今はこんなに辛くても
ああ、だからやっぱり今日はツイていない。
朝起きたら前髪は決まらないし、慌てて家を出たら電車に乗り遅れた。必死に走って、会社にはギリギリ間に合ったけど、もう前髪はグチャグチャだった。
仕事が始まれば、会議の資料は一部準備し忘れて、十分に反省してるのに、その事をお局にグチグチ責められる。そのお陰で残業確定で、月一の女子会にも参加出来なくなった。
ネイルはばっちりキメていたのに。
本当に、なんでこんなにツイていないのだろう。
なんでこんなに楽しくないのだろう。
なんでこんなに虚しくなるのだろう。
答えも、解決策も、何も見つからないのだ。
トボトボと歩く帰り道、一人の男が声をかけてきた。
一瞬、ホンの一瞬だけ、『運命』かと思った。
「……みのり?わ、久しぶりだな!」
あの頃と同じ、少年みたいな笑顔の"あの人"がいた。
漠然と、お互いに「この人と結婚する」と思っていた人。
3年前に別れた、元彼だった。
ずっと忘れられなかった人。
忘れたくなかった人。
彼はあの頃の様に「少し飲まない?」と言って、私を半ば強引にワインバーに連れていった。いや、昔は普通の居酒屋だったか。
少しだけ、時間と距離を感じた。
ただ、今日のネイルが活かされたかと思うと、少し嬉しい。昔から、強引でチャラくて、それでいて弱味を見せない人だった。
私は、そんな彼が好きだった。
カウンターに隣同士で座り、お互いに注文した。
久々の彼の横顔に、つい手を伸ばしてしまいそうになる。
彼は私に「最近、どう?」と聞いてきた。
正直に答えるのならば「毎日面白くない」と答えるべきなのだが、そんなツマラナイ人間だと思われたくないので、見栄をはって「毎日忙しくしてるよー。ゆっくり休みたい!」と、日々充実している風を装った。ネイルがよく見える様に、テーブルの上に手をソッと置いた。
「みのりはいいなぁ、楽しそうで!」
そう言って笑う彼を見ていたら、また昔に戻れるのでは……と、馬鹿な私は、淡い期待を胸に抱いてしまった。
そんな事、あるはずないのに。
「で、そっちはどうなの?」
可愛く見せようと、顔を傾けながら、余裕の笑顔で話しかける。
すると、彼は目線をそらして、「……うーん」と考えた。
「なあに!気になるじゃん!」
私は彼の方に体を向けた。天然ぽく、彼の太ももに手を置いた。
彼が両手で顔を覆う姿を見て、嬉しくてケタケタと笑った。
私に夢中だった、あの頃の様で嬉しかったのだ。
彼はチラリと私を見て、こう言った。
「………今の彼女さあ、実は処女で。
全然、させてくれないの。マジできつい……。」
は?
頭を殴られたかと思った。
チャラくて、人に弱味を見せない彼から、こんな(失礼だけども)相談されるなんて思ってもみなかった。
「大切にしようと思って、ずっと待っているんだけど…
俺も一応男だし、好きな彼女と何も出来ないのが辛くて……」
冗談でしょ、と返そうと思ったが、彼の表情を見て本気なのだと悟った。
彼女の事が誰よりも大切なのだという事も。
「………えーっ!
どのくらい我慢してんの?」
私は極力明るく答えた。
太ももに置いた手は、いつの間にか私の膝に戻ってきていた。
この、何とも言えないこの感情を、例える術が見当たらない。
ただ、泣きたくは無かった。
「………一年近く?
怖がらせたくなくて、『待つよ!』って答えたもののさー。
おれ、軽い女としか付き合った事ねーじゃん。
どうしたらその気になるのか分からなくて。
彼女は『今のままで幸せ』とか言うし……。」
「あははっ!
軽い女って、私の事かよ!あはは!
そりゃー、一年もよく待ったねぇ。
私の時なんてヤってから付き合ったじゃん!」
自然と笑いが込み上げてきた。何故笑うのか、自分でも分からない。
だって、あそこで断ったら、付き合えないって思ったからじゃん。好きだったから、許したに決まってるじゃん。
「あの時はね!ははっ。今はそんな雰囲気じゃねーもん。」
「この際、結婚すればー?あははっ!」
「俺はそれでもいいと思っているんだけどさー。
彼女がどう思っているのか……。怖くて確認出来ねー!」
「あははっ!」
…………重たい女になったら、捨てられるじゃん。
早く結婚したいって言ったら、「価値観合わない」って居なくなったじゃん。
お互いにワインには手をつけず、彼の恋愛相談に花を咲かせていた。
あんなに悩んでいる彼を見たのは初めてだった。
それが可笑しくて、私はずっと笑い転げていた。
彼も、「久々に大声で笑ったわ!」と悩みながらも、今を楽しんでいた。
私は、彼にこう言った。
「付き合うってさ、"互いを想い合う"事だと思うの。
一人だけが幸せでもダメ。一人だけ努力してもダメ。
お互いに『相手を幸せにしたい』って思わないと。
そして二人で幸せにならないと。
あんたもさ、待ってばかりじゃなくて、少しは行動してるの?
こんな私でもさ、女から誘うって相当勇気いるよ?
経験のない彼女ならさ、尚更だよ。
彼女だって前に進みたいって言うならさ、少しずつ。
あんたの方から歩み寄りなさい。
前進したとしても、後退したとしても……
今よりは『進んだ』って事でしょう?
進まずして"変化"は無いのよ!」
私は胸に溜まっていた感情をぶつけた。
付き合っていた頃には、こんな事言えなかった。
それは私自身が"成長した"という事と
彼とはもう『他人だから』という事。
もう彼女じゃないから、「嫌われたくない」なんて考えなくていいのだ。
一人でジタバタしていたあの頃とは、違うのだ。
私たちは、今やっと同じ目線に立てた。
呆気にとられていた彼も、ハッと我に返り、大きな手で自身の膝をパチン、と叩く。そして、そのまま力強く膝を掴んでいた。小さな声で「…よし!」と気合いを入れた彼を見て、私の胸の奥が振れた。
ああ、もう私の知る彼ではないのだ。
もう、あの頃の彼はいないのだ、と。
「さすが、みのりだわ、凄い名言!
すごく心に響いた、ありがとう!
おれ、ちゃんと伝えてみるよ。
好きだから、大切にしたい事。
好きだからこそ、全てを受け止めたい事。
こんな単純な事、みのりに言われて初めて気付いた。
ありがとう。」
そう言って笑う彼を見て、思い出した。
彼と別れたばかりの頃、"もうこんな辛い想いはしたくない"と思って、「人を好きになんてならない!」って騒いでいた事を。
それでも、人間というものは案外タフな生き物で、そう思っていてもお腹は空くし、仕事にだって向かう。
そして気が付けば、また人を好きになっていく事を。
そうやって、私は生きてきたんだ。
あんなに好きだった彼の笑顔を見ても、昔の様には心は動かなかった。そうやって、いずれ忘れていくのだ。
彼だって、必死に『今』を生きているじゃないか。
彼と一緒に店を出て、それから互いに別々の道を進む。
「またね」なんて言わない。それは互いに分かっていたから。
また一人になり、トボトボと歩く。
私はこの虚しさをどうにかしようと、既に終わっているであろう女子会メンバーに電話をかける。誰かに話を聞いて欲しかった。
「もしもし?ななみー?」
相手が電話に出た瞬間から、私の想いは溢れた。
溢れたら、もう止まらない。
『なに、どした?仕事終わった?』
「ついさっき、偶然元彼に会ったー。」
私が愚痴る前に、電話の声は動いてくれた。
ああ、あの時もそうだった。
『何!マジか!
今、まだマイと一緒なの!今帰り?
ウチらも今からそっち向かうから、待ってて!』
何も語る事なく、電話は切れた。
こうして、私たちは朝まで語り明かすのだ。
そうやって、私の中の膿を出してくれる。
私が辛い時は、いつだって周りに誰かがいてくれた。
辛くても、手を差し伸べてくれる仲間は沢山いるのだ。
あの時も、引きこもる私を無理矢理外へ連れ出して、美味しいものを食べに行ったり、綺麗な景色を見に行ったりもした。
彼女達のお陰で、少しずつ笑える様になって、彼がいない事が『当たり前』なんだと受け止める事ができた。
あの頃の私は本当に辛かったけど、今の私からすれば良い思い出だ。あの辛い経験があったからこそ、人の優しさが伝わったし、私自身も成長できた。
良くも悪くも、人は過去を忘れてしまうのだ。
そう思うと、幾分か気が楽になった。
今は悩んだって、迷ったっていいのだ。
私は、這い上がる術を知っている。
そう。
全て『時』が解決するのだ。
過去になれば、どんな事だって風化する。
今は辛くても、未来の私からしたら大したことないのだ。
だから今は悩んでも、迷ってもいい。
いつか、未来の私が笑い飛ばしてくれるから。




