1.救国の英雄の弟の親友
かんかんかんと、木槌と木枠が打ち合う、少しくぐもって、けれど透き通った音が心地よい。気分よく作業を続けていた店の扉がけたたましく鳴り響いた。正確には扉に取り付けているベルの音なのだけれど、細かいことはどうでもいい。
私は、落ちてきただぼだぼの作業着の裾をたくし上げ、大きくため息をついた。
「サミウ!」
店に駆け込んできたのは、この帝都の守護騎士ショシユだ。本来こんな下町の修理屋なぞとは縁のない人なのだろうが、彼との付き合いはひょんな事から始まり、なんだかんだと交流は続いて今に至る。
貴族であり、エリート職であり、出世頭でもある若き騎士は、『いつも』は丁寧に整えている髪を振り乱し、『いつも』はきちりと閉じられている襟元を若干乱し、『いつも』は美しく流しているマントをぐしゃぐしゃにしている。
私は、さて何があったのだと首を傾げたりしない。だって『いつも』のことなのだ。他の連中が思っているこいつの『いつも』と、私の知っているこいつの『いつも』の差は大きい。
またかと眉を顰めた私の磨き油で汚れた両手を、剣たこで硬くなった掌が包んだ。
整った顔立ちがずいっと鼻が触れ合うほどの距離に突っ込んでくる。思わず仰け反った私に構わず、ショシユは悲痛な声を上げた。
「助けてくれ!」
「嫌だよ」
即答した私に、奴はがくりと項垂れる。だが、すぐに復活した。
「お前だけが頼りなんだ!」
「それ前回も聞いた」
「サミウ――!」
「うるさ――い!」
持っていた木槌を、かろうじて働いた理性で、ただの拳に変えた私を誰か褒めてほしい。
ショシユと私が出会ったのは、私がこの帝都に出てきた半年前のことだ。
修理屋を営んでいる兄が、年一回の地方を回る旅に出たので、代わりに店を任された。今までは弟がやっていたことだが、今年からは弟も無差別修理修行の旅についていったので私にお鉢が回ってきたのだ。修理屋の父と修繕屋の母を持つ私達兄弟は、全員その手の職に就いている。私は実家で両親の手伝いをしていたが、今回初めて帝都の店を任された。
まあ、どこでもやることは変わらないので別にいいのだが、まさか深夜に店の前でめそめそしている客に出くわすとは思わなかった。流石帝都と無理やり自分を納得させたが、店の前でめそめそしているのが女性に大人気花形職の騎士、しかも帝都を離れることのない守護騎士だったのは驚いた。そして泣いていた理由が惚れた娘さんに渡そうと思っていたブローチが壊れたという何とも仕様もない理由だったのには、本気で呆れかえった。
最後の希望にと通りすがりに発見した修理屋に駆け込んだものの、店は閉まり、更に店主は留守。絶望に打ちひしがれていたところに私が帰ってきてしまったのだ。それを知っていたら無理を押して夜道を帰らずに、一晩止まってくればよかった。いい螺子が手に入って浮かれてしまった私の大馬鹿者。
ちょいちょいと直して背を押してやったのは、単にいい螺子が手に入って浮かれていたからだ。まさかその30分後にフラれたとめそめそ泣いて戻ってくるとは思わなかった。帰るなら家に帰れ。宿舎に帰れ。飲みたいなら酒場に行け。
まあ、待ち合わせに遅れた上に深夜にのこのこ現れて、センスも何もあったもんじゃないブローチを渡されたら、そりゃ切れる。熊がどや顔で振り向いている立ち姿のブローチなんぞ誰が欲しがるというのか。そもそもどこの店で売っていたんだ。その後も、フラれたと泣きながらやってくる時に手に持っているのが、悪魔が『いないいないばあ』してるネックレスだの、ペンペン草模した髪飾りだの、贈られたら『喧嘩売っとんのか、われぇ』か、『私……嫌われてるのかしら…………』の二択の品々だった。
そりゃフラれるよ、お前。
その品々は『もう……必要なくなったからな』とちょっと寂しい笑顔と共に、何故か私の部屋に放り込まれている。持って帰れ。必要ねぇよ、私だって。もう必要なくなったどころか最初から必要ねぇよ。……必要ないのに、全て一緒くたに箱に入れて仕舞っている私も大概だという自覚はある。
今日も今日とて、こいつの助けてくれは鬱陶しい。助けてくれといっても、奴の愚痴を聞く作業だ。
「うっうっうっ……」
「うるさい」
「何で……どうしてなんだ……」
「やかましい」
空の具合を見て、どうやら一雨くると判断したので、今日はさっさと店仕舞いだ。幸い商品を引き渡す予定もない。
看板を中に引っ張り込み、閉店の札を掲げる。道具を磨きながら仕舞っている間もショシユはカウンターに突っ伏してやかましい。その背を蹴りあげる。蹴ったこっちの骨に響く硬さだ。
「でかい図体で鬱陶しい。飲むんなら自分で歩いて奥行け、奥。店の中で陰鬱な気を振り撒くな」
「サミウが冷たい…………」
「だから、優しく慰めてくれる奴の所に行けと何遍言ったら分かるんだよ」
再度無駄に広くて硬い背中を蹴りあげると、ショシユは漸くのそりと動いた。
そのまま勝手知ったると、棚から酒とグラスを二つ取り出している。そして腰鞄からごそごそと食料を並べ始めた。こうやって泣きついてきた時のつまみは奴の担当だ。
「何持ってきた?」
後ろから覗きこむと、なかなか良い品揃えで腹が鳴る。
「ハムに――、チーズに――、ん? これなんだ?」
親指サイズの丸い物体が瓶に詰められていた。見たことのない果物だ。
「それはオルという果物の蜜漬だそうだ。義姉上の故郷ではそうやって食べるらしい。お前、甘い物好きだろ」
「ああ、そういやお兄さん婚約したって言ってたな」
救国の英雄と呼ばれ、この国どころか他国でも知らぬ者はいないという騎士は、国境沿いの小さな村で婚約者を見つけてきた。
ショシユが言うには、本当はそこで式も上げたかったそうなのだが、そこは救国の英雄。色々と面倒な事情が重なり、結局婚約という形で帝都に戻ってくることになったそうだ。
まだ婚約者という形だが、ショシユは認めているのだろう。義姉上と呼んでいるのだから。
「今は任期を終えて一旦帝都に戻ってきているんだ。次の勤務地はどこになるのやら。隊長だから他の騎士より早く知れるとはいえ、辞令が出るまでどこに行くかも分からないんだぞ。結婚するのに住む場所も分からないとか…………なんで」
テーブルの上に乗せられた拳がぶるぶる震えだす。私は美味しそうな瓶詰の中身を皿に乗せた後、耳を塞いだ。
「なんでそんな兄上がさっさと結婚出来て、しかも義姉上は勤務地まで共にしてくれる人で………………なんで、俺は結婚出来ないんだ――!」
「やかましいからだろ」
後、鈍感だからだろ。
思わずつきかけた悪態は、傷心の奴の為に仕舞ってやった。
「大体兄上はいつもそうだ。俺があれだけ苦労した騎士の職には歴代最年少でなるし、歴代最年少で隊長になるし、止めに3千の兵で5万の敵兵を押し返して救国の英雄になるし。本人は、地の利がこちらに味方したからだって一向に威張ったり得意げにしたりしないし……顔もいいし、声もいいし、剣の腕も……武術も……頭だって、いいし…………どうせ俺は万人に埋もれる男だよ!」
「へーへー、お前なんか十把一絡げー」
「サミウが酷い!」
「お前が言ったんだろ、お前が」
ぶちぶち泣いているショシユの前から酒瓶を取り上げて、ラッパ飲みして飲み干してやる。恨みがましい目が下から睨んでくるけど気にしない。大体、これは私の酒だ。
「サミウには分からないさ……モテる奴には俺の気持ちなんて!」
「は? 私がいつモテたよ」
心当たりがなくて聞き返すと、じとりと座った目でまた睨まれる。お前、人の家に飲みに来て家主睨みすぎだろ。
「昨日」
「昨日?」
「花屋の女の子とその友達にお茶誘われてただろ」
「あー、そういえば」
「一昨日」
「まだあるのかよ」
「パン屋の娘に買い物付き合ってって言われてただろ」
「あー、そういやそうだな。なんだお前、さぼってたのか? 声かけてくれりゃあよかったのに。遊び行こう。いい店教えてもらったんだ」
「巡回だ、巡回! くっそ! 何でお前あんなにモテてるんだよ!」
だんっと両拳をテーブルに叩きつけてめそめそ泣いているショシユを見下ろして、私は呆れきった声を上げた。
「モテたことなんて皆無だってーの」
「嘘つけ! お茶に買い物に遊びにと、散々誘われていたくせに何を言うか!」
「そりゃあ」
女だからね。
私が。
何だかいろいろ腹立たしくなって、めそめそ泣いているショシユを鼻で笑ってやった。
きいきい言っていたけど、全部無視してもう一本丸呑みしたら、ショシユも自棄っぱち気味に一気飲みを始めた。
「大体!」
「おう」
「兄上はずるい!」
「おう?」
こいつ、外ではつんつんしているとか嘘だ。絶対嘘だ。まるで末っ子の駄々っ子だ。
「外回りの騎士は女性不審になって、剣が命だってうっとりしたり、男に走ったり、桶に走ったりするのに、どうして兄上は婚約者見つけて帰ってくるんだ!?」
「おい、待て。最後おかしいだろ」
「だよな!? 兄上おかしいよな!?」
「そこじゃねぇよ」
寧ろお前がおかしいよ。
「大体お前、前から思ってたけど何でそんな必死なんだよ。嫁なんてゆっくり探していきゃいいだろ。お兄さんと違って、お前移動ないんだろ? 花形じゃん」
移動でくるくる地方を回る騎士と違い、ショシユは帝都に固定の守護騎士だ。人気の守護騎士の中でも、一番人気の帝都守護騎士。
そんなにバタバタして見つけなくても、幾らでもチャンスあると思うんだけどな。
以前から感じていた疑問を聞いてみたら、ショシユは急に真顔になった。
「あー……うーん……まあ、お前だしなぁ。別にいいか」
「おい、今のは信頼か蔑ろ、どっちだ」
「信頼だっつーの。これまだ発表されてないから言うなよ?」
「おう」
客商売やっているんだ。口は堅いほうだ。元々、ぺろぺろ秘密を暴露するほどお喋りでもないが。
心なしか声を潜めたショシユに、私も顔を寄せる。
「実はな、近衛騎士はともかく、守護騎士も地方を巡回させることが決定してるんだ」
「は?」
「元々、砦を移動する騎士も、長く停滞して慣れと癒着で不祥事が相次いだからだろ? 移動のない守護騎士も同様なんだよなぁ。恐らく近日中に発表される。兄上が一旦帝都に戻されたのも、騎士団から信頼厚い兄上がいたほうが発表後の混乱が少なくて済むからだ。後、何故か国王陛下が義姉上に会いたがっているらしいからとかなんとか……桶って何なんだ、桶って」
「私に聞くなよ。なんだよ、桶って」
長らく移動の無い職として名を馳せた守護騎士が、地方の砦に移動になるという大事件を前にして、私達の疑問はそっちに移った。ショシユは絶対酔っている。
「王妃様は俺に怒るんだぞ!? 『王は桶を側室に迎える気か!』って! 俺に言うなよ、俺に! 桶ってなんだよ! それだけならまだしも『王がわたくしよりも桶を愛するというのならば、わたくしとて考えがあります! ショシユ、良い桶をお持ちなさい! 見目の良い将来性のある桶です!』って! 桶なんてどれも同じだろ!? 何だよ、見目って! 桶の将来なんて薪だろ、薪!」
「お前もよく桶の世話になってるだろ」
「俺がいつ!」
「飲みすぎた次の日。言っとくけどな、お前が使ってるあの桶、お前専用だからな」
「……………………というかだな! 守護騎士の俺にじゃなくて近衛騎士に言ってくれよ!」
話を逸らされた。
そのままいつもみたいにドンパチ飲んでいる内に、ショシユはいつもみたいに潰れてしまった。
潰れたショシユに上着をかけて放置し、私は適当に後片付けして風呂に入った。酒には強いのでこのくらいじゃどうという事はない。
爪の間に入った油や汚れを石鹸で出来る限り落とすが、毎日の事なので既に染みついてしまっている。家族全員似たような手なので、私にとっては当たり前で、そして誇りだ。ショシユが剣だこで硬くなった手を誇りとしているように。
いつも通り借りた兄の寝間着を着込んで、ぐっすり寝入っているショシユの向かいに座る。顔はいいのに色々残念な奴だと思う。職場ではつんつんしているというのは本人談だが、それが本当かどうか、この家での様子を見てると疑わしい。そりゃ、兄上様がご立派な方だそうなので、その弟なのに……と言われたくなくて頑張っているらしいが、ここでめそめそ泣いてりゃ世話はない。
仕事もできるそうだが、どうしてこの騎士様は、いつまで経っても私が女だと気づかないのだ。この馬鹿野郎。
確かに、どうせ期間限定の臨時店主だからと、着替えもあまり持ってこなかった。あまりどころか、下着以外は兄の物を借りるつもりで、実際そうしている。食っても食っても肉がつかずに胸もない。男兄弟に囲まれ、周りも職人ばかりで、母も男勝りという環境で育ったので、自分でも『女らしさ』の『く』の字もないのは分かっている。女の一画も書き始められていないような女なのだ。
まあ、基本的に油の臭いが染みついた兄の作業着しかこいつの前では着ていないし、私の背はひょろりと高い。それでも声は男みたいに低すぎる訳ではないし、体格もそこまでごつくはない。肉つかないし。
なので最初は、失恋のショックでとはいえ、初対面の女の、しかも一人暮らしの家で飲み明かしてしまった事を気まずく思っているのかと思っていた。しかし、付き合いが続けば分かってくる。初対面で面倒をかけたことに対してはそれはもう真摯に謝ってくれたし、それ以降は酒とつまみを届けてくれる。甘いものが好きだと知ってからは菓子やら甘味やらもセットだ。
だが、肩を組んでは『お前、細すぎだぞ。そんなんじゃいざというとき女性を守れないぞ』だの、道で偶然出会えば『おい、荷物運ぶの手伝え』だの、夜に暴漢に襲われた時は通りすがりの女の子を守った挙句『じゃあ、俺は彼女を送っていくからお前は気を付けて帰れよ。それと、もうちょっと鍛えたほうがいいぞ。今度教えてやるから』と背中をバンバン叩かれた時に確信した。
こいつ鈍いわ、と。
あの頃は、どうやってこいつに女と認めさせようかと悩んでいたが、今の問題はそこではない。いや、それも問題だけども。
気持ちよさそうに眠っているショシユを眺め、深く、それこそ肺が空になるまで深い溜息をつく。
「なんでこんなの好きなんだ、私……」
一番の問題は、これに惚れてしまった私だ。
ショシユは22歳。私は26歳で年上だし、ショシユは貴族で私は庶民。何よりショシユは私を男だと思っていて、ショシユのタイプはふわふわして守ってあげたくなる子だ。間違っても、胡坐で油に木屑塗れで鼻啜ってる年上の女ではない。
「あー……馬鹿は私なんだろうなぁ」
想いを伝える気はない。こうやって二人で馬鹿やってる時間を失ってまで伝えようとは思えない。フラれることが分かっていて、その後気まずく離れられるくらいなら、兄が帰ってくるまで楽しく過ごすほうがマシだ。
まあ、毎度毎度フラれてめそめそやってくるこの男を、鬱陶しいと蹴りだすのも本心ではあるけど。
「兄貴が帰ってくるまでもうちょいだ。それまではこうやって飲もうな。けどなぁ、もうちょい楽しい話題にしてくれよ、『友達君』?」
頬にかかる金髪を指先でちょいちょいと寄せてやると、子どもみたいにふにゃりと笑う。うっかり可愛いと思ってしまった自分を、とりあえず一発殴っておいた。
「おーい、サミウ。飯作ったから食おう」
翌日、椅子に置き去りにしてベッドで休んだ私を怒りもしないショシユが肩を揺すってくる。怒るはずもない。何故ならいつも通りだからだ。平気で動いている様子から、今日は桶のお世話にはなっていないらしい。
「んー……いま何時だ?」
「6時ちょいって所だな。お前今日店は?」
「開ける。つっても、配達メインになりそうだけどな。ちょうど修理終わったのが重なってるんだよ」
「取りにこさせろよ」
「足悪い爺婆の依頼が重なってるんだよ」
「あー……」
それは仕方ないなと苦笑したショシユは、ただでさえぼさぼさの私の頭をぐしゃぐしゃとかき回す。
「やめろ。首が折れる。で、お前は?」
「俺は休み。せっかくだから配達手伝ってやるよ」
ちょっと期待していた言葉を貰えて、思わずガッツポーズが出た。
「よっしゃ! ショシユ、お前はいい奴だ!」
「くっそ、調子がいいな、おい。重いのか?」
「運ぶはずだった台車が昨日薪になった」
「おい」
「寿命だったんだよ、寿命。芯が腐ってたら直しても逆に危ないからなぁ」
何はともあれ朝食だ。
ショシユが部屋を出ていくのに背を向けて適当に下着をつけて、油のにおいが染みついた作業着を着こむ。着替え終了。髪も手櫛で適当に一つに纏める。丁寧に纏めてもどうせすぐに乱れるのだから、これで終了である。
無駄に、貴族の持ち物みたいに丁寧に磨かれた鏡の中には、いつも通りの私がいる。この鏡は、嫌な客に出くわした晩、自分の持ちうる全ての技術を使って磨き上げた渾身の逸品だ。
朝の手間に時間をかける女性達を尊敬する。私は、夜はギリギリまで螺子磨いていたいし、朝は一番から螺子巻いていたい。
「おーい、サミウ? 食うぞー」
「おー、今いくー」
まあ、人それぞれだ。
「おまっ……おもっ……これ、おもっ…………!」
「おーっ……!」
二人掛かりで運んでいるのは柱時計だ。
一見ちょっと大きいだけの普通の柱時計だが、実は製作者の趣味であれやこれやとカラクリが詰め込まれている。その結果、異様に重い時計の出来上がりだ。なんて迷惑な。弄る分には非常に楽しかったが。あれやこれやを発見する度にわくわくしたが。
うん、楽しかった。
うっとりと内部を思い浮かべていると、がくんと膝が折れそうになり、慌てて持ち直す。この鬼のように重い本体が倒れないよう、底には更に重りが入っているという素晴らしい仕様だ。製作者、握手しろ。そしてサインくれ。
一度持ち上げてみて、私には無理だと即座に判断したショシユが底部分を担当してくれたが、それでも重いものは重い。
「ちょ、待て、サミウ! 一旦下ろせ!」
「お、おお、悪い」
傷をつけないようにと足で広げた布の上に、そっと時計を下ろす。無事に下ろし終えたことを確認し、二人で座り込んだ。
「お前、これ一人で運ぶ気だったのか!?」
「仕方ないだろ。台車ないんだし」
「無理だろ!? これ、台車あってもお前だけじゃ無理だろ!?」
「取りに来させるわけにはなぁ。その間にぽっくり逝かれそうで怖い。そもそも、店まで一人で運んだぞ」
「運んだのか!?」
「朝になるかと思ったな」
「夜通しか!?」
あれはつらかった。永久に店まで辿りつけないんじゃないかと思った。
店に辿りついた瞬間、気が抜けて店前で行き倒れてしまったのは内緒にしよう。ショシユ絶対怒るし、面倒だ。
うんうんと一人で納得していると、がばりと袖が捲られた。
「この細腕でよくもまぁ……お前、ほんともう少し鍛えたほうがいいぞ?」
「うるせぇよ。肉がつかねぇんだから仕方ないだろ」
「お前、まさか足もこれか?」
「うるせぇ」
流石に足まで捲られるのは御免被る。胡坐をかいてさりげなく逃げると、深い深いため息をつかれた。
「なんだよ」
「これ、どこまで運ぶんだ?」
「もうここまで来たらすぐだ。あの角曲がった先のパン屋を右に曲がって、四件目。もうひと踏ん張りだから、悪いけど最後まで手伝ってくれると助かる」
ここで投げ出されたら途方に暮れてしまう。下に敷いた布を引きつつ、一時間ほどかければいけるだろうか。
色々と方法を考えていると、苦笑したショシユに肩を押された。
「友達見捨てて投げ出すわけないだろ。ほら、ちょっとどいてろ」
「え?」
柱時計の前にしゃがんだショシユは、ふぅーと長い息を吐く。そして、ぐっと力を籠めて立ち上がった。
一人で柱時計を背負って。
「お前! 馬鹿! 重いだろ!」
「重い……」
「当たり前だろ!」
慌てて周りをうろうろするけれど、下手に触る方が危ない。バランスを崩して倒れるとショシユも柱時計も怪我じゃすまない。
「ちょ、おま、ば!」
「馬鹿で悪かったな。ほら、行くぞ。長くは持てないからな」
「当たり前だろ!」
何を言っても降ろす気はないらしい。こうなったショシユは頑固だ。
私は慌てて通行人に道を譲ってもらうために先導する。
「お、お前、大丈夫か!? どこか筋とか痛めそうだったらすぐ降ろせよ!? 最悪、時計落としていいから! 直すから、すぐだぞ、すぐ!」
こっちは必死だっていうのに、当のショシユは、ははっと笑い声を上げた。
「確かに重いけど、長距離じゃなきゃ何とかなるさ。これでも鍛えてるんだ。俺の身体が空いてる時は使えばいいだろ。俺は困ってる友人見捨てるほど薄情じゃないぞ」
「そ、それは知ってるけど」
「まあ、お前がもうちょっと鍛えたほうがいいのは事実だな、うん。そんなんじゃダンスも踊れないんじゃないか?」
「踊る機会もねぇよ」
驚いたことにショシユはふらつきもせずに歩いていく。一歩一歩は重いが、それでもしっかりと前に進んでいく。
「おい、どうした?」
「な、なんでもない!」
「何か顔赤く……」
「ねぇよ!」
こういう不意打ちはやめてほしい。
ショシユは私のことを男と思っていて、友人として協力してくれているんだ。だから、私だって他意はない! 感謝はあっても他意はない!
「ちくしょう!」
「何がだ!」
「お前ほんとショシユだな!」
「それ以外の何だと思っていたんだ!?」
「ショシユだよ!」
「全くだ!」
依頼人の老夫婦は、元気にカラクリを披露する柱時計にとても喜んでくれた。子どもみたいなものなのと夫人に微笑まれ、ショシユも嬉しそうだった。自分の苦労をおくびにも出さず、老夫婦と同じくらい喜べるショシユに惚れ直したとかそんなことは全く以って。
残りの品物は鞄に入る程度だったので、昼前には配達を終えることが出来た。
礼も兼ねて食事を奢ろうと適当な店を探してぶらつく。貴族であり騎士であるショシユだが、意外にも下町の屋台なんかも好む。気軽でいいんだそうだ。こっちとしては気軽じゃない食事など食事じゃない。
「ショシユの気分は?」
「肉かな」
「じゃあ、この前出来たばっかの店、偵察がてら行ってみるか。肉でかいんだとさ」
「行くしかないな」
「うし、決まりだな」
そうして私達は、一路肉を目指して出陣した。
花屋の女の子に聞いた情報だとこの辺りなんだけどな。
比較的新しい店が並ぶ通りをきょろきょろしながら歩く。女の子達は食べきれなかったそうだけど、まあ、私とショシユなら大丈夫だろう。肉はつかないけど食べる方だし。
「あ!」
「ん? あったか?」
突然大声を出したショシユを見上げようとしたら、がくんと視界がぶれる。何事かと思ったら、走り出したショシユに腕を掴まれて引っ張られていた。
「おい!」
ショシユは店の前で看板を見ている女性の元に一目散に駆けていった。向こうもこちらに気付いたのか、顔を上げて『あら』という顔をする。
「ショシユさん、こんにちは。今日はお休みなんですか?」
「は、はい。ですので友人と食事を……って、義姉上! 何故お一人でこんなところに!?」
お姉さんだったのか。優しそうな人だな。
ショシユはやけに慌てている。なんだ、好みなのかこの野郎。私も好みだこの野郎。
それにしても、どうしてお姉さんが一人でお店を巡っているのだろう。確か帝都内にあるお兄さんの屋敷で過ごしていると昨日聞いたはずだ。
「兄上は!?」
焦るショシユの言葉に、お姉さんはふいーっと視線を逸らした。
「ちょっと……喧嘩をですね…………いえ、喧嘩? あれは喧嘩ですかね?」
「私に聞かれましても」
「そうですよ、ね!?」
ぴょんっと跳ね上がったお姉さんの声と同時に、背後で叫び声が上がる。
「泥棒――!」
「ひったくりだ!」
「誰かそいつ捕まえろ!」
弾かれたように振り向いたショシユは、人ごみに素早く視線を走らせる。
「濃緑の上着に赤い帯の男の人です! いまクレープ屋さんの横を!」
「感謝します! サミウ、義姉上を頼んだ!」
言ったと同時に走り出したショシユに返事は間に合わなかった。まあいいやと、心配げに見送っているお姉さんと向き合う。
「えーと、初対面同士なんですけど、ご飯でも食べませんかね?」
「はあ。えーと、宜しくお願いします、サ、ミウ、さん?」
「こちらこそですね。ショシユの友達です。えーと、お姉、さん?」
せめてお互いを紹介してから去って行け、ショシユ。
騎士の職務を果たしに行った友の会話だけを頼りに、私とお姉さんは手探りで会話を始めた。
そして、お姉さん年下だった。泣きたい。
待ち合わせ場所も決められなかったので、とりあえず当初ショシユと目指していた店で待つことにした。がつんと盛られた肉料理に、しまったお姉さん怯むかなと思いきや、いそいそ齧り付き始めたので安心する。豪快に可愛い人だ。ご飯を美味しく食べられる人は大好きだ。
ショシユの義姉なので、お姉さんでいいやとお姉さんのまま呼んでいる。お姉さんもそれでいいですよとにこにこしている。肉、美味しいですね。肉談義に花が咲いて、結構気が合うことが判明した。オルの蜜漬のお礼も直接言えてよかった。
「で、喧嘩の原因は何なんですかね?」
こんなことも聞けるくらいには、仲良くなれた。
お姉さんは齧り付いていたお肉を置いて、ちょっと難しい顔をする。
「喧嘩……って言うんですかね?」
「いや、私に聞かれても」
「あの、実はですね」
「はい」
「桶なんです」
「はい?」
どいつもこいつも最近桶桶言い過ぎな気がする。桶がどうした。水漏れしてたら修理はするぞ。黴生えてたらばらして削って嵌め直すぞ。でも、桶は桶だ。
「最近ちょっと忙しいらしくて、隊長さんにあんまり会えないんです」
「はあ」
隊長さんというのは、ショシユのお兄さんのことだそうだ。婚約者なのになかなか元の呼び名から変えられないらしく、いつも名前で呼んでほしいと言われてしまうらしい。
「それが、昨夜ふと目が覚めた時にちょうど帰ってきたのが窓から見えたので、玄関までお出迎えに行ったんですが、いつまで経っても屋敷に入ってこないんです」
「はあ」
「不思議に思って厩舎のほうに行くと、厩舎で、桶を磨いていました」
「意味不明ですね」
ショシユのお兄さんは疲れていたのだろうか。いや、疲れて桶を磨くってどうなんだ。慣れている自分達修理屋ならともかく、一般人、というか騎士が桶を磨いて癒されるっていうのはどうなんだろう。
お姉さんは、何ともいえない顔をした。
「それを私に見られたと知った彼は、凄く慌てて、浮気じゃありませんと繰り返していました」
「そりゃまあ、浮気ではないですね」
「私が眠っていると思って、先に桶をと思ったそうなんです。起きていると知っていたら私の顔を見に来てくれたそうなんですけど、何だかこう、桶! って感じで……」
「ごめん、分からん」
「私も本気で浮気って思ってるわけじゃないんですけど、桶も浮気とみなしますと言った手前、何だかこう……桶――! って感じで……」
「ごめん、やっぱり分からん」
何なんだ、桶。流行ってるのか、桶。
………………桶が?
「ところで話は変わりますけど」
「はあ」
「ショシユさんのこと、お好きなんですか?」
「ぐふっ……!」
肉が詰まった。あやうく、死因:肉、になりかける。そんな死因は御免被る。
「ショシユさん、休日に一緒に出掛けるような女性はいませんよって言ってましたけど、隅に置けませんねぇ」
「いや、あの、お姉さん!?」
「はい?」
「なんで!?」
この半年、結構な頻度で寝泊まりしてるショシユが欠片も気が付かないのに、何故、本日初対面のお姉さんにばれたんだ!
お姉さんは私の剣幕にきょとんとした。
「ショシユさんを見送る目が、好きーって言ってましたよ?」
「え」
「私、鈍感じゃありませんから!」
何と張り合ったんですかお姉さん。胸を張っての鈍感違う宣言頂いたけれど、正直私はそのお胸に釘付けだ。私を足して足して足して足して足して足して足して足して、割らなかったらお姉さんのお胸に辿りつけそうである。
「いや、その、お姉さん!? ショシユは私のこと男と思ってるんで、是非とも内密にしてもらえたらですね」
「え」
お姉さんはお胸を揺らして驚いた。ふかふかしてそうだ。
「えええええ!?」
「はあ」
「サミウさんを、男性!? こんなにスタイルいいのに!?」
「肉がつかないんです、肉が」
胸にもな!
「ショ、ショシユさん、私と話す時、いつもあなたのお話ばかりですよ!?」
「外じゃつんつんしてるらしいから、友達いないんじゃないですかね……」
「お休みの日の予定は全部サミウさんだって笑ってましたけど!?」
「友達いないんじゃないですかね……」
そして、山盛りの骨を皿に積み上げ、項垂れる女二人が出来上がった。
違うんだ、隣の席の親父。私達は別に、女二人で大食いチャレンジに来たわけでは決してなくてだな。え? 大食いチャレンジ成功? タダ? 隣の親父達が頼んでた大食いチャレンジが手違いでこっちにきた? どうりで多いと思った。うまかったけど。
お姉さんと私は、さっきまで項垂れていたことも忘れて目を見合わせ、固い握手を交わした。
店主もどこからか銅鑼を持ち出して、思いっきり打ち鳴らす。
いま、お姉さんと私は、この店のヒーローだった。
店主と客の歓声を受けながら店を出た私達を出迎えてくれたのは、呆れ顔のショシユだ。他にも制服を着た騎士が四、五人いた。きっと今日が当番の騎士だろう。
「ちょっと問題が起きた。義姉上を送った後、仕事に行ってくる」
「大変だな、お前も。筋は痛めてないか?」
「これくらいでへばっていたら、騎士は務まらないぞ」
ふっと笑ったショシユは、後ろの騎士達に呼ばれて振り向く。なんだか、いつもと違ってきりっとしている。
「副隊長、それでは私達は一旦詰所に戻ります」
「私もすぐに出る。それまでに騎士団を集めておいてくれ」
「は!」
ぴしりと一礼して去っていく騎士達見て、ショシユに視線を戻す。
「ん? なんだ?」
きょとんとしている様子はいつものショシユだ。さっきと表情が全然違う。さっきはまるで別人みたいだった。まるで、仕事が出来て腕の立つ騎士様のようだ。
まじまじとショシユを見上げて、私は切ない気持ちになった。
これでセンスさえあれば、鈍感でもモテただろうに。なんて残念な奴なんだ。
「で、どうかしたのか? あ、聞いちゃまずいか?」
騎士団の任務だった場合、話せないことの方が多いだろう。ショシユは苦笑して少し声を押さえた。自然、三人で顔を寄せ合う。
「守護騎士移動の噂が漏れてるらしいんだ。その混乱を狙おうと、質のよくない輩が帝都に潜り込んできてる。兄上は勿論、俺もそれなりには名が売れてる。だから、この隙に今迄の仕返しを狙う奴がいないとも限らない。以前、一斉取り締まりで捕らえた奴らの残党が戻ってきてるらしいんだ。だからサミウ、裏通りは使わず、人通りの多い道で帰れ。後、悪いけど今日はもう店仕舞いして、一歩も出るな」
「おー、すげぇとばっちりだな、おい」
「悪い」
「いいさ、気にすんな」
心なしかしょんぼりした背中を軽く叩く。いつもみたいに景気よく、すぱーんといきたいところだけれど、あの荷物を背負わせた後なので軽めだ。
もうちょっとお姉さんと話していたかったので残念だが、事情が事情なので仕方ない。帝都にいる間にまた会えたらいいな。
「あの、ショシユさん。サミウさんも送って頂けませんか。そんな事情なら、一人じゃ危ないです」
「そうしたいのは山々なのですが、実はあまり時間が。すぐに招集がかかりますし。サミウの家は近いですが、兄上の屋敷とは正反対なので」
そりゃあ、お貴族様街と下町の方角だからな。
お姉さんは困ったように眉を下げたが、すぐに顔を上げた。
「だったら、私がサミウさんのおうちにお邪魔することはできませんか? それだったら、ショシユさんはすぐに招集に行けますし。サミウさんがご迷惑でなければですが」
「私は構わないけど、なんなら泊まってく? 喧嘩もどきしてるんだろ?」
「いいんですか!?」
「私も、もっと話したいって思ってたから嬉しい」
「そう思えてもらえたことが更に嬉しいです!」
ぱっと笑って両手を合わせるお姉さん、可愛い。こういう風に、誰が見ても嬉しそうに喜びを表現できるのは美徳だ。素晴らしい。そして可愛い。
「で、でしたら兄上の屋敷にサミウごと送ります! いいですね!?」
「はあ。ショシユさんが招集に間に合うのでしたら、私はどちらでも嬉しいです」
ショシユと違ってちゃんとおもてなしをしなきゃなと、秘蔵の酒と菓子を思い浮かべていたら、何故か私がお兄さんの屋敷に行くことが決まっていた。何故だ。
そして、視界がぐるりと回る。
「サミウ!」
「お、おう」
肩を掴んで詰め寄ってきたショシユが近くて、思わず仰け反る。
「義姉上は兄上の婚約者だからな!?」
「知ってるよ。だからお姉さんって呼んでるだろ」
「だよな!」
「お、おお」
何なんだ。
訳が分からなかったが、すぐに思い至った。兄貴の婚約者が自分の男友達と、『もっとお話ししたい』だの『泊まる』だの言ってりゃ、そりゃあ真っ青になろうというものだ。
「おい、お前まさか、私が友達の家をぶち壊すような真似すると思ってるんじゃないだろうな?」
「思ってるわけないだろ。俺が怖いのは兄上だ!」
「胸張って情けない事言ってんじゃねぇよ!」
さっきの加減もなんのその。思いっきり背中を叩いてしまった。だが硬い。ダメージを受けたのはこっちの拳だ。
「仲いいですねぇ」
お姉さんの手にはいつの間にか、粉糖を塗した一口サイズの揚げ菓子の詰め合わせが握られていた。どうやら新しい屋台が出来たようだ。そしてお姉さん、よく食べますね。その栄養が一か所に集中したんですか。私にも少しでいいんで分けてください。
手ずからはいあーんして頂いた揚げ菓子は、揚げたてで物凄く美味しかった。今度買おう。
不自然にはならない程度に早足で屋敷までの道のりを急ぐ。いつもは女性の速度に合わせるショシユだから、お姉さんが疲れないか凄く気にしていた。しかし、お姉さんの早足は私より早かった。凄いな、お姉さん。寧ろ私が疲れた。
「サミウ……本当に鍛えたほうがいいぞ。足長いのに義姉上に負けてどうするんだ」
「憐れんだ目で見るな! これ、寧ろお姉さんが凄いんだと思うぞ!?」
「田舎育ちですから――」
「私も田舎育ちですけどね!」
お揃いですねと笑うお姉さんが可愛かったので、ショシユの無礼な視線は流すことにする。だが、憐れみの視線が止まらない。心底憐れむな、心底。
お姉さんは私達を見てにこにこしている。
「本当に、ショシユさんとサミウさんは仲良しですね」
「はい、サミウは私の初めての親友です」
にこにこしているお姉さんに、これまたにこにこ返しているショシユを見て、私はぎょっとした。
「え!? 初めてだったのか!? お前ほんと友達いないな!」
「親友は初めてで、友ならいる!」
「びっくりさせるなよ……」
「俺がびっくりだよ……」
お姉さんの前で素が出てるぞ、親友。ショシユは俺と言ってることに気付いていないようだ。
にこにこ私達を見ていたお姉さんは、ちょっと考えるように口籠った。
「でも、ショシユさん。サミウさんに恋人が出来たら、今迄みたいに遊べませんよ?」
「え!?」
「え、じゃねぇよ! お前が結婚しても同じだろうが!」
「え!?」
「え、じゃねぇよ! お前、結婚しても今迄みたいに私の所に入り浸る気だったのか!?」
そっちにびっくりだよ。
呆れた目で見上げると、心底びっくりしているショシユに更にびっくりする。
「結婚したらそっち優先だろう、どう考えても」
「お、お前もそうなのか?」
「結婚しても友達優先だと離縁確実だろ、それ。何で結婚するんだよ」
お姉さんは困った顔で笑っていたが、ふと真顔になった。
「桶優先の場合はどうすれば……」
「お姉さんは何と戦ってるんですかね」
「桶です!」
「桶か……」
即答された。結局桶って何なんだ。私の知ってる桶とは違うのか? 何かの隠語とかじゃないのか?
「でも、お姉さん凄いですね。結婚で故郷を離れて、お兄さんについていこうって思ったんですよね?」
「はあ、まあ、そうですねぇ」
住み慣れた土地を離れて、知り合いも誰もいない場所に飛び込めるのは凄い。しかも、そこはお兄さんにとっても地元ではなく初めての地である可能性のほうが高いのだ。結婚という人生の中でも一大イベントと、移住をセットで挑むお姉さんは、ちょっと頬を赤くした。あれ、ここ照れるところだっただろうか。
「隊長さんと結婚するんですよね、私……」
「あれ!? 今更そこで照れるんですか!?」
「い、いや、だって、何だか全部あっという間でして! 偶にこう、実感がですね! 後から湧き上がってくる感じでですね!」
じわじわと赤くなっていくお姉さんに、ショシユは「ああ……」と何かに思い至ったような声を上げた。
「そういえば、外堀から攻めたって兄上が言ってたな……」
「おい、救国の英雄」
戦上手を発揮する場所を盛大に間違っている。
お姉さんは赤い顔をぱたぱた手で仰ぎ、それでも嬉しそうに笑った。
「でも、隊長さんにも父にも、本当に感謝しているんです。だから、今度は私が外堀になれたらなぁと」
「え?」
「い、いえ! えっと、隊長さんについていこうと思ったことについてですよね!」
「はあ」
ぐっと拳を握りしめたお姉さん。まだ指に油ついてますよ。揚げ菓子の。美味しかったですね。
「私は母から『自分がずっと一緒にいたいと思う人と結婚しなさい』と教えられたんです。私は、隊長さんとずっと一緒にいたいから結婚するので、どこにだって一緒に行くのは私の中では普通といいますか、そういうものだと。一緒にいたいですし! そもそも結婚って、結婚したから一緒にいるんじゃなくて、一緒にいたいから結婚するんですよね? 母も、元は帝都の出だったんですけど、医学書を買い求めに来た父を大好きになって、そのまま嫁いできちゃったそうです。だから、父も外堀になってくれたんだろうなと。おかげで、隊長さんと一緒にいられるので、本当に感謝をですね! 一緒にいたいなって思う隊長さんと一生一緒にいられるなんて、本当に幸せだなぁとしみじみですね!」
「お姉さんお姉さん」
ぐっと拳を握って力説しているお姉さんをそろそろ止めるべきだろうと、私は声を上げた。きょとんとしているお姉さんの後ろでは、ショシユに色気と凛々しさと身長を足したような男の人が、花束を持っていないほうの手で口元を覆って俯いている。
「あ、隊長さん! 今ですね、隊長さんのお話しをして」
ぱっと笑ったお姉さんの目の前に花束が差し出される。大きな花束だからお姉さんは両手で持たなくてはならない。
「貴女に…………」
「え!? う、嬉しいです! 綺麗ですね……ど、どうしましょう、サミウさん。花束を頂いてしまいました」
「え!? ここで照れるんですか!?」
じわじわと赤くなっていくお姉さんは、その内に煙を出しそうになって花束で顔を隠してしまった。照れるところはここじゃなかった気がしてならない。
「兄上…………」
「皆まで言うな、ショシユ」
救国の英雄が外堀から攻めた理由がなんとなく分かってきた。