1-19 僕とアイドルとタマキと
なんとか間に合いました。推敲が不十分かもしれませんので、不備があれば修正します。
イチハに手を引かれた僕は為す術も無く、半ば引きずられながら走り続けた。
「何処に行くんだよっ!?」
「ちっさい事はきにしないっ! 私に任せときなさいっ」
走りながら問いかけても返ってくるのはそんな返事。警察から逃げ出してる時点で僕からしてみれば全然ちっさい事ではなくてむしろ重大事なんだけれど、どうやらイチハにとってはそうじゃないらしい。走りながらも落ち着いて振り返ってみれば、さっきからずっと迷いなく細い路地を駆け回ってるし、なんというか、逃げ慣れてると言うか。もしかしてコイツはこういう状況に慣れてるのか?
「まーねー! 何処行っても誰かに追いかけられてるからね」
……一体普段何をして過ごしてるんだろうか?できれば逃げてる相手が警察とか国家権力じゃなくてコイツのファンであって欲しいと切に願ってしまう僕は間違ってるのだろうか?
そんな事を考えながらイチハから逃げ出すのをすっかり諦めてしまった僕だけれど、その脚が不意に止まった。
何処をどう走ったのか、どれくらい走ったのか全くもって覚えていないけれど、顔を上げてみればそこには一軒の店。薄汚れたビルの壁とは似つかわしくないくらいに可愛らしいドア。どっかのアニメで見たことあるようなデフォルメされた女の子の顔がデカデカと描かれてて、軒先には小さな看板が垂れ下がってるし、そこでもカチューシャをつけたピンク色の髪の釣り目がちの女の子が睨みつけてくれてる。どう考えても一見さんにはハードルが高そうな店だ。
「やっほーっ! マスター、奥開いてるーっ?」
何度扉と看板を見なおしてもお兄さん方が集まりそうな店で、女の子が入るには勇気のいるだろうし、少なくとも僕の中のアイドルはこんな店には入りそうもない。
だというのにイチハは一切合切の何の躊躇いも無くドアを開け放って開口一番に颯爽と要件を叫んだ。いや、アキバの町にはあまり来たことがないけれど、もしかしたら知らない間にマスコミの報道に毒されてるのかもしれない。町の特性を考えれば女性がこういう店に来るのも普通なのだろうか?
「なんだ、イチハかよ。相変わらずやかましい奴だな。挨拶くらいまともに出来ねーのか?」
「そんなの別にいいじゃない。そんなの私とマスターの仲じゃん」
「俺は常識を説いてんだよ。乳臭えガキじゃねぇんだからそれくらいちゃんとしろよ」
そしてドアの向こうから出迎えてくれたのは二人。
一人は今こうして眉を潜めて文句を垂れている、イチハが「マスター」と呼んだ男の人。たぶんこの人が店主なんだろう。茶色がかった短髪で、ラグビーでもやってたのか結構いい体格をしてる。無精髭を生やした、少し強面のその見た目は外装とは違って落ち着いた内装の店内の雰囲気と似合ってる。そして喫茶店のマスターといえば真っ先に思い浮かぶ仕草がムダにコップを磨いてる光景だけれど、この人もその想像に漏れずにピカピカにグラスを磨いてた。
ただ――
「いや、人前にそんなシャツで出てるマスターに常識説かれたく無いし」
白地にアニメのキャラがデカデカと描かれたシャツを着てる姿には違和感しか感じないけれど。
「バカ野郎。この町じゃこの格好が正装なんだよ」
「……そうだっけ?」
そんな事はありません。いや、強ちそうとも言い切れないけれどさ。
「そんな事よりお前がここに来たって事はまた何かやらかしたのか? 今度は何だ? 電波ジャックか? それとも国会議事堂にでも潜入してネット中継でもしたか?」
「今回は違うわよ。ただちょっと駅前でゲリラライブしたくらい」
「なんだ、今回はずいぶんと大人しいんだな。てっきり総理大臣のヅラを国会中継中に剥ぎ取ったのかと思ったぜ」
お前はホントにこれまで何をやらかしてたんだよ。
それはともかく、もう一人が――
「あの、後ろのお客様が困ってらっしゃいますのでお話は後にした方が……」
メイドさんだった。それはもう紛うことなきメイドさんだった。綺麗な黒髪をショートボブにカットしていて、映画やアニメで見るようなカチューシャを着けてて、そしてエプロンドレス。よくあるようなミニスカートっぽい丈じゃなくて、足首近くまでスカートがあるオールドタイプのメイドさんがそこに居た。
「むう、ヒカリが見とれてる……」
「ヒカリお兄さんはこういう人が好きなのですか?」
すぐ後ろから聞こえてきた声に僕はハッとなる。振り向けばスバルとユキがメイドさんを「敵だ!」と言わんばかりに睨みつけてるし、リンシンはきょとんとしてつぶらな瞳で僕を見上げてきていた。
「あの、何か……」
コホン。
別に僕は彼女に見とれていたわけじゃない。ただ由緒正しきメイドスタイルをこんな場所で見てしまったからちょっと驚いただけだ。べべ別にメイドさんが好きなわけじゃない。……嫌いじゃないけど。
「いえ、何でもないです」
「お、ボウズももしかしなくてもメイドスキーか? いいぜ別に。マコトをお持ち帰りしても」
マスターの粋な提案に心が揺り動かされないでもないけれども、僕は紳士である。そっと遠目から愛でることができれば十分だ。女性を物扱いしては紳士の名が廃ってしまう。
だからここは紳士らしく振る舞って丁重に笑って流そうと思ったんだけれども。
「ちょっと黙ってろやこのろくでなし変態マスターが」
・・・は?
はて、聞き間違いだろうか? 今、目の前のメイドさんから言葉が発せられたような。
「相変わらずマスターには辛辣よね、マコトは」
「甲斐性なしですから仕方ありませんわ、イチハ様。ご覧の通り、店内は閑散としていて今月の私の給料すら払えない有り様ですのに、せっかく来られたお客様の相手も満足に出来ない無能者ですから。ムダにグラスばっかり磨いてないで少しは客を呼びこむ方法の一つや二つ考えでもすればいいのにその程度のことさえしようとしないゴミクズにはこれでも優しいくらいですわ」
言葉遣いは丁寧だけどひどい言い草だ。いや、それだけストレス溜めてるんだろうけど。
「見た目は完璧なのにね」
「お恥ずかしいところをお客様にお見せ致しました。このクソッタレ店主の相手をしていると耳が腐っていきますし目も腐り落ちてしまうでしょうから、すぐにお席にご案内致します」
「あー、三人とも私のツレよ。だからそんなに気を遣わなくていいわ。それよりも奥の部屋を使わせてもらたいんだけど、空いてる?」
「そうでしたか。すぐにご案内致します。お飲み物はいかが致しましょうか?」
「あ~、いつもので宜しく。あとはココアを二つにコーヒー一つ、後、そのネコ用に少し温めたミルクをお願い」
「畏まりました。それではこちらへどうぞ」
メイド――マコトさんはそう言って恭しく一礼すると、僕らを引き連れてイチハの言う「奥の部屋」に案内してくれた。チラリと歩きながらマスターを見たけれど、特にマコトさんの暴言は気にしてないらしい。鼻歌を歌いながら注文を受けたココアを入れ始めてた。
「あれもいつもの風景だから。気にしたら負けよ?」
らしい。まあ人の趣味はそれぞれだからこれ以上言及するのは遠慮しておくか。
「どうぞ」
マコトさんがドアを開けてくれて、イチハを先頭に部屋に入る。特別な部屋っぽいけれど特に何か変わったところは無くて、まあ何の変哲もない部屋だ。少し調度品が高級っぽいけれど、部屋の中心にテーブルと二人がけのソファが一つ、三人がけのソファが一つあるだけ。ただ店内と違ってBGMも何も流れていないから誰も喋らないとひどくもの寂しい感じがする。
一度マコトさんが部屋を辞して、そしてすぐにトレーの上に注文の品を乗せて戻ってきた。特に口を開くわけじゃなく、淡々と落ち着いた仕草でカップを僕らの前に並べていって、無言のまま一礼してまたマスターの方へと戻っていった。
「ふぃ~、や~っと落ち着けるわ」
部屋の中に僕らだけ――つまりは身内だけになった途端、イチハはソファに思いっきり背中を預けてだらけると、飲み物と一緒に置かれたおしぼりで首周りやら顔を拭き始めた。スカートにも関わらずあぐらをソファの上で組んで、そして運ばれてきたばかりの飲み物を「ングっングっ!」と喉を鳴らしながら一気に飲んで「ぷはぁっ!!」と声を上げてジョッキをテーブルに置いた。
「くぅ~!! やっぱ一仕事終えた後のビールは最高ねっ!」
言いながら枝豆をつまむ姿はどこまで行ってもオッサンだった。アイドルは何処行った、アイドルは。
「ん? あんなの外向きの顔に決まってるじゃん」
ケロッとした顔で言いやがる。この姿を見ればさぞファンの人は幻滅するだろうな。
あと、さらっと未成年が飲酒してんじゃねえよ。
「いいじゃん。今日び十六にもなって酒飲んだこと無いやつなんて居ないって」
そういう問題じゃ無いんだが。
「一応法律で酒は二十歳からなんだけどな」
「そんなの関係ないって。ウチのシマじゃノーカンだから。知らなかった? 私の周りでは治外法権なの」
知らねえよ。イチハに法律うんぬん説いても無意味なのはさっきのマスターとのやり取りで判ってたけど。
僕らの眼なんて関係ねえってばかりにもう一度ビールを飲み干して、額に浮かんだ汗をおしぼりでひと拭き。化粧はいいのかって思うけれど、まあいいや。とりあえず僕らもそれぞれ前に置かれた飲み物を一口飲んで喉を潤す。誰かのせいで急に走らされたからな。
「さぁて」
喉が潤って満足したのか、イチハが話しかけて来る。
「バタバタしちゃったけどこうして面と向かって会うのも久しぶりよね、ヒカリ」
「そうだね。まあ、まさかこういう再会になるとは思ってもみなかったけど」
まさか警察に追われながらの再会とは流石に想像してなかった。できればもう少し落ち着いた状況でこうして話したかったけれど、まあ、なんだ、何処に居るか分からなくて皆で途方にくれてた事を考えれば会えただけでも幸運だったんだろう。
「ユキちゃんも久しぶり。スバルは……久しぶりってほどでも無いか」
「ま、ね。それでもボクとは三ヶ月ぶりくらいになるはずだけど」
「……わちきは会いたくなんてなかったにゃ」
「も~、ユキちゃんってホントにツンデレよね」
「こ、こら! わちきを離すにゃ!」
「ん~、この肌触り! 毛並み! 肉球のプニプニ感といいやっぱりユキちゃんってネコとして完璧じゃない! ね、ね、私と一緒に生活しない!?」
「ぜぇ~ったいお断りにゃ!」
イチハはいつの間にかテーブルの上でミルクを飲んでたユキを抱えてて、さっきからしきりにモフモフしてる。ユキは嫌がって手足をジタバタさせたり爪をイチハの腕に突き立てたりしてるけど、イチハには一向に効いてない。結局ユキの方が折れて憮然とした顔でコッチを睨んできた。いや、僕を睨まれても困るんだけど。
何事も無ければこのまま旧友との友好を深めていきたいところではあるのだけれど、残念ながらそういうわけにもいかない。僕らには時間が無くて一刻も早く問題の解決策を見つけなければならなくて、そしてその為にイチハの元に来た。
「あのさ、イチハ」
早速聞くべきことを尋ねようと僕は口を開きかける。けれど、イチハは掌をコッチに向けてきてそれを制止してきた。
「いいわよ、別に言わなくても。ヒカリが私のトコになんて用が無きゃ来てくれないだろうし。それに、聞きたい事も分かってるから」
「そっか」
流石はイチハ、と言うところだろうか。耳が早いと言うべきか、情報の扱いに関して僕はコイツの右に出るやつを知らない。
「それじゃ早速だけど……」
「そう焦りなさんなって。ヒカリの友達が来てからでもいいじゃない。タマキとユキヒロだっけ? もうすぐ来るからさ」
それもそうだな。もうすぐ着くっていうんなら、同じ話を何度もするよりはそっちの方が良いし、何か情報があるんなら僕からの又聞きよりもイチハから直接聞いたほうがタマキも納得するだろう。
しかし。
「何で二人がもうすぐ来るって分かるんだよ」
走り始めた段階ですでに僕らと二人は逸れててどこに居るのか分からなかった。二人とは連絡も取ってないし、そもそもこんな路地にある店を知ってるとも思えない。だから二人だけでここに辿り着けるとは到底思えないんだけど。
疑問をぶつけてみるけれど、イチハは「フフン」って得意気に鼻を鳴らすだけだ。答える気はないらしい。予想してみるに、おおかたファンか誰かがここに案内する手はずになってるんだろうか。
「それよりもさ、せっかく会ったんだからもう少しおしゃべりしましょうよ」
眼をキラキラさせながらそんな事を言ってくる。はて、確かに僕とイチハが会ったのは数年ぶりだけれども、そんなに僕と話すのが嬉しいのだろうか?僕みたいな人間と話してて楽しいとはまったく思えないけれど。
まあしかし、イチハがそれを望むのであれば僕としてもそれに応じるのは吝かではない。だからとりあえずの話題としてついさっきのライブの話を振ってみた。
「しかし、流石の人気だったな。あんなにあっという間に人が集まるなんて。別に前もって告知してたワケじゃないんだろ?」
「……すごい人が集まってたのです」
「フフン。まあね。やっぱりアレかな? 私からにじみ出る魅力とオーラって言うの? 後は人徳? そういうってのは黙ってても伝わってしまうのよね。まったく自分の事ながら怖いわ」
「ふん、よく言うにゃ。全員に思考操作掛けてたくせに」
思考操作?なんだ、それ。響きからして何だか不穏な言葉だけれど。
「失礼ね。私だって誰彼構わず操作してるわけじゃないわよ。ただ、元々私の事が好きだった人がもぉっと好きになって私を見てくれる様に、ちょっちだけその気持ちを前面に押し出しやすいように背中を押してあげただけよ。あ、ヒカリとかスバルには魔法は掛けてないから安心してね」
「それはどーも。ていうか、それって別に掛ける必要が無かったからだよね?」
「ふん、人の気持ちを簡単に弄んぶ様な奴は死んでしまえばいいのにゃ」
「えー、私が死んだらユキちゃんだって困るくせに」
イマイチ事情が分かっていない僕を放って三人でだけ話が進んでいくけれど、何だか雲行きが怪しくなってきたな。
言葉の字面から察するに、さっきあんなに人がすぐに集まったのは、純粋にイチハを見たかったからじゃなくて、イチハが人々の思考を誘導して集めたって事なのか。
だとしたら、イチハとはいえそれは許される事じゃない。人の意思を無視して自分の思い通り操るなんて、なんて傲慢。人の意思は、絶対に他人に侵されてはいけない領域だ。そんな事、イチハだって解ってるだろうに、どうして。
「そう怖い顔しないでよ、ヒカリ。さっきも言ったでしょ? 私がしたのはホンの少し気持ちを表に出すのを手伝っただけ。言ってみれば迷ってる人の相談に乗ってやりたいことを肯定してあげただけ。たいしたことじゃないわよ。
それにもう話はお終いみたいね。二人が来たわよ」
強引にイチハは話を切って、そしてそれと同時にドアがノックされる。
「どうぞー!」とイチハがドアに向かって声を掛けると、開かれたドアからまずマコトさんが見えて、その後ろからどこかボンヤリした様子のタマキ、そしてユキヒロが部屋の中に入ってきた。
「タマキ。ユキヒロ」
声を掛けてみるけれど、二人はボンヤリとしてて僕の声にも反応しない。
この様子を僕は見たことがある。一度、授業の一環として精神感応系の魔術を掛けられた時に、その症例を見学するという名目でビデオを見せられた。精神を弄られた患者が、まさに今の二人の様だったはずだ。
そのことに思い至った途端、戦慄が走った。
「まさか二人にも思考操作を……?」
「すぐに解けるからそんなに心配しなーいの」
パンッ!とイチハが柏手を鳴らした。乾いた音が部屋の中に響いたのと同時、これまでの生気を失ったように虚ろだった二人の瞳に光が灯ったのが分かった。
「あ、あら?」
まるで意識を失ってたかのようにタマキが声を上げて辺りをキョロキョロする。ユキヒロも同じだ。
「何でここに……いや、確かにここに来ようと思ってたんだが……」
「です…わよね……どうしたというのかしら……?」
首を捻る二人。どうも状況に理解が追いついてないみたいで、ソファに座ってる僕らの姿は眼に入ってないみたいだ。
「いらっしゃい。気分はどう?」
「え、ええ……何でしょうか、気分が先ほどまでよりもずいぶんとスッキリした様な……」
イチハの声に何気なくタマキが応えた。けれども、僕らの方を振り向いて姿を認めた瞬間、タマキが固まった。
「イ、チハ……ですの……?」
「そーよ。はじめましてー」
笑顔を浮かべて、タマキに向かってブンブンと腕を振るイチハ。対するタマキはさっきから固まったまま血走った眼を見開いてイチハを凝視してる。
何かヤな予感が……
「ホンモノ、ですの?」
「そーよ。良かったらこの場で『神様なんて大っ嫌い』でも歌ってあげよっか? それともまだ発表前の新曲の方が良いかしら?」
そう言ってイチハが指をパチンと鳴らすと同時に、どこからか曲が流れ始めてイチハが踊り始めた。
狭い部屋で軽快にリズムを刻むイチハ。それを見てようやく目の前の女の子がホンモノの「アイドル・イチハ」だと頭の理解が追いついたらしく、みるみるうちにタマキの表情が綻んでいって、最終的にはそれなりに長い付き合いだけども今まで一度も見たことがないような、笑顔というにはだらし無さ過ぎる顔になった。詳しい描写は本人の為に控えるけれども、一つ分かったのは、多分、小学生の女の子を見てる時のイチハはこんな顔をしてるんだろうなということ。そりゃ捕まるわ。
で、美少女と接したイチハの身に起こることといえば、付き合いのある僕らからしてみればもう自明の理であって。
「ぎゃあああああああああっ!!」
ぶしゅうううううっ!とこれまで見たことないような勢いで鼻血を出しながらもイチハに向かってぶっ倒れるタマキと、とてもアイドルとは思えない悲鳴を上げているイチハの姿がそこにはあった。
さすがにタマキの生態までは調べてなかったらしい。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
どうやらタマキという生物は普通の人間では違うらしい。
最早致命的とも言える程の情熱を撒き散らして血の海に沈んだに関わらず、リンシンに介抱される事わずか十五分で落ち着いて話を聞けるくらいには回復したらしい。とは言っても昨日とは打って変わってリンシンに横で支えられてる状態だし、両方の鼻の穴にはすでに定番となったティッシュが詰められてて場の雰囲気を何とも言い難い微妙なものにしてしまっているけれど。
「……イチハ様には大変お見苦しい物をお見せしてしまい、どうお詫びしていいか判りませんわ」
深々と、それこそ五体投地しかねないほどに頭を下げるタマキ。ちなみに部屋は駆けつけたメイドがすぐに掃除してくれた。流石は現代日本に蘇ったメイド。半端ねぇ。
「まさか魔法も使わずにファンを血の海に鎮めることがあるとは思わなかったわ……」
顔を引き攣らせながらそう漏らすイチハだけど、さすがに血に染まった衣装のまま話を続ける気にはならないらしくて、今は着替えて白いブラウスにグレーのフレアスカート姿になってる。どうやらこの店で何日も過ごす事もあるらしくて、着替えに加えて専用の日用品も備えられてるようだ。
「……それじゃそろそろ話を始めよっか」
「やっとかにゃ……時間が無いんじゃなかったのかにゃ?」
「うう……面目ないですわ」
うなだれるタマキの頭をリンシンが「よしよし」と撫でてあげる。ほんわかする光景でしばらく眺めておきたくもあるけれど、スバルが言う通り話を再開するとしよう。
「だが、言っちゃ悪いが、ただのアイドルのイチハさんが本当に俺らの知りたい事を知ってるのか?」
ユキヒロの懸念も最もだと思う。イチハの事をアイドルとしてしか知らない人ならまず間違いなくそう考えるよな。
けれど、イチハは幸か不幸か「ただの」アイドルじゃないんだよ、ユキヒロ。
「へえ、疑うんだ。まあそうよね」
楽しそうにイチハは微笑んだ。そして怪訝な顔を向けてくるユキヒロを見ると、「そうだなぁ……」と呟いてニヤッと笑った。
「染矢・ユキヒロ。昨日は寮近くのコンビニでバイトしてた。そうよね?」
「あ、ああ、そうだが……」
「学校の授業が終わってからバイトの時間までは図書室で調べ物。過去の魔物がらみの事件についてまとめられたファイルを片っ端から漁っていくも目ぼしい情報は無し。午後七時からバイトのシフトに入るけれども着替えの際に小銭入れを落として中身をぶち撒けてしまった。その時にズボンの裾を踏んづけて転んで右側頭部を打ち付ける。
午後十時半、レジで四十二歳の中年男性が来店。弁当を購入するけどその客は慌てていて釣り銭を受け取らずに出て行ったから、お釣りの四〇二円を自分の左ポケットに押し込む」
「え、ちょ、ちょっと待て……」
「午後十時四十八分、厨房で唐揚げを揚げていた時にボンヤリしていて唐揚げを焦がしてバイトの先輩に怒られる。午後十一時にバイトが終わって帰宅。その途中にネコに出会って、晩御飯の焦げた唐揚げをあげようとするけど、引っかかれて逃げられる。どう? これでもまだ『ただの』アイドルだと思ってくれるかしら?」
得意気にユキヒロに尋ねるイチハ。ユキヒロは項垂れて頭を抱えて、そして顔を上げた時は苦虫を噛み潰したような顔をしてた。
「マジかよ……何でそんな事細かく昨日の事を知ってんだよ? まさかストーカーか?」
「む、失敬ね」
「まあでもストーカーでもおかしくないよね、やってることは」
「スバルまでそんな事言う?」
「自業自得にゃ」
口々にみんなユキヒロの感想に同意していって、どうやら味方が居ないらしい事を察したイチハは口を尖らせて黙り、胡座を掻いてビールのジョッキを傾けた。イチハには悪いけれど、残念ながら僕も同意だ。
「で、ただのアイドルじゃないとしたら、スバル、この人は何者なんだ?」
「そだね、改めて紹介するよ」
スバルはソファに座りなおしてユキヒロとタマキに向かって、最も重要なイチハの肩書を告げた。
「紅葉・イチハ。今は亡きはずの情報の魔法使いだよ」
お読み頂きましてありがとうございました。
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