這い出た影
三話ほどになる予定です
玄関の引き戸を開けると、いつも通りかすかにカビ臭いような匂いがした。
(ああ、また散らかしてるんだろうなぁ)
咲季は苦笑いしながら上がり框に手をつき、蛍光イエローのラインが目立つ毒々しい色のスニーカーをタイル貼りの三和土に脱ぎ捨てた。
「隆伯父さん、生きてるー? 上がるわよ」
奥の居間から、おう、とぶっきらぼうな返事が返って来る。咲季は思わず口角を頬に食い込ませてにんまりと微笑んだ。
大体、昨日も来たのだ。そうそう簡単にどうにかなるようなことはあるはずもない。荷物を小脇にすたすたと廊下を進み、戸車付きの重いふすまを引き開けた。
「こんにちは」
「やあ咲季ちゃん、いつもすまんな」
照れ臭そうに笑うと伯父はわずかに頬を紅潮させた。
「いいっていいって。学費出してもらってるし、ここ大学から近いからね」
そういいながらそそくさと居間を横切って、咲季はキッチンへ入った。
愛煙家だった父が心疾患で急死して、もう四年になる。一時は進学をあきらめた彼女に、救いの手を差し伸べてくれたのが隆伯父だ。
六十過ぎまでついぞ家庭を持つことがなかった変わり者で、得体のしれない古書、骨董を友に気ままに生きて来た伯父は、咲季を自分の娘のようにかわいがってくれるのだった。
咲季自身も伯父に懐いていて、休日や休講日の午後にはこうして材料持参で食事を作りに来る。入学以来というもの、それが習慣になっていた。
食料品を詰め込んだ整理ワゴンの手前に、買ってきた食材を置く。重量感のあるその音に、隆伯父が読みさしの本から顔を上げた。
「何を食わせてくれるんだ、今日は?」
その視線が、流しの上に据えられた緑色のごつごつした球体に注がれる。
「かぼちゃか」
ふむ、と伯父が顎を手でさすりながらうなずいた。
「んッへへー、ハロウィンだからね、今日は。かぼちゃ料理が正義よ」
エプロンを着けてかぼちゃを洗いにかかる。皮にあまり凹凸のない、スムーズなタイプの物だ。
「ハロウィンも知らん間にずいぶんと日本に定着したもんだなあ。俺が若いころは、ハロウィンなんかせいぜいアメリカの漫画に出てくるくらいだった。ほれ、チャーリー・ブラウンが出てくるやつ――」
「ああ、『ピーナッツ』シリーズ?」
中学の時図書室の本で読んだ覚えがあった。作者は世を去って久しいが、かぼちゃ大王なる伝説の存在を信じるあの少年――ライナスは、今年も毛布を抱きしめて夜のかぼちゃ畑にたたずむのだろうか。
「咲季ちゃんたちくらいの年だと、今夜あたりは仮装パーティーとかやるんじゃないのか?」
「あ、うん。誘われたんだけどね……」
言葉を濁す姪に、伯父は何かを察したような口ぶりで古書のページをめくりながら言った。
「……まあ、咲季ちゃんもそろそろ彼氏の一人も作ることだな」
「伯父さんに言われたくない」
「なにを言うか。俺はこれでも若いころは――」
「はいはい」
年寄りの美化された思い出話を始まる前に流しながらも、咲季もそれが案外ホラでもないのかもしれない、と思わざるを得なかった。
奇妙なことだが、このキッチンには高齢の独身男にありそうな、無気力や諦念のイメージがないのだ。年季の入った鍋類や包丁などはどれもよく手入れされているし、独り身に不釣り合いなレンジやオーブンもそろっている。やや型落ちのそれらは、咲季が大学に入るタイミングで買ったものでもなさそうだったのだ。
かといって、伯父が普段からそれらを使って料理をしている様子でもない。キッチンの整然とした佇まいから感じられるのは、「過去の習慣」とでもいったものの匂いであるように思えた。
(この家に誰か他の人が出入りしてたこともあるのかな? ま、おかげでご飯作るのには苦労しないけど)
かぼちゃのフリッター。茹でて裏ごししたカボチャをパイシートに包んで焼いたミニパイ。それに出来合いのスパイスミックスを使ったチキンのオレガノ焼き――秋の実りを感じさせる黄金色の料理が、次々と出来上がっていく。
居間のテーブルの上に料理を並べていて、咲季は伯父がなおも古めかしい本にかじりつき続けていることに眉をひそめた。
「伯父さんったら、もう。いい加減片付けなさいよ、ほら、ご飯よ」
取り上げようと手を伸ばすと、隆伯父は血相を変えて本を胸元に抱え込んだ。
「こら、濡れた手で触るんじゃない。こいつは十七世紀アイルランドの稀覯本なんだぞ。現存しているのはもう世界中でも10部に満たないんだ」
「何それ。そんなもんそれこそ大学かどっかに寄贈しなさいよ――」
じゃれつくように言い争ううちに、小さな異変が起こった。革装丁のその書物の中ほどから、数葉の羊皮紙が束となってすべり落ちたのだ。
「ああっ……!」
隆伯父が悲鳴に似た声を上げる。咲季もさすがに顔から血の気が引くのがわかった。
本のノドの部分から脱落したとしたら大ごとだ。最悪本そのものをバラして、専門の職人に製本しなおしてもらうことになるが、こんな希少なものを任せられる職人となると、伯父がいくら小金持ちでも費用は相当の負担になるだろう。
「……ご、ごめんなさい」
青ざめた顔で本を検分していた伯父が、その声にようやく我に返って咲季に視線を合わせた。
「ああ、いや、大丈夫だ。どうもしおり代わりに挟んであったものらしい。綴じ代の部分には損傷がないよ」
「よ、よかったあ……」
ほっと胸をなでおろす。手をよく拭いて改めて伯父から本と、脱落した紙束を受け取って、壁際の本棚の上に重ねて伏せた。
その時、咲季は妙なものを見た気がした。羊皮紙の間から黒と黄色の小さな生き物がかさかさと這い出して、目で追う間もなく、本棚の前に積み上げられた結束されたままの古書の山の中に姿を消したのだ。
それはハエトリグモにほど近い大きさの、蜘蛛であるように思えた。なんとなく心に引っかかったが、咲季は首を振って食事の支度に専念した。
「うん、美味い」
「えへへ」
伯父が満足そうにチキンを口に運ぶ。咲季は心が温かくなるのを感じながらそれを見守った。
「咲季ちゃんは料理がうまいなあ。いつでも嫁に行けるな」
「んー、まだ結婚とかは考えたことないかな。相手もいないし、私まだやりたいことあるんだよね」
ああ、と伯父は納得したようにうなずいた。
「二種競技か。体育科でもなかろうに、よくもまあ」
「2月に千葉で大会やるから、出るつもり」
ランニングと自転車で行われる、「夏のバイアスロン」ともいわれるスポーツ競技である。高校時代から自転車部で活動してきた咲季は、昨年から再び自転車競技の世界に出戻っていた。
今日ここに来る時も、前かご付きの自転車を立ち漕ぎで飛ばしてきた。彼女の服装もそれにふさわしく、腰から下は保温と吸湿性に優れた膝までの黒いスパッツ、その上からグレーのカーディガンを巻き付けている。
「ああいうのは若いうちだけだからな。悔いがないようにやりきるといい」
「うん、ありがと」
やや酒に汚い伯父は、食前酒に使ったワインをもう一杯グラスに注ぎたしてちびちびと飲み始めた。やれやれ、と目をそらした咲季は、視線の先にまたしても妙なものを見た気がして、目をしばたいた。
(……帰りは少し遅らせるか、自転車ここに置いて電車で帰るかな、こりゃ)
食前酒のワインをほんの少し付き合ったのだが、そのことがいかにも後悔された。
先ほどカボチャを載せた流し台の上に、見覚えのないものがあるのだ。くすんだ緑と淡い紫色を帯びた、不格好であかぬけない根菜だった。カブに似ているがずっと大きい。大根でもない。そもそもあんなものは買ってこなかった。
(おっかしいなあ)
もう一度よく見ようと首をめぐらしたが、今度はその根菜はどこへ行ったか影も形もなかった。玄関の方で、ごとりと鈍く重い音が響く。
「だれか来たのかしら?」
立ち上がって廊下の先をのぞき込むが、玄関には何もない。ただし、引き戸がわずかに開いて、外の夕闇から冷たい風が吹き込んできていた。