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第六章 母の入院

夕方、玄関の鍵を開けて、俺は廊下の電気を点けた。汚い。部屋に行こうとリビングを通過している途中、ソファーの方からゴソゴソと音がした。電気を点けると、天子姉さんが膝を抱えて座っていた。ソファーの前の机上に置かれている炭酸ジュースの缶を、ぼーっと見ている。長い睫毛で、顔に影ができていた。

「姉さん、今日は衣麻莉さんのところに泊まるんじゃなかったの?」

俺はジャンパーのまま天子姉さんの隣に腰掛けた。姉さんの小さな肩がビクっと動いて、整った顔がゆっくり僕を見た。

「これから行くのよ。あ、この前はお花ありがとね。」

少しこもった声で姉さんは言った。俺は、何の事を言っているのか分からなかったが、すぐに吾未に会った日の事だと思い出した。

「花…って?」

俺は確か花屋を飛び出して、そのまま家に帰ったはずだ。

帰ったら部屋に虹音が座りこんでいた。俺は、当然だが、とても怒られた。

「どこ行ってたの」とか、「急にいなくなって心配したんだから」とか色々言われたが、花の事については何も言わなかったので、完璧に忘れていた。

「香美、可愛い藍色と白色の花が付いた小さな花束を、玄関の靴箱の上に置いてくれてたじゃない。衣麻莉(いおり)さん、とても喜んでたわ。」

天子姉さんはニッコリと優しく笑った。

どういうことだ?…虹音か?

「俺は、知らない…」

俺は本当の事を言った。姉さんは怪訝な顔をしてから、「そうなの?じゃ、やっぱりあれは…。」声を低くして言った。

「私あの日、もうすぐ香美が帰ってくる頃だろうと思って、リビングと廊下の境目に立ってたの。そしたらドアが開く音がして、私、すぐドアのとこ見たんだけど誰もいなくて…。でも、靴箱の上に花束が置いてあったのよ。今思うと、ちょっと怖いわ。」

天子姉さんはそう言うと、自分の肩を抱いた。おかしい。俺は帰った時、姉さんの出ていくとこを見たはず。じゃあ虹音はどうやって…

「じゃ、行ってくる。」

姉さんは不意に立ち上がると、旅行鞄を背負って玄関に向かった。

大晦日のあの日、俺は家に帰りづらくなって野宿という、極端な行動をとった。そして一月一日の昼頃、家に帰ると誰もいなかった。部屋に行ってみたけれど、窓が開いているだけで、虹音はどこにもいなかった。捜そうかと思ったが、あの時の事が蘇ってきて腹が立ったのでやめた。どうしてあいつはあんな事を言い出したんだろう。俺が何か…

ピンポーン

考え事をしていたせいで、インターホンの音がものすごく大きく聞こえ、俺は飛び上がった。

「はい。」

俺はまだ心臓をドキドキさせたまま、ドアを開けた。そこには吾未が立っていた。息が荒い。家の前に水色の自転車が止めてあった。

「母さんが仕事先で倒れちゃった。さっき病院に運ばれたって。どうしよう。私、どうしたら良いのか分からなくて…」

吾未は早口で喋った。

「落ち着け。わかった、俺も一緒にその病院に行くから。何か持っていくのか?」

俺は吾未の目をジッと見た。

「一応言われた物は入れてきた。」

少し落ち着いた様子で、吾未は自転車の籠を指さして言った。

「よし、すぐに行こう。」

この突然の出来事は、虹音の事を上塗りして消してしまった。


仙路心(せんじこころ)』の名札が付いた部屋の引き戸を開ける時、俺は少し緊張していた。中に入ると、ベッドの周りには、白いカーテンがかかっている。吾未が片手でカーテンを開き、入っていった。

「母さん、具合はどお?」

中から、吾未の心配そうな声が聞こえてくる。

「もう大丈夫よ。ちょっと疲れが溜まっていたのね。心配かけてごめんね。」

続いてその声が聞こえた瞬間、俺の心臓は息苦しくなるほど強く鼓動した。若い女の子の様な、しかし落ちついている懐かしい声…

と、カーテンの隙間から吾未の細い腕が突き出て、俺を手招きしていた。俺は少し戸惑ったが、思いきって入った。

「?!」

横になっているものだとばかり思い込んでいた俺は、壁に寄りかかって上半身を起こしている母さんと、バッチリ目が合ってしまった。

「そんな…本当に…」

母さんは俺の姿を見て激しく動揺した。

俺の母さんという人は、少しも変わっていなかった。

「母さん、十年ぶりだね。」

俺は心に浮かんだ言葉達を全て無視して、できるだけ穏やかにそう言った。

「香美!会いたかった。」

母さんの頬を、涙がつたった。

「会いた…かった?俺を捨てた当の本人がよくそんなこと言えるな。」

できるだけ自分を抑えるように努力した。それなのに、母さんの言葉が俺の中のスイッチを押してしまった。

「違うの、私は…」

母さんが口に手を充てる。吾未が不安そうに俺を見る。

「違う?母さんは俺が寝てる間に、俺を置き去りにしたんだ。朝起きた時、家の中には誰もいなかった。俺がどれだけ不安になったか…どれだけ心細くなったか分かるか?家中捜しても、誰もいなくて、怖くて…」

その時の感覚がリアルに蘇り、俺の体は震えた。

「たった六歳の子によくもあんな事できたな。悲しかった…ショックで息ができなかったよ。母さんは、俺と吾未じゃなく、吾未だけを連れていったんだ!どうして?どうしてなんだよ?!」

感情が溢れる。リピートボタンが押されたように、何度も頭の中で言葉を繰り返す。この部屋に今俺達だけで、他の病室と離れていなかったらきっと今ごろ誰かが飛んできただろう。体が熱くなるのを感じた。今すぐ目の前でおろおろするこの女と、俺を不安げに見ている妹を殴りたい衝動にかられた。

「香美…」

吾未が俺を見て、憐れむような目線を向けた。

「母さんは香美を捨てたんじゃないよ。香美は誘拐されたんだ。」吾未が悔しそうに言った。

瞬間、俺の全てが、止ってしまった。

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