第一章 これが最初
日が短くなって、六時頃にはもう辺りは暗い。俺は家から三十分程離れたコンビニからの帰り。買ったパンやジュースが入ったビニール袋を手に下げ、電灯の無い真っ暗な道を、ぽてぽて歩いていた。高校生くらいの女子二人組みと十分ほど前にすれ違ってから、全く人は通らない。
「こんなとこ、一人じゃ歩けないよね。」
ミニスカートの女子高生が言った。
「うん。でも、あの娘一人で歩いてるよ。」
長いポニーテールの子が答えた。ミニスカートの子は少し黙っていたが、
「君ィ〜!気をつけてね!」
急に俺の方を振り返って手を振りながら微笑んだ。俺は驚いたが、彼女達の方を振り返り、「ありがと。」と微笑み返した。
思った通り、彼女たちは何かひそひそ言いながら行ってしまった。
…彼女たちが何を話していたのか分かっている。良くある事だ。
でも、さっきだけは…間違えられても不快感は無かった。むしろ、十分前の子達を思い出して、俺は少し嬉しくなった。まぁ、誘拐されないように一応気をつけておこう。そう思った。
あと何mかで家に着く。帰っても誰もいない冷たい俺の住処に。
と、玄関のところで突然何か黒い塊が動いた。
…驚いた。泥棒?まさか。こんな所に入っても何も無いですよ〜。ましてや幽霊等の存在は信じていないので気にせずに足を進めた。
すぐ近くまで行くと、その黒い塊は、今度は大きくゴソっと音をたてて動いた。俺は立ち止まった。不審人物かどうか確かめたかったが、何しろどこにも電灯が無い所だから顔も何も見えない。
「…仙路さん?」
突然黒い塊の方から、聞いたことのあるような、男か女か判別のつかない澄んだ声が聞こえてきた。
俺は返事をせずに、その人を大きく避けながら玄関のドアノブを手探りし、鍵を挿してドアを開けた。入ったすぐの所にあるスイッチを押すと、玄関のオレンジ色の照明が周りに広がっていった。
「…お前か。」
俺から少し離れて立っていたのは、同じクラスの橘だった。荷物らしき物は何も持っていない様子で、灰色のロングコートに淡い抹茶色のマフラーを巻いている。しかし、あまり寒がっている様には見えなかった。不思議な奴だ。橘はいつもの様に口の両端をキュッと少し上げて俺に視線を向けている。
俺はどうして良いのか分からなくなって、頭の中で交通渋滞が…簡単に言えばパニックになった。
とりあえず「上がれよ。」と言ってみた。
すると、橘は嬉しそうに眼を輝かせて、俺の後についてきた。
俺は二階の自分の部屋で橘を待たせて台所に行った。そこでコーヒーを入れて、階段を慎重に上った。
部屋に入ると、橘はたたんだコートとマフラーを自分の横に置き、部屋の中央に置かれた黄色の小さい丸テーブルの前に姿勢良く座っていた。俺はテーブルにコーヒーを置くと、橘の向かいに座った。
すると何故か橘は眼を見開いて、まるで奇怪な物を見ている様な顔をして、俺を見た。俺は頭が?で一杯になった。
「…コーヒーだよ。ちゃんと砂糖は入れたんだ。苦くないと思うよ。」
橘は音が聞こえてきそうな瞬きをしてから、ゆっくりと、何も絵柄の無いマグカップを見下ろした。そして手にとって飲み始めた。
半分ほどを一気に飲み、フー…と息をついた。
「ありがとう」
そう言って橘は眼を細めて微笑んだ。横から光りが射し込んできそうな笑みだ。まるで絵に描いたような子だ…と、俺は橘が視界に入ってくる度に思う。睫毛が長くて、輪郭はスッと細くて整っている。背はそんなに高くないが、モデルみたいだと言ってもお世辞にならないすらりとした体型だ。
「おいしいね、コーヒー。」
橘の言葉で、俺は一瞬の心の旅から現実に呼び戻された。
「そお…。」
それだけ言ってから俺は自分の分のコーヒーを飲んだ。
「ごめんね、家に上げてくれたのにお礼も言わなくて。仙路さんが部屋に上げてくれて嬉しかった。ありがとう」
橘はまた一口コーヒーを飲んだ。俺はその言葉が素直に嬉しかった。なんて言えば言いのか分からないけど…。俺は、橘全部を見た。
俺がお前を上げたのは――
「…いから…」
「え?」
橘がマグカップから顔を上げた。
「外寒いから…あ」
俺は暖房がついていない事に気づき、横に転がっているリモコンのボタンを押した。と、その時、突然橘がくすくすと笑いだしたので、俺は心臓が止まりそうになるほど驚いた。
「なっ、なに?」
自分が変な事でもしたのかと、今の行動を思い返してみた。
「いや、なんか不思議な気持ちになっちゃって。そしたら急に可笑しくなったんだ。ごめん…クククッ」
橘はまた少し笑ってからハァ〜アと、自分を落ち着かせるようにため息をついた。
「それは良いけどさァ、橘、いい加減『仙路さん』って言うのやめてくれよ。」
俺は座り直しながら言った。
「え…なんで?仙路さん」
「『さん』じゃないってば…『仙路君』!ってか今のはわざとだろ。」俺は早口で最後まで言った。橘が楽しそうに笑い、
「まぁね。でも大人になって社会に出たら、男女関係無く『さん』ってつけるよ?」と悪びれ無く言った。
「はぁ?とにかく俺は『君』が良いの!」
「ふーん。わがままなんだな。せ・ん・じ・さんっ。」
橘は俺の目の中を覗きこむようにジィーッと見ていた。
「お前なァ〜っ…。ったく、何しに来たんだよ?」
俺はこれ以上この話をするのが馬鹿らしくなったので、強制的に終わらせた。すると何故か橘がきちんと座り直した。俺は思わず身構えてしまった。今の質問はまずかったか?それとも言い方が…
「家で父さんと母さんが喧嘩した。それで家にいるのが嫌になって家出した。」
橘は棒読みでスラスラと言った。聞きながら俺はコーヒーを飲み干し、頬杖をした。
「ふ〜ん…」
俺は思ったままを言った。橘は、口の両端を少し上げた表情のままで何も言わない。
家を飛び出して、行く宛てが無いからクラスメートの家に来た…ただそれだけの事。別に驚く事でも何でもない。俺は言葉を続けた。
「他の子のとこは?」
言ってから、しまったと思った。こいつはあまり他の奴と話をしない。べつに苛められているとかそんなのじゃなくて、なんとなくそうなっている、というような感じだ。しかし、橘はウーンと背伸びをしてから、全然気にしていない様子で改めて俺の顔を見た。
「仙路さ…仙路君じゃないと駄目な気がしたから。」
橘は言い終わったと同時に、拝むように俺の前で手を合わせた。
「という訳で仙路君!しばらく君の家に居候させてくれない?お願いっ。」
別に手を合わせてお願いされなくても良いんだけど…
「良いよ。これから冬休みだし。好きなだけ泊まってきなよ…俺の部屋で良ければ。」
僕はそう言ってから立ち上がった。橘は満面の笑みを浮かべて、「ありがう」と言った。
橘が風呂を使い終わって、部屋に上がってきた。少し青みがかった黒いウルフカットの髪が、蛍光灯の光で光っていて奇麗だと思った。俺が貸したトレーナーは、少し橘には大きかったようだ。
「この家のシャンプー、すっごく良い匂いだね!」
橘は人の家に泊まった事が無いのか、さっきからずっとはしゃいでいる。丁度橘の分の布団を自分のベッドの横に敷き終わった俺は、そんな橘を見ていてなんだか楽しい気持ちになった。こんな気持ち、なんか懐かしいな…
「あのなぁ〜…人の家のシャンプーなんてどーでもいいだろ?次俺入るから、勝手に周りのモン触んなよ。いいな?」
橘は「あ〜い」と返事をしながら、水色のカバーがかかった敷布団の上で胡座をかいて辺りをキョロキョロ見回していた。
…ホントに大丈夫なのか?
「おい、入るぞ?」
俺は風呂から上がって部屋に入る前に一応確認を取ってみた…が、返事は無い。もう寝たのか?まだ十時くらいだけど。
構わず入ると、橘は………立っていた。
ただそれだけなら別に何とも無い。が、微動だにせず、ただ静かに、立っているだけ。
…なんなんだ?
「おい…はしゃぎ過ぎてバッテリー切れか?それともメデューサが来たのか?…おいっ!」
ゆっくりと、橘の顔が俺の顔に向いた。光の射さない虚ろな目が、俺を不安にさせた。
俺は橘の真正面に行き、目のすぐ前で手をブンブン振った。すると、ピクっと瞼が上がり、まるで真っ暗な穴でも空いたような闇色の瞳に、電気の光りが映った。
橘は初め、ここにどうして俺がいるのか理解できていない顔をしたが、すぐに納得のいった様な笑みを浮かべた。
「あぁごめんごめん。なんかボーッとしてた。」
橘はハハハと呑気に笑った。
「それなら…良いんだけど。」
俺はホッと息をついて言った。
「ごめんね。ありがとう。」
橘はへへッと照れくさそうに笑った。俺は頭の中にまた?を浮かべたまま電気を消して自分のベッドに潜り込んだ。橘も、何も言わずに布団に入った。音はしなかったが、なんとなく感じで分かる。俺は闇が広がった天井を見つめた。
「ねえ、そういえば仙路君、香美って名前だよね。どんな字?」
突然橘が喋ったので、俺はまたもや心臓が止まりそうになった。
…聞いてどーすんだよ。
「香るに美しいだよ。」
俺はひとつ欠伸をしてから言った。
「へぇー…」
橘が感心したような声で言った。
「じゃあ仙路君のこと、香美って呼ぶね。僕のこともニジトで良いから。おやすみ。」
そう言うと橘は何も言わなくなった。
…はい?
俺に拒否権は無いのか?
でも…橘の名前、虹音って書いてにじとって読むのか。珍しい名前だナ。そんな事を考えながら眠りについた。