第八章 虹音の弟
「え〜っと、五〇六号室になりますね。この廊下をずっと真っ直ぐ行っていただいて、突き当たりを右に曲がって下さい。一番奥のお部屋です。お静かにお願い致します。」
その背の高い看護婦は、説明を終えると、微笑んだ。俺は礼をしてから、言う通りに進んだ。虹音は病院の名前を教えてくれなかったけど、この辺で一番大きな病院といえばここしかない。虹音は確か隣町に住んでいたから、ここに運ばれてきたはず…
突き当たりを右に曲がって一番奥の部屋の前で、俺は少しの間じっとしていた。
『橘 虹音』
見慣れた名前のはずなのに、今初めて出会うかの様なドキドキする気持ちと、不安な気持ちが入り交じった、微妙な感覚が有無を言わせず俺を襲った。
「こんにちは。」
俺は小さい声で言いながら、中を覗いた。壁にある二つの窓は、全て開けられていた。ベッドの周りのカーテンは、閉められていなかった。部屋には誰もいない。俺は遠慮がちにベッドに近づいた。
あのふんわり髪の頭には、純白の包帯が巻かれている。形の整った眉の下にあるワインカラーの瞳の目が、今は瞼に隠されている。スッと高い鼻も、描かれたような輪郭も、何もかもが懐かしかった。白すぎる肌は、光りが当たると透けているように見える。白雪姫みたいだ、と俺は思った。死んでいるように眠っているお姫様を、俺はずっと眺めていた。
と、その時扉が開き、誰かが入ってきた。その人は、一瞬驚いた顔をしただけで、後は無表情だった。
「仙路…香美さん?」
その人の声は、虹音の声だった。俺を見る目の色、眉の形、鼻の高さ、色の白さ、輪郭…虹音と寸分違わない。
「空音君。」
俺は虹音の話を思い出した。空音。虹音の弟。
「話は聞いてたけど…双子だったのか。虹音と瓜二つだな。」
俺は側にある椅子に座った。虹音の弟も、扉の近くにおいてあった椅子を持って、ベッドの側に来た。
「よく言われる。違うのは性別だけだって。俺も、仙路さんのことはずっと聞いてた。本当に男の子みたいだ…。」
最後の言葉を、虹音の弟は真剣に言った。
「いや、みたいじゃなくて男だし。」
俺は虹音の方を、密かに睨んだ。弟に変なこと吹き込むなよ…
「えっ、ホントに?!俺てっきりそうだと思いこんでた。」
また俺をからかってただけか、あいつは。彼はそう言って、初めて笑った。
虹音と同じだ…。俺はつい見とれてしまう。
「じゃあ香美でいいな。俺も空音でいいよ。」
…こんなトコまでそっくりかよ。
「虹音さ、俺が家に帰ってくる度に、香美の話をしてたんだ。」
空音は掛け布団の上に乗っている右手に、自分の手を重ねながら寂しそうに微笑んだ。俺は驚いた。
「そっか…」
としか言えなかった。
「空音がね、この間病院に来てくれたんだ。雨も降ってないのに。」虹音が嬉しそうに言った。
「え、あぁ、そうなんだ。」
虹音が幽霊だと聞かされたせいで、俺は少し放心状態になっていた。まあ幽霊でもなんでも、俺はいいんだけど…
「あの日、事件の時さ、香美話してくれたでしょ?香美の家のこと。あれ聞いててさ、僕のところと一緒だなって思った。」
「え…?」
「僕の父さんも会社クビになっちゃって、それまでも色々あったんだ。だから、僕にあんな事をしたんだね。」
虹音の目がまた遠くを見ている。
「でもきっと、怖かったんだよ、いろんな事が。僕、運ばれる時に、警察に取り押さえられてる父さんが、少し見えたんだ。父さん泣いてた。何度も何度も、「ごめんな、虹音」って言うのが聞こえた。なんで謝ったんだろうね。父さんが僕のこと、本当は大切に思ってくれてる事ぐらい知ってるのに。」
虹音が俺を見た。さっきより虹音が薄くなっているような気がした。何かの歌じゃないけど、このまま時が止ってしまえばいいのに…と思う。
「香美、僕、実体の方に戻るよ。」
虹音はそう言ったとたん、フッと消えてしまった。何も言えなかった俺は、ずっとベッドの端に座っていた。