第五章 想い出
俺はどうも国語が苦手だ。数学も苦手だが、どちらかと言うと国語。特に漢文と古典がある日の俺の精神的疲労は、大変なものだ。
その国語の授業がようやっと終わり、十分間の休憩。後一限で今日は終了だ。明日は休みだし、ゆっくりくつろげる。
俺は次の授業の用意をして、窓の外を見た。グラウンドで体育の準備をしている先生と、それを手伝わされている何人かの生徒が見えた。グラウンドを囲むように植えられている紅葉した木の葉が、大量に舞っている。掃除が大変そうだ。
俺は秋晴れの空を見上げた。細く開けた窓から涼しい風が、金木犀の香りと一緒に流れ込んでくる。
窓側の前から三番目の席は、快適だな〜。
その時突然、横で落雷でも起きたのかと思うような凄まじい音がした。女子の悲鳴が教室を埋め尽くした。俺はこの黄色い声が嫌いだ。ってか何事だ?人がリラックスしているというのに…。
「何がうるさいだッ。調子乗んなよ!」
音の発生源は、俺の隣の隣だった。机が幾つか倒れ、プリントやノートがクリーム色の床に散らばっていた。
叫んでいるのはいつも教室で騒いでいる本井だった。よく手下みたいなのを引き連れて歩いている。怒鳴られているのは、ウチのクラスで成績の良い佐々木だ。前から彼女は、本井たちに苛めらしきものを受けていたようだが、俺は女子の行動に興味はない。佐々木は机のなくなった空間に一人立っていた。
「カワイくもないくせにっ。」
本井の手下の一人、能登も口を出した。
「あなたたち、そうやって大声出すことしか出来ないの?バカみたい。」
佐々木が彼女たちを睨みつけた。
「他の子だってそう思ってる。それから、あなたたち何かと理由をつけて私や他の人を苛めてるけど、結局そういう行為は、低レベルで無意味だよ。」
泣きもせずに、佐々木は落ち着いた口調で一気に言った。
俺は、後ろの席に座って、事の成り行きをじっと見ている生徒をみつけた。面白くなさそうな顔で、頬杖をしている。
「良い子ぶりやがって!ムカツクんだよっ、そーゆーの!」
本井は言い返されたのが悔しいのか、顔を真っ赤にしていた。そして、佐々木の筆箱をわし掴むと、床に叩き付けた。バラバラと音をたてて中身が飛び散った。俺はその中にカッターナイフを見つけた。0.何秒の速さで、悪い予感が全神経を駆け巡る。周りがざわざわとしている。野次馬も集まっていた。
「何か言い返してみなよ。バカでもそれくらいできるでしょ?」
佐々木はさらに本井を挑発するような事を言った。その瞬間に、本井はそのカッターの拾い、刃をカチカチっと出した。
「だまれーっ!」
振り上げられたカッターの刃は、真っ直ぐ佐々木に向かっていった。再度教室に、野次馬のも含めた悲鳴の嵐が巻き起こった。佐々木が固く目を瞑ったのが見えた。
…これをまさに間一髪というのだろう。カッターの刃は、佐々木に傷をつけることは出来なかった。
「!?」
教室と外野が、一斉に沈黙した。
「せん…じ?」
本井の体がブルブルと震えている。制服のブラウスに鮮血が飛び散っていた。カッターから滴った血が、床に血溜りを創る。
「せ、仙路さんッ、頬が!」
背後から、佐々木が悲鳴に近い声で叫んだ。そのとたん、また周りが騒がしくなった。どこかから誰かが先生を呼びに行ってくると言っているのが聞こえた。
…遅いよ。
俺はそう思いながら、傷の少し下を触った。ビキビキと鋭い痛みが、体の神経を刺激する。手についた血は、あまりキレイとは言えない色だ。思ったより深く切れているようだ。血液が次々と流れる。
あれ、前にもこんな事あった…。俺はハンカチできつく傷口を抑え、止血した。
「わ、私、そ、そんなつもりじゃ…」
本井が力無くそう言った。その言葉に俺は反応した。本井は、俺が睨むと、蒼白な顔で後退った。
「そんなつもりじゃなかった?じゃあどういうつもりでカッター拾ったんだよ。俺の頬が切れてるってことは、もしあのままだったら、身長から考えて佐々木の片目が無くなってることになるんだぞ。」俺は本井の手からカッターを抜き取り、刃を納めた。
「ど、どうしよう。血が、血が…」
「自分で責任を持てないことなら、最初っからするなよ。感情に任せて動くなんて、誰でもできるんだ。佐々木も」
俺は振り返った。彼女の両目に涙が溜まっている。
「言い方、少しきつかったんじゃないか?お前、こいつらを見下してた様に見えたぞ。俺は偉そうなこと言えないけど、そーゆーの、良くないと思うんだ。」
俺は彼女を傷つけない様に、慎重に言葉を選び、言った。
「…そうね。私、良くなかった。ごめんなさい。」
佐々木は素直に頭を下げて謝った。本井も、しばらくしてから、恥かしそうに頭を下げた。
その時、俺の中である記憶が鮮明に思い出された。体が、自分でコントロールが効かないくらいに震えている。堪らずに、教室を飛び出した。後ろの方に、ざわめきが流れていった。
屋上に上る階段の途中に、俺は頭を抱えて座り込んでいた。出血はだいぶ治まってきたが、震えは止まらなかった。どうして今ごろこんなこと思い出すのだろう。父さんが俺と吾未を包丁で斬りつけたこと。母さんがすぐに近所の交番に駆け込まなかったら、俺達は死ぬところだった。
父さんはそれまで対人関係等でストレスをため込んでいたから、会社をクビにされたあの日、酔っ払って遂に理性を失ってしまった。俺達は病院に運ばれて何日か入院した。父さんは逮捕され、母さんは離婚届を出した。俺達の家族は、バラバラに崩れてしまった。
モトモトコウナル運命ダッタノカモシレナイ…
「仙路さん。」
突然の呼びかけに顔を上げると、目の前に誰かがしゃがみ込んで俺の顔を覗きこんでいた。
「大丈夫か?」
その人は特に優しい言い方をするわけでも、微笑んだりするわけでもなく、無表情で俺に話しかけてきた。
「なんだ、橘か。」
橘は俺の隣に座り、俺を見ずに、どこか遠くを眺めるような目をした。
「どうしてここに?」
俺の質問に、橘は調子を変えず、静かに言った。
「なんとなく。」
…こいつは俺にケンカを売ってるのか。
「そんなんじゃないよ。なんとなく心配でって意味さ。」
橘が俺を見た。俺は非科学的な事は信用しない方なのだが、この時ばかりは超能力とか、テレパシーを信じた。俺の顔を見るその目は、踊り場の窓から射し込む光でとても素敵な色をしていた。ワインカラー…かな。
「教室、先生が何人も来て、本井と佐々木を連行していった。」
「れ、連行?」
「授業は自習になったんだ。だから僕ここに来た。」
橘はまた前の方を向いて、「仙路さん、本当は刃物恐怖症なんじゃないの?」と言った。俺は頭が混乱した。
どうして…知ってるんだ?
「分かるんだ、見てると。君が佐々木の前に立った時、顔が真っ青だった。汗もすごかったしね。そうなんだろうなぁって思った。」橘のその何でもない言葉で、どうしてか分からないが、気がつけば俺は今までのこと、全てを打ち明けていた。
父さんが、昔はそうじゃなかったのに、だんだん乱暴になっていったこと、母さんと離婚の事でもめていたこと。遂に俺と吾未にまで手を出してきたこと。会社を首にされて自棄になった父さんが、俺達を包丁で斬りつけたこと。それで逮捕されたこと。母さんが俺を捨てて、吾未を連れて家出したこと。それがとても悲しかったこと…
橘はそれを、何も言わずに俺の顔を見て最後までちゃんと聞いてくれた。俺は我に返った。あれ?
「なんで俺こんなこと…。お前には関係ないのに。」
笑ってみたが、全然可笑しくなかった。橘はそんな俺をじっと見た。
「そうだね、関係ない。でも、仙路さん今も辛いんでしょ?わか―」
「分からないよ!」
俺は立ち上がって、橘を睨みつけた。心臓が激しく鼓動している。息が荒くなる。
「何でもかんでも分かるわけないだろ!今の俺の話だけで、お前に何が分かるんだよ?!辛いって?そりゃそれしか言いようがないよなぁ!同情なんて要らない!!悲しくなんかない」
こんなに大声で叫んだのは、生れて初めてかもしれない。喉がジリジリと熱くなる。肩で息をする。
「辛いから、泣いてるんじゃないの?」
不思議そうに俺を見ながら、橘が言った。泣いてる?俺が?
「いてッ!」
傷口に、何かが染みて痛い。ホントだ…泣いてる。
それから、俺は橘の隣で泣いた。本来なら数学の授業だったはずの七限目のチャイムが鳴り終わるまで。