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第二話 ー城の風に紛れてー

 畳の匂いにも、漆喰の壁にも、まだ慣れない。けれど、朝露の残る庭を掃き清めることには、少しずつ心地よさを覚えるようになっていた。


「小春、次の間の湯を沸かしておくれ」


 中年の侍女、お清が声をかけてくる。彼女はこの城の中でも一番古参の女中で、初めの頃はきつい言葉に何度も落ち込んだが、最近ではその言葉の裏にある優しさが少しだけわかるようになってきた。


「はい、すぐに!」


 桶を抱えて走る足も、最初の頃のようにもつれることはなくなった。慣れとは不思議なものだ。けれど心の奥では、まだここが夢の中のように感じられてならない。


 ——ここは、江戸時代だ。

 その事実が、頭ではわかっていても、心では受け止めきれない。道端に自販機もなく、コンビニもない世界。スマホの画面を覗けば、いつだって誰かと繋がれていたはずなのに、今は誰にも連絡できない。


 だけど、温かい湯気の立ちのぼる風呂釜の音を聞くたび、こういう暮らしにも温もりがあると知った。



 小春の主である側室の「お葉の方様」は、まだ若く、年は小春とそう違わなかった。けれど、所作や振る舞いには歴然とした格があり、当初小春は言葉も交わせず、ただただ畏れおののいていた。


 それがある日、お葉様が何気なく手にしていた櫛を落とした瞬間だった。


「あっ……!」


 とっさに拾い上げた小春の手に、お葉様の手が重なった。


「……綺麗な手ね。働き者の手」


 その言葉に、小春は頬を赤らめた。褒められたことが、嬉しかった。なぜだか涙が出そうになった。


 そこから、お葉様と小春の距離は少しずつ縮まっていった。書物の読み方、扇の開き方、着物の選び方まで、お葉様は何かと小春に教えてくれた。


「あなた、どこか……この時代の娘とは違うような気がするわ。目が澄んでいるもの」


 ある日、お葉様はそう言った。小春は返事をしなかった。ただ笑ってごまかした。まさか、自分が未来から来たなんて、言えるはずもなかった。



 だが、その日々の静かな幸せは、そう長くは続かなかった。


 事件は、ある朝、お殿様が廊下を通った時に起きた。


 奥女中が一斉に頭を下げる中、なぜか小春にだけ、殿の視線が止まった。そして、軽く会釈するような仕草をしたのだ。


 その場はすぐに通り過ぎたが、翌日から城の空気は変わった。


 誰かが廊下を通るたび、ひそひそとした声が聞こえる。


「お葉の方の部屋付きの……あの子よ」

「お殿様が目をかけてらっしゃるとか……」

「出自のわからぬ娘を、何を考えてるのかしら……」


 小春は耐えた。耐えて、耐えて、笑って、働いた。だがある日、彼女の箪笥の中から、お葉様の香袋が見つかった。もちろん、盗んだわけではない。だが、誰かの手で仕組まれたのだと直感した。


 その夜、お葉様がそっと小春を呼んだ。


「小春……あなた、誰かに恨まれているわ」


 お葉様の言葉には、痛みと、怒りと、迷いがあった。


「わたくしは信じている。けれど、この城の中では、信じることさえ命取りになる」


 その言葉を聞いた時、小春は初めて、涙をこらえられなかった。


「ごめんなさい、私……何も悪いことしてないのに、どうして……」


「わたくしもよ。けれど、女というだけで、力を持つというだけで、誰かに疎まれるのは避けられない。ここではね……」


 静かに髪を梳くお葉様の手が震えていた。



 翌朝、小春はいつも通り、掃除のために早く起きた。


 が、廊下に出た瞬間、冷たい視線が全身に突き刺さる。


「姫様と呼ばれる日も、そう遠くないのでは?」


 そんな声が、どこからか聞こえた。


 けれどその声に、小春は今までと違って、足を止めなかった。


 目の前には長い長い廊下があり、その向こうに、未来があった。

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