美声《うた》を忘れたカナリアは
昔に書いたお話を、書き直したものです。
・愛される一羽目のカナリアと、呪われた守り人の話
足が痛い。頭も痛い。
顔中がハチに刺されたように痛むのは、本当にハチに刺されたからだ。
折れた木の枝を杖にして、ぼろぼろの青年が小綺麗な部屋の扉を開けた。
長い黒髪の少女がベットに半身を起こし、ぼんやりと窓の外を見ている。振り向いた少女は青年の姿を目にして、蒼い瞳を見開いた。
「ただいま、リコリス」
名を呼ばれた少女が、ベットから飛びおりる。ふぁさふぁさと黒髪を乱して、金髪の青年のそばに駆け寄った。
「どっ……どうしたトゥマ! 山賊にでも襲われたのか?」
不用意に頬を撫でられた青年は、痛そうに顔をしかめて
「いいや」
と首を横に振る。
「じゃあ盗賊か? 海賊か? えぇと後は……あ、熊かイノシシか?」
とんでもない予想を並べるリコリスに、トゥマは痛みと不機嫌に歪んでいた緑の瞳を、ほんのわずかに緩ませた。
「違うよ、またいつもの呪い。ちょっと崖から落ちて、落ちた先でハチの巣踏んづけてハチの集団に刺されまくって、その上石につまずいて転んだあげくに、突き出てた岩に顔面ぶつけただけ」
「だけ、って、お前」
呆然と呟き返したリコリスが、思わず吹き出した。あまりと言えばあんまりな真相を耳にして、かえっておかしくなったらしい。
「お、恐ろしいものだな、小鬼の呪いとは!」
カルカラという単語を聞いて、トゥマが、むっとした顔をする
「全く……いくらカルカラお気に入りのつつじの花の蜜を、うっかり全部吸ったからって、この仕打ちはないよなあ!」
「全部吸うのもどうかと思うが」
きっぱり言い切るリコリスに、トゥマが、うっと怯んだ顔をする。
「花の蜜は、小さなカルカラの主食だぞ? 手のひらに収まる程の大きさの体なら、つつじの茂み一群れで、十日は楽に生き延びれよう」
正論を述べる少女が、ぴっと指を突きつける。そのしぐさに、青年がむぅっとくちびるを突き出した。いたずらを叱られた甘えんぼうの少年のような反応だ。
そんなトゥマに、リコリスはぴしぴしと己の意見を投げつける。
「それをお前が残らず吸ってのけたのだ。カルカラの怒りももっともだと、私は思うが」
ぐぐぐ、と返答に詰まった青年が、やけ気味に声を張り上げた。
「だ、だってさあ、それは俺たちが六歳の時だろう? あれからもう十年だぞ、十年! 『運の悪くなる呪い』!」
杖にした木の棒を振り上げて、トゥマが怒りながら嘆く。リコリスはちょっと小首をかしげて、幼なじみの大げさな挙動を眺めていた。
「もうカルカラ本人も、とっくに寿命で消えてる頃だろうに、いつまで呪うつもりだか!」
トゥマの腫れ上がった左手に、そっと少女が手を添えた。優しく手に手を添えたまま、リコリスが柔らかく微笑する。
「まあ、良いではないか。トゥマ=トゥル=トゥム、お前がどんな災難に見舞われようとも、私が全て癒してやろう。それでは不服か?」
仔リスめかした仕草で首をかしげるリコリスに、トゥマが困ったように顔をうつむけた。
こういう時に、どんな顔をしたら良いのか分からない。
「いや、まあ……別に、嫌じゃあないけどさ」
目線をそらすトゥマの手を軽く優しく握り、リコリスが口元を緩ませた。
「そうか。さすれば私が歌を歌おう」
「いや結構です遠慮しますお気遣いなく」
言葉をたたみかけて拒絶する青年に、少女は不思議そうに蒼い瞳をまたたいた。
「何故だ? 歌わねば、お前を癒せぬではないか」
「いいや大丈夫。この位のケガなら全然平気。俺、呪われ慣れてるし……」
言葉の途中でリコリスが歌い出し、トゥマは反射的に耳をふさいだ。
歌う事で人々の病気や怪我を癒す『歌姫』の、リコリス・リリア・リリアンサス。
彼女は歌姫と謳われながら、えらいこと歌が下手なのだ。
それはもうとんでもなく凄まじく、絶望的に下手なのだ。彼女の事を知る村の人々も、死にかけるまでは彼女の歌を乞わぬという、それ位酷い歌なのだ。
彼女の守り人、トゥマは呪いのために毎日のように怪我をして、そのたびに彼女の歌を聴かされる。これほど果報で不幸な守り人もいまいと、トゥマはいつも考えている。
怪獣のお産じみた声にたまりかねた青年は、腫れの引いた手でリコリスの口をふさいだ。
「もう止めてくれ。耳が壊れる」
一寸傷ついた顔をして歌うのを止めたリコリスは、
「だ、だが、傷はすっかり癒えたであろう?」
と言いながらトゥマの白い手を取った。
なるほど、痛みは見事に引いている。
つるりとした自分の頬を撫でたトゥマは、「確かに。ありがとう」と素直にお礼を言った。リコリスは嬉しそうに微笑い、けほ、と小さくせきをした。
「そうだよ、お前も風邪だったんじゃないか。大丈夫か? まだ頭が痛いか?」
トゥマがかばうようにリコリスの肩を抱き、ベットへ入るよううながした。素直に床につきながら、リコリスがふわりと微笑する。
「ああ、大丈夫だ。もう大分良くなった」
「何かさ、不公平だよな。自分の歌で、自分は癒せないなんて」
横になったリコリスの頬を軽く撫で、トゥマが呟いた。歌姫は気遣いの言葉に、嬉しそうに微笑する。
「まあ、そういうものだ。世の中はそう都合良くは出来ていまいて」
聞き分け良く言葉を紡いだリコリスが、去りかけた青年の袖をねだるみたいに軽く引く。
「もう行くのか?」
「ああ、お前はもう寝てろ。風邪は寝るのが一番だから」
背を向けようとするトゥマの袖口に、リコリスの指が絡んだまま離れない。
「もう寝飽きた」
「飽きても寝るの」
「嫌じゃのう。そうだ、されば私が寝つくまで、何ぞ話をしてくれぬか」
甘えの溶けこんだ笑顔を見せる歌姫の言葉に、トゥマは苦笑いながら腰を下ろす。
「どんな話が良いの?」
「何でも良い。お前が昔読んだ本の話なぞで、何かないか」
軽く首をひねったトゥマが、ああ、と何か思いついて声を上げた。
「『毒の歌姫』の話を、どこかで読んだ事がある」
「毒の、歌姫?」
「そう。お前と正反対の歌姫だ。姫は生まれつき、歌で人を殺せるんだって」
興味深げに身を起こそうとする少女を優しく押し止め、トゥマは呟きめいた言葉をこぼす。
「でも自分は死なない。自分だけは、死なないんだ」
「嫌じゃのう。さればうかつに歌えぬな」
小さく肩を震わすリコリスに、青年は
「お前も死なないよ?」
と、からかい混じりに言葉をかける。
「私がか? 何故?」
「お前が、毒の歌姫と同類だからだ。この世ならぬ能力を持った人間同士には、互いの能力が効かないんだ」
「そうか。……毒の歌姫を癒したい、と思った時には、どうすれば良かろうの」
リコリスが心配そうに蒼い目を細め、長く息をついた。トゥマは驚きに緑の目を見開き、やがてささやかに微笑んだ。
伝説の悪女を思いやる少女の事が、たまらなく愛おしい。
愛おしいから、聞かないふりで言葉を継いだ。
「特別な歌声を持った者同士は、能力の継承も出来るんだって。毒姫の能力を、お前が継ぐ事も出来るし、お前の力を毒姫に受け渡す事も出来る」
「どうやって?」
訊かれたトゥマは、うぅん、と難しい顔で首をひねった。
「どう……だっけかな。忘れたよ。さ、もうおやすみ」
ぽんぽん、と軽く羽根布団を叩くトゥマの手を握り、リコリスが
「まだ眠くない」
と可愛い駄々《だだ》をこねた。
「歌を歌ってくれまいか。さすればじきに寝られよう」
トゥマは少し困った顔をして、しばらく黙りこんでいた。
やがて、小さなちいさな声で歌い出した。
たわいない子守唄を、つたない声で遠慮がちに歌う。ともすれば女性のそれと間違われそうな、細く淡い声の色。
リコリスはトゥマの歌を聴くのが、幼い頃から好きだった。
せめてトゥマのように歌えればと、己の歌声を呪った事もある。
だが、今は違う。
彼の口から聞こえるから、この歌声がなお愛しいのだと、気づいたから。
トゥマの指に指を絡めていたリコリスは、やがてゆっくりと目を閉じた。微かに開いたくちびるから、穏やかな寝息がもれてくる。
トゥマは静かに微笑んで、そっと絡んだ指をほどいた。桜色の爪先に触れるだけのキスをして、なるべく音を立てないように部屋を出る。
歌姫同士は、どうやって能力の受け渡しをするのだろうと、もう一度考えた。
考えて、思い出した。
そこから先のページは、破り捨てられていた。
きっと、誰かが破棄したのだ。リコリスの能力が他へ広まる事を恐れ、彼女の目へは触れさせぬため。
トゥマは、複雑な気分でドアの前で目をつぶる。
歌声のレベルも継承されるのかな。
そう思うと、何だか妙におかしくなった。
リコリスの部屋を出て階下へ降りると、メイドたちが妙にざわついていた。
不思議に思ったトゥマが
「どうしたの?」
と声をかける。中でも自分たちと親しいメイドが、両の手にカエルのパペットをはめたまま駆け寄った。
その名は、タフト・タキ・タカラ。
他でもない、トゥマとリコリスの幼なじみだ。
「大変ですよトゥマ坊っちゃん! 我らが歌姫リコリス様を献上しろと、王子様からの仰せがあったらしいです!」
「王子、って……あの第一王子?」
トゥマが眉をひそめて訊き返すと、タフトとパペット二匹がそろって大きくうなずいた。
「そうですよ、あの王子! 王室たっての珍しい物好きで、気に入ったものは金に糸目をつけず買い漁る、あの馬鹿王子ですよ!」
勢いこんで返事するタフトの後ろで、メイドたちがうんうん、と首を縦に振る。
トゥマたちもそうだが、第一王子は国民にあまり好かれていない。珍しく賢人ぞろいの王族の中で、史上最高におつむの弱い王子だともうわさされている。
「珍しい、ったって……あの歌声を王室に?」
リコリスが聞いたら激怒するだろう、と思いながら、トゥマは素直な意見を口にする。タフトは
「そうなんですよ!」
と言いざま、パペットを使ってコントを始めた。
「おい家来! なんでも我が国には、歌で人々を癒す『歌姫』がいるそうではないか!」
右手のカエルがぱくぱくわめくと、左のカエルが平たくなってかしこまる。
「はは、確かにいるそうでございます」
「『ございます』ではない! どうしてそういう事を我の耳に入れんのじゃ! 我はその姫が欲しい。うまい事言って連れてまいれ!」
王子がふんぞり返ると、家来が困りきって頭をかくしぐさをする。
「ははぁ、しかしうわさによるとその歌姫、歌はたいそう……」
「ええい、口ごたえするな! 向こうが渋っても無理やり連れて来るが良い! 近いうち連れてまいらんと、おのれのおやつを一週間抜きにするぞ!」
「ははー」
小芝居をやり終えたタフトが
「と、まあこんなやり取りがあったんでしょうけど」
と真顔で締めくくる。
いわくいい難い気分に襲われたトゥマが、
「ったってなあ……」
と頭をかいた。
不意に包みこむように肩を叩かれ、耳元で『大丈夫』とささやかれる。肩をはねあげて振り向くと、見知らぬ女性が旅人の姿で立っていた。
栗色を帯びた黒い髪。
豊かに長いその髪を、つむじで丸く巻きつけて、おくれ毛を数本垂らしている。黒いボストンバックを転がし、長いスカートから細い足がのぞいていた。
「わたくし、三つ先の村から参りました、ベルと申します。わたくしが歌姫リコリス嬢に、歌を教えて差し上げましょう」
何を急に、と言いたげな顔をするメイドたちに向かい、ベルと名乗った女性はほんのワンフレーズ歌ってみせた。
理性の溶け出すくらいに、甘い淡いその歌声。あまりに素敵な歌声に、メイドたちの頬がいっぺんに緩む。
ベルはワンフレーズだけできりっと口をつぐみ、
「ここのご主人に会わせていただけますかしら」
と自信たっぷりの口調で切り出した。
メイド数人にかつがれんばかりの勢いで、館の奥に誘われるベルを見送り、タフトがパペットと一緒に呟いた。
「あの歌声をものにすれば、リコリス様は確実に、王子様手飼いの鳥ですよ」
どうします? と聞かれて、トゥマは黙って首を振る。
リコリスが王子のものになるのは、もちろん嫌だ。
でもそれで、リコリスが今より幸せになれるのだとしたら。自分に止める権利は無い。
何よりも、自分が聴いてみたいのだ。
リコリスがベルそっくりの、甘く酔うような声で歌うのを。
トゥマは眉間に薄くしわを寄せ、もう一度首を振る。耳の奥にたった一くさりの音楽が絡みついて、毒の如くに離れなかった。
・庇護される二羽目のカナリアと、唯一の聴き手の話
ベルは子供の頃から、歌う事が好きだった。
孤児だったベルには、村の者からのいっぱいの愛情と、温かな食事と、ふわふわのぬいぐるみとが与えられた。
何でもあった。小さい彼女にとっては、何もかも十分過ぎるほど。
ただ一つ、許されていなかった事がある。
『歌っては駄目』。
限りなく自由に育てられたベルへの、それが唯一にして絶対の制約だった。
音の全く通らない、地下の部屋一室が、ただ一つの『歌っても良い』場所だった。己の声を聴くのは、己のみ。
それを淋しいと思っても、優しい村の人々に逆らう気にはなれなかった。
何歳くらいの時だったろう。草はらで花を編んだ花冠を手に、誰もいないと思って小さく歌を歌っていた時、見知らぬ少年がひょっこりとのぞきこんできた。
「綺麗な歌だね」
「あ……ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「歌っちゃ駄目なの、あたし……」
「何で?」
少年に問われ、ベルは、はたと首をひねった。
どうして、歌ってはいけないのか。それを教えてくれた人は、今まで一人もいなかった。
口元に手を当てて考えこむベルのとなりに座りこみ、少年は
「もっと歌ってよ」
とおねだりをする。
ベルはおろおろと立ち上がり、
「ごめんなさい」
と言い残して兎のように逃げていった。
『歌っては駄目』。
優しい村の人々の、この言葉を言う時だけは、笑わない瞳を思う。
自分が歌ったら、きっと何か恐ろしい事が起こるのだ。それが何かも分からぬまま、ベルは固く信じていた。
ああ、でも。
(綺麗な歌だね)
そんなことを言われたのは初めてで。
そもそも幼い記憶の中で、自分以外に自分の歌を聴いてくれたのは、彼が初めてで。
ベルは微笑を頬に浮かべ、ふつふつと咽喉の奥から生じる歌を押し殺して、いっさんに駆けた。地下室に飛びこんで、喜びを表すでたらめな歌を、小鳥さながらに歌い上げた。
歌声は、今までに聴いた中で一番甘く柔らかかった。
彼に聴いてもらいたい、と願いながらベルは歌った。
歌をほめられた嬉しさか。
歌を聴かせられない淋しさか。
理由のよく分からない涙が、頬を伝って流れ落ちた。
数日後、ベルはまたあの草はらに座っていた。
今日はもう、花冠は編んでいない。クローバーの白い花を一本だけ手にして、くるくるともてあそびつつ、ぼうっと空を仰いでいた。
いいかげんなフレーズが、熟れた木の実がこぼれるように、くちびるからあふれ出る。
「あ、やっぱりいた!」
後ろから待ち望んでいた声がして、ベルは驚きと喜びに肩を跳ね上げた。恐る恐る振り返ると、茶色い髪の少年が、嬉しそうに小首をかしげて立っていた。
「ねえ、もっと歌ってよ」
「……でも、『人に聴かせちゃ駄目だ』って、いつも皆が言ってるから」
「良いじゃないか、少しだけ。ワンフレーズだけでも良いからさ」
物腰柔らかく攻められて、ベルがためらいながら口を開く。小さな花の咲くような歌声が微かにこぼれて、少年の耳を掠めて消えた。
少年はお祈りめかして白い両手を組み合わせ、ほ、っと小さく息をつく。
「綺麗な声だねえ。何だか小さい金平糖、いっぺんに十粒も口に入れたみたいな気分」
少年は自分の例えに自分で微笑い、両手をほどいて己の胸を右手で押さえた。
「僕はリンド。リンド・リンネ・リンク。君は?」
「……ベル。ベル・ベリネ・ベラドンナ」
ベルが名乗ると、リンドは意外そうに琥珀色の瞳をまたたいた。
「『ベラドンナ』? 珍しい名前だね」
「そう?」
「うん。だって、毒草の名前でしょ? 『ベラドンナ』って」
「そうなの?」
ベルが驚いて訊き返すと、少年は、きゅっとうなずいた。
「うん。僕、花の蜜とか木の実とか食べるの好きだから。本で読んだり、お祖母ちゃん達の話を聞いて、危ないやつは食べないようにしてるんだ」
くくく、と笑った少年が、おどけてベルの手を取った。
「ねえ、君の歌をもっと聴かせて。歌姫様」
頬を染めたベルが、後ろめたそうに目線を逃がす。つないだ手に優しく力をこめて、リンドは軽い口調でお願いした。
「『人に聴かせちゃ駄目』って言うなら、一日にワンフレーズずつでも良いからさ。毎日、ここで待ってるから」
せわしなく赤い瞳をまたたいたベルが、頭を振るようにうなずいた。リンドは嬉しそうに微笑して、つないだベルの手に、触れるだけのキスをする。
ベルの指先から、クローバーの白い花が、すべるようにこぼれ落ちた。
毎日、草はらでワンフレーズだけの独唱会が開かれた。
短い歌でも、歌い切るのに一月はかかる。リンドはその日の歌の一くさりを、聴き終えてから何度も暗唱しているらしい。次の日には決まって昨日の歌を拙い声で口ずさみ、
「今日はこの次からだよ」
と優しくせかすのだ。
「今日は、どこからだっけ」
出し抜けにベルが問いかけても、リンドは何でもない口調で、歌の続きを促した。
「ん? 続き、どこからか忘れちゃった? 今日は『薔薇と百合を束ねたような 美しく可憐な君へ 僕は贈るよ この歌を』……の次からだよ」
知っている。きちんと覚えている。毎日のこの独唱会が、ベルにとって何よりの楽しみなのだから。
知っていて、わざと知らないふりをする。リンドが淡く細い声音で、ほんの一くさり歌うのが、ベルはとても好きだった。
もどかしい歌にみちびかれ、二人の恋は、じれったく進んでいった。目を合わせるだけ、手をつなぐだけ、指先にキスするだけの幼い恋。
ある夏の日、野生のサクランボの種を吹いたリンドが、いらついてくちびるを尖らせた。
「ああ、早く続きが聴きたい。もう明日まで待ち切れないよ」
「でも、本当はあたしの歌は……」
言いよどむベルの手を取って、リンドは細い指先に乱暴に口づけた。
「良いじゃないか。君の歌を人に聴かせちゃいけないのは、きっと美しすぎるからだよ。皆、君の歌に夢中になって、他の仕事がおろそかになるのが恐いんだ」
「それなら、なおさら……」
逃れようとするベルの手を握りしめ、リンドは琥珀の瞳に怯える歌姫を映す。
「僕はもう駄目だ」
斬りつけるほどの激しさで言い切ると、少年はまたベルの指先に口づけた。血を吸わんばかりの濃厚なキスに、ベルの頬が一気に熱くなる。
リンドはくちびるを指から離すと、こいねがうように、懺悔するように、自分だけの歌姫を上目遣いにかがんで見上げた。
「もう僕は、君の歌に毒されている。もう君なしじゃいられない」
ベルの理性が、花のほぐれ落ちるように、とすり、と消えた。
ベルは静かに口を開いた。赤いくちびるの隙間から、歌の続きが絡まりながらあふれてくる。
リンドは微笑いながら立ち上がり、穏やかなしぐさでベルのあごに手をかける。次に来るものを思い、ベルが歌いながら目を閉じる。刹那、がさ、っと青草の潰れる音がした。
不思議に思って、目を開ける。
リンドが、倒れていた。ベルの足元に横たわり、微動だにしない。ベルはリンドがふざけているのだと思い、微笑いながら声をかけた。
「リンド? ねえ、起きてよ、リンド」
含み笑いの声は微かな不安に、不安はやがて焦燥に。しまいにベルが泣き出しそうな声を上げても、リンドは起き上がってこなかった。
「リンド? ねえ、どうしたの? 冗談は止して、起きてってばリンド・リンネ・リンク!」
ベルが少年の白い首すじに手を触れた時、リンドの口元からたらたらと赤い物が流れてきた。
血だった。
拙い歌の代わりの如く、鮮血はつたつたと赤い舌を伸ばしてゆき、ベルの靴先を生ぬるく濡らしてゆく。
ベルは甘い悪夢から覚めたように紅い目をまたたき、
「誰か!」
と甲高い声を上げた。
草はらの向こうから、鎌を持った顔見知りの老人が駆けて来た。老人がかがみ込み、草の汁の滲んだ指先で脈をとった時、リンドはすでに死んでいた。
老人は黙りこみ、呆然と立ち尽くすベルを見上げた。目じりに大きくしわの浮いた青い目が、咎めるように、慰めるように、ベルの姿を映していた。
「おめえさん、歌を、お歌いなすったかね」
「歌……? ええ、歌ったわ……」
老人はたばこ臭い息を吐いて、ゆるゆるとかぶりを振った。
「ベル・ベリネ・ベラドンナ。おめえさんは知るまいが、あんたの歌は人を殺せる歌なんだ」
耳が壊れたか、と疑いながら、ベルが耳元に手を当てる。老人は深く長く息をついて、ベルの手を取った。
「ベル。おめえさんはな、その歌で自分の家族を皆失って、身寄りを亡くして、擁護院のある、この村に預けられたんだ。そん時のおめえさんはえらい事小っこくて、何が起こったかも良く分かってねえみてえだった」
老人は絞り出すように、ベルの手をさすりながら語る。
「おらたちは、おめえさんを普通に育てようと思った。自分の歌の事なんか知らせずに、伸びのび育ててやろう、ってな」
じゃあ。それじゃあ。
私に、歌を禁じたのは。
ベルが己の口元に手をやって、かきむしるように押さえつける。ぐ、っとこみ上げる物を呑み込んで、声を上げて駆け出した。自分の住んでいる屋敷に駆け戻り、地下室へ飛び込んだ。リンドへ聴かせるはずだった歌の続きを、叫ぶように歌う。
部屋の外で日が落ちて、夜がふけても、朝日が白々と空を染めても、歌った。咽喉が枯れて血を吐くまで歌い続けた。
自分の歌で、自分の命も、壊れてしまえと願いながら。
その日を境に、ベルは歌う事を止めた。
地下室にも行かず、一人の時に小さく口ずさむ事すら忘れたように、ただ日々を過ごした。養ってもらった屋敷付きのメイドになり、毎日雑用をこなして暮らした。
皿を洗い、洗濯をし、屋敷の掃除をしながら、脳裏にはいつも彼の面影が浮かんでいた。
ただ一人、自分の歌を褒めてくれた人。
『歌姫』と呼んでくれた人。
自分が、歌で、殺した人。
もう自分が歌う事はないのだと、リンドを思うたび胸に誓った。
その誓いは、ベルが二十歳を越えた夜、破られる事となる。あれほど歌を禁じていた村の人々がやって来て、ベルに
『歌ってくれないか』
と頼みこんだのだ。うろたえるベルに、村の人々は告げた。
「『リコリス』という歌姫に、歌を教えて欲しいんだ」
「……リコリス?」
いぶかしげに眉をひそめるベルに、顔なじみのおじさんが語りかける。
「ああ。何でも人の病気や怪我を癒す歌姫らしい。だがなあ、大分歌は下手なんだそうだ、そのお嬢ちゃん」
「でも、あたしの歌は……」
「大丈夫。あんたとリコリスは同類だ。同属に歌は効かないらしいから」
ためらうそぶりで口元へ手を当てるベルに、おじさんがぐっと顔を近づけて、熱い口調でさとしにかかる。
「お前さんの『毒の歌』をな、彼女に伝えて欲しいんだ」
おじさんの背後で、老人が深くうなずいた。リンドが死んだ日、草はらのふもとで草を刈っていた老人だ。老人は沈んだ青い目にベルを映し、重々しく口を開いた。
「リコリス嬢はな、第一王子のお気に召されたらしいんじゃ」
「あの、悪名高い?」
「おうよ。あの馬鹿王子じゃ。この国では王様の長男が国を継ぐのがしきたりじゃが、あんな輩が跡を継げば、国はめちゃめちゃになってしまう」
老人のとなりで、いつも手作りのお菓子をくれるおばさんが、思いつめたような声を張り上げた。
「だからあんたの歌を、リコリスとかいうお嬢ちゃんに伝えて欲しいんだ。本人もそれと知らずに、王子を暗殺するために」
ベルは長い間、黙って立ちすくんでいた。やがて、ゆっくりとうなずいた。
嬉しかった。この歌が、人を毒する事しか出来なかった自分の歌が、初めて何かの役に立つ。
嬉しかった。本当に、心の底から。
でもそれは、また歌えるのが嬉しかっただけかもしれない。
ベルはその夜、久しぶりに屋敷の地下室で歌を歌った。最後の夜に、リンドに捧げた歌だった。悲しみとも、喜びとも、切なさとも怒りともつかない感情で、きりもなく涙がこぼれた。
「……先生? ベル先生、どうしたんです?」
聞き慣れない呼び方で自分の名を呼ばれ、ベルは急いで顔を上げた。
リコリスの屋敷には、もちろん毒の歌専用の地下室などない。肌寒さを感じる、地下の野菜室が歌の教室となっていた。
「ごめんなさい、ちょっと色々思い出してね。さて、じゃあ改めて自己紹介をしましょうか」
ベルはあつらえた教師面に笑みを浮かべ、リコリスに向かい、うやうやしくおじぎした。
「わたくしはベル。ベル・ベリネ・ベラドンナ。よろしくどうぞ」
「『ベラドンナ』? 珍しい名前ですね」
リコリスのお付きのトゥマという青年が、意外そうに声を上げる。ベルはざわつく既視感を覚えて、赤い目を上げた。
「……え?」
「いえ、だって、毒草の名前でしょう? 『ベラドンナ』って」
懐かしく忌まわしい記憶のふたを開けられて、ベルが紅い目を歪ませる。とっさに
「ごめんなさい」
と頭を下げる青年に、ベルは小さく微笑いかけた。
「……貴方、花の蜜とか、木の実とか食べるのお好きでしょう」
「は? 何で分かるんですか?」
緑の目を丸くするトゥマの肩を、ベルが微笑いながら軽く押し出す。
「ささ、生徒さんじゃない方はもう外に出て。扉の前で立ち止まったりしちゃ駄目ですよ。すぐ階上に戻ってね。じゃあまた後で」
とんとんと急かすように肩をつつき、ベルはトゥマを追い出した。
楽譜を手にしたリコリスに向き直り、
「良い子ね、あの子」
と微笑ってみせる。
嬉しそうにうなずく少女は、何度自分の守り人に歌を聴かせたのだろう。
何度、癒してあげたのだろう。
ちくちくと羨望と嫉妬が入り混じり、ベルの胸をひそかに荒らす。
「さて、じゃあ小手始めにちょっと歌ってもらいましょうか」
胸の内にざわつく感情を抑え、リコリスを促したベルは、あまりの歌声に呆気にとられた。
これは酷い。
何と言うか、病気や怪我の癒える代わりに、両耳が潰れてしまうかと思う位の、とんでもない妙音だ。
手を上げて歌を止めたベルは、眉をひそめて腕を組んだ。
「うーん、これは何と言うか……教えがいがありそうね」
呟いたベルが小さく歌い出す。光の粒がこぼれるような美しい歌声に、リコリスは顔を輝かせた。
ひとしきり歌って、口をつぐむ。少女はきらきらした瞳をして両手を組み合わせ、熱っぽくベルを見つめていた。
「先生、すごく綺麗な歌声です! ああ何だか、小さな金平糖を、いっぺんに十粒も口に入れたような気分だ!」
感動のあまり敬語がおろそかになる歌姫の言葉に、ベルは紅い目を潤ませた。
どうしてさっきから、この子たちはリンドを思わせる言葉をこぼすのか。
リンド、あなたは今のあたしをどう思う?
喜んでくれている?
それとも、怒っている? 悲しんでいる?
胸の奥にずっとくすぶっていた迷いが、小さく燃え上がる。ひそやかな音を立てて爆ぜる迷いの炎に、ベルは気付かぬふりをした。
二羽目のカナリア、毒姫の正体を現す
野菜室での特訓が実を結び、リコリスの歌声は素晴らしく改善された。
と言っても、それは鼻歌に限った事で、しかもベルはリコリスの鼻歌を禁じていた。
「あなたがハミングするのは、王子様の前でだけ。良いわね、リコリス」
紅い目をきつく光らせて微笑うベルの、酷く穏やかな剣幕に、リコリスはうなずくしかない。
ベル先生には、何か秘密があるような気がする。
でもそれが何なのか、リコリスには分からない。薄っすらとしたもやもやを抱えながら、歌姫は先生に従い続ける。よって、トゥマが耳にするのは、怪獣のお産のような、いつもの怪音だけだった。
「先生もしみったれだよな。綺麗な歌は王子様のためだけだなんて、さ」
「だがトゥマ、お前はこの頃、あまり怪我しなくなったのう」
真夜中に、転んでひねったトゥマの手を癒し。
リコリスは、愛おしそうに守り人の手を撫でた。
「うん、何か呪いが薄れてきたみたい」
もうお前がいなくても大丈夫。
微笑って呟くトゥマの手を、リコリスの細い指がきゅぅっときつくつねり上げる。小さく悲鳴を上げた青年が、恨めしそうに歌姫を睨めつけた。
「いった! 何すんだよ、リコリス」
「そうか。私はもう用無しか」
「……リコリス? お前、何言って」
差し出された手を払った歌姫が、蒼い目を吊り上げて守り人を睨め上げた。綺麗な蒼い目が見る間に潤み、宝石のような透ける雫がぽろぽろとこぼれ落ちる。
あわてる守り人の目の前で、歌姫は涙ながらの告白を始めた。
「わ、私はお前がいつ言うかと、首を長くして待っていたのだ。『俺のそばにいて欲しい』と、『せめて呪いが解けるまで、俺のそばにいてくれ』と! なのにお前は、そうして何でもなさそうに微笑いおって!」
身体を震わせて泣きながら、歌姫がトゥマの肩にすがりつく。
「私は愚かな王子の玩具になど、なりとうはないというのに……!!」
リコリスの細い肩を抱いたトゥマが、ふと場違いな事を考えた。
ああ、そうか。
『リコリス』も、毒草の名前だったんだ。
忘れていた。目の前の花があまりに明るくほがらかだから、そんな事は忘れていた。
守るべき大事な花は、いつでも手の中で微笑っていて。
お互いの気持ちも、何もかも通じているのだと、勝手に思いこんでいた。
トゥマは震える小さな肩を優しく撫でて、リコリスの少し尖った耳元にささやいた。
「俺もリコリスに、ここを去って欲しくはないよ。ずっととなりに、俺のそばにいて欲しい」
顔を上げたリコリスが、目じりを赤くして問いかける。
「ならば、何故」
「下手に王子の仰せを断ったら、後が恐いからだ。馬鹿は何をするかしれないだろう? リコリス、お前の命も危ういし、村が丸ごと潰されるかも分からない」
歌姫の白い頬へと、また一しずく涙が伝う。トゥマは細い肩を抱きしめるように撫で上げながら、耳元に口づけんばかりに顔を寄せた。
「今は、言う事を聞いておくんだ。しばらくして王子がお前の歌に飽きたら、俺はお前を迎えに行く。今よりもっと強くたくましくなって、必ずお前を迎えに行くから」
トゥマが耳たぶから顔を離し、リコリスの涙に濡れた顔を、まっすぐ見つめる。やがて静かに頬を寄せ、誓いの印めかしたしぐさで、リコリスのくちびるに口づけた。
初めてのキスに、リコリスが蒼い目を見開いた。ゆっくりと長いまつ毛が瞳をおおい、歌姫が目を閉じる。
名残のように、透ける雫が一すじ緩く弧を描き、赤く染まった頬に流れた。
触れるだけのキスの後、緑の目を開けた青年が、小さなおねだりをした。
「歌が聴きたい。お前の鼻歌を、王子より先に聴いておきたい」
歌姫は黙ってうなずき
「目を、閉じてくれないか」
とお願いした。
「何で?」
「恥ずかしい、から」
伏し目がちに答える歌姫が可愛くて、青年は穏やかに微笑する。
「じゃあ、お前のベットを借りるよ。少し疲れたから、寝ながら聴く」
いつもと逆だな。
そう呟いて笑う青年の手を取り、少女は骨ばった指先に軽く口づけた。横たわった青年の耳元に、砂糖水の咽喉ごしを思わせる、ひんやりと甘い音色が流れこむ。
綺麗な歌だ。
天国でしか聴けないような、危うく、美しい歌。
このまま死んでも良い、と思いながら、トゥマは眠気に意識を手放した。
耳をつんざいたのは、いつもの怪音の束だった。
トゥマが、がばっと跳ね起きた。
「だぁっ! 何だよ、せっかく良い気持ちで寝てたのに!」
わめく青年の目の前で、歌姫が見る間に蒼い目に涙をためる。
げ、ちょっと強く言い過ぎたか?
あわてるトゥマに思い切り抱きつき、リコリスが嬉しそうな涙声で頬に頬をすり寄せた。
「ああ、良かったトゥマ! 生き返った!」
「『生き返った』?」
いぶかしげに眉をひそめるトゥマに、リコリスは事のあらましを説明した。
鼻歌を歌っていたら、トゥマの顔が少し青ざめている気がした。あわてて脈を取ってみたら、脈がはかれないくらい、弱く微かになっていた。リコリスはパニックになり、いつもの『癒しの歌』を全力で歌い上げると、トゥマは息を吹き返した、という。
口元に手を当てたトゥマが、不意にいつかの自分の言葉を思い出した。
(『ベラドンナ』? 珍しい名前ですね)
(毒草の名前でしょう? 『ベラドンナ』って)
ああ。
ああ、そうか。
ベットから跳ね起きた青年が、階下のベルの部屋へ飛びこんだ。慌てて後を追うリコリスに
「部屋に戻れ」
と吐き捨てながら、叩き起こしたベルを屋敷の広場へ連れてゆく。
ちょっとした怒号なら、屋敷の者に聞こえぬ広場の真ん中で、トゥマはベルを睨みつけた。
「やってくれたな、毒の歌姫」
「あら……ばれちゃったのね」
悪女ぶっておくれ毛をかき上げたベルが、ぐるりと周りを見渡した。
「良い所へ連れてきてくれたわね」
「は?」
「気付かない? あたしは毒の歌姫よ。あたしの正体を知ったあなた一人を、黄泉の国に送るなど、簡単なこと」
言いざま毒姫が艶やかな声で歌い出す。手のひらで耳をふさごうとしたトゥマも、何とか止めようとしたリコリスも、そろって動きを止めて聴き入った。
毒姫の歌は、それほどに美しかった。
甘やかな処刑の歌を高らかに歌っていたベルが、やがて微かに眉をひそめた。歌声がわずかに震え出し、ひきつれて乱れて消えてゆく。
死なない。
トゥマが、まるで死なないのだ。
青ざめて頬を押さえるベルの肩を、トゥマが荒いしぐさでつかむ。本のページが破り捨てられていた理由が、今初めて分かった。
「ベル。あんたの歌には、もう何の力もない。リコリスに毒の能力を手渡して、あんたの歌声はただ美しいだけの、普通の歌になったんだ」
赤い目を見張ったベルが、小さく肩を震わせた。トゥマの手を振りほどき、くつくつと小刻みに身体を揺らす。
「ふふふふふ……あはははは……あーはっはっはっは!!!」
毒姫が、狂ったように笑い出した。その美しい紅い瞳から、理由の分からない涙がこぼれた。
笑い終えたベルは、ふっと息をつき、やけくそで呟いた。
「ああもう、何かどうでも良いわ。何でも良くなっちゃった」
豊かな胸に右手を置き、挑発めかした上目遣いで、青年をきつく睨め上げる。
「さあ、どうとでも好きにしなさい。殺したいなら殺すが良いわ」
黙って進み出たトゥマをさえぎり、リコリスがベルへ声をかけた。
「先生。あなたは、今までどなたを手にかけました?」
「……血を分けた家族と、一番大事だった人」
緑の目を歪めるトゥマから目をそらし、ベルは懺悔の声音で告げた。
「あたしが愛した人たちを、間違って殺しちゃったのよ。この、忌まわしいあたしの歌でね」
ベルは小さくかぶりを振り、泣き出しそうに微笑んだ。繊細な感情を有するトゥマとリコリスは、それで全てを理解した。
ベルはきっと、誰も殺したくなかったのだ。
生まれてからずっと。今も変わらず。
おそらく王子を殺すのも、本当は嫌だったのだろう。トゥマは長いため息をつき、軽く頭を振った。
「もう良いよ。村へ帰ると良い」
紅い目を見開いたベルが、嘲るように声を上げる。満たされた二人の耳に、孤独な音楽教師の声は、傷ついた小鳥の歌に聴こえた。
「帰る? 村に帰るですって? 今さらあたしが、どの面下げて……」
「帰ると、罰されますか?」
青年の問いかけに、ベルはむきになったように腕を振り上げた。
「そんな訳ないじゃない! あんな優しい人たちが……ただ、あわせる顔がないってだけよ」
リコリスが振り上げたベルの手を受け取って、両の手でつつみこむ。目じりまで赤くなった紅い目が、驚きを帯びながら歌姫を映してきらめいた。
「屋敷に、住みますか?」
「な、……」
「そうですよ、何ならうちの屋敷に住むと良い。その歌で、今度は皆を癒して下さい」
微笑んでお誘いをかける二人を、ベルは信じられないものを見るような目で見つめていた。やがてリコリスの手を乱暴に振り払い、手負いの獣のように吼えた。
「止めてよ! 誰があんたたちみたいなお人好しに、あたしの歌を聴かせるもんか!」
涙目で吐き捨てて駆け去っていく小鳥の姿を、二人はずっと眺めていた。やがて小さな背中が闇に消えた時、リコリスが吐息混じりに呟いた。
「……幸せに、なれるかの。ベル先生」
「なれるよ、きっと。今度は、自分の力で」
トゥマの手を取ったリコリスが、不意に、ああっと声を上げた。
「どうしたら良いだろう、トゥマ! 私には、もう王子に聴かせる歌がない!」
ふ、っと吹き出したトゥマが、歌姫の手を捧げるように握って、桜色の爪にキスをした。
「大丈夫。いつもみたいに歌えば良いよ、リコリス」
「……いつもみたいに?」
青年は深くうなずいて、自信ありげに微笑んだ。
・一羽目のカナリア、王子に歌を披露し、再び守り人を癒す役につく
見た事もないほど大きな城の中、見た事もないほど豪華な部屋の中。
見たくもないほど愚かな王子の前で、リコリスはがちがちに緊張しながら口を開いた。
いつもより一段と酷い。今日の怪獣は、また事のほか難産だ。耳を押さえたくなるのを必死に堪えながら、トゥマは部屋のすみで歌姫の歌を聴いていた。
あんぐりと口を開いて固まっていた王子が、歌の半ばで声を上げた。
「も、もう良い、もう良い! 珍獣の喘ぎは沢山だ! 娘よ、そこな守り人と共に、何処なと去ね!」
トゥマが嬉しげに駆け寄って、立ちすくむ歌姫の肩を抱く。黙って王子に一礼し、部屋を出て行った。
部屋を出た所で、二人を案内した執事が
「お疲れ様でした」
と深く頭を下げた。
「大丈夫ですかね、この国は」
トゥマが低く耳打ちすると、若い執事は思わせぶりに微笑い、守り人の耳元にささやいた。
「ご安心あれ。次の王は賢い第二王子様だと、城内もっぱらのうわさでございます」
執事はあどけないほどの笑顔を見せて、
「道中お気をつけて」
と気安げに軽く手を振った。
トゥマは浮き立つような気分で、城を後にする。城は村から遠いけれども、路銀はたんまり持ってきた。
村を出る時に渡された、王子から贈られた支度金の一部だ。これだけの旅費があれば、リコリスと二人、余裕で村へ帰りつける。
頬を緩ませて手をつなぐ守り人の横顔を見上げ、歌姫は不満そうにくちびるを尖らせた。
「……『いつものように歌え』とは、こういう事だったのだな」
「良いじゃないか、こうして二人で帰れるんだから」
ご機嫌のトゥマにひたいに軽くキスされて、リコリスは頬を染めて黙りこむ。小さく鼻歌を歌おうとして、はっとしたように口をふさいだ。
「今ごろどこへいるんだろうの、ベル先生」
「さあ……どこだろう」
登りきった丘のふもとに街が見え、トゥマは
「今日はあそこへ泊まろうか」
とうながして、手をつないだまま微笑ってみせた。
街に着くと、リコリスは目に見えてはしゃぎ回った。ドレスの並んだショーウィンドーに見とれて、喫茶店ですみれの砂糖漬けをつまみ、可愛い雑貨屋に小一時間も居座った。
蝶々が花の蜜を吸うように、店内をひらひらと回遊していたリコリスは、店のすみにあった、藤つるの小さなかごに飾られたしおりに目を留めた。
音楽のスコアと、色とりどりの飴玉が散らばった綺麗なしおり。リコリスはその一枚を手にして、じっと見つめている。
「買ったげようか?」
「え? え? でも、路銀が……」
「大丈夫! そんな高価いもんじゃないでしょう?」
トゥマはしおりを手に取って、レジへ持って行く。会計を済ませてリコリスへ渡すと、リコリスは蒼い目を嬉しげに緩ませて
「ありがとう」
とささやいた。
宿を探す道すがら、二人は小劇場の前を通りかかった。うかれきって、ほとんど小走りに歩く歌姫の後を追うトゥマが、ふと劇場の立ち看板の前で足を止めた。
「おぅい、どうしたトゥマ?」
「あ……うぅん、何でもないよ」
トゥマは歌姫の声に応え、小走りで後を追う。
彼が目を留めた看板のすみには、いかにも付け足した、という風情で、チョークでこう書かれていた。
「期待の飛び入り新人、ベル・ベリネ・ベラドンナ」
先を急ぐトゥマの耳に、甘く伸びやかな歌声が微かに聴こえた。
そんな気が、した。
二人が村へ帰り着いて、数日は何事もなく過ぎた。
リコリスは旅の疲れか、軽い風邪を引き、ベットの上でぼんやりと窓の外を見ていた。
何だか、前にも同じ事があった気がする。これでトゥマが大怪我をして帰って来たら、あの時とまるで同じなのだが。
リコリスが、ふっと苦笑した時、ドアが軋んで一つの影が入ってきた。
「ただいま、リコリス」
微笑するトゥマはほぼ全身泥に塗れて、雨に打たれた土人形のようになっている。
「どっ……どうしたトゥマ!」
黒髪を乱して駆け寄る歌姫を手で制し、トゥマはあやふやに微笑ってみせた。
「いや大丈夫。一寸底なし沼にはまって、何とか出られそうになった途端に盛大に足つってまたはまって、帰り道にしびれ蛇と、かぶれ蝶と、ぶつぶつ虫の大群に一斉にたかられただけ」
「え、えぇええぇっ!? お前、何でそんな……小鬼の呪いはもう解けたのであろう?」
歌姫の問いかけに、泥塗れのトゥマが首をひねって考える。
「うぅん、何ももう、何かに呪われるような事はしてないと思うけど。ああ、昨日姫百合の花を吸い尽くした時、妖精が一匹涙目になって見てたかな?」
「それだ」
恋人を指差した歌姫が、何処となく嬉しそうに決めつけた。
「お前、今度はティークの呪いを受けたのだ。可哀想に、ティークはカルカラに負けず劣らず恨み深いと言うから、また十年は呪われるな」
えぇえ、と情けない声を上げて崩れ落ちるトゥマの手を、歌姫が優しくつかみしめる。
「まあ良いではないか。お前の身にどんな災難が降りかかろうとも、私が全て癒してやろう。……それでは、不服か?」
微かに首を振ったトゥマが、リコリスの手の甲に口づける。白い手に茶色のキスマークが付くのと同時に、メイドのタフトの金切り声が廊下から響いてきた。
どうやらトゥマの残してきた、泥の足跡に気付いたらしい。
「うわぁちょっとぉ! まぁたやらかしましたねトゥマ坊っちゃん! お風呂入んなさいお風呂!今ちょうど沸いてますから!」
苦笑して立ち上がったトゥマが去りかけて、泥塗れで振り返る。
「……一緒に、入る?」
「馬鹿!」
顔を真っ赤にして言い返す歌姫が、堪らなく愛おしい。
ああ、そっか。
この言いようのない程悲惨な歌声も、きっと神様の贈り物だ。
だって、ほら。
この声のおかげで、こうしてそばにいられるから。
「俺さ、馬鹿だから。この呪いが解けても、きっと何かに呪われるから。俺が死ぬまで、癒してくれな」
ぽそぽそと口の中で呟いて、逃げるように部屋を出る。
返事は、聞かない。聞かなくて良い。
扉の前に腕を組んで立ちはだかっていたタフトが、思わせぶりに小首をかしげる。栗色のポニーテールが、妖精のしっぽのようにひらりと揺れた。
「……聞こえた?」
「ばっちり。あたし、耳良いですから」
タフトが種明かしをする手品師めかして、にやりと笑う。
「トゥマ坊っちゃん。呪われたのは、わざとでしょう?」
小声で耳打ちするメイドに向かい、世界一不幸で幸福な守り人は、歯をむき出して笑ってみせた。
(了)
い、いかがだったでしょうか……。『音痴の歌姫』という設定が、自分では気に入ってますw