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今はこんなに辛くても

作者: 井口
掲載日:2016/11/19

ああ、だからやっぱり今日はツイていない。



朝起きたら前髪は決まらないし、慌てて家を出たら電車に乗り遅れた。必死に走って、会社にはギリギリ間に合ったけど、もう前髪はグチャグチャだった。


仕事が始まれば、会議の資料は一部準備し忘れて、十分に反省してるのに、その事をお局にグチグチ責められる。そのお陰で残業確定で、月一の女子会にも参加出来なくなった。

ネイルはばっちりキメていたのに。



本当に、なんでこんなにツイていないのだろう。



なんでこんなに楽しくないのだろう。





なんでこんなに虚しくなるのだろう。



答えも、解決策も、何も見つからないのだ。




トボトボと歩く帰り道、一人の男が声をかけてきた。

一瞬、ホンの一瞬だけ、『運命』かと思った。




「……みのり?わ、久しぶりだな!」




あの頃と同じ、少年みたいな笑顔の"あの人"がいた。

漠然と、お互いに「この人と結婚する」と思っていた人。

3年前に別れた、元彼だった。



ずっと忘れられなかった人。

忘れたくなかった人。



彼はあの頃の様に「少し飲まない?」と言って、私を半ば強引にワインバーに連れていった。いや、昔は普通の居酒屋だったか。


少しだけ、時間と距離を感じた。


ただ、今日のネイルが活かされたかと思うと、少し嬉しい。昔から、強引でチャラくて、それでいて弱味を見せない人だった。



私は、そんな彼が好きだった。




カウンターに隣同士で座り、お互いに注文した。

久々の彼の横顔に、つい手を伸ばしてしまいそうになる。


彼は私に「最近、どう?」と聞いてきた。

正直に答えるのならば「毎日面白くない」と答えるべきなのだが、そんなツマラナイ人間だと思われたくないので、見栄をはって「毎日忙しくしてるよー。ゆっくり休みたい!」と、日々充実している風を装った。ネイルがよく見える様に、テーブルの上に手をソッと置いた。




「みのりはいいなぁ、楽しそうで!」



そう言って笑う彼を見ていたら、また昔に戻れるのでは……と、馬鹿な私は、淡い期待を胸に抱いてしまった。



そんな事、あるはずないのに。





「で、そっちはどうなの?」



可愛く見せようと、顔を傾けながら、余裕の笑顔で話しかける。

すると、彼は目線をそらして、「……うーん」と考えた。



「なあに!気になるじゃん!」



私は彼の方に体を向けた。天然ぽく、彼の太ももに手を置いた。

彼が両手で顔を覆う姿を見て、嬉しくてケタケタと笑った。

私に夢中だった、あの頃の様で嬉しかったのだ。



彼はチラリと私を見て、こう言った。






「………今の彼女さあ、実は処女で。

全然、させてくれないの。マジできつい……。」






は?

頭を殴られたかと思った。

チャラくて、人に弱味を見せない彼から、こんな(失礼だけども)相談されるなんて思ってもみなかった。




「大切にしようと思って、ずっと待っているんだけど…

俺も一応男だし、好きな彼女と何も出来ないのが辛くて……」





冗談でしょ、と返そうと思ったが、彼の表情を見て本気なのだと悟った。




彼女の事が誰よりも大切なのだという事も。





「………えーっ!

どのくらい我慢してんの?」



私は極力明るく答えた。

太ももに置いた手は、いつの間にか私の膝に戻ってきていた。

この、何とも言えないこの感情を、例える術が見当たらない。



ただ、泣きたくは無かった。




「………一年近く?

怖がらせたくなくて、『待つよ!』って答えたもののさー。

おれ、軽い女としか付き合った事ねーじゃん。



どうしたらその気になるのか分からなくて。

彼女は『今のままで幸せ』とか言うし……。」





「あははっ!

軽い女って、私の事かよ!あはは!


そりゃー、一年もよく待ったねぇ。

私の時なんてヤってから付き合ったじゃん!」




自然と笑いが込み上げてきた。何故笑うのか、自分でも分からない。


だって、あそこで断ったら、付き合えないって思ったからじゃん。好きだったから、許したに決まってるじゃん。





「あの時はね!ははっ。今はそんな雰囲気じゃねーもん。」



「この際、結婚すればー?あははっ!」



「俺はそれでもいいと思っているんだけどさー。

彼女がどう思っているのか……。怖くて確認出来ねー!」



「あははっ!」



…………重たい女になったら、捨てられるじゃん。

早く結婚したいって言ったら、「価値観合わない」って居なくなったじゃん。








お互いにワインには手をつけず、彼の恋愛相談に花を咲かせていた。



あんなに悩んでいる彼を見たのは初めてだった。

それが可笑しくて、私はずっと笑い転げていた。

彼も、「久々に大声で笑ったわ!」と悩みながらも、今を楽しんでいた。



私は、彼にこう言った。





「付き合うってさ、"互いを想い合う"事だと思うの。



一人だけが幸せでもダメ。一人だけ努力してもダメ。

お互いに『相手を幸せにしたい』って思わないと。

そして二人で幸せにならないと。



あんたもさ、待ってばかりじゃなくて、少しは行動してるの?

こんな私でもさ、女から誘うって相当勇気いるよ?



経験のない彼女ならさ、尚更だよ。

彼女だって前に進みたいって言うならさ、少しずつ。



あんたの方から歩み寄りなさい。

前進したとしても、後退したとしても……




今よりは『進んだ』って事でしょう?

進まずして"変化"は無いのよ!」






私は胸に溜まっていた感情をぶつけた。

付き合っていた頃には、こんな事言えなかった。



それは私自身が"成長した"という事と

彼とはもう『他人だから』という事。

もう彼女じゃないから、「嫌われたくない」なんて考えなくていいのだ。


一人でジタバタしていたあの頃とは、違うのだ。

私たちは、今やっと同じ目線に立てた。





呆気にとられていた彼も、ハッと我に返り、大きな手で自身の膝をパチン、と叩く。そして、そのまま力強く膝を掴んでいた。小さな声で「…よし!」と気合いを入れた彼を見て、私の胸の奥が振れた。



ああ、もう私の知る彼ではないのだ。

もう、あの頃の彼はいないのだ、と。




「さすが、みのりだわ、凄い名言!

すごく心に響いた、ありがとう!



おれ、ちゃんと伝えてみるよ。

好きだから、大切にしたい事。

好きだからこそ、全てを受け止めたい事。


こんな単純な事、みのりに言われて初めて気付いた。

ありがとう。」







そう言って笑う彼を見て、思い出した。




彼と別れたばかりの頃、"もうこんな辛い想いはしたくない"と思って、「人を好きになんてならない!」って騒いでいた事を。


それでも、人間というものは案外タフな生き物で、そう思っていてもお腹は空くし、仕事にだって向かう。


そして気が付けば、また人を好きになっていく事を。

そうやって、私は生きてきたんだ。




あんなに好きだった彼の笑顔を見ても、昔の様には心は動かなかった。そうやって、いずれ忘れていくのだ。




彼だって、必死に『今』を生きているじゃないか。






彼と一緒に店を出て、それから互いに別々の道を進む。

「またね」なんて言わない。それは互いに分かっていたから。



また一人になり、トボトボと歩く。

私はこの虚しさをどうにかしようと、既に終わっているであろう女子会メンバーに電話をかける。誰かに話を聞いて欲しかった。





「もしもし?ななみー?」



相手が電話に出た瞬間から、私の想いは溢れた。

溢れたら、もう止まらない。



『なに、どした?仕事終わった?』



「ついさっき、偶然元彼に会ったー。」



私が愚痴る前に、電話の声は動いてくれた。

ああ、あの時もそうだった。




『何!マジか!

今、まだマイと一緒なの!今帰り?


ウチらも今からそっち向かうから、待ってて!』





何も語る事なく、電話は切れた。

こうして、私たちは朝まで語り明かすのだ。


そうやって、私の中の膿を出してくれる。

私が辛い時は、いつだって周りに誰かがいてくれた。

辛くても、手を差し伸べてくれる仲間は沢山いるのだ。




あの時も、引きこもる私を無理矢理外へ連れ出して、美味しいものを食べに行ったり、綺麗な景色を見に行ったりもした。


彼女達のお陰で、少しずつ笑える様になって、彼がいない事が『当たり前』なんだと受け止める事ができた。



あの頃の私は本当に辛かったけど、今の私からすれば良い思い出だ。あの辛い経験があったからこそ、人の優しさが伝わったし、私自身も成長できた。



良くも悪くも、人は過去を忘れてしまうのだ。



そう思うと、幾分か気が楽になった。


今は悩んだって、迷ったっていいのだ。

私は、這い上がる術を知っている。






そう。

全て『時』が解決するのだ。

過去になれば、どんな事だって風化する。



今は辛くても、未来の私からしたら大したことないのだ。

だから今は悩んでも、迷ってもいい。






いつか、未来の私が笑い飛ばしてくれるから。


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