船上の夢
夜の海上はひどく静かで、波の音は耳鳴りに似ている
女を谷に連れて行く手順を整えた後、約束の時間を少し遅れて合流した
各々買い物を済ませていたレオとガルダは、ルーが何も買っていない事を訝しんだが、別段追求はされなかった
密かに胸を撫で下ろして船室に荷物を置く
軽くなった荷物に、小さく溜め息をこぼす
船には間に合ったものの、買うつもりだったものを何一つ買えなかった
先の見えない旅では、買える時に買っておかなければ、次がある保証はない
日用品に不自由する事に落胆したが、仲間を一人救う事が出来たので気分は晴れやかだ
気落ちすることはない
甲板に出て空を見上げると、頼りなく細い三日月が浮かんでいた
港を離れて数時間が経ち、見渡す限り海ばかり
街は遥かに遠く、灯り一つ見付けられない
海の上にいると、周りの全てが空のように感じる
真っ暗で広大な宇宙空間に、ちっぽけな自分がたった一人で取り残されている気分になる
寒さと恐怖に鳥肌がたち、思わず自分の体を抱き締めた
不安で、怖くて、そんな自分がひどく情けない
「うぉ~い、ルーゥ?何してんだぁ、風邪ひくぞぉ」
静寂を破る間延びした声
振り返ると、船室のドアに人の形に切り取られた影が出来ていた
旅の途中で出会った道連れ
偶然立ち寄った街で、命を助けられた
お節介ついでに仲間に加えられて、もう1週間が経つ
未だその素性は知れない
わかっているのは名前と職業と年齢だけ
謎を秘めた男達だが、隠し事はお互い様
ルーも同様に素性を明かしてはおらず、本名すら名乗っていない
彼等の裏を探ろうと試みたことがあるが、無駄だった
二人は十年以上一緒にいるというが、互いの事を殆ど知らない
最初は印し合わせているのかと思ったが、本当に知らないようだった
今後も聞く気はないらしく、興味もないと言う
一度心を開きかけた人間を相手に、その過去を気にせずにいるというのは口で言うよりもずっと難しい
親しくなれば、その人の事をもっと知りたいと思うのが当然の人間の心理だ
その人を知る上で、それまで送ってきた人生は大きく関係する
それに興味を持たないと言うのだから、二人は変わり者だ
彼等が単なる吟遊詩人でないことはわかる
あの強さがその証拠だ、旅人の護身術などというレベルではない
本格的に鍛えて初めて得る動きだ
一体何者なのだろうか
「さ、呑もうぜ!先刻の街で仕入れてきたんだけど、旨ぇんだ♪」
アルミ製のカップに、なみなみと注がれたトパーズ色の液体
口に含んだ途端、甘い香りが広がる
部屋には他人の匂いが満ちていて、冷えた体に暖かい
一人でも機嫌良く喋り続けるガルダと、時折気が向いたように言葉を返すレオ
偽りばかりのパーティーを組んでの旅道中、何も信じられるものはない
それでも、道連れがいることで心が和んでいるのは確かだ
日々を楽しいとすら思えている自分に驚いた
たった一人で旅をしていた日々は、ただ辛く、のし掛かる重責に押し潰されそうだった
二人と共に生活をするようになり、多少の問題はあるものの楽になったこともある
どうしようもなく暗くなっていた気分も、気が付けば忘れている
素性を隠しているままなのは変えようもない事実
毎日が楽しければ楽しい程に、後ろめたさを感じてしまう
しかし、ガルダの底抜けの明るさが、レオの如何なる時も動じない物腰が、自分の後ろ暗さを打ち消してしまう
二人は口が悪く行動も粗野だが、よく気を遣ってくれている
気が付かないほど然り気無くだが、細やかに
ルーはカップにまだ半分残っている酒を眺めた
甘い香りと低いアルコール度数の酒
酒豪の二人がこんな子ども騙しな酒を好むわけがない
この酒はルーの為に用意されたものだ
その証拠に、二人は二杯目からはこの酒ではなくいつもの強い酒に変えている
毎夜こうして酒を呑み交わしているが、二人は決してルーに強い酒を強要することはない
かといって無視するわけでもなく、今夜のようにルーにでも呑めるものをわざわざ用意してくれる
不思議で、優しい男達
「どした?」
顔を上げると、ガルダが覗き込むようにして見ていた
顔色が良くないと言われ、苦い笑みを浮かべる
「少し、船に酔ったみたいだ。先に休むよ」
酒の残りをガルダに任せ、ベッドに潜り込む
船室の造り付けのベッドは狭くて粗末だが、清潔なシーツが心地好い
波の揺れとガルダの低く落とした声が、子守唄のように眠りを誘う
ユラユラ、ユラユラと意識が波間を漂う
暗くて冷たい闇の中、立ち尽くす自分に気が付いた
上も下も、右も左も、前も後も、自分が本当にここにいるのかも確かでない、暗闇の世界
叫ぼうとしても声は出ず、腕を伸ばしても宙を掴むだけ
どれ程の時間が過ぎたのか知る術もなく、何故そこにいるのかもわからない
途方にくれていると、不意に前方で変化が起きた
赤い光が揺らめいている
まるで真っ黒な大蛇が、舌を出しているかのようにも見える
不穏なその光は、ゆっくりと、しかし確実に大きくなり近付いてくる
その光が炎だと気付いたのは、周りを囲まれてからだった
豪華な調度品に飾られた部屋が、炎に包まれている
子どもの泣き叫ぶ声、女達の悲鳴、男達の怒号、金属を打ち合わせる音に銃声
耳を塞ぎたくなる音だ
目の前の光景は、過去のフィルムを見せられるかのように次々に変わっていく
凍える冬に暖めてくれた暖炉、柔らかく包み込んでくれるベッド、知識を与えたくれた沢山の本、一番のお気に入りだった空色のカーテン・・・
幼い自分を包み込み、守ってくれていた世界の全て
それが、目の前で炎になめ尽くされ、崩れ果てていく
地に伏せる、動かない体
屍は愛する両親と兄弟達だ
尊敬する父が、美しい母が、優しい兄が、生意気だが可愛い弟達が、足元に倒れているというのに、指一本動かせない
声も出せず、目を反らすことも出来ない
ただ見ていることしかできず、誰も助けてはくれない
気が狂いそうだ
動けないのは、身体中に無数の白い腕が絡み付いているからだ
濁った光のない目をした、白い顔の死者達がしがみついている
恨みのこもった目で、何も出来ない無力なルーを責め立てる
地中に引き摺り込まれる恐怖に、体の熱を失う
「・・・っ、ルー!おいっ、起きろっ!!
肩を激しく揺さぶられ、ルーは目を開けた
仄暗いそこには炎の影もなく、目にはいるのは上のベッドの骨組みだ
弾かれたように飛び起き、辺りを見回す
上のベッドから落ちそうになっているガルダ、隅にまとめられた荷物、テーブルに出しっぱなしの酒のボトルやカップ・・・
そこが船室であることを思いだし、自分が夢を見ていたのだと理解した
ひどく汗をかき、心臓がうるさい
体の震えを押し止めようとするが、止められない
「悪い夢でもみたか。随分うなされてた」
「ごめん、起こして・・・もう、大丈夫・・・」
指先が熱を失っており、感覚がなくなっていた
寒さに体をかき抱いたが、熱は戻らない
あの夢をみるといつもそうなるのだが、未だに慣れることが出来ない
レオは震えるルーの肩に毛布をかけると、小さな水筒を差し出した
言われるままに呑み込んだルーだったが、途端にむせかえる
胃の底から沸き上がる熱さに、喉が焼けそうだ
水筒の中身はアルコール度数四十度のウォッカだった
これ程に強い酒を口にしたのは初めてだった
驚いてむせ続ける姿に、レオは少し笑ったようだ
ぼんやりとした安全灯を背にしている為、影になった表情は読み取れない
「少しは暖まるだろ。朝までまだ時間はある、もう少し寝ておけ」
自分も水筒をあおると、残りをルーに投げて寄越した
向かいのベッドに入ると、すぐに寝入ってしまったようだ
その背中を見つめ、ルーも横になった
レオは本当に多くの謎に包まれている
よく喋るガルダとは逆に、必要最低限の言葉しか口にしない
何を感じ、何を考えているのか、決して他人に悟られないようにしているかのようだ
人前では絶対にサングラスを外さない
どうにも掴み所のない男だ
ただ、ふとした時にサングラスの下の瞳が自分に向けられているように感じる時がある
その視線を感じると妙に胸が騒いで、気分が落ち着かない
しかしそれは、決して気持ちの悪いものではなく、不思議と懐かしい気すらした
遠い昔に会ったことがあるような、よく知っている気がするのに、まるで記憶になく一向に思い出せない
早く思い出さなければならない気がするのに・・・
先刻までの寒さと怖さは、すっかり消えていた
他人の気配があるという有り難さが、見に染みて感じられる
もう、あの夢をみる気配はない
静かな眠りが訪れた