ただの妄想エッセイですので、ご注意ください。できれば、読み飛ばしてほしいです。
ただの妄想ですので、ご注意ください。
今回も私の妄想エッセイです。
今回のお題は、
『皆は人称、人称と言うけど本当はどうなの?』
また、お馬鹿な事を言い出したと思ったあなた、その通りです。今回も私のお馬鹿なエッセイです。
小説には、1人称や3人称や神視点など、色々な手法があります。
それぞれが、大きな世界観を表すなら3人称、主人公の内面を掘り下げるなら1人称など、長所なり短所があります。
それは、先人の大先生と呼ばれる方々が、築き上げてきたものです。
そうした手法ともいえる小説の書き方は、時には急激に、時にはゆっくりと、時代の移り変わりと共に進化してきました。
そこで、私はふと、考えました。
今いわれている小説の書き方は、完成形ではなく、まだ先があるのではと思ったのです。
あるいは、今の時代の人々にあった書き方があるのではと考えました。
前々回にも書きましたが、現代の人々は、情報の大洪水の中で、情報を選り分け取り込む能力や想像力など、昔の人々とは、比べることもできないほど進化してるでしょう。
小説も進化をしてもいいのではと考えます。
私は活字中毒であり、映像中毒でもあります。
最近は下手の横好きで、小説など書き始めたせいか、映画などを見ていても色々と考えます。
B級カルトから話題作まで色々見ますが、映像の世界にも色々な録り方の手法があり、面白いです。
最近では1人称のように、カメラ視線で追いかける映画などありました。
そんな色々な映画や、テレビドラマを見ていて、ふと思いました。
今の私は3人称として見ているのか、神視点として、1歩引いた所から見ているのか考えました。
映像は色々と場面が、切り替わっていきます。主人公以外の主要キャラの場面などにも切り替わります。
時には、感情移入して見ます。まるで、1人称のようにです。
これは、究極の3人称ともいえるのではないでしょうか。
要は、どうやって見ている者を、その世界に引きずり込むかということです。
そして、そのための手法なのです。
ならば小説の世界でも、視点の切り替えや、混合人称の小説があってもいいのではと考えました。
私は今の時代の人々にあった小説を、模索しながら探そうと思います。
あっ、でも公募などを考えている方は、人称などは統一した方がいいですよ。
混合人称の小説は出版業界では、あまり認められていないですから。
ここは、老若男女様々な人が、投稿しているサイトです。
私のような人がいてもいいのではと、思ってます。
まぁ、今回は私が今、混合人称で視点の切り替えの多い小説を書いていますので、その言い訳ですかね。
皆さんを煙に巻いた所で、今回はこれにて。
また次回にでも、皆さんを煙に巻くことにしましょう。