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第十章 幸福へ、始動

俺は銀のノブを握って、白い扉を開けた。今日は窓が一つだけ開いる。その窓辺に、肩胛骨あたりまである髪を下ろして、姿勢正しくパイプ椅子に座っている母さんがいた。後ろから見ると、高校生みたいだ。

「母さん。」

俺は横に行って、声をかけた。母さんはハッと顔を上げて、俺を見た。そしてとても嬉しそうな顔をした。

「もう…来ないと思ってた。」

母さんの声は、俺を安心させる。虹音とはまた違う心地良さがある。

「母さん、あんなこと言って、ごめんなさい。姉さんに直接聞いたよ。姉さんの気持ちとか、いろいろ。」

そうなのと言って、母さんは微笑んだ。その表情には、疲れが見えていた。

「吾未は?」

俺はもう一つの椅子を持ってきて、横に置いた。

「家よ。また夕方くらいに来るんじゃないかな。」

母さんは俺の分の場所を空けてくれた。もう普通に動けるようだ。

「そぉ。あ、その家のことなんだけど…」

俺は、吾未と似ている母さんを見た。正確に言うと、吾未が母さんに似ているのだけれど…ま、それは置いておこう。

「俺達と暮らさないか?」

母さんは、驚きと困惑が混じった様な顔をした。母さんは黙っていた。俺は先を続ける。

「天子姉さんがね、一緒に暮らさないかって。姉さん、来年の春に結婚するんだって。衣麻莉さんって人と。」

これは昨日、初めて聞かされた。俺も驚いた。衣麻莉さんは、全て知っている。姉さんが話をしたからだ。それで今まで失恋していたらしい。しかし、衣麻莉さんは全くそんな事はなく、姉さんの話の後に、「結婚してください」と言ったらしい。

俺のあの祈りは、速達で神様に届いたわけだ。

「でも、母さんの人生の一部を奪ったような人を、そんなに簡単に許せるわけ無いから、こんな申し出、図々しいかもしれないけどって、姉さん言ってた。」

俺もこの意見は納得できる。俺が許しても、母さんが許すかどうか…。でも、俺はまたみんなで楽しく過ごしたい。昔と全く同じじゃなくても良いから、そうしたい。

「そう…ね。私は、あの人を恨みつづけてきた。」

母さんは静かに言った。あぁ…駄目か。

「でも、こうして香美を育ててくれた。私達も巡り合えた。私は、もう一生香美には会えないんだと思っていたから、こんなに早く再会できるなんて、夢にも思わなかったわ。だから、香美を見たその時に、私の中で十年はとても短くなっちゃった。」

母さんは微笑んで、俺の頭を優しく撫でてくれた。昔みたいに。

「香美の中で整理がついているなら、私はあの人の事をもう恨んだりしないわ。吾未には、私が話すわね。」

俺は、父さんがどうして母さんを好きになったのか、分かったような気がした。母さんは、素敵な人だ。とても、とても。

「ありがとう。」

俺は、久しぶりに笑った。


しばらく歩くと、一度来たことのある部屋の前に辿り着いた。橘虹音の部屋。

「こんにちは。」

中に入ると、前と同じように窓が全て開けられ、ベッドのカーテンも開けられていた。違うのは、空音が、ベッドの横に両膝をつき、虹音の眠るベッドに…ちょうど俺が教室の机の上に寝るように突っ伏してているということ。しかし、眠るのだったら椅子に座ってそうすれば良いわけで、わざわざ痛いことをしなくても良いわけだ。という事は、この状態から見ると、何かでショックを受けて足の力が抜けて…こうなっ…た…?

「おい、どうした?」

俺は空音にはもちろん、他の意味も込めて彼の肩を軽く揺すった。空音は顔を起こしたが、目の周りが赤く腫れていた。嫌な予感がする…

「虹音、ずっとこのままかもしれない。」

空音の声は、掠れていた。

「そう…なのか。」

俺は、なんとなく分っていた。虹音が、以前「もう会えなくなるかも」と言っていたからだ。

もう会えない。それは…死を意味する。

「ずっと眠ったままだからね。何も食べてないし。」

俺は空音の後ろにある椅子に腰をおろした。空音は、虹音の顔を見た。虹音は、さらに細くなっていた。肌は、白以上の白だ。

「俺は、逃げたんだ。」

空音が突然そう言った。

「逃げた…って?」

俺は、空音と虹音を見た。同じ顔が並んでいるのは、なんだか不思議な感じがした。

「壊れていく父さんからだよ。父さんは、昔はそんなんじゃなかった。優しかった。なのに、いろんな事が、父さんを変えたんだ!虹音がこんな事になったのも、俺が家出して、虹音を一人にしたからだ!いつも一緒にいてたのに、いつからこんなにバラバラになっちゃったんだろう…みんな…」

最後の方は、ほとんど独り言のようになっていった。俺は、もう一人の俺を見ている様な気がした。なのに、何も言ってあげられない。俺たちは幸せに向かっていってるのに、虹音達は、反対方向に行かされようとしている。

ひどいよ、神様…

「虹音、死んじゃ駄目だよ。」

俺も、空音と同じようにした。そして、目の前に投げ出された冷たい手を、ぎゅっと握った。

「俺、虹音といてホントに楽しかったんだ。まだ、おまえと仲良くなって、一週間くらいしか経ってないぞ…」

空音が、俺を見る。見開かれた目の腫れは、少しひいていた。

「俺、もっと虹音の側にいたいよ。」

素直な言葉は、虹音にしか出てこない。

「空音が、悲しむだろ?俺だって悲しいじゃないか。もう辛い思いなんか、させないでくれよ。俺、おまえがいないと、だめなんだ…!」

「それ…は…愛の告白…?」

「は?!」

俺と空音は同時に言って、虹音の顔を、上から覗くような形で見た。

薄く開いた目には、あの光るワインカラーの瞳が見えた。悪戯っぽいあの笑顔が、そこにあった。俺が握った小さい手が、弱々しく握り返してくる。

「虹音っ、気がついた!」

今、医者呼んでくるから!そう叫んで、空音は飛び出していった。

「ひさしぶ…り。げん…き?」

静かになった部屋に、少ししてから虹音の声が流れた。少し枯れているけど、虹音の声だ。俺の好きな音。俺は、微笑みかけた。

「元気じゃない奴に聞かれても、変な感じがするなあ。」

俺は、今ごろになって嬉しさが全身にこみ上げてきた。虹音も微笑む。

「僕…香美が…いるから、やっぱり…生きよう…って、思った。」虹音の手の力が、少し抜けた。ずっと動いていなかったせいで、なかなか力が入らないのだろう。

「そっか。俺も、虹音がいてくれて、励みになったよ。」

俺達は笑った。

虹音は、俺の特別な人だと確信した。でも、今は内緒にしておこう。

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