白百合の誘惑(モニカ)
男の寝顔をぼんやりと眺めた事などなかった。いつだって目覚めた瞳に、自分の姿をどのように映すのが一番印象深いのか…そんな事を朝日の中で計算していた。けれども、今朝は…。
骨ばったカーブを描く肩のライン。金色に透ける頬の産毛。首の下に差し込まれていた腕の、滑らかな筋肉などを不思議な気持で眺めている。
女になってから男と同じベッドでただ眠った事など記憶にない。いつだって目的があったからこそ相手とシーツの隙間を共有してきたのだ。手を出さないのは、コルティジャーナの私を見下しての戒めかと、一瞬プライドを踏みにじられたようにも感じたのだが、昨夜のカルロから、軽蔑を匂わせる印象は見受けられなかった。
“抱いて欲しくて誘っているなら、その気にさせてみろ”
からかっているのか、試しているのか、この男の言葉は計れない。随分、無防備な寝顔だこと。再び、隣で眠る男の顔をまじまじと眺める。
不思議な男。カルロのような男に出会ったのは初めてだ。何もかも見透かしたような冷めた目線を突き刺してくるくせに、己の温もりが染み込んだ外衣を背中に掛けてくれたりする。鎧のごとく隙がないかと思えば、こんな無防備な寝顔を晒してみせたり……だから、こちらも調子が狂うのだ。どんな男相手にだって、感情を露にしないのが常だというのに。
さぁ、身支度を整えなければ。こんな下着姿のままで、再び顔を付き合わすには、あまりにも周囲は明るすぎる。河辺に出れば流しのゴンドラを拾えるかもしれない。
家に戻りひと時すると、見覚えのある女が訪ねて来た。痩せた身体を黒い外衣ですっぽりと覆ったその様は、不吉な匂いさえ漂わせている。
「お久しぶりでございます、モニカ様」
その険しい顔つきに嫌な予感が突き上げる。
「なにかあったの?」
女はその問いかけに答えようと一瞬口を開いたが、躊躇するように出かかった台詞を飲み込んだ。その様子に、告げられる事実があまり好ましくはないであろうと伺える。
「ラウラに何かあったの?」
女主人の名を挙げると、彼女は身体をびくりと震わせた。
「ここ二、三ヶ月、奥様のお加減が思わしくないのです」
「どこか悪いの?」
……心臓が。消えそうな声で、ラウラの使用人であるその女は答えた。
「奥様はきっとモニカ様に会いたいと願っていらっしゃると思うのです。そうは決して口にされませんけれど……」
「会いにはいかないわ。だってラウラに決して帰ってくるなと言われているのだから」
「でも……それは……」
「わざわざ、知らせてくれてありがとう。でも私がお見舞いに行ったりしたら、ラウラは逆に病の重さを感じて気落ちするのではなくて?」
「奥さまは、娘のようにモニカ様を思っておいでです。それだけはお忘れにならないで」
諦め去っていく後ろ姿を見送りながら、違和感のある先程の台詞を頭の中で反芻する。娘のように……ですって?
ラウラは確かに私を導いてくれた。結婚もせず、修道院にも入らず、貧しさと縁遠く己の力で生きていく術を、ひとつづつ丁重に教えてくれた。だが、我が子を娼婦に導く母親などいるのだろうか。いや、ラウラなら実の娘ですら娼婦に仕立てあげるに違いない。それも筋金入りの、生粋のコルティジャーナへと。
ラウラと初めて出会ったのは三年前。死を決意したあの日、ラウラは私を拾い上げた。人生の歯車は歪み、ささやかな幸せなんてものは、埃を払うように容易く吹き飛んでいた。歯車が歪むきっかけは姉の夫の言い掛かりだった。子供が授からないのは姉に欠陥があるからだと唐突に離婚を申し出たのだ。まだ結婚して一年と経っていないというのに。
貴族の令嬢との不貞にうつつを抜かし、姉から乗り替えようとの画策。持参金は贅沢な逢瀬の為にすっかりと使い果たされていた。身も心もボロボロになって、姉は実家に帰って来たのだ。そして、その弱った身体を病が蝕み始めた。
一階が診療所、上階が住まいという構造上、感染する確率は高かったのであろう。性質の悪い流感が流行り出した矢先だった、姉が倒れたのは……。
医者という職業柄、父は用心深かった。けれども、同じ屋根の下に一緒に暮らす姉の病は、あっという間に家族を巻き込んでいった。母が倒れ、そして追うように父が倒れた。診療所の薬はどれも大して役には立たず、激しい咳と高熱が皆の体力を削り取っていく。
姉の持参金の借金返済はまだ終ってはいない。支払いが足りず屋敷は抵当に取られ、家族は四人寒空の下、路頭をさ迷った。
私は養育院で音楽を教えていた。とりわけ声楽を。それが修道院にいかなくても済んでいた理由の一つだ。持参金がなければ……家の嫡男でなければ…ヴェネチアは結婚できない独身者が溢れている。その歪んだ構造の中で産み落とされていく私生児達を収容する養育院では、収入の糧として子供達に音楽を仕込んでいたのだ。
けれども、そんな養育院での音楽教師の収入では、病気の家族を養っていくのは至難の技だった。小さな陽も当たらない狭いアパートの一室を借りるのが精一杯だった。幸せなんて言葉は相応しくない、どん底の生活。けれども今振り返れば、紛れもなく幸福な日々だったのだと胸が締め付けられる。家族で身を寄せ合い、ささやかな食べ物を分かちながら生きていた。お互いを思う心だけは、貧しさなどに踏みにじられないように…誇り高く生きていこうと誓い合っていた。
けれども……底冷えするような大寒波が、ヴェネチアを呑み込んだのだ。部屋を暖める充分な薪など底を尽きていた。朝になると、窓側のベッドで眠っていた父と母が、寄り添いながら冷たくなっていた。咳で潰れた声を張り上げて泣き叫ぶ姉。家の財産を使い果たし、病を運んできた自分のせいだと。何日も何日もふさぎ込み、ついには病は姉の心さえも蝕んでいった。
私はというと、両親の死を嘆くにはあまりにも心に余裕がなかった。今日のパンの為に働かなくてはいけない。授業を倍こなし、子供のようになってしまった姉の世話に追われた。怖かった。怖くて仕方なかった。身も心もボロ切れのようになった姉が、消えてしまいそうで怖かった。
母の形見の真珠の首飾りを売ったのもこの頃だ。薬を切らす訳にはいかない。質屋に首飾りを品定めされている間中、真珠で装った母の残像が何度も横切っていった。
『お母様の真珠が見当たらないの』
もう売ってしまったのだと何度説明をしても、姉は思い出したように繰り返し部屋の中を探し回る。迷子の子供のように途方に暮れた眼差しで。だが、そんな事をしばらく繰り返しながらも、姉の病は奇跡的にも回復の兆しを見せはじめた。季節が暖かく移り変わった事も要因のひとつかもしれない。身体の回復と共に、心も均衡を保ち始めたかに見えた……確かにそう見えたのだ。
『いいお天気よモニカ、髪を結ってあげるわ』
それは、久しぶりに聞く姉らしい響きを持った声だった。潰れた喉は治癒し、滑らかな姉らしい声色が、私の眠たい瞼を持ち上げた。部屋は整えられ、テーブルの上では質素ながら暖かいスープが湯気を上げている。誰かに食事を作ってもらうのなんて久しぶりだ。姉の回復にすっかりと気が緩んでしまった。
仕事に行く前の髪を、丁寧に姉が結い上げてくれた。その手の感触は母にそっくりで……懐かしさで零れた涙が、彼女の指を濡らす。
『なんだか……ずっとずっと、長い夢を見ていた気がするの』
濡れた指先を眺めながら、姉はポツリとそう口にした。
『お母様とお父様は……もういないのよね?』
念を押すように姉は尋ねてきた。
『そうよ、寒い夜に神様に召されたの。でも、二人一緒にだからきっと天国でも寂しくないわ』
『お母様の真珠の首飾り、今日こそあなたに掛けてあげようと思ったのだけれども……』
『あれはね、売ったのよ。命を繋ぐ方が大切だったから』
姉はそっと私の手を握った。
『ねぇ、モニカ……手がこんなに荒れているわ』
『今、養育院で食事を作るのも手伝っているの。ほら、なんせ子供がいっぱいでしょう、ものすごい量なの。でも、こんな事どうって事ないわ。だって、お姉様が元気になられたのだから』
『……ごめんなさいね、あなたにばかり……』
姉にそっと抱き寄せられる。嬉しくって、信じられなくって、込み上げる嗚咽をこらえる事など出来なかった。
どうして、あの時私は泣いたりしたのだろう。どうして、正気を取り戻したばかりの姉に、残酷な現実を覆い隠しもせず晒したりしたのだろう。
どうして、どうして……ドアまで見送ってくれた姉の瞳の奥の絶望に、気付く事が出来なかったのだろう。
“モニカ!アンタの姉さんがっ”
養育院に走りこみ、知らせてくれたのは誰だったのか、もう記憶にはない。ただ、覚えているのは運河から引き上げられた姉の、血の気を失った顔だけだ。額に張り付いた髪には藻が絡んでいた。力なく横たわる姿には生気がなく、袋のように結ばれたスカートの中からは沢山の石が転がっていた。
どうして、私は皆と同じ病にかからなかったのだろう。どうして独りで姉の亡骸を見下ろしているのだろう。
どうして、どうして……
父と母と姉と……ほんの数ヶ月の間に大切な命が皆、無情にも擦り抜けていった。神はいるのだろうか? 残酷に私から全てを剥ぎ取った訳を、いつの日にか教えてくださるのだろうか。自ら命を絶った姉の魂を、父母の元に導いてくれる慈悲は持ち合わせていらっしゃるのだろうか。
薄霧に包まれたサン・ミケーレ島はひっそりと息を潜め死者達を抱く。サン・ミケーレ…大天使ミカエルの名を持つこの島は、生ける者ではなく死者のみが休息を許される。連なる墓はまるで、整備された街並のようだ。
善悪を秤る天秤を持つ大天使は、この島で眠る魂を本当に正しく選別しているのであろうか。陽なたで花々を抱く広場に贅沢な墓標を立てた貴族の墓と、土を盛っただけの粗末な墓の違いは?安息を求めた魂の居場所までもが、身分や貧富の差で区画される。姉を捨てた貴族が葬られる先はあの陽なただなんて、どうして許せよう。
けれども、あの男を恨みながら生き続ける気力は、もう尽き果てていた。絶望という名の深い闇に、私の魂は囚われてしまった。海を渡り、アパートへ戻るゴンドラはもう必要ない。私の名が刻まれた粗末な墓が家族の隣に並ぶ事はないだろう。身体は海に消えたとしても、魂が天国で巡り会えるのならばそれでいいと思えた。墓に盛られた土を、手のひらで撫でながら、お別れのレクイレム(鎮魂歌)を口ずさむ。呟きの小さな旋律はやがて、残り少ない人生を振り切るかのよう高らかに響き渡った。
“死の棘に触れれば、花は枯れ果てる。朽ちる命の種を撒き、永久の収穫を夢みよう。
主よあなたの元に導きたまえ。迷える魂を。哀しみの涙をあなたのお慰めで、恵みの雨へと変えてください。主よあなたの元に導きたまえ。迷える魂を。ヴェネチアの水底に眠る亡骸を、どうぞすくい上げてください”
ばさり。背後から忍び寄った影が、盛り土の上に白百合の花を供えた。
『せっかく運んできたのだけれど、行き場がないお花なの。よろしかったらこちらに捧げてもよろしいかしら?』
凝った透かし模様の黒いベールで顔を覆った女に話し掛けられる。彼女は膝を付く私の目線まで屈み込み、両手で頬に触れてきた。
『大切な方が亡くなられたのね……可哀相に。涙に枯れ果てた瞳が、絶望で曇っているわ』
ベール越しに覗く顔立ちは美しい女だった。若さを奪われても尚、美しいと思わせる気品が漂っていた。
『悲しい唄だけれど、魂に響く透き通った歌声だった…素晴らしい喉ね。それに……』
姉が死んでから一度も櫛で梳いていない髪を、女は優しく撫で上げる。
『吸い込まれるような瞳も持っていらっしゃる。天使も羨む美貌だわ』
天使のようなのは貴女じゃないの。と、心の中で呟いてみる。微笑む口元にはうっすらと皺が刻まれていたが、女は何もかもを悟ったような神々しさに包まれていた。大天使ミカエルが私の魂を天秤にかけに来たのではないか。一瞬、そんな妄想が覆い被さる。
『死ぬのはまだ早いわ。行き場がないのなら私の家においでなさい』
それがラウラとの出会いだった。
ヴェネチアの賑わいとは縁遠い郊外に、ラウラと名乗る女の住まいはあった。運河ではなく海に面した窓からは、壮大な夕日を眺める事ができた。部屋を飾りたてる金細工、世話をしてくれる小間使い。『貴族なの?』と尋ねると、ラウラは肩をすくめ、おどけてみせた。
『まさか、そんなつまらない物に私が見えて?』
意外な台詞に口元が緩む。ラウラは母と同じ位の年代だと思う。真実は藪の中だが……。
コトリと、ラウラは不思議な香りがする飲み物を差し出した。これは何だろう? 黒い液体がカップの中で湯気を立っている。戸惑う私の様子を横目に、ラウラはカップに口をつけた。
『カーファ(コーヒー)って言うのよ。イスラムの僧侶達が飲むお茶なんですって』
カーファ……?不思議な響きに心を奪われる。
『夜中までお祈りする僧侶達の眠気覚ましになるのだそうよ。カーファの実を食べた山羊は元気に跳ね回るらしいわ』
僧侶に山羊……随分と逸話のある飲み物だ。カップを持ち上げ唇を寄せると、より濃い香りが鼻腔をくすぐる。
こくり。舌が慣れない苦さを感じ取る。しかし、それは不快なものではなかった。
『自分の為に生きてみなさいな。男を愛した事はある?』
思いがけない質問に、返す言葉を見失う。
“男を愛した事はある?”
言い寄ってくる男達は過去に何人も居たが、そんな物を私は知らない。
『寝たことはあるわ。でもそれだけよ』
挑むような私の返事を、ラウラは可笑しそうに受け止める。
『モニカ、貴女、最高の逸材ね』
逸材? 何の?
『惨めさなんて、貴女には似合わないわ。コルティジャーナになる気はなくて?』
コルティジャーナ……
『貴族の男と寝るのなんて御免だわ』
声が……声が怒りで震えてしまう。
『踏み台にするのよ』
子供に知恵を授ける母親のように優しい声色で、ラウラは語りかけてくる。
『男も、相手の身分も……』
『そうして何が手に入るっていうの?』
所詮、ただの娼婦ではないか。道端で客を拾う女達を、アパートの汚い裏路地で何度も見掛けた事がある。今日のパンを買うために……。死んだ方がましではないか。唇を噛み締めラウラを睨み付ける。
『貴女の知っている娼婦とコルティジャーナを一緒にしてもらっては困るわ。ねぇ、モニカ、このカーファ(コーヒー)のように先入観とは違う味わいを持つ世界があるものよ』
それにね……話を続けながらラウラはカップにおかわりのカーファを注ぐ。
『手に入れるものは自分の人生よ。神にも夫にもすがらず、己の力で生きて行く人生』
自分の人生……そんなものを考えた事などなかった。知り尽くしたようにそう語る女の顔を、まじまじと眺める。
『奥様、ご用意が出来ました』
痩せた小間使いがそっと、声を掛けてくる。ラウラは私の手を引くと別の部屋に導いた。大きな、大きなたらいに注がれたお湯が湯気を上げている。服を脱ぐようにとラウラに指示される。服を? 部屋にはラウラの他にさっきの小間使いさえ居る。値踏みされるような視線を感じ、身体が熱くなる。臆したら負けるような気がした。服に手をかけ、躊躇せずに一枚一枚脱いでいく。小間使いは、当たり前のように足元に落とした服を拾い上げていった。
ヴェネティアで真水は贅沢品だ。濁りのないこんなお湯に身体を浸からせる事は初めてだ。
ぽちゃん。
手の平に注いだ香油を、ラウラはお湯の中に落す。滑らかな感触がお湯に溶け込み、私の皮膚を柔らかく包む。
ぱちゃん。
ラウラが丁寧にすくい上げたお湯で私の身体を清めてくれる。絹のように滑らかな指が、体中を優しくすべっていく。首筋を撫でられ、その甘美な感触に不覚にも身体が跳ね上がってしまった。
『ふふ、羨ましいわ。磨けば磨くほどに輝きを増す肌。それに……』
執拗にラウラはうなじの下の一点を悪戯に撫でる。ぞくりと肌が粟立つ。
『こんなところに紫の蝶が留まっていてよ。痣までも貴女は美しいのね』
耳元で囁かれるラウラの声色に鼓膜を溶かされてしまそうだ。生まれつきよ……そう答えようにもにも声が出ない。
“先入観とは違う味がする世界があるものよ”
ラウラは知っているのだ。何もかも…カーファの香りにも似た未知の世界を知り尽くしている。
かなわないと思った。あがらう事を諦め身を任してしまえば、心に棲みついた絶望から逃れられるような気さえした。