1-20 Omniscient
【魔法使い】
英雄の別呼称。魔術師は一般人よりも優れた能力を持つが、魔法使いはそれとは一線を画している。使用する魔法は魔術とは別系統であり、詠唱を必要とせず、魔術よりも遥かに強力であるが、過去に実際に強力な魔法が行使された記録は確認されていない。現在確認されている魔法使いは四人で、うち一人はすでに死亡している。
魔素技術の基礎となる元素は全部で四つ。
空間、熱、電気、そして情報。それぞれの魔技元素には対応する魔素方程式が存在してて、そのそれぞれの名を冠した四人の魔法使いもまた存在する。
空間を掌握する柏木・ミサト。
灼熱で全てを焼きつくす別所・コウジ。
稲妻で敵を穿つ真玉・カイ。
そして全てを知る紅葉・イチハ。
僕の幼馴染である彼らは、全員が誰もが憧れる世界の英雄であり、魔素技術が普及したこの世界におけるヒエラルキーの頂点だ。世界を巻き込んだ魔物との闘争に終止符を打ち、そして僕ら戦う術を持たなかった人類という種に魔素技術という力を分け与えた。
だからこその英雄。だからこその魔法使い。
僕と彼らの間には厳然とした差が生じ、それと共に関係も疎遠になっていく。それも当然で、誰の役にも立てない、魔術師としても半端でしか無い僕とは住む世界が違いすぎるのだから。
今となっては僕との接点は風のうわさ程度に彼らの消息を耳にする程度だ。戦いが収束した今は四人ともその力を奮う機会は少なくなって、何処かで穏やかに暮らしてると。まあ、コウジみたいに未だに敵を求めて戦い続ける奴もいるけれども。
だけどイチハは違った。彼女だけは全てが終わる直前に心を病んで隔離された。
魔法使いは僕らとは違う存在だ。味方であるうちは心強いけれども、敵に回れば人類に対抗手段は無い。だから完全に狂ってしまう前に、世界に仇なす前に厳重に拘束されて監視下に置かれ、けれども監視の一瞬の隙を縫って彼女は自ら自分の命を絶った。
幼い頃からの世界の尖兵として戦った英雄の悲劇の死。その死は彼女の庇護を受けた世界中から悼まれて、そして少しの安堵を世界に与えて時の流れの中に消えていった。
英雄の本名は伏せられているから誰も彼女の事は知らない。彼女の業績も正確には誰も理解できていない。だから、ただ「情報の魔法使い」として歴史書に刻まれ、そのまま書物の一部にのみ存在していた事を記録されているだけ。世間的にはそうなっている。
「……ちょっと待って下さいですの。理解が追いつきませんわ」
だから頭を抱えたタマキの反応はひどく正しい。タマキを始めとして世間一般ではイチハはすでに「故人」であって、今まさに目の前に居るのはその居るはずが無い人物だから。その隣を見れば、ユキヒロもタマキと同じように頭を抱えて必死に理解をしようとしてるみたいだ。
「……つまり、何だ。俺らは普段からネットとかライブで、死んだはずの英雄様を見て熱狂してたって事か?」
「ま、そういうことね」
「で、でも! でもですわっ! 情報の英雄は死んだはずではなくて!? 派手に国葬が行われてテレビでも中継されたのを覚えてますわ!」
「あー、アレ? 確かに盛大だったわね。世界中の首脳だけじゃなくてローマ法王とかも来て神妙な顔で弔辞とか話してたわね。想像以上に盛大だったから見てたコッチも引いたわ」
まあ、事情を知ってる人間から見たらそうだよな。死んだはずの当のご本人様は家のソファで寝そべって枝豆を摘んでるんだからな。
「つまり、アレは嘘だったと?」
「そ。いい加減英雄なんて立場に嫌気が差してたから、さっさと死んだことにして自由になろうと思ってね。まさかあそこまで大事になるとは思って無かったけど、やっぱそんだけ私のカリスマっていうのが凄かったって事かしら?」
中身はビール飲んでアグラ掻いてるおっさんだけど。見た目はチンチクリンだし、どう見てもカリスマ性は皆無に思えるんだが。
「な、なら、あの時のお葬式に居た人たちは皆本当の事を知ってたの!?」
「そんなわけ無いじゃない。世界の誰もが私が本当に死んだって未だに信じてるわよ」
「だがどうやって騙したていうんだ? おそらく精巧な作り物の死体を作るか何かして誤魔化したんだろうがいくらなんでも……」
「別に何の準備もしてないわよ?」
「え?」
「私を誰だと思ってるの?」イチハは嘲る様に笑う。「こう見えても『魔法使い』よ? あの頃は一応政府の建物に住まわされてたけど、そこから居なくなってスバルの家に転がり込んでただけ。もっとも、関係者全員の記憶を捏造して、棺の中に私の死体が転がってるように認識させたけどね。あの時あの場に居た人間には全員私の死体が『そこにある』って認識してたはずよ。実際は棺の中なんて空っぽなのにね」
「……もう何を聞いても驚けないな」
ユキヒロが疲れた声を出して、隣のタマキも同意する。対するイチハは得意げで、「どう? 私の凄さが理解できた? できた?」とか言いながら「えへん」ってほとんど無い胸を張ってる。
確かにイチハは凄い。流石は英雄だって、魔法どころか魔術さえまともに使えない僕からしてみればただただ純粋に感嘆するしか無いんだけれど、イチハの本当に凄いところはそこじゃない。
「でもそれってとんでもない秘密なのでは無くて? いえ、もちろん口外するつもりは毛頭無いのですけれども、不意に口を滑らせてしまう可能性も無いとは言い切れませんわ。なのにワタクシたちに教えてしまっても良かったですの?」
「ああ、別に構わないわ」
心配はない、と軽い口調で告げる。そして事もなさ気に言った。
「だって、いざとなれば全員の記憶を消せばいいじゃない?」
「え?」
「何を驚いてるの? 単純な事じゃない。私の事を知って利用しようとする人間が現れたらその記憶を消せばまた元の通り。別に消さなくても書き換えてもいいしね。少なくとも重大ごとにはならないから」
「だ、だけど今の世の中情報なんてあっという間に広まるぞ? それも世界を揺るがすような重大事だ。ネットに出れば止める間もなく世界中に……」
「あら、そうなら世界中の人間の記憶を消せば良いんじゃない?」
イチハが英雄だって理解させられるのはその魔法の範囲だ。
誰がどこに居ようとも、それこそ世界の裏側に居ようともその気になれば彼女の意志一つで全てを書き換える事ができてしまう。本人は家のソファで寝そべってテレビを見ていても、指先一つ動かすこと無く自分が望むままに世界を書き換えてしまう。
だからこその英雄。
だからこその――世界の敵。
「本当に反則的な力にゃ」
「とは言ってもそこまで力を行使したことはないけどね。流石に世界中の人間相手の情報を書き換えるのはかなり疲れるとは思うからそんな事態にはしたくないわ。それに、私だって自分に好意を持ってくれてる相手に対して魔法で干渉したくは無いし。だから二人共他言無用で頼むわよ?」
「今の聞かされておいそれと話せるかよ」
お手上げ、とばかりにユキヒロが本当に両手を挙げてみせる。まあ、今の話を聞いておいそれと誰かに話すなんてできるわけないよな。言ってみれば今のだって「なんならあなたの記憶を消しましょうか?」って脅しかけてるのと同じようなもんだし。
深々とユキヒロはため息を吐いて、そして腕時計に眼を遣ると徐ろに立ち上がった。
「と、悪い。すまないけど俺はそろそろお暇させてもらう」
「え? どうして?」
「あらあら、気分を害してしまった?」
「まあ色々と気分を害される事はあったけどな」
苦笑しながらユキヒロが席を立つ。発した言葉に反して、その表情にはイチハに対する嫌悪とか、そういったのは僕には読み取れない。
「今日もバイトなんだ。本当ならシフトじゃないんだけど、急に欠勤が出たらしくて頼み込まれてな」
「そうなんだ。まだ目的のこと何も聞いてないんだけどな」
「本当に悪い。また後で英雄様から仕入れた情報を教えてくれ」
時計を見てみればすでにアキバにやってきてから一時間半近く経っていた。イチハのライブといいタマキの情熱暴走といい本筋から離れた出来事が多すぎたな。
残念そうにユキヒロは後ろ頭を掻いて、そしてもう一度「スマン」って謝罪の言葉を口にして部屋を出て行った。別に謝らなくてもいいのに、とは思うけど、そこがユキヒロの責任感の強さを表してるのか。
「はあ、行ってしまいましたわね」
「仕方ないよ。ユキヒロも生活するだけでも大変なんだし」
「その分、僕らが聞いとけばいいよ。それで、イチハ。最初に僕らが知りたいことは分かってるって言ってたけど」
「ええ、そうよ。しばらくここらに居なかったし、居ない間特に何も聞いて無かったからタイムリーじゃないけれど、ここ数日で今ヒカリたちの周りで何が起きてて何をどうしてるか全部把握してるわ」
「でも、ユキヒロの言葉じゃないけどさ、いったいどうやって……」
「……もしかしてヒカリって私の力知らなかったっけ?」
そう言われると返事に困るな。全く知らなくは無いけれども正確に知ってるわけじゃない。情報の魔法使いであるわけだから当然情報、一般的には精神魔術と呼ばれるもの全般は使える事は知ってるし、もの凄い広範囲、それこそ世界中に渡ってそれを行使できるのも知ってる。でも今のイチハの口ぶりから察するに、まだ知らない事はあるみたいだし、それにどうやって僕らの行動を把握したのかその手段も知らない。
「なら幼馴染のよしみとして教えてあげる。序にタマキにも、ね。私に会っただけであんなに興奮してくれるくらいに私を好いてくれてるんだもの。あ、リンシンちゃんにもね」
「……いいなのですか?」
「いいわよ。さっきも言ったみたいにいざとなればどうとでもなるわけだし」
そこで一区切りつけて、イチハは僕の知らない彼女の力を口にした。
「私はね、知りたい事を知りうるの」
「知りたい事を、知りうる?」
「そ。私が知りたーい事はなーんでも分かっちゃうの」
言いながら右手の人差し指を一本、ピンっと立てた。
「例えば今帰ったばかりのユキヒロが何処に向かっているか、例えば地球の裏側の小さな田舎の町で誰と誰が夫婦げんかをしてるか。ああ、今、魔素エネルギー庁の研究機関でどんな研究がされてるかなんていうのも分かるし、望むなら高級フランス料理の作り方だって分かるわよ」
そして。
イチハは一番重要な事を口にした。
「アンタたちの友達である四之宮・ユズホを元に戻す方法も」
「本当ですのっ!?」
タマキがテーブルに体をぶつけながら立ち上がった。テーブルの上に置かれた飲みかけのコーヒーが零れて木製のそれに広がった。
イチハはその反応を察知してたように予めビールのジョッキを手にしてて、タマキとは対照的に落ち着いた様子でジョッキを傾けてた。
「うん。嘘は言わない主義なの、私」
「だったら! お願いします! ユズホをっ……ユズホを治してっ!」
俄にタマキは床の上に座った。そして頭を床にこすりつけるように下げた。
もし、もしイチハが言うことが本当なら、問題は一気に解決する。ユズホさんも元に戻って、他の被害者も治せる。犯人が見つからない限り事件は続くだろうけど、喫緊の問題じゃなくなるし、後は警察とか自衛隊とかに任せてしまえばいい。リンシンの疑いを晴らしてあげたいけれど、これだって事件が起きた時にリンシンの傍に居れば解決だ。獏だってこれ以上数を減らさないようにコウジたちが上手くやってくれるよう頼み込めばいい。霧島さんだってきっと協力してくれるに違いない。
タマキに続いてスバルも隣に座って同じように頭を下げる。僕もその隣で頭を下げて、リンシンまで頭を下げた。
「頼む。彼女を救いたいんだ。時間が無いし、他にアテも無いんだ。お願いします、イチハ」
四人が並んで土下座して頼み込む。きっと、これが最初にして最大の機会。これを逃せば、きっと、ユズホさんを治す機会は永久に失われる。だから、これを逃すわけにはいかない。
「……止めなさいよ、そういう事」
僕らが顔を上げると、イチハは詰まらなさそうに顔を上げた。その表情は不愉快だって言わんばかりで、だけどもどこか困った風で。
「人に傅かれるのっていっちばん嫌いなの」
「普段からアイドルとしてチヤホヤされてる人間が何を言ってるにゃ」
「もてはやされるのと傅かれるのとは違うの。傅かれるのって私自身の実力とか魅力じゃなくて、単なる地位や権力とか弱み握って強制させてるみたいじゃない。そういうの嫌いなのはユキちゃんだって解ってるくせに」
ジョッキの中身を一気にあおって大きく一息つくイチハ。手に持ったそれをテーブルの上に置くとガシガシと金色の髪を掻きむしった。
「言っとくけど、そんな風にして頭下げられても私はドッペルゲンガーを元に戻せないわよ」
「そんなっ!? 治し方を知ってるって言ったじゃありませんの!」
「ええ、私は戻し方も知ってるし実際に戻すこともできるわよ。素材が揃ってるならね」
「素材?」
スバルがオウム返しに聞き返して、イチハは「そうよ」と言いながら顎でしゃくって全員を立ち上がらせる。
土下座した全員がソファに座り直したのを見計らってイチハは話を続けた。
「いかな私でも本来その子が持ってるドッペルゲンガーが無いと戻せるわけないじゃない。別に本物そっくりの作り物のドッペルゲンガーを作って憑依させてあげてもいいけど、そんな事はみんな望んでないでしょ?」
当たり前だ。そんな事をしたら、それで治ったってユズホさんじゃない。それはもう別の人であって、そもそも作られた人格だとしたら「人」として認識していいか、それさえも曖昧だ。
「結局は犯人を見つけないといけないのか……」
「ユズホのドッペルゲンガーがどこにあるのか、判りませんの?」
「どーかしらね。人に関してはだいたいは知りうるけど、生物外は難しいかもしれないわね。ましてやドッペルゲンガーなんて魔術師には見えないものだし」
「ならせめて犯人の居場所を……っ!」
「あのさ」
タマキが何とか情報を得ようと食い下がろうとする。それは人一倍ユズホさんを助けたいタマキからすれば当然の事で、僕が同じ立場に置かれたら、例えばスバルがユズホさんの状態になったら必死にすがりつくと思う。
けれど。
「どうして私がそこまでしなきゃなんないの?」
イチハはそんな事を言い放った。
「え……?」
「何で不思議そうな顔するのよ? 私は一言も『手伝ってあげる』とも『助けてあげる』とは言ってないわよ? なんで人の手を借りるのが当たり前に思ってんのか知らないけど、私は四之宮・ユズホとは面識も無いし話したことも無い。助けたところで私にメリットは無いし、犯人を探してあげる義理も無い」
「そりゃそうかもしれないけど、でもこのままだと被害者だって増えるし……」
「それがどうだというのよ」
どうだ、だって?そんな事決まってる。被害者が増えればそれだけ悲しむ人が増える。苦しむ家族が増える。辛い思いをたくさんの人がしてしまうなんて、そんな事が許されるわけ無いじゃないか。
「そうね。ヒカリの言う通りだと思うわよ。誰だって辛い思いなんてしたくないもの。で、私はそういう辛い思いをしてる人の一人一人に手を差し伸べればいいわけね? 世界中の犯罪者を探し出して警察に突き出してやればいいわけね? 世界中の被害者を一人残らず助けてやればいいわけよね? 分からない問題を全部解決してやればいいわけね? 転んだ人間一人一人の手を引っ張って抱き起こしてやればいいわけね?」
「そこまではいかないけど……」
「そういうことよ、ヒカリが言ってるのは。良い、ヒカリ。普通、人が誰か一人に世界中の人間を助けてくれ、なんて求めないのは何故だと思う?」
「それは、そんな事は不可能だし……」
「そう、その通りよ。日本に居てアメリカの人間に手を差し出すなんて普通は不可能だし、それだったらアメリカの人間に頼む方がよっぽど効率的で建設的だわ。隣に居ても自分の能力を超えた問題だったら解決できる人間に頼むべきで、出来ない人間に出来ない事を頼むなんて非効率。じゃあもし、どこに居てもどんな問題も解決できる人間が居たら?」
「みんなこぞって頼るだろうねぇ。そして断ったらすぐに非難し始めると」
「スバル、いくらなんでもそんな事は……」
「そんなもんよ、世の中。それか拘束して無理やり問題解決に当たらせるか、といったところね。そして自分というものを奪われていく。イヤよ、私は。またそんな風に世界中から利用されるのは。私は私の為だけに生きたいもの」
反論の言葉が出てこない。イチハが言った内容は極論の様でその実、極論じゃないから。
僕らは弱くていつだって力不足。何をするのでも一人じゃ手が足りなくて、だからこそ色んな人が協力して問題に取り組むし、誰かに頼れば誰かに頼られもする。そうして世界は回っていく。それが当たり前の話。
けれども、それは強大な能力を持った人間の存在で一変する。世界は力を持った人間に極限まで協力を強要し、脅迫し、強制する。力を持てば持つほど負担を求め、そこに個人の意思は介在しなくなって、個人をすり潰していく。
そして、その様を僕はかつて眼にしていた。
「世界は一握りの天才に寄生して生きている。そのくせに恩はすぐに忘れて天才の反逆を許さない。
あんな生活に戻るのは絶対にゴメンよ……」
だからその呟きは、ひどく重く、僕にのしかかった。
けれども――
「だけど……僕は、僕は僕にできる事をやりたい。もし困っている人がいて、それで僕が手を差し伸べて助かるのなら手を差し伸べたい。僕が身を削って助かるのなら僕は身を削りたい。僕は……人を助けたい」
「所詮それは力無き者の考えよ。一方的に搾取される側の立場に立たない弱者の願望でしかないわ。ヒカリ、アンタは実行力の伴わない、身の丈に合わない無様な妄想を押し付けるだけの、弱者の立場を傘に来て自ら動く事を放棄したクソッタレに成り下がるっていうわけ?」
「イチハの言う事は分かるよ。確かにイチハもコウジもカイもミサト姉もみんな苦しんでた。イチハが頼られるのを拒むのも、その、僕はイチハじゃないから完全に理解しきれてるとは言えないけれど理解できるつもりだ」
薄ぼんやりとした頼りにならない昔の記憶。最近思い出し始めた虫食いだらけの記憶。楽しかった、無邪気さで溢れていた記憶のその先にある重い過去。その中の英雄たちは少しずつ、でも確かに病んで狂い始めていた。手に余る期待に、けれどもかろうじて手に収まってしまう力に侵されていっていた。その様を僕は見ているしかできなかった。
「僕はイチハの言う通り無力だ。弱者でしかない。イチハが出来る事に比べたら僕にできる事はとても些細で、ちっぽけで、助けるどころか誰かに助けてもらってばっかりのクソッタレだ。反論の余地もどこにない。だけど、いや、だからこそ僕にしかできない、僕にならできる事を、僕にでも出来る事をしたいんだ」
「そう。なら勝手にやってればいいじゃない」
「イチハ」
「何よ?」
「対価に何を払えば、ユズホさんを助けてくれる?」
情けないけれど、悔しいけれど、今ユズホさんを救えるのは間違いなくイチハだけだ。ならば、イチハをその気にさせる必要がある。
さっき彼女は「メリット」について口にした。であれば彼女が手を差し伸べてくれるメリットがあるはずだ。
もちろん単なる言葉の綾、という事もありえる。だけども彼女が嫌がるのは「利用される」事で、その関係が崩れるのであれば助ける気になってくれる可能性は高い。
イチハは腕を組んで眼をつむる。そして一拍だけ間を置いて、口を開いた。
「そうね、なら……ヒカリ」
「何?」
「私と一緒に来なさい」
幼い見た目にそぐわない、妖艶さを感じさせる仕草で首を傾けながらイチハはそう言った。
「何もかも捨てて私と一緒に来てよ。今の生活を、学校も、人間関係も全部捨てて、私と一緒に好き勝手に生きましょ? 誰かの為に生きるなんて止めてずーっと私と一緒にいてちょうだい。必要な事は全部私がしてあげるから。ヒカリ相手なら別にイヤじゃないし。私と一緒に『死人』になって世界中に遊びに行きましょうよ。それなら助けてあげてもいいわよ。どう?」
「イチハっ!」
「ユキちゃんは黙ってて。私はヒカリに聞いてるの。さあ、どうする?」
「それは……」
答えようとして息が詰まる。喉元まで言葉が出てて、だけどもその先へ出ていかない。言葉は反射的。けれど僕は、何と答えようとしてるのだろうか。
ユキの方を見る。黒猫はこんな問いかけをしたイチハを噛み殺さんばかりに睨みつけてる。
タマキを見る。僕とイチハの方を交互に何度も繰り返し見て、その顔には有り有りと苦渋が滲んでる。
スバルを見る。コイツだけはいつもと変わらず平静な顔で、まるでどっちを選んでも構わないと言わんばかりだ。
もし、イチハを選べばユズホさんは絶対に助かる。自分で言ってたみたいに嘘は吐かない奴だし、そこは信用も信頼もできる。その代わり、僕はスバルやタマキ、ユキヒロを捨てなければならない。彼らと築き上げてきた友情も信頼も全て投げ捨てて、『誰かの役に立つ』事は、きっとできなくなるだろう。おそらく、イチハはそうすることを許さない。
どうする。どうする、僕……!
「どうしたのよ? 自分ができる事をするんじゃなかったの? 簡単じゃない。ただ『行くよ』って言ってくれればそれでいいのよ?」
イチハの声が鼓膜を優しく揺らし、僕の意思も揺らしてくる。
そうだ。ひどく単純な話だ。イチハの言う通りじゃないか。僕は誰かを助けるために出来る事をする。例え、自分がどうなろうとも、誰かの役に立ちたい。
僕はそうやって生きてきた。そうやってしか僕は生きられない、生きたくない。生きる理由を見つけられない。誰かに助けられて生きてきて、その恩を返せない生き方なんて認められない。僕が認められない。
けれども、断ればユズホさんは、死ぬ。きっと死ぬ。僕が生きるためにまた誰かを犠牲にする。ならば、その生に意味はあるのだろうか。
答えが出ない。出せない。頭が軋んで悲鳴を上げてるのが聞こえる。
立ち尽くすしかできない僕。無限に続くかにも思えたけれども、そにでスバルの声が僕を解放した。
「それくらいにしときなよ、イチハ。どっちにしたって助けるつもりなんでしょ」
「え?」
「えー、もうバラしちゃうの? つまんないじゃない。もう少し悩むヒカリを見てたかったのに」
「悪趣味だね」
「男のくせにヒカリが好きなスバルに言われたくないわね」
「余計なお世話だよ」
どういう事だ? さっきの条件は、冗談だったって事なのか?
さっきまでの空気はどこかに霧散して、イチハもスバルも楽しげに軽口を叩き合ってる。その雰囲気の変化に付いて行けなくて、僕は言葉に詰まった。それでも、確認しておかなきゃいけない事は一つで。
「助けて、くれるのか……?」
「良いわよ。他ならぬヒカリの頼みだもの。少しくらいは手伝ってあげるわよ」
「ほ、本当ですの……?」
恐る恐る、けれども隠し切れない喜びが表情に滲ませながらイチハに尋ねるタマキだけど、その喜びを爆発させる前に「ただし」と釘を刺してきた。
「私はドッペルゲンガー探しも犯人探しも手伝わない。代わりに、ユズホの延命処置を施してあげる。それなら私も対して苦労はしないし、やってあげてもいいわよ。ちょうど獏のリンシンちゃんも居ることだし」
「私、なのですか?」
「そうよ。まだまだ子供みたいだけど、情報魔術の素養はそこらの魔術師よりよっぽどあるはずだし手伝ってもらう。これが条件よ」
どう?とイチハが胡座を組み直しながら尋ねてくる。リンシンさえ手伝うのが構わないのなら、僕としては特に言う事はないのだけれど。
「延命処置、というのは何をするなのですか?」
「そこは企業秘密。だけど別に治ったら別人になってたりとか後遺症が残るとかそういう事にはならないから心配しなくていいわ。ここは完全に私を信用してもらうことになるけど」
「それは構いませんわ」
宜しくお願い致します。タマキは立礼で深々と頭を下げ、その後で申し訳なさそうに眉根に皺を寄せた。
「それで、申し訳ないのですけれどもすぐにその処置をお願いしたいのですけれども。もしかすると今日にでも危険な状態に陥るかもしれませんの」
「ああ、それは大丈夫よ。今も状態を見てるけれど、特に異変は無いわ。もちろん医学的な見地だけじゃなくて魔技的な意味でもね。よほど生き汚いのね。当分処置しなくても生きていけるでしょうね。少なくともここ一日二日で逝ってしまう状況じゃないから安心しなさい」
「アンタはもう少しマシな言い方ができにゃいのかにゃ」
いや、まあイチハも安心させようとしてくれてるんだろうけど、ユズホさんも頑張って生きようとしてるわけだしね? せめてもう少し言葉は選んで欲しい。ほら、タマキも隣で怒りたくても怒れない事を如実に表してる微妙な表情してるし。
「今晩中に処置はしとくから、ヒカリたちはさっさと犯人探しでもしてきなさい。リンシンちゃんも今日は帰っていいわ。後で処置しに行く時に拾ってくから」
今日はもう帰れと言わんばかりに右手をヒラヒラと僕らの方に向かって振ってくる。
一方的な感じがして少し腑に落ちないけれども、協力も取り付けられたし、これ以上イチハの時間を占有するのも気が引けるし、今日はもう引き上げて後はイチハに任せよう。きっと悪いようにしないだろうから。
ソファから立ち上がって、僕はタマキを促し、左手でリンシンの手を引いて部屋を出ようとする。けれどもスバルとユキはソファに座ったまま動こうとしなかった。
「ヒカリたちは先に帰ってて。ボクはイチハとちょっと話したい事があるからさ」
「そう? 分かったよ、先に寮に帰ってる」
「今晩の集合場所と時間は後でメールしておきますの。遅れたら承知致しませんわよ?」
「うん、分かった。それでオッケーだよ」
話が付いてスバルとユキに背を向けて部屋の扉を空ける。その途端に部屋の中に店内のBGMが入り込んできて急に立っている場所が変わった様な、そんな気がした。
「ヒカリ」
部屋の外に一歩出たその瞬間、僕はイチハに呼び止められた。半身だけ部屋に残して首だけイチハの方に向けると、イチハは無表情の眼差しを僕に向けていた。
「本当の事を知りたかったら人に頼るばかりではなくて、自分の眼でも確認してみる事をオススメするわ」
「え、あ、うん」
「間に人が入れば必ず情報は歪められるわ。必ず自分でも調べてみなさい。そうすればきっと見えてくるものがあるはずよ」
イチハにしてはひどくまともな諫言だ。そして珍しくその表情も真面目。具体的に何を言いたいのかは今ひとつ掴めないけれども、でもこのタイミングで伝えてくるって事はきっととても大切になってくるんだろう。
「分かった。心に留めておくよ。ありがとう。それから改めて。
今日は本当にありがとう。それに久しぶりに話せて良かったよ」
「いーえ。私もヒカリにはずっと会いたいって思ってしね。そんじゃ頑張ってきなさい」
開いた右手でイチハに手を振って別れを告げる。白塗りの扉が閉じられて、イチハと僕はまた隔絶される。
たった一歩。それだけだけどもまるで違う世界に来てしまった様な錯覚を覚えてしまう。
「どうかしましたですの? 行きますわよ」
ユズホさんの危機が脱したからだろう。心なしか促してくるタマキの声も明るい。
とりあえず、目的は果たした。ならそれでもういいだろう。
胸中でうずき続ける鈍痛に眼をつむって僕は作り笑いを浮かべてタマキの後ろを歩いて行った。
お読み頂きましてありがとうございました。
ポイント評価やお気に入り登録して頂けると嬉しいです。また、ご指摘等ございましたらぜひ宜しくお願い致します。




