1-29 欺瞞と虚脱
人が、歩いている。
夜の街はどこまでも華やかで、鮮やかに彩られたネオンを掲げた高級店が足元の人を照らし、所狭しと並べられた街灯が、次々と車の走り抜ける大通りを眩く際立たせる。
歩道を歩く人の数は数え切れない。
時はすでに夕刻を過ぎ、夜の帳が降りきってすでに深夜に差し掛かろうとしている。しかし週末を迎えた今夜は時を刻む毎に人の数は増えて、ピークを迎えた今は真っ直ぐ歩くのもままならない程の混み具合となっている。歩く人々の小さな会話さえもその数によってけたたましく、けれども誰もが自分の世界に埋没して周囲の喧騒に気づかない。人々は夜を忘れた明るい街で刹那の享楽を謳歌する。
彼は、歩いていた。
多くの中に埋没し、誰とすれ違おうとも振り返らず、誰と行き違っても振り返られない。誰も気に留めず、誰にも気に留められずに彼は歩いていた。
彼は異質だ。高級そうな衣服に身を包んだきらびやかな人混みの中でただ一人彼は黒いパーカーに身を包み、フードを頭から被って濃紺のジーンズを履いている。場にそぐわない浮いた格好で、しかし彼は確かに集団に埋没していた。客観的に観察する第三者が居れば、その事実が一際彼の異質さを際立たせている事に気づくはず。しかし観測者はどこにも居ない。
胸が高鳴る。彼の心中は、今確かに興奮の中にあった。一歩踏み出す度に心臓は大きく強く血液を全身に押し出し、フードの端から時折覗くギラついた彼の眼は頻繁にすれ違う人を観察し、ターゲットを絶えず見繕っている。
今晩の獲物は誰にするか。正気を失った彼は新たな被害者の候補を探す。行き交う人が彼の眼を見れば、速やかに目を逸らして足早に彼の傍から離れるはずだ。
だが類まれな実力を持つ彼の魔術は、彼が今ここに居ることを周囲に悟らせない。彼の周囲十数メートルには、彼のテリトリーに侵入した人物の認識を狂わせる魔術が張り巡らされていて、だからこそ誰もが安心して彼のテリトリーに侵入し、彼もまた安心して美味しそうな獲物を見繕うことができている。
「……ちっ」
しかし今晩は彼の望む状況には無かった。濃い赤みの唇を醜く歪ませて舌打ちをし、周りをはばかる事無くキョロキョロと視線を動かす彼の眼には、明らかな失望の色が浮かんでいた。
――どいつもこいつも不味そうだ。
一人の清楚な女性とすれ違いざまに内心でそう吐き捨て、一度立ち止まりかけた足を前に動かす。そしてまた物色を始める。
歩きながら舌なめずりし、幾度と無く獲物を探して、時折子犬の様に鼻を鳴らして何かに引き寄せられるかの様に男女問わず近寄っていくが、すぐに舌打ちして離れていく。
何度かそれを繰り返したところで彼は深くため息を吐いた。
――ろくな奴がいない。今晩は諦めるか……
状況に失望。再び舌打ちをし、適当な獲物で現在の昂ぶりを抑えることに彼は決めた。それでも見繕うならできるだけ美味い人間がいい。せめて不味くない程度には。
彼は選ぶハードルを大きく下げて周囲に眼を配り始めた。
その時。
「っ!?」
彼の眼が見開いた。驚愕の余り声を発することを忘れ、呼吸の仕方を見失う。
フードの奥から覗く切れ長の眼が有り得ないものを見たかのように一箇所を捉えて離さない。
事実、彼にとってあり得なかった。
彼の眼が捉えているのは一人の女性。しかし彼女は今、意識不明の状態であり、病院で治療を受けているはずだ。
そう、四之宮・ユズホがここに居るはずがないのだ。
彼が聞いた情報では、ドッペルゲンガーを失っての衰弱死は免れそうだが、まだ延命治療の域を出ていないはず。情報の魔法使いである紅葉・イチハの協力を少しは得られたみたいだが、それでもなお完全回復への見通しは立ってはいない。少なくとも、まだこうして外を元気に出歩ける程に回復はしていないのは間違いない。
ならば今自分が見ている奴は誰だ。誰何を自らに問いかけてみるも、彼の知り得る情報の中にその答えは無く、しかし彼はすぐにそんな事が些事に過ぎないと思い直した。
「……まぁ誰だっていい」
彼女が誰か、などという情報は重要ではない。大事な事は喰って美味いか不味いか。それに限る。
おおかた、他人の空似という奴だ。世の中にそっくりな人間が三人は居るという話だから、たまたまユズホに似ている人間がこんなにも身近にいた。ただそれだけの話だ。
彼は口端を醜く歪ませ、迷いなく彼女の跡を追い始めた。霞んでしまった記憶の中にある彼女のドッペルゲンガーの匂い。今の彼女のそれは、記憶のそれとは似てはいるが異なってはいる。だが彼の抱く感想は同じだ。
「コイツも美味そうだなぁ……」
呟きながら彼は、かつて四之宮・ユズホのドッペルゲンガーを喰らった時の事を思い出した。これまで食べた中で、彼女の味は最高に美味だった。味そのものの記憶は飛んでしまったが、誰のドッペルゲンガーよりも満たされた事は彼の中に鮮烈な印象として残っている。彼女のものと比べると幾分味は落ちそうだが、それでも今、彼の目の前を歩く彼女から漂ってくるドッペルゲンガーの匂いは道端を歩きまわる他の誰よりも格別に美味であることを期待させた。
さて、後はどうやって彼女を人気のない所へ誘いこむか。彼はその手段について思考を巡らせ始める。一瞬だけ今、この場で彼女を襲ってしまうかとの考えが頭を過るが、先日の様な面倒はゴメンだ、とすぐに彼はそれを放棄した。
欲望に任せたせいで起こった街中での大立ち回り。次から次へと現れる魔術師たちと、近くの住民を巻き込んだ大騒動。魔術師たちのドッペルゲンガーを心ゆくまで堪能できたという点ではとても魅力的だったが、一晩中続き、満腹にも関わらず欲望が衰えずに喰らいたくなる夜はあまりにも面倒すぎた。加えて協力者からもグチグチと小言を言われるのも癪だ。
協力者の事など正直どうでもいい。どうでもいいのだが、付近の関係ない一般人にも迷惑を掛ける事は彼の本意ではなく、騒ぎが大きくなるとやりづらくなるのは彼とて理解しており、もう二度と衝動に流されてしまうまいと固く自らに誓ったのだ。
「だがなぁ……」
本当に衝動に抗えるのか、と問われると彼としては閉口するしか無い。理性では堪えるべきだと理解していても、衝動を抑えられるかどうか。あの晩もギリギリまで堪えていたが最後には我慢できなくなってあんな行動を取ってしまった。今はまだ先日の余韻のおかげでそれほど衝動が強くなく、したがって彼女の背中を黙って追いかけられているが、あの晩のような強烈な衝動の中で果たして今みたいに周囲に眼を向けられるか。魔術師たちとの攻防で負傷した右腕の包帯を、彼は無意識の内に撫でていた。
頭を左右に振る。思考を切り替える。
そんな事は後で考えればいい。今は、如何にしてユズホ似の女を誘導するかだ。
彼は追いかけながら誘導する手段を思案する。彼女が好みそうな、もしくは信頼している男の容姿に見えるよう精神魔術で認識を誤魔化すか、それとも思考を誘導して人気の無い場所へ連れ込むか。
様々な方法を思い描き、だがそれらの方法を実行する前にユズホに似た女性は大通りを逸れて路地へと入っていった。
――これは好都合だな
余計な手間が省けた、と彼はニヤリと口端を釣り上げた。
特異点の発生を避けるため、大通りから路地に入ってもしばらくは人通りも多く、どの路地であっても昼間と見紛うくらいには明るい。しかし自然、人が最も多いメインストリートから離れれば離れるほど人の数は減っていき、街の灯りは減少していく。そしてある所を境とするように夜の人の数は激減。魔物との遭遇を恐れる人々は建物の中に引きこもり、犯行を目撃される確率もほとんど無くなる。
彼が女性を追尾し始めてすでに二十分近く。彼女は今まさにその地域へと脚を踏み入れようとしていた。
――そろそろ頃合だな
心臓が高鳴る。彼はもう我慢できそうになかった。空間魔術で辺りを感知する限り人の気配は無い。加えて、今彼らがいるこの場所は、好都合にも今晩捜索班が唯一探し歩いていない空白の地域だった。その事実を以てして、彼はここを今晩の屠殺場とする決断を下した。
彼女は未だ彼の存在に気づいていない。呑気に鼻歌を歌いながら静かになった街を歩いている。
恐らくは彼女は一線を退いた魔術師。それもかなりの実力者。彼はそう彼女の事を推察した。そうでなければこんな夜の街を一人で平気で歩き回るはずがない。並の魔物が現れたとしても撃退する自信があるからこその行動だろう。
しかし、その過信が命取りになる。相手が自分よりも遥かに実力を持つもので、抵抗できないと分かった時はどんな表情を見せてくれるのだろうか。彼はフードの下で暗くほくそ笑んだ。
そして心の中でカウントダウンを始めた。
――三
鼓動の昂りは留まるところを知らない。全身が沸き立つ様な興奮に包まれ始めている。
――二
ゆったりとした服装の下で、彼の手足で血管が浮かび上がり負荷の掛かった筋骨が悲鳴を上げ始める。
―― 一
彼を中心として夥しい密度の魔素が励起。場の空気が急速に変わる。その事に気づいた彼女が慌てて振り向き、そこで初めて彼の存在を認識した。
――だが、もう遅い
ゼロ。彼の口がその単語を形作った時、彼女の瞳は彼の姿で埋め尽くされていた。
「――、――っ!!」
言葉にならない叫びが夜空に響き渡った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――その前夜
「そんな馬鹿なっ!!」
電話を切った途端、僕は思わず拳を机に叩きつけた。
寮全体に響き渡るんじゃないかってくらいに大きな音と共に居室備え付けのスチール製の机が拳の形にへこんで、机の上に広がっていた、僕が真黒になるまで書き込んだ何枚ものメモにグシャリとシワが寄った。
左手に握った携帯がミシミシと音を立てて、けれども僕はそれが壊れてしまって構わないとさえ思った。今スバルから聞かされた話が、そうすることで全て無かったことになるのであればいいのに。メモリと一緒に僕の記憶も消去されてくれるのなら、それはどんなに良かっただろうか。
「……ヒカリ?」
けれども、一度聞いてしまったらもう無かったことにはできない。見過ごすことはできない。なぜならそれは、僕らがずっと追い求めていた犯人なのだから。否定してしまえば、誰かの役に立つ事をずっと渇望してここまで来た僕自身を、他ならぬ僕が否定してしまう事になってしまうのだから。
けれども……やっぱり辛い。知ってしまった真実は何よりも重くて、その事を否定したくてしたくて堪らない。否定したところで何一つ変わらないと理解ってはいるのだけれども。
どうしようもなくって、僕はもう一度机に拳を叩きつけた。けれども今度のそれは力無くって、醜く歪んだ文字を更に歪ませるだけだ。頭を机に擦りつけて、僕の全身から力が抜け落ちてしまって、最後には僕は床に膝を突いてしまう。
そして僕は逃げ出した。
「ヒカリ!」
部屋のドアを開けっ放しにし、寮の玄関を駆け抜けて夜の町に飛び出した。飛び出した瞬間に聞こえたユキの声も聞こえないフリをして、耳を塞ぎ、息をするのも忘れて、ただひたすらに僕は全力で誰もいない町の中を走り回った。
頭の中を空っぽにしたくて、けれどもさっきから頭の中には同じことばかりがグルグルと回り続けてる。
なぜ。どうして。そのフレーズばかりが酸素を失った脳を支配し続けて、そこからどこへも抜け出せない。
けれども体は正直だ。呼吸も走るペースも無視してがむしゃらに走り続けた僕の肺はひたすらに酸素だけを求めて、歪む視界は足元を疎かにして、もつれた脚はたたらを踏むことさえ許してくれず、僕は盛大に転んだ。
「はあっ、はあっ、はあっ!!」
一旦口を開けば、体は貪欲に酸素を取り込んで二酸化炭素を空に解き放っていく。僕の体に溜まって行き先を失っていた熱量は、息と一緒に澄んだ夜空に消えていった。霞んだ視線が焦点を取り戻してクリアになると、雲ひとつ無い星空が広がっていた。町の灯りのせいで余程明るい星じゃない限り見えないはずだけれど、なぜだか今晩はたくさんの星たちが僕を見下ろしていた。曇り無い空が曇りだらけの僕を嘲笑っているように思えて、僕は寝転んだまま拳を地面に打ち付けた。
けど、心は何一つ晴れなかった。
どれくらい道端に寝転んで空を眺めていたんだろう。気がつけば星空は雲に覆われていて、星は何一つ見えなくなっていた。
まるで、僕の心の中を表しているようで。
僕の中で荒れ狂っていた熱はすでに失われて、だけどもだからといって胸の内は晴れない。それでも背中越しに伝わってくるアスファルトの冷たさは僕を落ち着けるには十分だったらしい。
ため息を吐いて上体を起こし、そこで気だるさを感じながら立ち上がる。それからどこへともなく僕は歩き始めた。
歩きながら僕の頭の中を駆け巡るのは相も変わらず思い至った犯人についてだ。
アイツが犯人である確実な証拠は、実のところ何一つ無い。全てが情況証拠に過ぎなくて、けれどもそれらを統合して考えるとアイツが犯人であるとしか思えない。それしか僕は導き出せない。
もちろん僕の頭がボンクラで、単に僕の勘違いで犯人は別にいるのかもしれない。その可能性はあるし、何より今僕はその可能性にすがりつきたかった。僕の解が間違いであってほしい。でも電話口で確認した、スバルが辿り着いた答えも僕と同じで、そしてアイツが犯人じゃないという解を導き出す事は、どう考えても難しかった。
「……っ」
そこまで考えて涙が出そうになって、僕は慌てて空を見上げた。涙を流すのが恥ずかしいわけじゃない。そもそも、今僕の回りには僕以外誰も居ない。ただ、理由は分からないけれども、僕には現状を嘆いて涙を流すような、そんな資格なんてない。そう思えた。
「あ……」
アテも無く歩き続け、気づけば僕は寮の入り口に立っていた。かなりの威力の魔術でなければ壊れない特殊な建材で建てられた六階建ての建物。時間はすでに深夜だからどの部屋にも灯りは点いていなくて、廊下の常夜灯だけが建物の全体像をぼんやりと夜空に映し出している。曖昧な、けれども確かな存在感を持ったそいつも星空と一緒に僕を見下ろしていた。
「……はぁ」
このまままだ外を歩き回る気にもなれず、僕は部屋に戻ることにした。
暗い廊下を一人歩く。出て行く時には、そして走り回っている時は余裕が無かったけれど、こうして誰も居ない場所を歩くのはひどく心細い。いや、どうだろうか。心細いのは周りに誰も居ないからだろうか。それとも、アイツに裏切られてしまったと僕が思っているからだろうか。
僕は独り。世界に独り。僕一人が世界に取り残されてしまった様な、そんな錯覚が錯覚とは思えなくて身が竦んでしまう。体が冷えて寒気を覚える。
ああ、寒い。寒い。僕は一人だ。どこまで行っても僕は一人で、せっかく温もりを手に入れたとしてもそいつはすぐに取り上げられてしまう。
寒い、寒い、寂しい、寂しい寂しいサミシイサミシイサミシイサミシイ――
「くっ、あっ……!」
廊下の壁に頭を打ち付けて思考を強制遮断。気を抜けばまた支配されそうな思考に理性を割りこませて、僕は大きく深呼吸して気を落ち着ける。
今日はもう寝てしまおう。これ以上考えていてもロクな事が無い。
そう自分に言い聞かせて僕は辿り着いた自分の部屋の扉を開けて体を滑り込ませた。
けれども――
「待っていたわ」
君代・ヤヨイが待っていた。
「夜中に走り回って、少しは気分が晴れたかしら?」
夜はまだ終わりそうにない。
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