第一話 ―春の迷い路―
午後五時を過ぎても、空はまだ明るかった。
けれど、街角に立つ小春の心には、ぽっかりと空白のようなものが広がっていた。
制服の襟元をつまみながら、自動販売機の横に腰掛けた彼女は、小さくため息をつく。
「今日もバイト、なし……か」
十七歳。
家が貧しく、母親とふたりで支え合うように暮らしてきた。
父の顔は知らない。母はいつも明るいけれど、目の奥の疲れは隠せなかった。
だからこそ、小春は自分にできることはなんでもしようと思っていた。
放課後の時間を削って、パン屋のレジ、配達の手伝い、商店街の掃除まで、なんでもやった。
けれど、今日は臨時休業だという張り紙を見てしまった。
誰にも怒られない。責められもしない。
なのに、胸の奥がしんと冷えていた。
(働かないと、夕飯、どうしよう……)
肩をすぼめて歩き出す。
重たいランドセルのように、日々の現実が背中にのしかかる。
いつも通る神社の裏道に差しかかると、ふと風が吹いた。
──それはまるで、彼女の名前を呼んだようだった。
「……?」
境内に目を向けると、誰もいないはずの鳥居の下に、何かが“きらっ”と光った。
夕日とは違う、不自然なきらめき。
小春は思わず近づいてしまった。
石畳に埋め込まれるように置かれていたのは、小さな鏡のかけら。
何気なく手に取った瞬間、視界がぼやけ、地面がぐらりと傾いた。
「えっ……?」
気がつくと、音が消えていた。
目の前が、白い光に包まれていく。
何も聞こえない。
何も感じない。
けれど──なぜか、懐かしい匂いがした。
お香のような、古い木のような、畳の香り。
次の瞬間、小春の足元から“景色”が変わった。
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ぱたり、と竹の葉が肩に落ちる音で目が覚めた。
視界に映るのは、見慣れない、青く澄んだ空と、どこまでも高い竹林だった。
「……ここ、どこ……?」
制服のスカートに泥がついていた。
急いで立ち上がり、周囲を見渡す。けれど、車の音も、人の声もしない。
しん、と静まり返った森の中。
ただ、風が葉を揺らし、鳥が囀っている。
目の前の小道には、草履を履いた人々が通り過ぎ、
その先では駕籠が揺れながら運ばれていった。
その全てが、映画のワンシーンのように「江戸時代」を思わせた。
「うそ……うそでしょ……!?」
携帯を開く。圏外。GPSも反応しない。
(夢? 違う……だって、風も、匂いも、リアルすぎる)
混乱しながら歩いていると、背後から鋭い声が飛んだ。
「おい、そこの娘、何者だ!」
振り返ると、刀を差した侍が二人、こちらに向かって歩いてきていた。
黒い裃を着て、目を細めながら警戒している。
(えっ、どうしよう……!)
逃げようとしても、足がすくむ。
そんな小春に、侍の一人が目を細めた。
「珍しい装束だな。旅芸人か? いや、盗賊か?」
「ち、ちがいます……わたしは……」
声が震える。言葉が出てこない。
そのとき──背後から、もう一人の男が割って入った。
「その娘、俺が引き受ける。怪しい者ではない」
「お主は……城の奥番の、冬馬殿!」
冬馬と呼ばれた男は、小春をちらと見たあと、小さくため息をついた。
「まったく、また迷子か。最近多いな。娘、おぬし、住まいはどこじゃ?」
「……えっと……その、わかりません……」
冬馬は眉をひそめた。
「困ったな。まあいい。ひとまず、城に連れていく」
「し、城……!?」
「身元が分からぬまま放っておくわけにもいかぬ。……来い」
こうして、小春は、江戸城の門をくぐることになる。
それが、彼女の運命を大きく変える第一歩になるとも知らずに──