小さな夢の守護者 ~世界に夢を取り戻した少女~
日本の小さな町に、**青山ユメ**という少女が暮らしていました。
十歳のユメは、まっすぐな黒髪を青いリボンで結び、大きな瞳の奥には、口に出せないたくさんの疑問を抱えていました。
ユメは、いろいろなものを怖がる女の子でした。
夜、トイレへ行くときの暗い廊下が怖い。
塀の向こうで吠える犬が怖い。
答えが分かっていても、授業中に手を挙げるのが怖い。
間違えることが怖い。
笑われることが怖い。
お母さんをがっかりさせることが怖い。
そして何よりも、未来が怖かったのです。
学校では、先生がよく子どもたちに尋ねました。
「みんなは、大きくなったら何になりたいですか?」
クラスメートたちは、嬉しそうに答えます。
「サッカー選手!」
「お医者さん!」
「歌手!」
「宇宙飛行士!」
けれど、ユメの番になると、いつも彼女はうつむきました。
「分かりません……」
小さな声でそう答えると、何人かの子どもたちが笑いました。
「ユメって、いつも何も分からないよね」
「また泣くんじゃない?」
ユメは机の下で拳を握り、チャイムが鳴るまで涙をこらえました。
けれど本当は、ユメにも夢がありました。
物語を書くことです。
幼いころから、雲の上に浮かぶ城や、怪物と戦うお姫さま、村を守るドラゴン、人の言葉を話す小さな動物たちを想像していました。
けれど、その夢を誰にも話せませんでした。
大人たちはいつも疲れていて、物語を聞く余裕などないように見えたからです。
父は仕事から遅く帰ると、黙って夕食を食べ、テレビの前で眠ってしまいます。
母は家計簿を見ながら、夢を見ることは素敵だけれど、まずは生きていくことを考えなければならない、と繰り返しました。
テレビの中の大人たちも、仕事や借金、効率や責任の話ばかりしていました。
冒険を語る人はいません。
魔法を語る人もいません。
ユメはいつしか、大人になるということは、想像することをやめることなのだと思い始めていました。
ある雨の午後。
学校から帰る途中、ユメは見覚えのない古い本屋で雨宿りをすることにしました。
その店は薬局と閉店した店のあいだに挟まれていて、まるで人目を避けるようにひっそりと建っていました。
入口には木の看板が掛かっていました。
**『忘れられた物語の書店』**
ユメが扉を開けると、鈴がちりんと鳴りました。
店の中には、古い紙とほこり、湿った木の匂いが漂っていました。
天井まで届くほど高い本棚には、題名の書かれていない本がぎっしりと並んでいました。
「すみません……誰かいますか?」
返事はありません。
ユメは、窓を打つ雨音を聞きながら、本棚のあいだを進んでいきました。
そして、一番暗い隅で、青いビロードに包まれた小さな本を見つけました。
表紙には、城と踊り子、そして翼を持つユニコーンのような生き物が描かれていました。
銀色の文字で題名が書かれています。
**『夢を失った王国』**
ユメが表紙に触れると、本は不思議なほど温かく感じられました。
本を開いてみると、ページはすべて真っ白でした。
「変なの……」
そのとき、最初のページに文字が浮かび上がりました。
**あなたは、まだ夢を見ることができますか?**
ユメは辺りを見回しました。
「たぶん……できると思います」
すると文字が変わりました。
**ならば、こちらへ。**
突然、ページの間から激しい風が吹き出しました。
本のページがひとりでにめくれ始めます。
最初はゆっくり。
やがて、目にも止まらぬ速さで。
本屋の中は、紙と青い光の嵐に包まれました。
ユメは本を閉じようとしましたが、両手は水の中に触れたように表紙をすり抜けてしまいました。
「いや! 待って!」
次の瞬間、床が消えました。
ユメの身体は、真っ暗な空間へ落ちていきました。
どれだけ叫んだのか分かりません。
何時間も落ち続けたように思えました。
やがて、ユメは柔らかな何かの上に落ちました。
目を開けると、そこは灰色の花が広がる野原でした。
空は紫色。
遠くにはねじれた山々がそびえ、暗い根に覆われた城が空中に浮かんでいました。
ユメはゆっくりと起き上がりました。
「ここ……本屋じゃない」
自分の手を見ます。
学校の制服のままでした。
すぐそばにはランドセルもありました。
けれど、あの本だけが消えていました。
「ここは、どこなの……?」
返事はありません。
野原の花々はしおれ、指先で触れるだけで灰のように崩れていきました。
遠くから、獣のうなり声が聞こえました。
ユメは身体を震わせました。
「家に帰りたい……」
どこへ向かえばよいのかも分からないまま、歩き始めました。
木々はまるで彼女を見つめているようでした。
ユメが目をそらすたび、影が場所を変えている気さえしました。
とうとうユメはランドセルを地面に落とし、泣き出してしまいました。
「お母さん……」
「まさか、その子が伝説の救世主なの?」
ユメは顔を上げました。
目の前に、十七歳ほどの少女が立っていました。
白と桃色の踊り子の衣装。
金色のリボン。
赤みがかった髪は、長く美しい三つ編みに結ばれています。
両手には、金属でできた二本の扇を持っていました。
少女は、明らかに落胆した様子でユメを見つめました。
「子どもじゃない」
ユメは後ずさりました。
「あなた、誰?」
「それはこちらの台詞よ」
少女はユメの周りを歩き、頭から足先まで観察しました。
「小さすぎるわ。それに、ずいぶん泣き虫ね」
「泣いてません!」
「顎まで涙で濡れているけれど?」
ユメは慌てて涙をぬぐいました。
「家に帰りたいんです」
少女はため息をつきました。
「なるほど。伝説の勇者さまは、この世界に来て五分で帰りたくなったというわけね」
「私は勇者なんかじゃありません!」
「そこだけは同意するわ」
少女は背を向けました。
「ついてきて。大魔女さまが、あなたをどうするか決めてくださる」
「行きたくないって言ったら?」
「ここに残って、虚無の騎士たちに見つかるのを待てばいいわ」
木々の向こうから、遠吠えが聞こえました。
ユメはすぐにランドセルを拾いました。
「ついていきます」
少女はわずかに微笑みました。
「そう言うと思った」
二人は何時間も歩きました。
少女の動きは驚くほど優雅でした。
木の根や岩の間を進んでいるだけなのに、まるで見えない舞台の上を踊っているようでした。
ユメは必死についていきました。
「もっとゆっくり歩いてください」
「ヴォイド・クイーンの兵士たちは、あなたのためにゆっくり歩いてはくれないわ」
「ヴォイド・クイーン?」
少女は少し黙りました。
「この世界を滅ぼしている女王よ」
「どうして?」
「夢を憎んでいるから」
やがて二人は、水晶の城壁に囲まれた街へたどり着きました。
美しい街でした。
けれど、あまりにも静かでした。
人々は誰も笑わず、黙って歩いています。
音楽家たちは楽器を持っているのに、弾き方を忘れていました。
画家たちは真っ白なキャンバスの前で、何も描けずに立ち尽くしていました。
子どもたちは壊れたおもちゃを眺めるだけで、直そうとも遊ぼうともしませんでした。
「この人たち、どうしたんですか?」
「虚無に侵されているのよ」
少女は地平線を指さしました。
空の大部分を、巨大な闇が覆っていました。
その中では、星々がひとつ、またひとつと消えていました。
「ヴォイド・クイーンは物語を滅ぼしている。この世界で物語が消えるたび、あなたの世界では誰かが夢を失うの」
「そんなの、信じられません」
「周りを見なさい」
二人は街の中央にある塔へ向かいました。
最上階では、星を散りばめた青いローブをまとった老婆が待っていました。
その髪は地面に届くほど長く、瞳は二つの月のように輝いていました。
「ようこそ、異世界の少女よ」
ユメは踊り子の少女の後ろに隠れました。
「どうして、私のことを知っているんですか?」
「長いあいだ、あなたを待っていたからです」
老婆が杖を床につくと、空中に光景が浮かびました。
開かれた本と、そのページを通り抜ける小さな人影。
「古い予言があります。物語の王国が滅びかけたとき、魔法を持たぬ世界から一人の者が現れ、失われた夢を取り戻す、と」
踊り子の少女は腕を組みました。
「予言には、その救世主が子どもだなんて書かれていなかったわ」
「予言というものは、たいてい役に立つ説明を省くものです」
老婆はユメに近づきました。
「あなたの名前は?」
「青山ユメです」
老婆は微笑みました。
「ユメ。夢。まさにふさわしい名ですね」
「私は、ここに来たいなんて頼んでません」
「分かっています」
「家に帰りたいです」
老婆の笑みが消えました。
「あなたを元の世界へ戻す方法を、私は知りません」
ユメは胸が締めつけられるように感じました。
「え……?」
「あなたを連れてきた本は、私よりもはるかに古い力によって作られたものです。あなたを助けられるとすれば、たった一人でしょう」
空中の映像が変わりました。
光に満ちた森。
その奥に立つ、翼ある獣の姿。
「名を、**アレストレ**。夢の森を守る者です」
「その人なら、私を帰してくれるんですか?」
「おそらくは。そして、ヴォイド・クイーンを倒す力も貸してくれるかもしれません」
ユメは何度も首を振りました。
「私は誰かを倒したいわけじゃありません。帰りたいだけです」
踊り子の少女が乾いた笑いを漏らしました。
「さすが、伝説の救世主ね」
老婆は厳しい視線を向けました。
「黙りなさい、セレスティーヌ」
少女は顔をそむけました。
「セレスティーヌ?」
「舞踏の王国の王女、セレスティーヌです」
大魔女は答えました。
「彼女は、自分の物語で最後まで生き残ったただ一人の者」
セレスティーヌは二本の扇を強く握りました。
「私の物語は、何年も前に消えた。お城も、家族も、友達も……みんな消えたわ」
ユメは悲しげに彼女を見つめました。
「ごめんなさい」
「同情なんていらない」
大魔女は再びユメを見ました。
「私は同行できません。この街は、残された最後から二番目の安全地帯です。私が結界を離れれば、たちまち虚無に呑まれるでしょう」
「じゃあ、セレスティーヌが一緒に来てくれるんですか?」
「私は行くなんて言っていないわ」
「行きなさい」
大魔女とセレスティーヌは見つめ合いました。
やがてセレスティーヌはため息をつきました。
「分かったわ。でも、この子が枝の折れる音を聞くたびに泣くなら、置いていくから」
ユメは頬を膨らませました。
「私は、何でもかんでも怖がって泣くわけじゃありません」
その瞬間、塔全体を揺らす雷鳴が響きました。
ユメは悲鳴を上げ、大魔女のローブにしがみつきました。
セレスティーヌは片眉を上げました。
「なるほどね」
二人は夜明け前に街を出ました。
大魔女はユメに、星の形をした小さな首飾りを渡しました。
「これは武器ではありません。あなたが命を懸けて守りたいものを見つけたとき、初めて応えてくれるでしょう」
「そんなもの、見つからないと思います」
「大切なことは、いつも予想しない形で起こるものです」
セレスティーヌとユメは街を後にしました。
二人は灰に覆われた丘、崩れた橋、捨てられた村々を進みました。
最初の数日、二人はほとんど話をしませんでした。
セレスティーヌは先を歩き、ユメは黙ってその後ろをついていきました。
夜は木の下で眠りました。
セレスティーヌは眠る必要がないかのように、一晩中周囲を見張っていました。
ある明け方、ユメはセレスティーヌが小さな舞踏靴を見つめているのを見ました。
「それ、あなたの靴ですか?」
セレスティーヌはすぐに靴をしまいました。
「妹のものよ」
「妹さんも、消えてしまったんですか?」
「ええ」
「どんな人だったんですか?」
セレスティーヌは少し考えてから答えました。
「勇敢な子だったわ。私なんかより、ずっと」
「あなたも勇敢です」
「あなたは私のことを何も知らないでしょう」
「でも、ここに来てからずっと私を守ってくれています」
「大魔女さまに命じられたからよ」
ユメはうつむきました。
「それでも、ありがとうございます」
セレスティーヌは何も答えませんでした。
けれどその夜、ユメが焚き火の近くで眠ることを許しました。
六日目。
二人は黒い鎧をまとった兵士たちに守られた街道を見つけました。
兵士たちには顔がありませんでした。
兜の中には、煙だけが渦巻いていました。
「虚無の騎士よ。音を立てないで」
二人は岩陰に隠れました。
兵士は少なくとも二十人いました。
「通れません」
ユメがささやきました。
「遠回りはできる。でも二日も余計にかかるわ」
ユメは辺りを見回しました。
街道の脇には、古い鐘楼がありました。
その上には、錆びた鐘がいくつもつるされています。
「その扇で、ここから縄を切れますか?」
セレスティーヌはユメを見ました。
「切れるけれど?」
ユメは鐘を指さしました。
「あれを兵士たちの後ろに落としてください。兵士が音を調べに行ったら、反対側から抜けます」
「単純すぎるわ」
「もっと良い考えがありますか?」
セレスティーヌは微笑みました。
「あなた、完全に役立たずというわけでもなさそうね」
セレスティーヌが扇を投げると、縄は鋭く切れました。
鐘が大きな音を立てて落下しました。
兵士たちは音のした方向へ向かいました。
二人はその隙に、反対側を走り抜けました。
けれど、もう少しで逃げ切れるというところで、一人の騎士がこちらを振り向きました。
ユメは立ちすくみました。
兵士が剣を振り上げます。
「動きなさい!」
セレスティーヌが叫びました。
けれどユメは動けません。
セレスティーヌは引き返し、剣を扇で受け止めると、蹴りで兵士を倒しました。
そして、ユメの腕をつかみ、森の中へ走りました。
安全な場所まで来ると、セレスティーヌは手を放しました。
「どうして動かなかったの?」
「怖かったから……」
「私だって怖かったわ」
ユメは驚いて顔を上げました。
「でも、あなたは戦いました」
「勇気とは、怖くなくなることじゃない。怖くても動くことよ」
「私には、そんなことできません」
「できるようにならなければならないわ」
さらに二日後。
二人は虚無の要塞へたどり着きました。
それは、夢の森への道を塞ぐ巨大な城塞都市でした。
要塞の周囲では、何百人もの人々が働かされていました。
石を運び、塔を築き、溝を掘っています。
誰も話しません。
誰も休みません。
瞳はすべて灰色でした。
「奴隷なんですか?」
「夢を失った人々よ」
セレスティーヌは答えました。
「もう別の人生を望むことすらできないから、ヴォイド・クイーンに使われているの」
ユメと同じくらいの年齢の少女が、石を運ぶ途中で転びました。
見張りの兵士が鞭を振り上げました。
ユメは隠れ場所から飛び出しました。
「やめて!」
セレスティーヌはユメをつかみ、地面に押し伏せました。
鞭が少女の背を打ちました。
ユメは必死にもがきました。
「助けなきゃ!」
「今は無理よ」
「傷つけられてるんですよ!」
「見つかったら、誰も助けられなくなる」
「じゃあ、あなたは臆病者です!」
セレスティーヌの動きが止まりました。
ユメはその隙に腕を振りほどきました。
「夢の森に行くことしか考えてないんでしょう」
「そうよ」
「復讐するためですか?」
セレスティーヌの表情が変わりました。
「何も知らないくせに、勝手なことを言わないで」
「あなたの世界が消えたからって、私に八つ当たりしないでください!」
セレスティーヌはユメの肩を強くつかみました。
「私の世界は、ただ消えたんじゃない。忘れられたのよ。友達は一人ずつ存在を失った。私は、その人たちを抱きしめたまま、消えていくのを見ていた」
ユメは黙りました。
「私があの人たちを救いたくないと思う? 夜になるたび、泣き声が聞こえないと思う?」
セレスティーヌは声を落としました。
「今ここで助けようとすれば、私たちは死ぬ。そうなれば、ヴォイド・クイーンを止める者はいなくなる」
「でも……」
「英雄は、すべての人を同時には救えない」
「私は英雄じゃありません」
「なら、世界中の苦しみを自分一人で背負えるような顔をするのはやめなさい」
ユメは顔をそむけました。
二人はしばらく黙ったままでした。
やがて橋の下に、隠された入口を見つけました。
暗い地下道を進み、要塞の中へ潜り込みました。
セレスティーヌは、この場所をよく知っているようでした。
見回りを避け、罠を解除し、封印された扉を開けていきます。
「前にもここへ来たことがあるんですか?」
「ええ」
「何のために?」
「ある人を捜していたの」
ユメが続きを尋ねようとした、そのとき。
声が響きました。
「やっと戻ってきたのね、愛しい妹よ」
松明の火が一斉に消えました。
廊下の奥に、一人の女が現れました。
割れた水晶のような黒い鎧をまとい、銀色の髪は水の中にいるかのように揺れていました。
瞳は紫色。
セレスティーヌの顔から血の気が引きました。
「そんな……」
女は微笑みました。
「久しぶりね、セレスティーヌ」
「あなたは死んだはずよ」
「その子も、物語はただの作り話だと思っていた。でも、今はここにいる」
ユメは背筋に寒気を覚えました。
「あなたが、ヴォイド・クイーン?」
「真実を受け入れることを恐れる者たちは、私をそう呼ぶわ」
セレスティーヌは扇を構えました。
「アレストレはどこ?」
「森の中よ。いつものように隠れているわ」
ヴォイド・クイーンが手を伸ばすと、床の上に青い布を掛けられた人影が現れました。
「その前に、見せておきたいものがあるの」
布が落ちました。
大魔女でした。
身体は動かず、何本もの黒い剣に貫かれていました。
ユメは悲鳴を上げました。
「いや……」
ユメは彼女のもとへ駆け寄りました。
セレスティーヌが止める間もなく、ユメは遺体のそばに膝をつきました。
「大魔女さま……」
老婆の目は閉じられていました。
杖は真っ二つに折れています。
「街が持ちこたえたのは、ほんの数分」
ヴォイド・クイーンが言いました。
「皆が、泣き虫の子どもに希望を託した結果よ」
ユメの目から涙がこぼれました。
ヴォイド・クイーンが近づきます。
「その子を渡しなさい、セレスティーヌ」
王女はユメの前に立ちました。
「嫌よ」
「まだ、滅びゆく物語を守るつもり?」
「あなたは今も、物語を壊し続けている」
ヴォイド・クイーンが剣を振るいました。
セレスティーヌの扇と激突します。
衝撃で壁に亀裂が走りました。
セレスティーヌは回転し、光の刃を雨のように放ちました。
けれど女王は、片手を動かすだけでそれらを消し去りました。
「ユメ、逃げなさい!」
ユメは大魔女のそばから動けません。
「置いていけません!」
「もう、あなたには助けられない!」
セレスティーヌはユメを抱き上げ、窓から飛び降りました。
二人は屋根の上に着地しました。
警鐘が鳴り響きます。
城壁には無数の兵士が現れました。
セレスティーヌはユメを抱えたまま走りました。
「下ろしてください!」
「歩かせたら遅すぎるわ」
「そんなに小さくありません!」
そのとき、一本の矢がセレスティーヌの肩を貫きました。
彼女はよろめきましたが、走るのをやめません。
「怪我してる!」
「見れば分かるでしょう!」
二人は城壁から飛び降り、坂を転がり落ちました。
背後から、ヴォイド・クイーンの命令が響きました。
「少女は生かしたまま連れてきなさい!」
二人は夢の森へ向かって走りました。
兵士たちが追ってきます。
セレスティーヌはひどく血を流していました。
「たどり着けません」
「着くわ」
「怪我してるのに」
「壊れた靴で千人の前を踊ったこともある。これくらい、どうということはないわ」
やがて、二人は深い谷へたどり着きました。
橋はありません。
兵士たちはすぐ後ろまで迫っています。
ユメは地面を見回しました。
昔から想像していた冒険物語を思い出します。
葉に覆われた場所を指さしました。
「あそこ、土が柔らかいです」
「それが何?」
「兵士を、あそこまで誘ってください」
セレスティーヌは意味を理解しました。
小さな亀裂を飛び越え、兵士たちを挑発します。
「来なさい! その程度なの?」
騎士たちは一斉に突進しました。
ユメは落ちていた剣を拾い、地面を支えていた根を切りました。
土が崩れ落ちます。
何十人もの兵士が谷へ落ちていきました。
「やったわね」
セレスティーヌが言いました。
ユメは荒い息を吐きました。
「怖かったです」
「でも、やった」
その瞬間。
一本の黒い矢が、二人のあいだの地面に突き刺さりました。
爆発が起こりました。
二人の身体は宙へ投げ出されました。
ユメは深い穴の中へ落ちていきました。
すべてが暗くなりました。
どれだけ気を失っていたのか分かりません。
目を開けると、声が聞こえました。
穴の中からではありません。
記憶の中からでした。
「ユメには無理だよ」
「夢じゃ、生活費は払えない」
「現実を見なさい」
「物語なんて、子どものものだ」
「大人になれば分かる」
クラスメートたちが笑っています。
大人たちは、嫌いな仕事へ向かって歩いています。
父はテレビの前で眠っています。
母は、絵でいっぱいの古いノートを引き出しの奥にしまっていました。
母にも、かつて夢があったのだと、ユメは初めて気づきました。
ユメは膝を抱えました。
「私は、誰も救えない」
涙が土に落ちました。
「大魔女さまも救えなかった」
「ユメ……」
ユメは顔を上げました。
セレスティーヌが、穴の壁をゆっくり降りてきていました。
全身に傷を負っています。
「セレスティーヌ?」
王女は地面に降りると、膝をつきました。
「見つけたわ」
「怪我がひどいです!」
ユメは駆け寄りました。
セレスティーヌは弱々しく微笑みました。
「どうやら、これが最後の舞台になりそうね」
「そんなこと言わないで」
「聞いて」
「嫌です!」
「ユメ」
その声に、ユメは黙りました。
セレスティーヌはユメの手を取りました。
「ごめんなさい」
「何がですか?」
「ひどいことを言った。役立たずだと言った。来るのが遅すぎたと、あなたを責めた」
ユメは首を振りました。
「もういいです」
「よくないわ」
セレスティーヌは、穴の闇を見つめました。
「ヴォイド・クイーンは、私の姉なの」
ユメは目を見開きました。
「え?」
「本当の名前は、ノクティス。私たちの物語の、第一王女だった」
セレスティーヌは、小さな舞踏靴を取り出しました。
「これは、姉のものよ」
「でも、消えたって……」
「そう思っていた。人間が私たちの物語を忘れ始めたとき、ノクティスは物語を救う方法を探した。そして、捨てられた夢を食べれば、生き延びられると知った」
セレスティーヌは咳をしました。
唇に赤い血がにじみます。
「最初は、生き残りたかっただけ。でもやがて、自分たちを忘れた人間を憎むようになった」
「だから、ヴォイド・クイーンに……」
「ええ」
ユメは泣き始めました。
「死なないで」
「大事なときほど、あなたは泣くわね」
「失いたくないんです!」
「よく聞きなさい、泣き虫さん」
セレスティーヌはユメの頬に手を添えました。
「物語は、恐れを知らない人の話ではないの」
苦しそうに息を吸います。
「怖くても、前へ進む理由を見つけた人たちの話よ」
「私には無理です」
「もう、あなたはやったわ」
「あなたが助けてくれただけです」
「そしてあなたは、私がこの世界を救いたかった理由を思い出させてくれた」
セレスティーヌの背後に、白い光が現れました。
闇の中から、美しい生き物が姿を現しました。
ユニコーンの身体。
銀色の羽毛に覆われた巨大な翼。
夜明けの色に輝くたてがみ。
青い瞳。
「アレストレ……」
セレスティーヌがささやきました。
獣は静かに頭を下げました。
「王女よ」
その声は、ユメの記憶の中で聞こえた声と同じでした。
セレスティーヌはユメを見ました。
「言ったでしょう。必ずたどり着くって」
彼女の身体が、光の花びらへ変わり始めました。
「待って」
「あなたなら、姉に勝てる」
「行かないで」
「私たちの物語を、忘れさせないで」
「セレスティーヌ!」
王女は目を閉じました。
「友達になってくれて……ありがとう」
彼女の身体は完全に消えました。
地面には、小さな舞踏靴だけが残りました。
ユメは叫びました。
胸が痛くなるまで泣きました。
土を叩きました。
物語の世界を恨みました。
あの本を恨みました。
ヴォイド・クイーンを恨みました。
アレストレは黙っていました。
やがて涙が止まると、ユメは舞踏靴を両手で抱きました。
「あなたを捜していました」
「知っています」
「元の世界へ帰してもらうつもりでした」
「帰すことはできます」
ユメは顔を上げました。
「でも、もう帰りたくありません」
「本当に?」
「分かりません」
ユメは立ち上がりました。
足は震えています。
「とても怖いです」
舞踏靴を胸に抱きしめました。
「それでも、この世界を救いたい」
大魔女からもらった首飾りが輝き始めました。
光がユメとアレストレを包みます。
ユニコーンの翼が大きく広がりました。
ユメの制服を、白と金色の鎧が覆いました。
額には小さな王冠が現れ、手には水晶の剣が生まれました。
ユメはアレストレの背に乗りました。
「何が起きているんですか?」
「命を懸けて守りたいものを見つけたのです」
アレストレは翼を広げました。
「さあ、青山ユメ。あなたの願いを聞かせてください」
ユメは要塞の方角を見つめました。
「誰も、夢を見る権利を失わない世界にしたい」
アレストレは空へ舞い上がりました。
二人は光の矢となって、穴から飛び出しました。
周囲を取り囲んでいた兵士たちが武器を構えます。
ユメは怖かった。
けれど、止まりませんでした。
「アレストレ、要塞へ!」
二人は兵士たちの上を飛びました。
ユメが剣を振るうと、光の波が放たれました。
黒い鎧だけが砕け、中に閉じ込められていた者たちは傷つきませんでした。
倒された騎士たちは、一人ずつ本来の顔を取り戻しました。
探検家。
音楽家。
若い王子。
老いた仕立て屋。
皆、長い眠りから目覚めたようでした。
知らせは、瞬く間に広がりました。
「予言の少女が来た!」
奴隷たちは道具を手放しました。
少しずつ、夢を思い出し始めました。
ある男は船を作りたいという夢を思い出しました。
ある女は歌いたかったことを思い出しました。
ユメが助けようとした小さな少女は、鳥の絵を描くことを思い出しました。
彼女の瞳に色が戻りました。
よみがえった夢は、一つずつ光となってユメのもとへ集まりました。
空が明るくなっていきます。
ヴォイド・クイーンが、最も高い塔の上に現れました。
「やめなさい!」
女王が両腕を広げると、黒い嵐が要塞を覆いました。
アレストレは塔の上へ降り立ちました。
ユメはその背から降りました。
ヴォイド・クイーンは、ユメを見つめました。
「セレスティーヌは、あなたを守って死んだのね」
ユメは剣を握りしめました。
「あの人は、あなたの妹でした」
「私の妹は、人間を守ることを選んだときに死んだ」
「あなたを愛していました」
「愛では、私たちの世界は救えなかった」
女王が攻撃しました。
ユメは剣で受け止めました。
けれど、その衝撃で柱まで吹き飛ばされました。
全身に痛みが走ります。
女王は一瞬で距離を詰め、再び剣を振るいました。
ユメは辛うじてかわしました。
「あなたは子どもよ」
ヴォイド・クイーンは言いました。
「何を守ろうとしているのか、分かっていない」
「そうかもしれません」
ユメは光の斬撃を放ちました。
女王はそれを打ち払いしました。
「人間は子どもに夢を見ろと言いながら、何年もかけて諦め方を教える」
女王の一撃が、ユメの胸を打ちました。
ユメは地面に倒れました。
「嫌いな仕事を続け、昔の自分を忘れていく」
さらに一撃。
「違う道を選ぼうとする者を笑う」
ユメは転がって攻撃を避けました。
「夢を商品と数字と競争に変える」
黒い剣が、ユメの頬をかすめました。
「私たちは、人間の物語によって生きている。人間が夢を見なくなったとき、私たちは殺され始めたのよ」
ユメは立ち上がりました。
「あなたの言っていることは、正しいのかもしれません」
ヴォイド・クイーンの動きが止まりました。
「何ですって?」
「人間は、夢を忘れます」
ユメは父を思い出しました。
母を思い出しました。
クラスメートたちを思い出しました。
「夢を持ち続ける人に、残酷になることもあります」
剣を構えます。
「でも、思い出すこともできます」
「人間は変わらない」
「変わる人もいます」
ユメは攻撃しました。
二人の剣がぶつかります。
「失敗するかもしれない」
もう一度。
「怖くなるかもしれない」
ユメは回転し、女王の鎧に傷をつけました。
「誰にも信じてもらえないかもしれない」
ヴォイド・クイーンは闇の波を放ちました。
アレストレが翼を広げ、ユメを守りました。
「それでも、誰かが今とは違う未来を想像できるかぎり、夢は消えません!」
ユメの鎧が輝きました。
塔の周囲に、光の姿が浮かび上がりました。
セレスティーヌ。
大魔女。
子どもたち。
騎士。
妖精。
ドラゴン。
忘れられた物語の登場人物たち。
ユメの背後には、現実世界から届いた無数の小さな光が現れました。
ロケットの絵を描く少年。
ヴァイオリンを練習する少女。
休憩時間に小説を書く男性。
四十年ぶりに絵筆を握る老婆。
古い絵のノートを開くユメの母。
ヴォイド・クイーンは後ずさりました。
「やめて……」
ユメは剣を高く掲げました。
「夢を叶えられる人ばかりだとは、言いません」
光が剣に集まっていきます。
「でも、誰にも他人の夢を奪う権利はありません!」
ヴォイド・クイーンは、すべての闇を放ちました。
ユメも剣を振り下ろしました。
「夢光の一閃!」
光は嵐を貫きました。
ヴォイド・クイーンの剣が砕けました。
黒い鎧も崩れ落ちました。
女王は膝をつきました。
もう、恐ろしい姿ではありませんでした。
ただ、疲れ果てた一人の少女。
誰かに物語を思い出してもらうことを、あまりにも長く待ち続けた王女。
「消えたくなかった……」
ノクティスはささやきました。
ユメは剣を下ろしました。
「分かります」
「私たちの世界を、生き残らせたかっただけなの」
「だったら、一緒に救いましょう」
ノクティスはユメを見上げました。
「これだけのことをした私を……?」
「セレスティーヌは、最後まであなたを愛していました」
ユメは、小さな舞踏靴を差し出しました。
ノクティスは震える手で受け取りました。
初めて、涙を流しました。
闇が身体から離れていきます。
「ごめんなさい、セレスティーヌ」
ノクティスの姿は、紫の光へ変わり始めました。
消える直前、彼女はユメを見ました。
「妹の物語を書いて」
「書きます」
「二度と、忘れられないように」
ノクティスは消えました。
空が開きました。
光が王国全体を包み込みました。
黒い要塞は、水晶の城へと変わりました。
灰色の花々は色を取り戻しました。
川は再び流れ始めました。
消えていた物語の住人たちが、次々と姿を現しました。
守られた街では、大魔女が目を開けました。
折れた杖も元に戻りました。
花園の中央では、セレスティーヌが舞台の上で目を覚ましました。
ユメは彼女のもとへ駆け寄りました。
「セレスティーヌ!」
王女は、起き上がる間もなくユメに抱きつかれました。
「生きてる……」
「そうみたいね」
「もう、会えないかと思いました」
セレスティーヌは微笑みました。
「また泣いているの?」
「当たり前です!」
「今回は許してあげる」
アレストレが近づきました。
「王国は元に戻りました」
大魔女も現れました。
「あなたのおかげです、ユメ」
「私一人じゃありません」
ユメはセレスティーヌを見ました。
王女はユメの頭に手を置きました。
「泣き虫の子どもにしては、よくやったわ」
「あなたは、お姫さまにしては口が悪すぎます」
二人は笑いました。
その後、すべての王国で祝祭が開かれました。
夢を失っていた人々は再び歌い、物を作り、旅をし、物語を書き始めました。
大魔女はユメに、この世界に残らないかと尋ねました。
「皆があなたを英雄だと思っています」
ユメは、城を見ました。
ドラゴンを見ました。
宙を舞う花々を見ました。
ここに残りたいという気持ちもありました。
けれど、母を思い出しました。
父を思い出しました。
学校を思い出しました。
真っ白なノートを思い出しました。
「帰らなきゃ」
セレスティーヌは少し寂しそうに目を伏せました。
「そう言うと思っていたわ」
ユメは彼女を抱きしめました。
「忘れません」
「人間は簡単にそう言うわ」
「だったら、証明します」
アレストレが翼を傾けました。
現実世界へ通じる、光の扉が現れました。
扉をくぐる前に、ユメは友人たちを振り返りました。
「勇気を教えてくれて、ありがとうございました」
セレスティーヌは首を振りました。
「私たちは何も教えていないわ」
「え?」
「勇気は最初から、あなたの中にあった。ただ、それを見つける理由が必要だったのよ」
ユメは笑いました。
そして光の扉をくぐりました。
目を開けると、古い本屋に戻っていました。
雨はもうやんでいました。
あの本は、ユメの膝の上で開かれていました。
ページはすべて真っ白です。
「夢だったのかな……」
そのとき、本の中から一枚の銀色の羽根が落ちました。
ユメはそれを拾いました。
そして、微笑みました。
家に帰ると、母は遅くなったことを叱りました。
けれど、ユメが無事だと分かると、強く抱きしめてくれました。
その夜。
ユメは机に向かいました。
新しいノートを開きます。
最初は、何を書けばいいのか分かりませんでした。
言葉が、どこかへ隠れてしまったようでした。
けれど、アレストレの羽根をページの横に置くと、セレスティーヌの姿を思い出しました。
兵士たちの前で踊ったこと。
大魔女のこと。
ノクティスのこと。
そして、ユメは書き始めました。
**昔々、一人の王女がいました。**
**その王女は、自分の物語が忘れられたあとも、踊ることをやめませんでした。**
言葉は次々とあふれ出しました。
ユメは一晩中書き続けました。
翌朝。
机の上に置かれた何枚もの紙を、母が見つけました。
「何を書いているの?」
ユメは振り返りました。
今度は、目をそらしませんでした。
「物語を書いてるの」
「作家になりたいの?」
ユメは答えるのが怖くなりました。
笑われるかもしれない。
無理だと言われるかもしれない。
けれど、セレスティーヌの言葉を思い出しました。
勇気とは、怖くなくなることではない。
怖くても動くこと。
ユメは深く息を吸いました。
「うん。それが私の夢」
母はしばらく黙っていました。
やがて、ユメの隣に座りました。
「なら、読ませて」
ユメは書いたばかりの物語を母に手渡しました。
学校では、先生がまた質問しました。
「みんなは、大きくなったら何になりたいですか?」
ユメの番が来ると、彼女は手を挙げました。
クラスメートたちが振り返ります。
足は震えていました。
「私は、物語を書く人になりたいです」
一人の男子が笑いました。
「そんなの、本当の仕事じゃないだろ」
ユメは、その子を見ました。
「失敗するかもしれない」
教室が静まり返りました。
「誰にも読んでもらえないかもしれない。それでも、やってみたい」
先生は微笑みました。
「素敵な夢ですね」
それから長い年月が流れました。
一人の若い作家が、初めての本を出版しました。
表紙には、踊り子と城、そして翼を持つユニコーンが描かれていました。
題名は、
**『踊り続けた王女』**
その本は、何千人もの子どもたちの手に渡りました。
物語を書きたいと思う子。
歌いたいと思う子。
遠い世界を冒険したいと思う子。
その誰かが目を閉じ、新しい冒険を想像するたびに、ページの向こう側にある世界では、一つの星が空に生まれました。
高い塔の上。
セレスティーヌは、大魔女と共にその星々を眺めていました。
「どうやら、あの泣き虫さんは約束を守ったみたいね」
アレストレは翼を広げました。
「あの少女は、私たちの世界を救っただけではありません」
セレスティーヌは微笑みました。
「あの子自身の世界も、少しずつ変え始めたのね」
そして、日本のどこか。
ユメが新しい物語を書いていると、机の上の銀色の羽根が、かすかに揺れました。
まるで誰かが、物語の向こう側から、今も彼女の書いた言葉を読んでいるかのように。
## おわり
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!
この小さな物語が、少しでも皆さんの心を温かくしたり、笑顔になれたり、あるいは大切な夢を思い出すきっかけになれたなら、とても嬉しいです。
もしよろしければ、感想や評価をいただけると大きな励みになります。
皆さんからの応援が、これからも新しい物語を書き続ける力になります。
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夢葉の冒険に最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
また次の物語でお会いしましょう!




