第十話
リリアはアスランが出ていった部屋で一人泣いていた。
ずっと嫌われていたと思っていた父が、実は自分のことを愛してくれていて、優しかったラルフが、その父の命を奪おうとしている。
アスランも父を捨て、自分と結婚することを望んでいる。
今日一日の出来事があまりにも複雑すぎて、リリアは頭の中で整理出来ずにいた。
「リリア……」
いつの間にかリリアの側にラルフが立っていた。
「来ないで。ラルフなんか大嫌い」
ラルフは静かに笑った。
「父様の命を奪おうとしているなんて……。
ラルフ……。ラルフは本当に悪魔だったの?」
「ああ」
「……!」
ラルフの返事はいつもと変わらず穏やかだったが、リリアは初めて悪魔の恐ろしさを知った。
ラルフは怯えるリリアを気にすることなく、リリアのベッドに腰かけた。
「リリア。ここにおいで」
「いや」
「リリア……。
お前と話をするのは、これが最後かもしれない。
だからここに来て俺の話を聞いて欲しい」
父が言った。
悪魔は言葉巧みに人の心を揺さぶると。
しかし、ラルフが来てからの数日間は、リリアの世界を大きく変えてくれた。
リリアは黙ったまま、ラルフの隣に座った。
リリアの頭にラルフの手が伸びた。
リリアは驚いて、ぎゅっと目を瞑った。
「大丈夫、何もしない」
リリアがそっと目を開くと、ラルフはいつもの優しい眼差しでこちらを見ている。
ラルフはリリアの額に手を置き、話し始めた。
「俺は何千年も前から人間の願いを叶えるために、異世界を行ったり来たりしている」
リリアはラルフの横顔を見つめた。
ラルフが自分の話をするのは初めてのことだ。
「今までいくつもの願いを叶えてきたが、全て自分の欲望を満たすためだけの、くだらないものばかりだった」
いつものリリアならラルフに質問し始めるところだが、今は黙って聞いた。
「この国へ来た時も、くだらない願いならさっさと叶えて自分の世界へ戻るつもりだった。
だが、お前と出会って気が変わった」
ラルフはリリアの額に置いていた手を離し、リリアに向き合った。
「一週間後、俺は自分の住む世界へ戻る。
次にこの世界へ来るのは十年先か百年先か分からない。
もう二度とお前に会えなくなるのは寂しい。
……だから俺と一緒に来て欲しい」
「ラルフ……」
ラルフはリリアに微笑んでゆっくりと立ち上がり、窓の近くまで行った。
「安心しろ。
お前がどのような答えを出そうと、王の命を持って行くつもりは無い」
そう言って、ラルフはリリアの部屋から消えた。
翌朝、マイカが髪を結いに来た。
「お嬢様! 傷がすっかり無くなっていますよ」
驚くマイカを見て、リリアは鏡を覗いた。
少しずつ薄くなっていた傷が綺麗に消えている。
ラルフが毎晩リリアの額に手を置いて、リリアが眠るまで側にいたのを思い出す。
今日から一週間、ラルフはいない。
昨日、ラルフのことを『悪魔』と言ってしまったことを、リリアは後悔していた。
朝食は、王とアスラン、リリアの三人で摂った。
こんな事は初めてだ。
リリアは小さい頃からいつも一人で食事をしていたので、王やアスランを目の前にして食事を摂るのは少し心地悪かった。
あれからアスランとは、まともに目を合わせられないし、王と何を話せば良いのかも分からない。
食器の音だけがカチャカチャと響いて、まるでリリアの心臓の音のようだった。
朝食を食べ終えると、リリアは久しぶりにバルコニーへ出た。
今まではなかなか外に出してもらえなかったが、今は城の敷地までなら自由に動ける。
ラルフに初めて出会ったのは、このバルコニーだ。
あの美しい光景は、今でも鮮明に覚えている。
ラルフがいないと分かっていても、つい探してしまう。
『ラルフ』と呼べば、目の前にパッと現れてくれそうな気がする。
「ラルフ……」
「リリア」
リリアが小さく呟くのと同時に、後ろからアスランの声がした。
「結婚を正式に発表すれば、ここに大勢の国民たちが祝福しにやってくる」
アスランはリリアの隣に立ち、同じ景色を見た。
「リリア。結婚したら一緒にいろんな国を訪問しよう」
リリアはアスランの言葉に返事が出来なかった。
もしラルフが雨を降らせてくれなかったら、リリアは国民たちから祝福を受けただろうか。
外の世界へ行けただろうか。
今までずっとリリアを守り続けてくれたアスランと、新しい世界を見せてくれたラルフ。
どちらを選べば良いかを考えるには、あまりも短すぎる一週間だった。