筋肉のすすめ
おれの机の向かい側、パソコンを隔てて向かい合う形で座っている男がいる。男はスーツをきっちり着込んで、なにやらタイピングしている。ものすごい速さだ。ピアノの連弾を引くように軽快で、耳障りのよい、タイピング。
タタタタタタタタッ、タタタタタッ、タタタタタタタタッ、カッ
最後のエンターの音だけ、少し、力強く奏でられる。あの「カッ」が一つの仕事の区切りであることを、おれだけでなく、この場にいる全職員が知っていた。
「お、おわった」
「おわったわね」
「もうおわったのか」
おれ以外の職員もやはり気づいていたようだった。ちらほら声が上がる。
「課長、先の案件、終わりましたので、メールで送りました。確認のほどよろしくお願いします」
「やあ、相変わらず仕事が早いね」
「恐れ入ります」
「しかし、なんだね、それはやっぱり、やめられないかね?」
「はあ、こればかりはどうも」
「私の眼球まで鍛えられるようで、その、ねえ」
課長の黒目が、言う通り、上下に忙しく動いている。
「鍛えられるなら、素晴らしいことではありませんか、きっと課長の近視も少しばかりよくなるのではないでしょうか」
「いや、まあ、そうだったらいいんだけど、そういうことではなくてね…」
まあ、課長の言い分もわかる。なんたって、彼は、物理的にずうっと、上下している。姿勢は直立不動のまま、上からハンガーで吊るされているようにしゃんとしているのだが、彼のつま先を見ると、ずうっと、上下している。
だから、課長は彼の眼を見て話すため、同じようにずうっと、上下している。しかも、規則的だ。
「これは、入社するときに、この条件でもよいと言われたので」
「その件は、無論私のほうでも重々、承知しているさ。君のような優秀な人材が、大手といえども、最近低迷しているこの会社に入ってくれると部長から聞かされたときに、その条件の話もよくよく聞いたさ。どんな条件を出されるかと、戦々恐々としていた部長が、そりゃあもう、これ以上ないくらいびっくりしたというのを、居酒屋で延々とね」
そう、彼は、おれみたいな木っ端とは違う、本物のできる人間、俗にいうエリートだった。左斜め後ろに座っている小宮さんに聞いたところによると、彼は幼少のみぎりからこの世で受ける中でもとびっきりの一番の教育を受け、よくわからないが偉そうな、英語だったり、カタカナだったり、漢字だったりがびっしり連なっているような学校に入学、そしてそのすべてを首席で卒業している、らしい。さらに、本人も環境に慢心することなく、職人が己の仕事を全うするような生真面目さと探求心を以てして、着実に成果を積み上げていった、らしい。卒業後しばらくは外国の大手企業で働いていたらしいが、何かしらの都合があって、日本に帰ってきた、らしい。そしてなぜか、どのような複雑怪奇な因縁があったかは知らないが、大手といっても、僕のような木っ端でも相応の努力をすれば入れる、そんなところに入社してきた。これは事実だ。
そして、その時、彼がわが社に提示して条件が、
「まあ、契約内容に入っているものをとやかく言ったって仕方ないね、ごめんごめん。じゃあ次、これ、やってもらえるかな?」
「わかりました」
「頼んだよ、筋トレは、ほどほどでもいいけれどね」
「課長、今でもほどほどですよ」
「そうなんだろうね…」
そう、これ。業務中の筋力トレーニングの承諾、だった。
彼は非常に優秀な人間だし、イギリスの紳士と冗談も交わせるようなユーモアもある。顔も日本人にしては堀も深く、整った顔立ちで、気遣いもできるし、変な宗教にも入ってない。まさに天の寵愛を一身に受けたような男だが、彼は筋力トレーニング、つまり筋トレをこよなく愛した。
以前、同僚たちと旅行をして、一緒に箱根の旅館に泊まったことがあった。温泉と食事つき、独身の若い男性たちだけで、冬のボーナスが出た後に贅沢をしに行った。そこで、彼の裸を、もちろんまじまじと見たわけではないが、風呂に行ったのだから、まあ見た。すると、そこにいたのは美しい筋肉の化身だった。同じ男から見て見惚れるような、筋肉の美しさ、まさにダビデの彫刻だった。
その温泉にいた男たちは、おれと同じように、彼の裸身に見惚れていただろう。そこには生命の力強さと彫刻めいた美しさが同居し、昔の画家が描いた、男神そのもののようだった。
彼は、レオナルド・ダ・ヴィンチの頭脳に、ダビデの彫刻の肉体をもった男だったのだ。
そのことを知ってからは、おれは彼が筋トレをしているのを見ても、ちっとも馬鹿らしく思わなくなった。
最初は、やはり、妬み嫉みもあり、そして筋トレを条件に付けたこともあり、馬鹿にするような気持ちがあった。これがあったから、外国の会社で首を切られたのではないかとか、純粋に気持ち悪いだとか、そんな風に、内心小馬鹿にしていた。
しかし、今となっては、もうそんな気持ちはない。むしろ、彼の姿勢に敬意さえ覚えている。会社に筋トレの承諾という条件を提案する豪胆さ、そしてそれを承諾させた巧みな話術。さらに他人の目を不必要に気にしない、心の強さ。しかも、仕事も完璧とくれば、尊敬すべき点はあれども文句を言う点は一つだってありはしない。
向かい側に据わった彼は、今もリズミカルにキーボードを叩いている。そして併行してなんらかの筋トレを行っているであろう。すごいマルチタスクだ。
そんな彼に影響を受け、実は今若い男性社員の間で筋トレが流行っている。そう、あのとき温泉に行った連中だ。当然、おれもそのうちの一人だ。
筋トレは、よい。
筋トレは基礎代謝を上げ、脂肪を燃焼させやすくする。それだけでではなく、酒の量も減り、毎朝すっきりと目が覚める。
確かに、筋トレは効果が出るまで三ヶ月くらいかかる。成果はすぐには出ない。以前心がくじけそうな時が、確かにあった。
しかし、そんなときには、彼を見る。彼のひたむきさを見る。そうすると力が湧いてくるのだ。
筋トレは、素晴らしい。
今までの自分とはまるで違う、新しい自分になれる。
みんなも、レッツ・筋トレ!
レッツ・筋トレ!




