バーからの帰り道で通り魔に遭う
速くて軽い
マスターに起こされて、バーから出る。袖のボタンを閉めても、夏の夜道は肌寒かった。自宅まで約五百メートルの距離。路地道を通りながら私は自宅へ。今日の出来事を振り返る。ゲロが出る。口を閉じる。誰もいない夜道で、体裁を守った。飲み込んだ。沈んだ衝動を隠すと、私の口腔内は軽かった。
足早に歩いていると、背後からずれた足音が聞こえる。すごく近い。振り返ると、やつは私の肩を掴み、右わき腹に出刃包丁をねじり込んだ。直線に刺さずに、回して入れてきた。とぐろを巻いた腹部の贅肉は、酒のせいか、痛みがしなった。抜かれた包丁には崩れた枝豆と私がくっ付いていた。
走った。けどやつは私に追いつかず、私は痛みを感じず、路地を曲がっても、街には誰一人いなく、でも叫ぶには力が腹に入らず、歩かずに、私はただ追い付かれまいと、そして、やつの姿は見えず。
私の前に現れた。左わき腹を刺されたが、同じく痛みを感じず、私はまた追い付かれまいと逃げる。無駄な足取りを無くして、自宅以外の場所には向かわない。それ以外で助かるとは思わない。息ができないまでに、止まらずにいた今、酸素は走る以外に使われず、あらゆる思考ができず、振り返ることも出来なかった。
刺された。まただ。やつは脇道から眼前に現れて、走っている私の恥部の前に包丁を据えた。思考できず、止まれず、避けられなかった私は、原罪から解放される事を、理解させられた。恥骨まで貫通した瞬間、女王が御剣でアコレードをするようにして、やつは刃を下向きに振った。わずか一瞬の事でも、そのイメージは何度も脳内でループされた。
やつは姿を晦まし、私はしな垂れて自宅まで歩いた。オートロックを解除して、エレベーターに入った。私が五階を押すと、やつの手が閉めるボタンを押した。振り向けなかった。やつは私の左手を取って、私の親指を、何度も刃先を当てて、コンッ。
「五階です」
左手が、すっかり解放されると、私は廊下を通って、自室に向かう。右手で左ポケットにあるカギを取って、鍵穴に差し込む。ドアを開けて、室内に入る。後ろ手にドアを閉めると、言語化できない全ての事を、脳内は考え込んだ。事故、便所、通り魔。何もが華やか過ぎた。自宅で不安は感じず、眠気は覚えず、落ち着くことができず、平熱を感じることもできない。岩肌に打ち上げられた一匹の稚魚が、ただ玄関で干からびているだけだった。
否定辞で読者の意識を翻弄してみました。重さより軽さの方が難しいと思う。読者に身体的な浮遊感を感じさせるには恐怖や寒さが良いかもしれない。重さとの対比も重要だろう。
最後に早くて重い。