フリーターの青年がカレーを食いに行く話
「セミがうるさいなぁ」
呟いてみてから、蝉なんぞ鳴いていないことに気付いて自嘲する。ただ、そう言いたくなるほど暑かったからそう口にしただけで。
まだ五月だというのにうだるような熱気の中、駅近い商店街を一人の少年が歩いていく。
彼の名前は南波泰史。二ヵ月ほど前に親元を離れてこの浜岡市に引っ越してきた、どこにでもいるチャチなフリーターである。
「ラーメン屋は……。今日は休みか。火曜定休じゃねぇかよ……」
午前中までだったコンビニバイトのシフト終わりに、ちょっと贅沢・ちょっと遅めの昼飯にでもと街に繰り出したのだが。
「昼飯時に空いてる店ってのは少ねぇからなぁ……」
ブツブツ言う通り。食道楽な彼が求めるのはどこにでもあるチェーン店ではない、土着のメシ屋。それがラーメンであれ、定食であれ。高すぎず不味すぎずを好む彼が目指したラーメン屋は生憎と閉まっていた。
「近場で言うと、カレーと蕎麦があったっけな?」
晩飯は自炊しなきゃいけない都合上、そうそう遠出もできやしないが。
このアーケードの下でありつけるうまい飯と言うと、挙げた二つと目の前のラーメン屋くらい。はす向かいには胡散臭いオムライス屋なるものがあるが、泰史の気分にはどうにも添わなかった。
「カレー屋のインド人は怖ぇえし、蕎麦屋はちぃとばかり高いが……」
しばし迷った末、泰史が歩を向けたのはカレー屋。
「何事も挑戦からしか始まらないよな。うん」
インド人の顔はやはり怖いが。ガッツリしたものが食いたい気分だった。
「……サーセン」
小さく呟いて大きなガラス板のはまった白い木枠の引き戸を横に。
呟いてしまったのは、つい先日まで学生だった故だろう。
「イラッシャイ、一人?」
いまいちハッキリしない発音で尋ねてきた堀の濃いインド人店主の顔はやはり怖かった。
「一人、っす」
悪意を向けられてるわけではないので、何とか返事をしてカウンターの隅の席に静かに座る。そんなにきれいでもなければ、大して広くもない店内。
泰史が居るのと反対側の角に、大学生風の女性が一人いるが他に客はない。
「コレ、水ね。注文決まったら、呼んでヨ」
やたらごっつい手でありながら、水のグラスを丁寧に置いた店主が油汚れの目立つメニュー表を手渡してくる。
「んと……」
インドカレー屋、なんていうから専門店的な感じがしていたが。
載ってるカレーの種類は意外と少なく、八種類。
それぞれナンとサラダにワンドリンクついて七百五十円のお手頃価格である。
(これでカレーがうまかったら大当たり、だな)
泰史は胸中に呟いてから、改めて見直す。
キーマカレーとかグリーンカレーの様な聞いたことのあるものから、呪文にも見えてくる不思議な名前の物まで。いろいろ並んでいる中から、泰史はもっとも普通そうなのを選んだ。
「……チキンカレーで」
「辛さは? ヒカエメできるヨ?」
「じゃあ……、控え目で」
辛いのが別に苦手と言う訳ではなかったが。日本人の考える『辛さ』とは違う可能性もあるだろう。そう思ってのチョイスである。
「あと、ドリンクは?」
「オレンジジュースを。冷たいので」
「ン。ちょっと、待ッテテ」
言うと、店主はキッチンへと引っ込む。
泰史が座っているのがカウンターだから、中の様子はそこそこよく見えるが。
「嫌いじゃない匂いだな……」
一度スマホのメッセージアプリをチェックして、特に連絡が来ていないのを確認してから、ショルダーバッグに仕舞いなおす。
小さい頃に母さんがスパイスにはまった時に漢方の臭いなどと言って、怒られたものだが。
やはり漢方の臭いだと思う。だからと言って嫌いではないが。
「ハイ、サラダね」
ぼうっとキッチンの方を見ていた視線を遮って、目の前にサラダが置かれる。
千切りのキャベツにキュウリが少々、安っちいサラダだ。
「いただきます」
市販のドレッシングの味がするそれを食ううちに、カレーとナンが運ばれてくる。
「ぉお……!」
結構壮観だった。ナンは焼き立てなのだろうか表面に油がキトキト浮いていて、小学校の頃に食べたことのあるボソボソしたそれとは全然様子が違う。
カレーもそう。基本的にはドロッとした茶色のカレーであるのに、普段食べているようなのよりよっぽど色が明るく、所どころに肉の油やアーモンドスライスが浮いていて、とてもおいしそうだ。
「頂きます!」
さっきサラダを口に運んだ時にも言った気がするが、まぁいい。何度も言っちゃいかんという法律もないだろうし。
スプーンで掬ってカレーを一口。旨い。
いわゆる『カレーライス』のカレーと違ってかなり癖のある味だが、それがいい。
結構しっとりした食感のナンと合わせて食べると、癖が少し和らいで感じられる。それもまた良し。
合間合間に水を挟んで食べること十数分。
日頃カレーには福神漬けが必須だと思っていた俺はどこへやら。ほとんど玉ねぎと鶏肉しか入っていないチキンカレーが妙に旨くて、無言のままひたすら食べ続けた。
「ふぃー。美味かった、美味かった」
呟くと呼ぶにはいささか大きな声で言ってから、少年は己を恥じるようにして目の前のオレンジジュースへと視線を落とした。
(まぁでも、美味かったのは事実だしな。うん。叫んじまった俺は悪くねぇ)
裡に誰かに言い訳したところで、ヴヴヴとスマホが振動してチラと見る。
なんだよ、食後の余韻に浸らせてくれよ。
泰史は少々不満に思いつつもメッセージアプリを開いて、内容を確認。
「あれ、山本さんとこ新刊加入日か」
次のバイト先の本屋から、少し早めに来てほしい旨の連絡。漫画の新刊入荷日で、人手が足りないのだそうだ。
「お会計、良いっすか?」
席を立って、声をかける。
「アイヨー。レシートと、コレ割引券。次来る時に、ネ」
レシートと一緒に渡されたのは、店の名前が書かれたクーポン券。
こういうのが無くてもまた来たいほどに美味しかったが、こういうのがあると一層食べに来たくなるな。
「ごちそうさんでした!」
すぐさま厨房に引っ込んでしまった店主に向かって少しだけ声を張ると、泰史は店を後にした。