第三章 風のような
花屋に来ると、何故かいつも目眩がする。匂いのせいだろうか…?
「みてみて!これとかキレーじゃない?」
虹音は赤いバラの花束を指差して言った。
「どーだろ…。イオリさんのイメージじゃないかなぁ。」
俺の答えは、さっきから少し雑になってきていた。虹音はそんな俺の様子には全く気がついていない様子で、色々な花を楽しそうに見ていた。
しかし…相変わらず客が少ない。この店のおばあさんは、奥に引っ込んでいるようで、今は俺たちだけ、という状況。
家の近所にある商店街の花屋は、もともと客入りが極端に少ない。冬という事もあるし、この商店街はいつもほとんど人がいないので仕方ない。クリスマスの飾り付けも、なんだか空しい。
…といった話を、ここに来る道中虹音にしていた。ここに来るのは初めてだと言って、虹音はまたはしゃいでいた。
「ねえ、そのイオリさんってどんな人?」
虹音はずり落ちてきたマフラーを巻き直しながら言った。
「えーと…姉さんの話では、バレーをやってるらしいよ。」
俺は夕べ、姉さんから聞いた情報を思い出しながら言った。
「バレーって、バレーボール?」
「…踊る方」
今度は頭痛がしてきた。ヤバい。回答がますますシンプルになっていく。
「へぇ〜、すごいね!イオリなんて名前だし、きっと美人なんだろうなぁ。オバさんの友達だったら、香美も会ったコトあるんじゃない?」
虹音はもう花たちを見飽きたらしく、近くに置いてあったパイプ椅子に(勝手に)座った。
「違う。彼氏。」
あぁ、俺も座りたい…。
虹音は驚いた顔をして、俺を見た。
「えぇっ?お、男の人?!てっきり女の人かと思ったよ。」
ズリズリと椅子を引きずりながら、青い小さな花をたくさん付けた、細長くて頼りなさそうな花束が入っているバケツの前に移動した。
俺は早く外に出たくて、店先に出た。天子姉さんの用事を済ませる気力も、だんだん薄れてきた。(正直に言うと最初からあまり無かったのだが、どうしてもと願われては、こちらもウンとしか返事のしようが無い…)
「ねえねえ結局どーすんの?早く決めないと、オバサンの約束の時間に遅れちゃう!」
この寒いのに、こいつはよく口が回る。ったく、人の気も知らないで…。
その時、スゥーっと風が吹きこんだ。俺は目を閉じて、火照ってきた顔に、ひんやりしたその心地良さを感じた。そしてゆっくり目を開けた。商店街の端の方、日が暮れて赤く染まっている道路に出る方を見た。
「…え」
自分がとうとう熱で幻を見てしまったのだと思った。いや、そうであって欲しい。
「じゃーこの花を――」
虹音の意見を、俺は最後まで聞いていなかった。考えるより先に、身体が動いていた。
まさか…!
俺は誰もいないオレンジ色に照らし出された、空しい飾り付けがされた商店街の道を、ただひたすらに、頭痛がすることも忘れて走った。
ようやくブレーキがかかったその場所は、商店街から五分ほど離れた河原にだった。
ここの川はあまり汚れていない、結構キレイな川だ。長い長いこの川に沿う河原には芝生が生えていて、近所の子供たちは、ここで遊ぶ。
その河原に、俺の目的はいた。
俺は、芝生の土手の上を、転ばないように慎重におりた。そして、ゆっくり近づいていく。水色の車体の自転車の隣に立って夕焼けを眺めているその人は、俺がすぐ側まで行ってやっと気がついた。その瞬間に、その人の硝子細工みたいな瞳を持つ懐かしい目が見開かれた。
「…香美?」
良く通る、ハスキーな声だ。
「香美なのか?…ホントに?!」
俺は彼のの顔をしっかりとみて、頷いた。
「十一年ぶりだな、吾未。まさかこの町にいるなんて」
思わなかった…よ。
「ほんとに…香美なんだ。この町にいたんだ…。」
吾未が、夢でもみているように呟いた。
「元気そうだな。しばらくいるのか?」
「え…あ、うん。そのつもり。」
自転車に跨った吾未が、はにかむ様に笑った。俺は、恥かしがり屋の吾未が、よく他人前でこうやって笑っていたのを思い出した。
「じゃ、あの…バイバイ。」
「え、もう行くのか?」
「うん。」
吾未はまたぎこちなく微笑んでから、走り去った。後を追いかけるように、冬の風が激しく吹き抜けていった。
何だったんだろう、今の数分間は。