2.英雄の弟の親友のその後
お兄さんは城帰りだそうだで、とても豪勢な恰好なのは王と謁見後だからだ。王は王妃様に桶を蹴り割られたという。何がどうしてそうなったと思うと同時に、王妃様凄いなと感心する。そして、我が国は大丈夫だろうか。
にこりと綺麗な笑顔で差し出された手を握って挨拶をする。
「貴女がサミウさんでしたか。弟がいつもお世話になっています。弟から貴女の話は常々」
「おい、こらショシユ。何話してる」
横に立っていたショシユを睨みあげる。お兄さんは不思議そうに私達を見ていた。
「しかし、弟の話し方で私はてっきり」
「隊長さん隊長さん」
お姉さんがお兄さんの袖を引き、二人は少し離れた。お兄さんは、お姉さんの身長に合わせて屈み、耳を寄せた。
「は!?」
突如響き渡ったお兄さんの大声に、ショシユは目を丸くした。
「あんな声を出す兄上は珍しい」
「へぇ」
頷きながら話を聞いていたお兄さんの顔が段々険しくなっていく。ショシユも、雲行きが怪しそうだと訝しんでいる。
「どうしたんだろうな」
「さあ……痴話喧嘩か? でも、お兄さん尻に敷かれそうだな」
いや、胸か。あれ? それ天国じゃね?
心の中で思っていると、ショシユがぷっと噴き出した。
「兄上のそんな姿を見られる日が来るとは思わなかった!」
「い、ってぇ!」
そして、ツボに嵌ったのか腹を抱えて笑い出す。笑い転げるのは別にいいんだけど、人の背中をばんばん叩くのやめろ! お前の力じゃ吹き飛ぶわ!
一言文句を言ってやろうと体勢を立て直すと、突如、お兄さんが背筋を伸ばしてずんずん歩いてくる。
そして、流れるようなアイアンクロー。
「ちょ、ちょっと、まっ、兄上!?」
「お前という奴はどれだけ鈍いんだ、どれだけ!」
あの重い柱時計を一人で背負ったショシユの身体が、お兄さんの腕一本で釣り上げられていく。流石、救国の英雄!
「サミウさん」
「はっ!」
その体勢のまま笑顔でこっちを向かれると、非常に怖い。
「本当に申し訳ありません。今夜は是非、私の屋敷でお寛ぎください。これは私がみっちり鍛え直しますので、どうぞ気兼ねなくお過ごしください。本当に、本っ当にっ! 申し訳ないっ……!」
「痛い! 兄上、いたっ、潰れる、へこ、へこむっ!」
「へこめ、大馬鹿者! さあ、参りましょうか」
こっちを向くときだけ笑顔になるのは勘弁してほしい。いや、笑顔でショシユを潰されてもそれはそれで怖い。
お兄さんは、事態に気付かず嬉しそうに頬を染めて花束を見つめるお姉さんを見て、愛おしげに眼を緩ませる。その手は未だショシユをアイアンクロー。
誰か、この場から私を解放してくれ。幾ら親友でも、出来ることと出来ないことがある。
親友を見捨てて逃げたかったが、結局、笑顔で促されるままにお兄さんの屋敷まで到着してしまった。
いま私はお兄さんの屋敷でご厄介になっているのだが、これがまた楽しい。庶民なんて汚らわしい、けっ! みたいな貴族もいない訳ではないが、お兄さんはそう言うタイプではなかったし、そんな人のお屋敷に勤めている使用人達も、主の性格のままに気さくな人達だった。メイドの中には知り合いの女の子もいた。樽の修理を依頼してきた魚屋のおやっさんの娘さんだ。
そんなこともあり色々良くしてもらいながら、風呂も頂く。広い風呂なので、お姉さんも一緒に入ってその胸に眩暈がしたりと散々遊んだ。楽しかった。しかし、寝間着がふりふりレースだったのはどうしようかと本気で悩んだ。
私よりもお姉さんが葛藤していた。お姉さんは早くにお母さんを亡くしているそうで、女の子! といった小物を持つ機会がなかったそうだ。お父さんに強請るのは何となく恥ずかしかったらしい。そうこうしている内に、そういう小物を集める年齢を過ぎてしまったのだそうだ。
「……ここで延々と悩むわけにもいけませんよね! 裸で寝ます!」
「私より男らしいわ、お姉さん」
結局、シンプルな寝巻を新しく出してもらった。おやっさんの娘さんありがとう。おかげで、貴女の御主人の婚約者さんが、裸でベッドまで駆け抜ける惨事が起こらないで済みました。
いつもなら気軽には手を出せない店の菓子と、いつもなら絶対手を出せない種類の酒を行儀悪くベッドの上で堪能していた頃、お姉さんがきりっと背筋を伸ばした。その肩越しには、お兄さんから贈られた花束が活けられている。
「作戦会議です、サミウさん」
「はあ」
「ショシユさんをドキドキさせちゃいましょう大作戦です!」
「ぶふっ……!」
口当たりの良い酒が噴き出される。何て勿体ない。
お姉さん、もしかして酔っているのだろうか。
「絶対いけると思うんです。だってショシユさん、本当にサミウさんのお話ばかりするんですよ? 休日や空いた時間の予定全部サミウさんですよ?」
「その合間にフラれてますよ。それにしても、どうしてそんなに親身になってくれるんです。お姉さんだって式の準備やら何やらで忙しいんじゃないんですか? お兄さんのご両親と仲良くなったりとかしなきゃですよ」
貴族と庶民の結婚だから、何かと大変だと思うのだ。お姉さんは急に真顔になってこくりと頷いた。
「明日の晩、国王様が主催される夜会があるんです。私、夜会に出るのは生まれて初めてです。マナーとか、さっぱりです。隊長さんは気にしないで大丈夫、普通でいいんですよと言うんですが、それが一番困るんです!」
「それは……お疲れ様です」
「ですから、サミウさんも巻き込んでしまおうかと!」
「自分の為でもあった!」
「あ、ご両親の件は大丈夫です! 結婚の条件は『息子と一生を共にしてくれる女性』だそうです! 全く問題ありません! 寧ろ私から息子さんの一生をくださいと言ってしまいました!」
「男らしい!」
「私、サミウさんも大好きです!」
「すっごいふかふか!」
突然飛びついて私を抱きしめたお姉さんを支えきれず、ベッドに沈む。そのままころころ転がって、落ちかけたところで二人ではっとなり、反対方向に転がって真ん中で止まる。
何だか無性におかしくて、額を合わせたまま笑い転げる。
「私、一人っ子だったので、こんなの初めてです」
「私は壁際をめぐって大喧嘩でしたね」
「壁際?」
「入口側より、なんというかお得感? が、あったんで毎晩争奪戦してました」
くすくす笑いながら他愛もない話を続ける。いつの間にか月はだいぶ高くなっていた。段々話し声は小さくなっていく。けれど、止むこともない。止めるタイミングが見当たらないし、見つけようとも思わなかった。
うとうとしながらもどうでもいい話を続けていると、気がつけばお姉さんがまっすぐに私を見ていた。
「サミウさん、ショシユさんが好きですか?」
話し声が止むと、しんっと部屋の中に静寂が満ちる。夜の静けさは、異様な静寂と胸のざわめきを呼ぶ。
「…………好き、だけど。あいつの好みは嫌ってほど知ってるし、私が欠片も当てはまってないことも、知ってるしなぁ」
「あのですね、私も隊長さんのこととっても好きです。だけど、あの時の私は絶対叶わないと思って、気まずくなるのも嫌で、何かを変えようとは思ってませんでした。背を押してくれた父と、関係を変えようとしてくれた隊長さんに、本当に感謝してるんです。私だけだったら、任期を終えた隊長さんに何も伝えられず見送ってしまっていたと思うんです。それで、絶対後悔したんです。サミウさんは後悔しませんか? ショシユさんが誰かと結婚しても、本当に、友達のまま見送って大丈夫ですか?」
「お、お姉さんって、結構ぐいぐい来ますね」
お姉さんは苦笑した。
「私は、背を押してもらったことで動けましたから。他に背を押す人がいなくて、自分でも進めないなら、私がその背を押す人になります。迷惑かもしれませんが、一人くらい、そういう役割の人間がいてもいいんじゃないでしょうか」
「そういう、もんかな?」
「はい!」
それと、と、お姉さんはふんわりと笑う。
「私は、サミウさんも大好きです」
えへへと笑って抱きついてくるお姉さんは、たぶん、酔っている。だから、私も酔っている。酒じゃなくても、雰囲気とかそんなことに。そういうことにしておこう。
「…………ありがとう、お姉さん。なんか、私も、頑張れそうな気がしてきた」
「はい! 明日頑張りましょう! ……あ……もう……今日、でした…………」
すぅっと呼吸のように寝入ったお姉さんにつられて、私の瞼も落ちる。
頑張るって何を頑張ればいいんだろう。でも、確かに何も頑張ってなかったので、何をしても頑張ったことになるかもしれない。ああ、もう思考が働かない。全部明日だ、明日。
あ、今日だった。
目が覚めたら知らないおばさんがいた。銀髪で40代くらいだろうか。年をとっても綺麗なタイプの人だけど、誰だ。
「おはようございます」
「お、はようございます?」
「さあさあ、忙しくなりますよ!」
「何でいきなり忙しいんですか!?」
両手を取られてぐいっと引っ張り起こされる。そのまま背を押されて風呂場に押し込まれた。酒か、酒の臭いが凄いのか!?
そしてお姉さんどこいった!?
訳が分からないまま適当に洗い流し、用意されていた服に着替える。何でこんな薄いワンピースなんだ。それしかないから仕方なく着替えて部屋に戻ると、もう一人金髪女性が増えていた。しかも額突きつけあって喧嘩している。思わず扉を閉めたが、おやっさんの娘さんに無理やり押し込まれる。ひどい。
「何故貴女がここにいるのです! サミウはわたくしの娘になるかもしれない方ですのよ!」
「わたくしが夜会の主催者ですよ! そこに参加するお嬢さんのお世話をしても、なんらおかしいことはありませんわ!」
「わたくしがあの子を着飾るのです!」
「いいえ! わたくしです!」
額がぶつかるほど近くでいがみ合う中年女性の間で、お姉さんがにこにこしていた。
「サミウさん! こちら隊長さんとショシユさんのお母様です!」
お姉さんが左の掌で後から増えた金髪女性を示した。
「いつも息子がお世話になっているそうね。あの子ったらいつも貴女の話ばかりなのよ」
「はあ、初めまして」
隊長さんもショシユも、お母さん似だなと思うくらいには似ていた。だから、なんとなく血縁者かなと思っていたが当たりだったようだ。
「それで、こちらが王妃様です!」
右の掌で示した銀髪女性が、優雅に微笑んだ。
「初めまして、サミウさん。今夜はとびっきり楽しい夜にしましょうね!」
「おい、お姉さん。ちょっと待ってお姉さん。ほんと待ってお姉さん」
ショシユにするみたいに胸倉を掴むわけにはいかず、お姉さんの肩に手を回して部屋の隅に移動する。
「どういうこと!?」
「夜明け前に隊長さんが一旦帰ってきて、私に会いに来てくれたんです。それで、隣の部屋でサミウさんのお話をしていたら、偶然前を通りかかったお義母様が協力を申し出てくれたんです!」
「夜明け前に偶然息子の屋敷の廊下を通りすがったってどういうこと」
「お義母様と王妃様は昔からのご友人だそうですよ。それで、サミウさんの招待状も用意してくださるというのでお願いしたら、王妃様も協力してくださるとこちらまでいらっしゃったんです!」
「何で!?」
お姉さんに詰め寄っていたら、後ろでメイドさん達の慌てる声がして、こっちも慌てて振り向く。
すると、お母さんと王妃様がまた額を突きつけあっていた。
「わ・た・く・し・の! 娘になるかもしれない方ですから! わたくしがドレスを用意するのが筋というものです!」
「わ・た・く・し・の! 主催する夜会ですから! わたくしがドレスを用意しても何もおかしいことはございませんわよ!」
「何ですの! わたくしずっと娘のドレス選びを楽しみにしていたのに、出来たのは息子息子息子! 長年のわたくしの楽しみを奪う権利が貴女にあって!?」
「わたくしだってずっとずっとずぅっと、可愛らしいドレスを娘の為に選んでみたかったのに! 出来たのは息子に息子! 侍女達が愛しの君の為にドレスを選びあっているのを影から見るしかできなかったのですよ!? だって、仲間に入れてくれないのですもの! わたくしだって、あの楽しそうな空間に入りたかったのに! あ、それ似合うぅ、可愛いぃなどと、言い合ってみたかったですのに――!」
大体事情が分かってきたが、とりあえず彼女達は息子に謝るべきではないだろうか。
「大体、貴女はそちらのお嬢さんのドレスを既に選んだと聞きましてよ!? でしたら、次はわたくしの番でしょう!」
「あぁらぁ、ご自分の息子のお嫁さんに選んで差し上げましたらぁ? あ、まだお相手もいらっしゃらなかったかしらぁ? ごめんなさいねぇ? 長男に続いて次男までお先しちゃうかしらぁ?」
「ぬぁんですってぇ!? ……いいえ、そうね、ごめんなさい。わたくしの息子は二人ともまだ好きな方もいないのですわ。事実ね……」
急にしょんぼりと肩を落とした王妃様に、王妃様が連れてきたらしい制服の違う侍女達が慌てている。しかし、お母さんだけは警戒心露わに表情を引き締めた。
「そうね……突然押しかけてごめんなさい。ご迷惑をおかけしてしまったわね……わたくしも、自分の家族の事を一番に考えるべきだったわ」
「お待ちなさい!」
「あら、どうなさったの?」
「何故わたくしの娘達と腕を組んでいますの!?」
王妃様は、うふふと少女のように微笑む。
「ですから、わたくしの息子達にもお嫁さんが出来る機会をと。あの堅物騎士二人が選んだお嬢さん達ですもの! きっと息子達も気に入りますわ!」
「ぬぁんですってぇ!? 大体貴女って女は昔から!」
「何ですの! 貴女って女こそ昔からぁ!」
お姉さんの胸倉を掴むわけにはいかず肩に手を回したというのに、お母さんと王妃様は胸倉を掴み合っていた。
貴族の奥方と、貴族の頂点に立つ王妃様の喧嘩は、何故か実家の荒くれ者どもを思い出した。帰っていいですか?
「駄目です」
口に出していないのにお姉さんに断られた。悲しい。
薄いワンピースだった理由がよく分かった。
私は、大量に並べられたドレスを前に口を引き攣らせる。
本当ならば裸同然で行われる作業らしいが、今回は時間がないので体のラインに一から沿わすことは最初から諦めているらしい。目の前で嬉々としてドレスを選んでいる三人を前に、私はおやっさんの娘さんから差し出された軽食をもそもと食べていた。
「スタイルが宜しいから、膨張色でも大丈夫そうねぇ」
「ふぅ……貴女は本当に浅はかねぇ。だからこそ、スタイルの良さを際立たせるために、濃いお色を使うべきでしょうに」
「ああ……そうねぇ、貴女はそのお色に詳しいものねぇ。それしか持っていらっしゃらないのではなくってぇ?」
「わたくしは王妃ですもの。やはり年相応のドレスを身に纏うべきですものねぇ。この年でねぇ、貴女のように、まるで若い娘のようなお色はねぇ、やっぱりねぇ?」
同じタイミングで笑顔が消えうせて、がつんという鈍い音。
「ぬぁんですってぇ!?」
「ぬぁんですってぇ!?」
額を突きつけあって睨み合う様子は、最早貴婦人ではない。
貴武人だ。
「頼むから、拳を振りかぶるのだけはやめてください!」
陰湿で陰険な争いは、私の得意とするところではない。
確かに、拳で語るといった喧嘩のほうが性に合うほうだ。だが、だからといって、王妃とショシユのお母さんのそれを見たいかといったら全力で首を振る。
「だってあの女が!」
「どっちもどっちですよ!」
ぶすくれる二人をなんとか引き剥がし、私はお母さん、お姉さんは王妃様を相手に部屋の反対側まで離れた。もう口調とか構っていられない。お母さんを半分以上物理で抑え込みながら、私はともかくお姉さんはあの荒ぶる王妃様をどうやって抑え込むんだろうと慌てて振り向く。
「桶が…………」
「桶ですよね……」
「桶は…………」
「桶に…………」
「…………桶で……」
「………………で、桶が……」
凄く、盛り上がっていた。
会話はよく聞こえないけれど、悲痛な顔で何かを訴える王妃様と、真摯な顔でそれに応えるお姉さん。
「あの女、わたくしの娘と――!」
「こっちは再燃した!」
「あの女、わたくしがあれほど愛した陛下に愛されて結婚したくせに、わたくしの娘まで! 年下の可愛らしかった陛下に!」
「え!?」
お母さんの言葉に、今までお姉さんに向いていた王妃様の視線が弾かれたようにこっちを向く。
「貴女こそ、わたくしがあれほど愛した騎士様に愛されて結婚したくせに! 年上の大層かっこよかった騎士様に!」
「嫌な四角関係!」
王妃様は、お姉さんに縋るようによろめいた。
「始まりはどうであれ、今は陛下を誰よりも愛しています。美しかった金髪が禿げあがろうが、枕が臭かろうが、お腹が出ようが、水虫だろうが!」
「四重苦!」
「それなのに、それなのに陛下は桶に走るなんて――! 酷いですわ、わたくしの愛しのあなた――!」
「意味不明!」
嘆く王妃様の肩に、お姉さんはそっと触れた。そして、女神のような微笑みを浮かべた、と思ったら、何とも言えない悲痛な顔になる。
「分かります、分かります、王妃様!」
「貴女なら、貴女なら分かってくださると思っていたのっ……! やはりわたくしの娘に!」
王妃様とお姉さんは、固い友情で結ばれてしまったようだ。
しかし、国のトップがこれで大丈夫だろうか。いや、王族だって人間だから人間らしさに満ち溢れていても構わないのだけれど。逆に、跡目争いや骨肉の争いが起こらない我が国は、これだからいいのかもしれない。
私は、はっとなってお母さんに視線を戻す。再々燃していたらどうしよう。
しかし、予想外にもお母さんは静かだった。それどころか、何かを考え込むように難しい顔をして、こっちを見た。
「主人も、桶をそれは大事にしているのですけれど…………大丈夫だと思う?」
「だから、桶って何!?」
私の知ってる桶とは違うのか!?
お姉さんと王妃様は真顔になった。
「桶は」
「桶ですわ」
凄まじい感染力を持っている桶だ。
桶、怖い。
裾やサイズ調整で、何人ものお針子さん達が凄まじい速度でドレスを仕上げていく。私はもう、服なんてどうでもいいくらいには疲れていた。
ドレスや装飾品が決まると、王妃様はいそいそとお城に戻っていった。
『お城でお会いできるのを楽しみにしていますわ。そうしたら是非、息子ともお話してねぇ!』
『させませんわよぉ!?』
と、一悶着あったのは、もう忘れたい。桶について相談されたので、適当に答えておいたのだが、あれでよかったのだろうか。
ドレスを一着決めるだけで一日掛かりだ。私はもう疲れ切って、本日の営業は終了しましたの札を掲げたいのに、お母さんも王妃様も元気いっぱいだった。女は中年から輝き出すのかもしれない。私の母も未だ丸太を担いで走っている。……あれは規格外だろうか、やっぱり。
夜会の時間が迫っているので、お姉さんも自分の着替えに連れて行かれた。私はまだ調整しながらなので、この部屋から出られない。
「ねえ、ねえ、サミウさん。ショシユのどこがお好きなの?」
「んぶっ!」
飲んでいた果実水が変なところに入った。
元気いっぱいのお母さんは、まるで少女のように目をキラキラさせている。
「あの子ったら、ちょっと抜けているのよねぇ。貴女を男性と思っているだなんて……もう、恥ずかしいったら。ごめんなさいねぇ。……でも、それを分かっていてもあの子が好きだと言ってくれるお嬢さんがいてくれたことが、わたくし、本当に嬉しくって。ほら、あの子見た目はいいでしょう?」
「は、って……」
「それだけを好きなお嬢さんじゃあ、わたくしが嫌だったの。ねえ、ショシユのどこが好きなの?」
きらきらとしているお母さんから話を逸らせそうにない。私は観念して、ちょっと考えた。
「えーと、なんかこう、打てば響く、みたいなところ、とか、ですかね?」
「ふむふむ!」
「え!? まだ続けるんですか!? えーと! なんかこう、蔑にするんじゃなくて、どうでもいいことでも真剣に向かってくれるというか、全部真面目というか、私より私のことに真剣になってくれるところというか」
「ふむふむ!」
「え!? まだ!? え、えーと、嫌みがないところといいますか、ちっちゃい子どもみたいだとか思ったらいきなり頼りになったりとか、まあ、なんというか、こう、一緒にいて気負わないでバカやれるところというか……」
そこまで一気に言ってからはっとなる。流石に親御さんを前にしてバカやってる発言はまずいだろうか。
ちょっと焦ったけれど、全く無用な心配だとすぐに分かった。
お母さんは両手で頬を押さえて、恥ずかしそうに身を捩っている。
「まあまあ! 若いって良いわぁ! 惚気てくれるわぁ!」
うふふふと笑って嬉しそうなお母さんに言いたい。凄く物申したい。
あんたが言わせたんだよ、と。
一緒に行けないことを悔やみまくるお母さんに見送られ、用意してもらった馬車で王城に向かう。見慣れた道も通ったけれど、馬車から見るとまるで違って見える。
もともと王都内なので、王城に辿りつくまではすぐだ。あっという間にいつも眺めるだけだった馬鹿でかい門を越えてしまう。
お姉さんも、心持ち緊張した顔で背筋を伸ばした。お姉さんと私のドレスは全然違う。お姉さんは裾がふわりとした白っぽい薄桃色のドレスで、私は裾がさらりとした青っぽいドレスだ。型とか色々説明されたけれど一切分からなかった。分かるのは、このドレス絶対高いということだけだ。生地からして目玉吹っ飛ぶほど高いと分かる。
門を通ってからもしばらくごとごと揺られ、ようやくたどり着いた場所で馬車を下りる。周り中招待客でごった返しているそこでじっとしているわけにもいかない。
とりあえず中に入ろうと一歩踏み出したお姉さんの身体がふらついて、慌てて支える。
「大丈夫ですか?」
「す、すみません。ヒールが……」
「ああ、高いですもんね」
「サミウさんは凄く綺麗に歩いてるのに、恥ずかしいです。慣れてらっしゃるんですか?」
自立歩行で頑張るお姉さんと、視線を合わせてにこりと笑う。
「後ちょっとでも揺れた瞬間、盛大に転びます」
「切羽詰まってらっしゃった!」
「私がこんな靴履き慣れてるわけないじゃないですか!」
お姉さんと二人でふらふらと進むと、目の前に大きな階段が現れた。心が折れる。一段一段は低く広いとはいえ、この靴でこれを昇るのか。帰っちゃ駄目だろうか。他の参加者はどうしているのだろうと思えば、男性陣の腕を借りて優雅に昇っていく。女二人で立ち竦む私達は凄く目立っている。
よく見れば、エスコート役の男がいない女は私達だけのようだ。お兄さんとショシユは仕事が終わっていないのだろう。仕事を放り出してここに現れたらぶん殴ってやる。
ちらりとお姉さんを見れば、ふんっと鼻息が聞こえた。
「昇りましょう、サミウさん!」
「よしきた!」
女二人、履き慣れないヒールをがつんと打ち鳴らし、階段の攻略に乗り出した。
ふらつきながらも昇り切った私達に眉を顰める人もいた。女二人で手を繋いでよろめく私達を嘲笑する声もある。さわさわと広がる嘲笑を聞きながらも、私達の心の中では肉の店の親父が鳴らしてくれた銅鑼が鳴り響いていた。
「お姉さん、また大食いチャレンジ行きましょうね」
「是非!」
満面の笑顔になったお姉さんの顔が、更に満開になる。
「隊長さん!」
振り向くと、さっき苦労しながら登ってきた階段を駆け上がってくるお兄さんがいた。まだ騎士服だ。きっと着替える時間がなかったのだろう。お仕事お疲れ様です。
周囲の視線など物ともせず、呼吸一つ乱さず駆け寄ってきたお兄さんは、その勢いのまま、しかし流れるように膝をついてお姉さんの手を取った。
「申し訳ありません、出迎えが遅れました」
「仕事とは尊いものですから」
ちょっと含みのある言い方で笑うお姉さんに、お兄さんの目も柔らかく細まる。そして、その手にキスが降った。周りの視線が急回転して変わっていくのが分かる。
「ありがとうございます。それと、大変良くお似合いです。貴女は何を着ても可愛らしいですね」
気障な台詞をさらりと言ってのけるお兄さんに手を取られたまま、お姉さんがいきおいよくこっちを向いた。
「どうしましょう、サミウさん! 物凄く恥ずかしいです!」
「私に振らないでもらえますかね!」
巻き込まないでほしい、切実に。
二人の空気は二人で作ってほしいと、私は一歩下がる。目敏くそれに気づいたお兄さんに手招きされて、渋々元の位置に戻った。
「サミウさん、実は……」
若干小声で囁かれて、自然三人で寄り添うように円を組む。
「ショシユと仲がいいというとばっちりで、貴女の店が襲撃されまして」
「は!?」
予想だにしなかった台詞に思わず大声が出る。ただでさえ目立っていたのに、今の声で更に人の目を集めてしまった。慌てて場所を隅に移動する。
「え、ちょ、え!?」
「ああ、ご安心ください。その可能性もあったので元々配置していた騎士と、連絡を受けて駆け付けたショシユの隊で掃討しています」
「はあ」
それなら安心だけど、まさか本当にそんな事態が起こるとは思わなかった。そんな連中にまでショシユと仲がいいと思われておるのだろうか。こんな事態なのに、ちょっと嬉しいと思った私はきっと馬鹿だ。
「隊長さん、それでサミウさんのお店は!」
私のじゃなくて兄貴のだけど、まあ細かいことはいいだろう。
「火をつけようとしたようですが、ちょうど帰宅していたサミウさんのご兄弟と鉢合わせ、騒ぎに駆け付けた騎士とショシユに捕縛されました」
「え!? 兄貴達帰ってきてたんですか!?」
そんな手紙届いていなかった。突然帰ってきてサプライズでもするつもりだったのだろうか。何にせよ、店も兄貴達も無事で何よりだ。
「あれ? それでショシユはどうしたんですかね」
「ああ、ショシユならご兄弟が投げつけた磨き油を頭からかぶって、いま風呂ですね」
「ノーコンですみません!」
きっと投げたのは兄貴だろう。右に投げれば下にめり込ますくらいコントロールから見放された男なのだ。
ショシユにも謝らないといけない。がりがりと頭を掻こうとして、綺麗にセットしてもらったんだと思い直す。行き場を失った手を彷徨わせた私に、お兄さんはにこりと笑った。
「そこで聞いたそうです」
「何をですか?」
「貴女が、近いうちに帝都から去るつもりだったという事を、ですよ」
私は、案内された部屋の中で一枚の扉を前に深呼吸した。
「ショシユ、いるか?」
扉の向こうで物音が止んだ。一拍置いてまたごそごそと音がする。いくら気安い仲だからといって、流石に風呂場まで特攻できない。音からして脱衣所に出てきてはいるのだろうが、今は扉を挟んだほうが話しやすいのだ。
「サミウか……」
「兄貴が悪かったな」
「いや、それはいいけどな…………他に、俺に言う事は?」
磨き油を頭からぶっかけられらたことを、それはいいの一言で済ませるショシユはいい奴だ。しかし、今はそれを感動する余裕はない。できるならその話題でもうちょっと心の準備をしたかった。
「…………悪かったよ」
「何をだ」
「お前に、何も言わずに消えようとしたことだよ」
「全くだ」
吐き出すような、それでいてぐっと堪えたような声に何も言えなくなる。いつもみたいにけらけら笑いながら、悪い悪いと背中を叩けない。これは私が逃げてきたツケなのだ。お姉さんに頑張ると約束したから、もう逃げるわけにはいかない。
「なんで……どうしてだ、サミウ。俺はお前にとってその程度の人間だったのか。俺はお前のことを親友だと!」
「違う!」
「じゃあ、何でだ!」
扉が壊れそうな音を立てて揺れた。反対側でショシユの拳が叩きつけられたのだろう。
もう一度深く息を吸う。逃げるな、逃げるな私。
「お前に嫌われたくなかった」
「……サミウ?」
いま、扉の向こうでショシユがどんな顔をしているのかが手に取るように分かる。それくらい、ずっと見てきた。たった半年、されど半年。私は、ショシユを見てきたんだ。
「お前と気まずくなるくらいなら、別れるまでの時間を楽しく過ごしたかった。お前が来なくなるのが怖かった。お前が、困った顔になるのが、怖かった」
「サミウ、何言って」
せっかく綺麗に塗ってもらった唇を噛み締める。
ずっと黙っているつもりだった言葉を面と向かって告げる勇気はない。扉でいい。扉越しでいいから聞いてほしい。
「ショシユが、好きなんだ」
「俺だって!」
「違う!」
まずい、泣きそうだ。せっかく綺麗に化粧してもらって、着飾ってもらったのに、ショシユに見せる前から崩してしまう。
「好きだよ、ショシユ。お前が、好きなんだよっ……!」
駄目だ。こんな顔見せられない。
泣き出しそうになった顔を隠したくて、反射的に身体を翻していた。どんな顔をすればいいのか分からない。逃げないで頑張りたいけれど、せめてどんな顔をするのか決まるまで延長してはいけないだろうか。
部屋から飛び出そうとした私の身体が、強い力で後ろに引っ張られた。どしんとぶつかったのは、少し湿った硬い身体だ。ぽたりぽたりと私の上に滴が降ってくる。
風呂上りには髪をちゃんと拭けとあれだけ言ったのに。ショシユはそのまま眠ってしまうことが多く、寝癖がひどいのだ。
そんな、いつものどうでもいいことが頭に浮かんでいる間も、私を掴んだショシユはぴくりとも動かない。目を見開いたまま、瞬きすらしていない。
「サミ、ウ……?」
「お、おう」
つい、いつもどおり可愛げのない返答をしてしまったら、ようやくショシユが動いたと思ったら、ずるずると壁伝いにしゃがみこんでいく。私の腕も離してくれず一緒に座り込む。ドレスが皺になるかもしれないと頭の隅では心配しているのに、間近にあるショシユの顔しか見えない。
まるで抱きかかえられているように向かい合ったまま、しばしの沈黙が落ちる。
「…………いつ、から」
絞り出すような声で問われて、頬と首に熱が溜まる。いつから好きかなんて分からない。覚えていない。気が付いたら好きだった、なんて、恥ずかしいこと絶対に言えない。
「いつから女だったんだ!?」
「そっちかよ! 産まれた時からだよ!」
「最初から!?」
「産声上げてからこの方、男になったことは一度もねぇよ!」
思わず頭突きをしてしまいそうになって踏みとどまる。化粧も髪のセットも面倒だったが、頭に血が上っても踏みとどまれる秘密道具みたいだ。なるほど、ドレスや化粧は女の戦装束とはよく言ったものだ。惚れた男の前で、泣いたほうが無様になると分かっていて泣ける女は少ない。それが、私のような女であってもだ。
「え、本当に、サミウ、女……え? ええ? 何でだ!?」
「知るか! 後、私の告白は無視か!?」
「ええ!?」
こうなりゃ自棄だと詰め寄れば、大仰に仰け反られた。仰け反った拍子に後頭部を派手に打ち付けて涙目になったショシユに、ざまあみろと鼻で笑ってやる。私なんて既に涙目だからな!
「ちょ、ちょっと待ってくれ! もう、何がなんだか分からない!」
「私も何をどうすりゃいいか分からないけどな!」
「分かっててくれよ!」
「無茶を言うな、無茶を!」
「無茶か!」
「無茶だな!」
「そうか!」
「そうだ!」
途中から息継ぎなしで言い合った後、私達はまた沈黙した。息が切れて沈黙せざるを得なかったという方が正しい。
ショシユは、天を仰ぎ見た顔を両手で覆ったままだ。私はこの足の中から逃げだしていいものかと悩んだが、裾を敷きこまれていたので動くに動けない。
ショシユは風呂上りだというのに、青褪めたり赤くなったりと忙しない。ぱくぱくと口を開いては閉じ、閉じては開いて息を飲み、飲んだと思えば盛大に吐き出す。
しばらくショシユの出方を待っていたけれど、一向に収まらない動揺にしびれが切れた。もうこうなりゃ自棄だ、自棄だ。皆が腕によりをかけて着飾ってくれた戦闘状態で女だとばれた今、怖いものなど何もない。これ以上女らしい格好なんて一生できないだろう。これでフラれたら、打つ手などないのだ。
「ショシユ」
「な、なんだ!?」
「そんな怖がるなよ!」
「こ、怖がってない!」
「そうか!?」
「そうだ!」
何でただ話そうとしているだけなのに、お互い息切れしなくちゃならないんだ。まあ、私達らしいといえばらしいのかもしれない。
すぅっと息を吸い、気合を入れ直す。
「お前の好みとは真逆だって分かってるし、今まで男だと思ってた相手から言われても困るだろうけど、こうなりゃもう後に引けないから、もう一回言うぞ。お前が好きだ。だから、お前の結婚相手の候補に私も考えてくれないか!」
「わ、分かった!」
「ほんとか!? ほんっとーに分かったのか!? なんか反射で答えてないか!?」
「大丈夫だ! 俺は正常だ!」
異常か正常かなんて聞いてないのに、ショシユは顔を真っ赤にしたまま何度も頷いて正常アピールしている。駄目だ、これ。
どうしたものかと思っていると、ノック音がして慌てて振り向く。
「何だ」
くるりと表情と声音が変わったショシユがさっと立ち上がる。人の腰を抱いたまま一緒に立ち上がらせてくれるのはありがたいけれど、誰だ、お前。
「キリツです。すみません、副隊長。そろそろ会場の方にと」
「すぐに向かう。先に行け」
「はっ!」
顔つきも声音も全然違う。まるでかっこいい男みたいじゃないか。へたれのへろへろしたショシユはどこいった。誰だ、お前。
「サミウ? どうした? 顔が赤いぞ」
「お前の顔が真っ赤だから、視界も赤くなってそう見えるだけだよ!」
「初耳だ!」
「初耳か!」
「ああ!」
「そうか!」
「そうだ!」
息切れ万歳、さようならロマンティック。
真っ赤な顔をしたショシユに手を差し出され、おずおずと重ねようとしたら勢い余って指先からぶっ刺してしまった。
お前らしいと笑うショシユは、世界一の男前だと思う。
その視線が私の身体を辿り、足元で止まる。
「この後踊らなきゃならないんだけどな…………頼むから足をそれで貫くのだけは勘弁してくれよ」
悪かったよ。
会場に行けば、お兄さんと踊っていたお姉さんが真っ赤な顔で走り寄ってきた。
そうですか、間近で見たお兄さんは更にかっこよかったんですか、良かったですね。ただ、ターンの途中で置いてけぼりにされたお兄さんはちょっと哀愁漂ってますよ。あ、違う。片手で顔を覆って俯いているから、何かしらお姉さんの可愛さがツボに入ったんですね。よかったですね。お姉さんのふかふかを上から見て幸せだったとは言いませんよね。ドレスだとふかふか感に触りたさ倍増ですね。
その後、私とショシユも、戻ったお姉さんと一緒にダンスに参加した。
幸せそうに微笑む二人の隣で、ショシユは凶器と化した私のヒールから必死に逃げていた。悪かったよ。たたらとか踏んでごめんってば。もし足の指を踏み折っちゃったら、添え木は私が作るから勘弁してくれ。
やたらめったらきらきらした王子様達とも話をした。面白かったのは、お兄さんの友達は王様のほうだそうで、王子様達からはちょっとしたライバル扱いされているらしい。我が国の王族様は、親しみやすい人達だ。兄王子が少し屈んでお姉さんの手にキスをしたら、その頭頂部をじっと見つめていたお姉さんが印象的だった。弟王子に手にキスをされてその理由が分かった。大丈夫ですよ、王子様。髪型次第で何とでもなりますから。
お兄さんの笑顔がなんか怖かったのでショシユに話を振ったら、なんか斜め後ろでむくれていた。何なんだよ、お前は。
王妃様の姿が見えなかったのも聞いてみると、王は、王妃様から王妃様の名前が彫られた桶をプレゼントされたらしい。桶に負けたくないけれど、愛しい人から桶を奪うなんてできないと嘆かれたので、じゃあ桶に名前を入れたらどうですかねと提案したのは私だけれど、本当にやるとは思わなかった。
そのまま、プレゼントされた桶を間にいちゃこらしているらしい。夫婦円満なのはいいことだ。
そして結局、桶って何だったんだと思っていたら、本当に桶だった時の私の衝撃を誰か分かってほしい。
お兄さんとお姉さんは、あの夜会で正式に婚約を発表して、帝都で結婚式を挙げた。私も招待してくれたお姉さんは優しい。二人の幸せそうな笑顔を見ているだけで私も幸せになれたけれど、ハンカチを噛み切った王妃様を見てしまい、幸せ気分は霧散した。その後、にこやかな笑顔で新たなハンカチ片手にこっちに歩いてくる王妃様に戦慄していると、どこからともなく現れたショシユの背中があった。
俺に任せろときりっとした顔で私に宣言してくれたのはかっこよかったが、その肩越しに見えた王妃様にタックルしたお母さんの方がかっこよかった。
騎士の移動も発表された。ただし、辺境に配属されても、都市に配属されても、不慣れな者ばかりが集まって不備が出ては本末転倒なので、それぞれ三分の一が他所の隊に組み込まれる形が取られた。
そして、辺境を守る騎士達の未婚率と離婚率に歯止めをかけようと、辺境に夫婦で移転する見本になってほしいとお姉さんは頼まれたらしい。救国の英雄が離婚したとなると、全騎士が絶望すると危機感を抱いたお偉方は、もう一つ手を打った。
辺境に移動した女性が孤独にならないよう、同じ立場にいる人を傍に置こうというものだ。つまり、話ができる同じ状況の人間をセットにしたのである。
お姉さんはいま、町の診療所を手伝っている。診療所のない地域に行ったら自分で開くのだと言っていた。あまり見たことのない草を薬草園に植えていて、それは何かと尋ねたら『レア度ペンペン草並の雑草です』とはんなり微笑んだ。何でもお兄さんの隊の精神安定に欠かせない草だそうだ。
騎士職は過酷なものだから、精神安定剤が必要な騎士も出てくるのだろう。私達の暮らしを守ってくれる騎士達には本当に感謝している。
そして、私はというと。
「なあ、俺のレティが最近輝きを失っちまって!」
「あ? 黴だよ黴。磨けば綺麗になるよ」
「俺のジョセフィーヌが最近元気がなくて……」
「枠がゆるんでるだけだから、はめ直せば直るってば」
「俺のエリーが、あいつと浮気を!」
「桶にモップが突っ込まれただけで、いちいち修理所くるな!」
偶然にも修理屋のない地域だったから、私が修理屋を開いたら、来るのは砦の騎士ばかりだ。しかも、物は、桶、桶、桶!
来る日も来る日も、如何に美しく桶を保つかに明け暮れる毎日だ。たまに村人が持ってくる鍬だの鋤だのが愛おしい。時計の修理が舞い込んだ日はお祭り状態だ。私の心の中でだけど。
今日も今日とて、いい年こいた騎士達が桶桶言うのを聞き流しながら桶磨きに精を出していると、後ろでどんよりした空気に気付く。
「サミウは……俺より桶が大事なのか…………俺の、俺の妻なのにっ! サミウの浮気者――!」
「桶の性別ってどっち扱いなんだよ! 万能だな、桶!」
泣き崩れるショシユは、お兄さんの隊に三分の一混じったショシユ隊の隊長に昇進した。隊の在り方は暫定的なもので、これから色々変わっていくらしいが、夫同士が兄弟で、妻同士が友達なら離婚はないだろうと言う上層部の思惑が透けて見える配置だ。
まあ、お姉さんと一緒に過ごす機会が増えて楽しいし、これが世の独身騎士達の光明になるのだと言われたら別にいいのだけど、まさかこの桶隊を何とかする為に私を連れていかせたわけじゃあるまいな。
前方には桶隊、後方にはショシユ。それらに挟まれて一心不乱に桶を磨いていると、平和な声と匂いが漂ってきた。
「サミウさ――ん! 芋栗パイ焼けましたよ――!」
嬉しそうな顔をしてテリテリと綺麗なパイを見せてくれたお姉さんの作る、芋栗パイは本当に絶品なのだ。何でも亡くなったお母さん直伝レシピで、お父さんの大好物らしい。
お姉さんの後ろでは巡回の途中なのだろう隊長さんが、桶磨きを頼んできていた騎士達を順番にアイアンクローしている。あの面子、サボリだったか……。
「いつもありがとうございます、お姉さん。あ、お姉さんから頼まれてた診療所の椅子、直ってますよ」
「ありがとうございます!」
「後、隊長さんが持ってきた桶は何なんですかね」
「磨いてほしいそうです……桶は本当に強敵です。でも、もう私は桶に目くじら立てたりしないんです!」
いきなり胸を張って意気込んだお姉さんの手招きに応じて、身体を寄せる。お姉さんの柔らかい声が、耳元でひそひそと話す。
「まだ隊長さんには言ってないんですけど…………なんですよ!」
「ええ!? それ、私が一番に聞いてよかったんですか!?」
「ええとですね……ちょっと先日から気になってたんですが、サミウさんは前回いつきましたか?」
「……………………あ」