会員制バーでの自殺行為
遅くて軽いです。
テレビに事故映像が映ったのは、私はカウンター席で浮足立ちながらビールを注文する時だった。潰された枝豆を飲み込むと、ぶかぶかで酸っぱさを感じさせる膀胱を感じて、お店のお手洗いを探すが、脳内がゼリーに眼球が水風船になった今はどうしても見つからない。
マスター、お手洗いは。真後ろだよ。そうだよな。正しき人の唇は叡智を告げ、その正しき舌は正義を語るなら、彼から唇と舌を奪ったらどうなるのか。このビルはいつ壊されるんだっけ。来月か。来週だよ。床下の鼠ともお別れ。口が達者で饒舌なお前ならどこでもやっていける。ジョッキの水滴でべっとりな右手が足元からの振動で揺れる。
入学から卒業まで一緒にいた友達が遠くに行くと聞くと、自宅に招待して自家製のマドレーヌに舶来の柑橘系の紅茶を添えてご馳走してその記憶を天井に染み付かせたくなる。ただ今消えゆく楠の芳香の代わりに。香りは記憶に残りやすいと聞くが、それがどんな状況かを思い出せなくてかように目を閉じながら紅茶を啜るなどの動作と結ばれなければ、いとも簡単に郷愁の空に葬り去られて、ただ空虚に寝入ることになる。セレクトショップで店員にマドレーヌに合うお茶を聞いたらアールグレイと言われたときに気が気でならなかったのは、その店員の澄ました顔が原因であり後から別のものを手渡されても良かった。この澄ました顔に私が傷を付けたのはよりにも中学校からの親友であるが、彼は私を快く許して私に右手に握ってある剃刀でそのまま髭をそってくれと言ってくれた。面白半分で校舎裏にて三人の友達と剃刀で遊んだが唯一刃先が狂ったのは私だけであった。親友のその端正な顔に一線の傷跡、ある今日みたいな雨が強い日に私が幼少期に三重の竹林を曾祖父と散歩したとき、彼の下顎の左側面に海外映画の銃撃戦で主人公の顔に九ミリ口径の弾丸がかすり、その裂かれた傷跡が板前の大将がお披露目で一貫のまぐろをカウンター越しに我々の目にナイフを刺しこむようなくらい印象的に、刃先より数秒遅れてその日本刀模様に似つかわしい柔軟な肌が血潮を放ちながら花咲く傷跡が出来ていて、私はその裂け目から目を逸らして何も言わずに歩き、彼も自宅にずぶ濡れでたどり着くまで気づかなかった傷跡、まさに鎌鼬が面白半分で傘寿の老人の余生を空中で揶揄っているかと思って私が両目を逸らしたその傷跡が彼の顔に彫られた。私が謝ることになったのは真横にいた友達がああと声を上げてからのことで、それと似た私の目に刻印された有無を言わさず想起されるその顔の心象はなぜ今でも鮮明に思い出せるのか理解できなかった。
私は席を立ち便所へ行くもののポーチを忘れて半分くらいの地点で引き返して、それを取ってから歪む暗色の床を直線に進んだ。幸いに他の客はいなく私はドアを開けてすぐに便座に座った。入社祝いに父が買ってくれたシックなポーチ。白銀のファスナーを開いて剃刀を取り出し内股に閉じられた膝の上に置いく。ポーチはがじゃがじゃと床に投げ捨てられて私は左腕のシャツを捲し上げて内なる高揚感を存分に感じる。右手で剃刀を持ち二百六十個目の生きた証を入れる。これをマスターに見せられない。彼はこの腕に触れることを許さない。まずは彼の耳目に届かないように膝元に何層もの柔い落し紙を重ねて次に左手首を膝に乗せ手首を外に逸らす。糞尿を通わすその青黒さに目を逸らさずにでも無限に続いている横断歩道の縞模様でそれは隠されている。紅茶に浸されたマドレーヌを持った右手は慎重に剃刀を柔肌に当てる。よく掃除された個室には市販の芳香剤が充満しており、如何にも熟考を重ねた末に澄ました顔から放たれた“アールグレイ”という気取った素振りを前日談に持つものだ。けど私は熟達した職人でもなければ場数と才能にあふれた殺陣芝居の達人でもないゆえに、この血肉からの芽吹きは名も知らない残虐な古めかしき妖怪が、私が気にも留めないうちにこの心臓を血管や精神共々繋がれたまま宙に抉りだされるくらいに軽く、カンボジアでポルポトは幾度もの大虐殺を繰り返してその成果物を山頂の川に投げ捨てる、その下流の荘厳な滝までもがパンとワインで燃え上がったという迷信と似て、それらは私の足元まで濡らしてドアの隙間から南シナ海に知らせるように流れ出すとき、私の両手はただただ痛みと匂いと力と音と味と意味が無く赤く見えて軽かった。
「はあ、あ、はああ。」
明晰に聞こえる私のため息は徐々に弱まりドア越しに聞こえる誰かの叫び泣き声はただただ音と力と匂いと痛みと味と意味が無く黒く見えて軽かった。
比喩の入れ子構造で遅さを表現してみましたが、甘えてますね。もっといい方法があるはずですが、読者に強制的に文章をゆっくり読ませる方法ってありますかね。
次は速くて軽い。