平凡な日々の終わり
「葛木くん。だから言ってるでしょう?」
「はあ」
この課に配属されて二ヶ月。
私は、このやり取りを一日何度も聞かされている。
課長の市松さんと、平社員の葛木さんのやり取りだ。
市松さんは、真っ黒な黒髪を後ろで結んで、お局さんルックなんだけど、綺麗だから、きつめの美人の印象でとどまっている。
対する葛木さんは、頭のてっぺんが薄い、ちょっとガタイが大きいおじさんだ。
二人はどうやら同期みたいなんだけど、頭が薄いせいか、葛木さんのほうが年上に見える。
「なんで、いつも間違うのかしら?」
「すみません」
葛木さんは頭は薄いけど、気は弱くなくて、市松さんに怒られても、へらへら笑ってる。
メンタル強し。
私だったら市松さんにあんなに怒られたら、泣いてしまうかもしれない。
まあ、葛木さんみたいに同じミスを繰り返すことはないから、怒られることはないと思うけど。
私の名前は羽村善子。二十六歳。今年の四月から財務会計部の会計課から、回収一課に移動になった。多分きっかけは、あれだと思う。先輩の計算ミスを皆さんの前で指摘したこと。空気読めばわかるようなことだったけど、私は咄嗟に指摘してしまった。その時は先輩から感謝されたけど、その日からなんか空気が変わった。
本当、空気読めばよかった。移動が決まって同期からは同情したような視線を送られた。けれども、今は移動になったことを喜んでいる。
「あ、もうこんな時間だわ。葛木くん。行くわよ。羽村さん、あとはよろしくね。帰社は多分、午後六時ごろだから、先に帰っていていいから。引継ぎ事項だけメモに書いておいて」
「はい。わかりました!」
市松さんはワークホリックだ。葛木さんも?
外に出ても、仕事が終わると会社に戻ってくる。
私の場合は、回収一課のお留守番係で、午後五時までの勤務。午後五時以降は電話もとらないでいいって言われている。この部署に配属されて本当に良かった。
回収一課は、一課だから二課があるようだけど、二課はない。それなのに一課だ。しかも私を入れて課には三人しかいない。課というよりも本当は係がふさわしい。
業務内容は、支払いをせず逃げているお客さんから、資金を回収する係だ。
うちの会社は食品を中心に卸す業者だ。食品を買い取る購買、品質管理、営業、輸送、財務会計いろいろあって、その中で財務会計部に属する一番小さな課が、私たち回収一課だ。
課長の市松さんと葛木さんは毎日というほど、外に出かけ資金を回収してくる。たまに現金だったり、びっくりする時もある。
市松さんたちが出かけ、二時間ほど経過。午後五時なり私は退社する。伝言することもなくて、うちの課の扉を閉めて鍵をかける。なぜか私たちの課は他から独立していて、退社する時は扉に鍵をかける。もちろん、市松さんも葛木さんも合鍵をもっている。
今日は六時に友達を約束しているので、待ち合わせの場所へそのまま向かった。
そう言えば、今日取り立てる予定のお店は、この辺だったなあと思っていると、見知った顔を遠目に見かけた。
市松さんが偉く迫力のある顔していて、美人は怒っても綺麗でいいなあ。お得だなあ。あ、でもちょっと怖いかも。
「え、まって、揉めてる?!」
路地裏の奥で、私は気づいたけど他の人は気づいてないみたい。
警察呼ぶ?狼狽えている私に構わず、事態は動く。
「え?」
言い争いをしていた男が市松さんに殴りかかろうとしたけど、嘘みたいにその人が宙で一回転して、ひっくり返った。
「うそ、葛木さん?」
早くてよくわかんなかったけど、男をひっくり返したのは葛木さんのようだった。その後、別の人が激昂して襲い掛かるのを見たけど、葛木さんがぶっ飛ばしていた。
その隣で、市松さんは当然とばかり、腕を組んで見守ってる。
えっと、女組長?
葛木さん、なんていうか、めっちゃ強い。嘘みたいにかっこよく見える。
眺めていると、ふと市松さんがこっちを見たような気がした。
艶然に微笑まれて、ぞくっと背中に寒気が走る。
「善子?」
「あ、なに?」
ぽんぽんと背中を叩かれて、振り向く。
約束していた友達の加奈だ。
「どうしたの?」
「な、なんでもないよ。行こう」
振り向くのが怖くて、私は友達とそのまま目的のお店へ向かった。
えっと、さっき見たのは忘れよう。
だって、あまりにも現実離れしている。
ドラマみたいだったな。
翌日。
「おはようございます」
「おはよう。羽村さん」
「おはようございます。羽村さん」
出社するとすでにお二人は来ていた。
「羽村さん、お話があるの?いいかしら?」
「は、はい!」
こういう時は葛木さんの動きが早くて、扉が閉められた。
ガチャと鍵をかけた音までした。
「あ、あの。お話って何でしょうか?」
もしかして、私、ここで死んじゃう?口封じ?
昨日の葛木さんの動きを思い出して、怯えながら尋ねる。
何を話すか早く知りたい。
怖い話じゃありませんように。
「昨日、私たちが何をしていたのか、見ていたわよね?」
「は、はい!戦ってました!」
「はい?」
「葛木さんが強くてかっこよかったです。市松さんは女組長みたいでした!」
「……羽村さん、もしかして勘違いしてる?」
「いえいえ!資金回収の話で拗じれて、お客さんが怒って殴りかかってきたんですよね?」
「そうよ。そう。正当防衛よ。私たちも戦いたくて戦ったわけじゃないのよ」
その割には市松さん、楽しそうだったような?
そんなこと口走ったら、何をされるのかわからないので、私は無言で聞き流した。
「あなたを巻き込みたくないの。だから街でわたしたちを見ても、無視してほしいのよ。仲間だと思って、巻き込まれるのはいやでしょう?」
「はい!」
「……正直ね。話はそれだけ。よろしくね」
「はい!」
よかったあ。
今度からなるべく路地裏とかみないようにしよう。
私はその日、そう誓ったのだが、世界は私にそれを許さなかった。
「お前、あいつらの仲間だろう?会社同じか?」
仕事帰り、街を歩いていたら話しかけられる。
お前とか呼ばれて気持ち悪いので、無視。あいつらって、きっと市松さんたちのこと?
「何か言えよ」
「し、知りません!」
怖いよ〜。
叫んで誰かに助けてもらおう。
だけど、何かされたわけじゃないし。
「嘘だな。俺はあの女がお前に笑いかけて、お前が驚くのを見たんだ」
「そ、それだけで何がわかるんですか?綺麗な人に笑いかけられたら、驚くでしょう?」
そうよ。そう。そうなんだから。
「お前は嘘を言っている」
「嘘じゃありません。帰るので、もう邪魔しないでください」
逃げるが勝ちとばかり、私は男を振り切って逃げようとした。
「待て!」
男が私の腕を掴む。
「離して!殺される!」
「だ、黙れ、俺はそんなつもりじゃ!」
「カケル!あんた、そんな風に女の子をナンパ、あれ?羽村さん」
「市松さん?」
「カケル。今すぐ手を離しなさい!」
「わかってるよ!」
男はすぐに手を離してくれた。
えっと、どういうこと?この人、市松さんをあの女呼ばわりしてたよね?
「あの、お二人はどういう関係で?」
「聞きたい?」
市松さんがちょっと疲れたように聞き返してきた。
これは、もう聞かない方がいいよね?
「親父!」
「カケル、なんでお前はここに」
え?葛木さん?
葛木さんが親父?
えっと、えっと。
「やっぱり羽村さん、説明するわ。ちょっと時間あるかしら?好きなもの奢ってあげるわ」
「やった!」
「あなたには言っていない」
カケルと呼ばれた男は、多分わたしと同じ歳くらいだと思う。
でも子供っぽい。
「さあ、羽村さん。何が食べたい?迷惑かけたお詫びもしたいから、なんでもいいわよ」
「俺、寿司が食べたい」
「カケル!」
葛木さんが珍しく、キビキビと息子さん?を叱ってる。
えっと、本当どういう関係?
何か知りたくなってきた。
「市松さん、お寿司いいですか?」
「やった!」
「カケル!」
「羽村さん、本当にいいの?」
「はい。お寿司大好きです」
「それなら、個室があるところにしましょう」
カウンターではないけど、個室のあるお寿司屋さんに私たちは食べに行くことになった。
カケルと呼ばれた男の人は、ずっと嬉しそうに寿司、寿司って繰り返していて、市松さんと葛木さんに怒られていた。