカ様に……そう、モニカ様に住居を含む全ての財産を譲り渡すと」
モニカは黙り花に埋もれたゴンドラを降りた。はらりと海風にさらわれた花びらが彼女の髪にひとつふたつ舞い落ちる。
「ラウラの気持ちだけ頂くわ。私には必要ないから……貴女の最後の賃金を、好きなだけそこからが受け取って頂戴。そして残りは養育院に寄付してもらえるかしら」
え? と召使いは首をかしげた。現実離れしたモニカの言葉に返事が出来ない、といった様子だ。誰が聞いても耳を疑うだろう。
「天使様はラウラの魂を、どう秤にかけられるのかしらね」
慈愛に満ちたマリア像のごとく、ゴンドラを見送るモニカの柔らかい微笑み。召使いは何度も何度も振り返り、モニカに頭を下げた。子供のように泣きじゃくりながら……。
一歩下がり控えていた私の元にモニカが歩み寄ってくる。顎を上げ、視線を反らさず、真っ直ぐに、誇り高く。たった今、振り払った遺産の事など、お天気の話だったとでも言いたげな様子だ。
「暖かいお茶をご馳走して下さる?カルロ様」
……全くこの女は……込み上げる笑いを噛み殺し、エスコートするための腕を差し出す。馴れた仕草でモニカは指を絡めてくる。
彼女にとって金貨は、罪多き男達から巻き上げるからこそ、価値があるものらしい。