新しい光を
いつしか二人の周りは、自転車を追い抜くスピードで走る、無数の影が入り乱れる奔流となっていた。
お菓子をねだるかさもなくばいたずらをして回る、などという可愛らしい様相はかけらもない。小さなものは地表近くを走っているが、大きく力強いものは電柱の高さよりはるか上を、踊るように、あるいは自らが起こした風に翻弄されるように飛んでいく。
「こっちの土地ではあまり馴染みがないだろうね。あれが『ワイルドハント』ってやつさ。ハロウィンってのは、本来キミたち人間にとっては恐ろしいものなんだ」
それは晩秋の夜にぽっかりと開いた異界との通路を押し通る、魔霊の集団だった。明るい太陽と、幽明を隔てる秩序の力が、薄れ弱まって冬の闇と寒さ、衰亡と混沌が押し寄せる狭間の季節。それに乗じてありとあらゆる霊がこの世に現れているのではないかと思えた。
「ひゃ、百鬼夜行みたいなものかしら」
「まあ、大体あってるよ――そっちだ、そこの角を右に」
ララ国丸がときおり指先でなにがしの方向を指し示し、咲季はそちらへハンドルを切って進んだ。やがてコンクリート塀の連なりが途切れ、視界が左右にひらける。
そこに異様なものがいた。夕方伯父の家の台所で流し台に載っていたのと寸分たがわぬ巨大な根菜が、大柄な人間の身体を備え、腰のベルトに長大な反身の曲刀を佩き、前装式銃の弾丸と発射薬を包んだ紙製の早合をそこかしこにくっつけた海賊風のコート姿で、悪霊たちのど真ん中をどすどすと走っていたのだ
「ジャック、そこまでだ! キミも提灯のジャックの端くれなら、悪霊を追い払うのが仕事だろ。子供たちを解放しなよ!」
ララ国丸が呼びかけると、根菜がぐるりとその頭部をめぐらせ、こちらへ一瞥をよこした。
「……ララか。てめえも出て来てやがったのか」
その顔は、ああ、何ということか。くすんだ色の巨大なカブめいた根菜には、ハロウィンと言えばもうすっかりおなじみになったカボチャの提灯と同様のくり抜かれたうつろな目鼻、そして口があったのだ。その眼窩の奥には蝋燭ではなく石炭か何かの、赤々と燃える熾火の光があった。
ルタバガ。一見カブによく似た、北ヨーロッパの野菜である。
カリブ海周辺を原産とするカボチャがアメリカへ渡った移民者たちの間でなじみの物になるより前、ハロウィンの提灯と言えばこのあまりぱっとしない野菜が使われていたことは、あまり知られていない。もちろん咲季も知らなかった。
「なるほど、おいらをふんじばるために、当世風の提灯のジャックを呼んできたわけだ。おい、小娘ども! おいらぁそう簡単に捕まるほどヤワじゃねえからな!」
ジャックは立ち止まってこちらへ向きなおった。錆びた曲刀がぞろりと抜かれ、その切先が咲季たちの方へと擬せられる。
「や、やだちょっと。私にあれと戦えっていうの!? あれ玩具じゃないよね? しっかり斬れるよね?」
咲季の腰が引ける。曲刀の刃が鬼火を反射して鈍く輝いた。鼻先をかすめるその軌跡に咲季とララ国丸は大きく上体をのけ反らせる。
しっかり斬れる、どころではない。咲季の自転車のハンドルは鋼の刃に斬り込まれてチーズのようにそぎ落とされた。コントロールを失った乗物から二人は勢いよく投げだされて地面に転がった。
「そんな、私の自転車が!? 死ぬ! アレ当たったら死ぬ奴だわ! こっちにも武器とか出して! 何か出して!」
「うわー、まいったな。ボクの糸じゃあれを受けられるような武器は作れないぞ……しょせん元が可燃性の糸だから」
「なによその安物の3Dプリンターみたいな制約! 役立たず!」
かぼちゃパンツが実際にカボチャ的なシルエットと硬さを持っているせいで、地面を転がって切先をかわすのも一苦労。咲季は持ち前の身体能力をあらんかぎり振り絞ってルタバガ男の剣尖をかいくぐるが、このままでは長くは持ちそうになかった。
「な、何か打開策! 打開策ないの!? このままじゃやられるし、私が殴って大人しくなると思えないんだけど!」
「今考えてるよ! 考えてるけど……ッ!」
ララ国丸はどこかずっと遠くへ延びた銀糸を手繰りながら、咲季と一緒に転げまわっている。
「ちょこまかとかわしやがって! ちくしょう、おいらだってなあ! 首を挿げ替えられてしばらくは真面目にやってたんだよ、悪霊払いの仕事をさ! だけどララの巻き添えで写本に閉じ込められてる間に、どうだこのザマぁ!」
憤激にかられてルタバガ頭のジャックが吼える。
「出てきてみたらハロウィンの提灯の役はカボチャ奴になり変わられちまってた。おいらはもう用なしなんだ、こんなバカな話があるか! カリブで鳴らした悪党のおいらは元々天国になんか行けやしねえ、そいつはわかってる。だがみんなが認めてくれない、思い出してもくれないのにどうすりゃこの世にとどまって、真面目に働いてられるってんだ!」
はて。咲季はふと奇妙な想念にとらわれた。
(こいつどうやら、昔は人間だったみたいな口ぶりよね……カリブ海……? あの格好も格好だし、元は海賊とか?)
走り回りながらにわか作りの相棒に必死で呼びかける。
「ララ国丸! ここから伯父さんにって電話通じる? あいつの来歴がわかれば、弱点とか類推してもらえるかも!」
奇妙な思い付きだが、この状況では意外と有効ではないのかという気がする。
「デンワ!? よくわからないけどここは現世とは微妙にずれてるからほとんどの通信手段は……いや、まてよ!?」
ララ国丸が手元から延びる銀糸と、咲季の手の中のスマホとを見比べた。
「その手鏡みたいな道具がそうかい? ちょっと貸して!」
その瞬間、大上段に振りかぶられた曲刀が二人の間に割って入る。咲季はとっさに、ララ国丸に向かってスマホを放り上げた。
「よっと!」
大きめのスマホはすっぽりとララ国丸の手の中に納まった。
「ナイスキャッチ!」
「自分で言ってる!?」
二手に分かれて逃げまわる。ララ国丸は銀糸でスマホをぐるぐる巻きにして、再びそれを咲季に投げ返した。
「これで繋がるよ! その糸はさっき出てきたあの家からずっとここまで伸ばしてきた分なんだ! アリアドネ―の糸よろしく帰りに手繰るつもりでさ!」
伯父が使う旧式な携帯電話のアドレスをタップする。向こうはすぐに出た。
――どうした? 咲季ちゃん
どうした、と訊かれても長々と説明する暇はない。ならば。
「――唐突ですがクイズです! カリブ海、海賊、ジャック、といったら!?」
――何だ何だ、いきなり? あー……キャラコ・ジャックことジョン・ラカムかな。メアリ・リードとアン・ボニー、二人の女海賊を配下に持ってたことで有名な……
流石は世間で役に立たない雑学ばかりを蓄えて酔生夢死を決め込んでいるだけのことはあった。伯父を金銭以外のことで頼りになると思ったのは久しぶりだ。
「そいつ! 多分そいつ! 弱点は何!?」
――うーん、キャラコ・ジャックなら『獲物がしょぼい』とか『船が小さい』とか『女に戦わせて逃げ隠れした』とか、不名誉な感じのエピソードが多いが、弱点と言える程かどうか……咲季ちゃん、何やってるんだ?
「いい、すごくいい! かなり割と十分かも! 伯父さんありがとう!」
咲季の様子を察知してジャックがさらに憤激した。
「何だ、その怪しげな道具は! どっかの誰かに俺の弱みを聞きだしたのか。おもしれえ、やってみろ!!」
「よ、よーし……うわっ、小っちゃ!(船が)」
誤解を招きそうなフレーズだが、口から出てしまえばもうひっこめられない。ララ国丸も追い討ちをかけた。
「うわっ、(獲物が)しょぼすぎ!?」
「貴様らぁあ! 言うてはならんことをー!」
ジャックのくり抜いた口元が三倍ほどに大きく開く。中から石炭の燃える猛火が長い舌を噴き出した。よくルタバガ部分が燃えないものだ。
「完全に度を失ってるわ。弱点になる、どころじゃないじゃない。伯父さんすごい! クリティカル!」
「今だ! 奴の後頭部にキックをお見舞いするんだ、そうすれば石炭が飛び出して、奴は『提灯』ですらなくなる」
「またそんな無茶を! アンタじゃだめなの?」
「ボクの体重はこの見かけよりずっと少ないんだ。君が見た蜘蛛のサイズだからね、ホントは」
「しょうがないわね、やったるわよ!」
破れかぶれの勇気が身体能力をブーストする。言うところの火事場の馬鹿力である。ディアスロンで鍛えた脚力がモノを言い、咲季は素早く死角から駆け寄った。走り高跳びに近いフォームで体を跳ね上げる。
ドゴォ!
不似合に重々しい打撃音とともに、咲季のむこうずねがジャックの首の付け根にめり込んだ。狙い通りに飛び出した、赤々と燃える石炭をララ国丸が拾いあげて熱さをもて余す。
「うぁーちちちッ!」
「ああッ! 返せええええーッ!!」
いつの間にか夜の追走劇は攻守を変え、二人をジャックが追う形になっていた。ララ国丸は靄の中を確固とした足取りで、どこか特定の場所を目指して駆けていくようだ。この先に何があるのか? 空に地上に満ち溢れた霊たちも、獲物を抱えてそこを目指しているようなのだ。
前方に次第にぼんやりとした光の塊が現れ、咲季たちが走るにつれて大きくなっていく。
「だめだァ! そっちへ行くな!」
ジャックの焦った声が追いかけてくるが、その時にはもう、二人は低いまばらな生け垣をぶち抜いて光が集まるその広場に転がり込んでいた。
(綺麗……!)
その瞬間。不覚にも、と言うべきか、あるいは意外にも、か。咲季はそこに現れた光景を美しいと感じた。赤から青紫を経て緑色までの、およそあらゆる色と明るさを持った鬼火の群れが、そこに集まって渦巻いていたのだ。
カクテル光線のような色彩に照らされて浮かび上がるのは、白い漆喰で固められた植民地時代様式の鐘楼を持つ教会堂だ。この広場は教会の墓地なのだった。だがこの辺にこんなものはなかったはず。大学を取り巻くこの町内で、宗教的な施設と言えば泰晶寺という古い臨済宗の寺院があるだけ――そのはずだ。
(本当に現実世界じゃないってわけね、ここ)
広場の中央には藁と木材で作られた作り物の巨人が火をつけられてぶすぶすと煙を上げ、その周りで鉤型に曲がった鼻をした鬼婆の集団が踊りまわっている。
やや離れた所にはさらわれた子供たちがひとまとめに集められ、泣きじゃくりながら震えていた。
――お家に帰してぇ……
――怖いよぅ……
「これ、どうすればいいのかしら。ジャックは相変わらず暴れてるし、ここはまだ現世じゃないみたいだし……」
咲季が呆然としていると後からは息の上がったジャックがぜえぜえとうめきながら歩いてきた。
「あんまりだ。うう……あんまりだ。なあ、お嬢ちゃん、返してくれよ俺の石炭を。このうえ頭の中の光を失ったままにされたら、俺はもう……せめて提灯であることくらいはまっとうしたいんだ」
――その言葉、誓って真実だな?
不意に厳かな声が響いた。教会堂の高窓が開き、頭に茨でできた冠をつけた長身の男が、まるで見えない階段があるかのように虚空を踏んで降りてくる。その男の両手には真新しい傷跡があり、血が滴っているのがわかった。
「あ、あれって……」
「げ、やっばい。ボクはちょっと隠れるぞ」
ララ国丸が一瞬の閃光とともに姿をくらまし、咲季は再び首筋にもぞっとした感触を覚えた。
――私の名はつまびらかにしてはならない。なぜなら、我が地上における家とその組織はこの異教の祭礼を認めていないし、積極的にかかわることを禁じているからだ。だが、今宵に繋がる明日はすべての聖者と殉教者を記念する祝日。この小さなよすがに基づいて、私が悪霊たちを追い払い、そなたら人の子をことごとく元の現世へ送り届けるとしよう。そのために……
茨冠を戴いた男は、膝をついてうずくまったジャックに歩み寄った。
――カボチャもルタバガも等しく尊い。世の人々が忘れ顧みぬことを恨んではならぬ。ジャックよ、地獄の石炭の代わりにこの蝋燭を与えよう。二度と光を消すでないぞ。いつか罪が許され、愛した者たちと和解する時は来るのだ。辛抱強く待つがいい。
男の右手がルタバガの中へ差し込まれ、真新しい蝋燭がともされた。
「ああ……」
ジャックが陶然と歓喜の声を上げた。
光は蝋燭とは思えないほど強く輝いて広がり、教会墓地は咲季の目の前からかき消えた。
閃光が消えた後に恐る恐る目を開くと、そこはあろうことか泰晶寺の境内だった。
「結局、私はたいして何かしたわけじゃないし、今考えてもとても本当にあった事とは思えないんだけど……」
数日後、咲季は自転車を漕いで伯父の家に向かっていた。あのあと寺からあてずっぽうに路地を歩き回り、ようやく見つけ出した自転車はハンドル基部を切り落とされて修理不能だったので、急遽新たに買うことになったのだ。
「今この自転車に私が乗ってることが、何よりの証拠なのよねえ」
前かごには、今日はちょっと変わったものが積まれていた。ルタバガである。あのあとネットをあさって、ルタバガを使う美味しい料理を探し出してあった。
「ジャガイモ、バジル、バターにルタバガ、ニンニク……全部そろってるわね」
(へえ、美味そうじゃないか)
頭の後ろで声がした。
はっと後ろを振り向くと、荷台の上にララ国丸がちょこんとしゃがんでいた。
「え、アンタまさか今から一緒に来るつもり?」
「あー、うん。不本意なんだけどあの本に挟まれてる間に、すっかり結びつきが強くなっちゃってるみたいでね。あまり長い間離れてられないみたいなんだ」
「私、伯父さんにアンタの存在をうまく説明できる自信がないんだけど」
「まあ、着いたら隠れてるから」
――どうしよう。
悩みながらも咲季はペダルをこぎ続ける。案外あの伯父なら、この魔物が目の前に現れても難なく事態を飲み込んでくれるのではないか、という気もしていた。
ふー疲れました。これで完結です。この物語はTwitterでいただいたお題をもとに構成させていただきました。こんな駄作になってしまって申し訳ありません。
以下、お題をくださった方とそのお題を列記。
八田若忠さま「スパッツ」
守分結さま「蜘蛛」
狂枢亭 交吉さま「女子大生」
ろわぞうさま「ルタバガ」
星村哲生さま「独居老人と姪っ子」
以上でした(順不同)
いやあ、お題をもらって書くというのはなかなか難しいものですね。勢いと制球力が必要です、まだまだ修行が足りませんなあ。
父の退院以来どうも家事に追われることが多く、完結がすっかり遅くなってしまいましたことをお詫びいたします。それではまた、再見!