プロローグ
人里離れた深い森の中を、女が一人駆けていた
もうどれ程走り続けたのか、息を切らせ汗を散らし、もつれる足で懸命に駆け続けていた
茂みや低い枝が彼女の頬や剥き出しの腕に傷を作る
赤い色が、夕陽に光って見えた
追手を気にしながらひた走っていたが、不意に森が途切れて足を止める
足を踏み出すと、カラカラと乾いた音を立てながら小石が岩壁を転がり落ちていく
眼下には切り立った崖
足の先に地面はなく、闇のように暗い色の海が広がるばかりだ
女は大きく息を吐くと、空を見上げた
海へ帰った太陽は雲に茜色の名残を置き、空はインクを溶かした様な淡い水青色から群青色へのグラデーションを映す
静かなる夜の訪れだ
茂みの揺れる音で、取り囲む者達の気配を感じ取った
女がゆっくりとした動作で振り返ると、黒光りする武器を手に黒いスーツで身を固めた者達が逃げ場を塞いでいた
人垣から歩み出た男が、ニヤリと口元を歪ませた
その目は妖しい光を帯び、まるで手負いの獲物を追い詰める獣のそれを思い出させる
「もう逃げ場はない。これまでだ」
残忍な響きを持たせた低い声が、薄闇を震わせる
追い詰められた女は、自分の置かれた状況を理解していないかのように悠然と立っている
わずかに明るい空を背に、その双の紅い瞳が輝いて見えた
傷だらけの小さな体から、武器を手にしている者達が気圧されてしまう程の圧倒的な重圧を放つ
うっすらと笑みを浮かべるその顔は、その場にそぐわない程の美しさ
薄汚れた姿にも関わらず、気品すら漂わせる
取り囲む者達は、完全に敗けを感じ取っていた
格の違いをはっきりと見せつけられていても、男は引かなかった
「さあ、渡せ」
ジリジリと女との距離を縮めていく
「ーーーーー」
不意に吹き付けた風が邪魔をして、その声は男以外の耳には届くことはなかった
次の瞬間、女はふわりと舞い上がるかのように背後へ身を踊らせた
紅褐色の巻き髪が夕闇の中に光を散らす
男が慌てて駆け寄るも、女が暗い海に呑まれることを止める術はない
「くそ!必ず手に入れてみせる・・・・
男の苦々しく呟く声を嘲笑うかのように、波が岩壁に弾ける音が響き渡る
海流がぶつかり交わるこの場所は、落ちるもの全てを深く深くに沈めてしまう
落ちたものは全て海神のもの
女は海の神の庇護を受け、誰の手にも届かない場所へと逃げ延びたのだ
女が身を投げるのと時を同じくして、遠くで小さな国が一つ滅んだ
古来より不思議な力と神秘の身体を持って産まれる少数民族
その為に追われ続け数を減らし、人知れぬ山里で息を潜めて暮らしていた人々
突如として現れた敵に抗う術はなく、王は殺され城には火が放たれた
女子どもなく捕らえられ、抵抗した者は皆命を奪われた
独自の文化で栄えた美しき小国は一夜にして灰となり、悲劇の民族は混沌の中で滅び、忘れ去られ、いつしか伝説となった
彼らは“魔法石”の護り人
宝は何処へ隠された
宝の鍵は何処にある
終わりは始まり星時計
全ては既に予測されていたこと
偶然も奇跡もありはしない
在るのはいつも、必然だけ
運命はいつでも流れの中に在る
人知の及ばぬ星時計はただただ時を刻むだけ
たった一つの結末に向かい、ただ刻々とーーーー