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8. 偽りの優しさ

 クロードが行方不明になったとの報せを受けてから五日が経った。

 幸か不幸か、四葉を探す夢はあれから一度も見てはいない。それに伴ってクロードとの思い出に浸ることもなくなっていた。


 何よりロゼリエッタは気がついてしまった。

 幸せな思い出に、クロードからの恋慕(れんぼ)はない。あくまでも"ロゼリエッタにとっての幸せな思い出"だ。


 まだ、たった五日しか経ってない。それだけで諦められるとか忘れられるとか、判断を下すには早すぎる。ずっと微熱が出ている状態が続いているし、今は考えたくなかった。


 だけどこのまま何もない状態が続けば変わるかもしれない。

 そう思う度に、けれど今の状態は薄氷の張った水面と同じなのだと思った。

 足元にあるものが見えなくなっただけで、少しでもヒビが入ればそこから一気に瓦解して行く。そして凍えそうなほどつらい水の中になす術もなく落下するのだ。


「お嬢様、ダヴィッド様がお見舞いにいらっしゃいました。どうなさいますか?」

「ダヴィッド様が?」


 答えが出せない自分の気持ちの置き場所に関し、ぼんやりと考えているとダヴィッドの訪問がアイリから告げられた。


「まだ体調が芳しくないようでしたら、日を改めていただけますようお願い致しますが」


 仲が良い従兄弟ではあるものの、ダヴィッドが一人で家を訪ねて来ることは滅多にない。

 珍しい出来事に漠然とした不安を覚えたけれど、誰かと話をしたい気もした。


「大丈夫よ。着替えの準備を手伝ってくれる?」

「では、ダヴィッド様に少しお待ちいただくようお伝えして参りますね」

「ありがとう」


 それからアイリの手を借りてベッドの端に背中を大きくもたせかける。

 他の女の子たちのように健康な身体であったのなら、隣国にも連れて行ってもらえたのだろうか。そんな思いがふとよぎった。でも、もしそうであったのだとしても今さらどうしようもないことだ。


 着替えを済ませ、レース編みのショールを羽織る。ベッドから出られたら良かったけれど、まだ熱っぽいことには変わらない。それはさすがにだめだとアイリに猛反対されてしまった。




「具合はどうだい、ロゼ」


 先日の夜会振りに会うダヴィッドは、お見舞いの花束をアイリに渡すとベッド脇に置かれた椅子に腰を下ろした。


「わざわざお見舞いにいらして下さったのに、お待たせして申し訳ありません」

「いや、事前に何の連絡もなしに急に訪ねて来たのは僕だから気にしなくて大丈夫だよ。いくら従兄弟とは言え、出迎えるのに身支度は必要だしね」


 相変わらずの軽口にロゼリエッタの唇の端が笑みの形を描く。ほんの少し気分も軽くなった気がして従兄弟に問いかけた。


「今日はどうなさったのですか?」

「君がここ数日間ずっと臥せっているとレオニールに聞けば、さすがに心配にもなるよ」

「お兄様から?」


 兄とダヴィッドが会うというのもあまりないことだ。

 それこそ沈みがちのロゼリエッタを気にして、元気づけてやって欲しいと兄から訪ねたのだろうか。でもそれならロゼリエッタの熱が引くまで待っている方が、兄の行動理念としては自然な気がした。


「話したいこともあるし近いうちに来るつもりではいたんだ。だけど、まだ体調が悪いならまた出直して来るよ」

「大丈夫です。今は熱も下がりましたから」


 今日もレオニールと昼食を摂った後、薬を飲んで一眠りしたばかりだ。意識も比較的はっきりとしている。話をする分には何も問題がないと思われる状態だった。


 ダヴィッドはそれでもまだロゼリエッタの体調を(おもんぱか)るように顔を窺ったものの、そう何度も足を運べる状況にはないのだろう。意を決した面持ちで唇を引き結んだ。


「こんな手紙を先日受け取ったんだ」


 上着の内ポケットから一枚の封筒を出し、ロゼリエッタに渡す。


「グランハイム公爵家の使いだと言う紳士が家を訪れてね。僕に、この手紙をと」


 直接届けられたことは事実のようだ。表側にはダヴィッドの名が書かれているだけだった。

 ごく短い文字列でも何度か見たことがあるから分かる。クロードの文字に間違いない。


 受け取って裏面を見ると、薄紫の封蝋にはグランハイム公爵家の紋章が刻まれていた。差出人としてクロードの署名もある。


 筆跡にさえ、涙がこぼれそうになった。

 ロゼリエッタはきつく唇を噛みしめて堪えた。クロードからの手紙ですら、ロゼリエッタにはもう二度と届かない。

 それがダヴィッドには届けられた。どうしてという疑問と、ずるいと思う嫉妬とが、頭の中をぐるぐると渦巻く。


「クロード様から……ダヴィッド様に……?」


 クロードを失ってもロゼリエッタは醜いままだ。

 人はそう簡単には変われない。

 些細なことで心を乱し、消えかけていた炎に似た想いはあっという間に煽られて大きくなって行く。


 中を改めてもいいのか躊躇(ためら)うロゼリエッタから封筒を取り戻し、ダヴィッドは便箋を出した。その時、覚えのある香りがほのかに漂って来る。ロゼリエッタは思わず息を鋭く詰め、便箋を見つめた。


 クロードのつけていた香水と同じ香りだ。


 最初で最後の抱擁を思い出して心が震える。


「ロゼを頼むと、そう記されていたよ」

「え……」


 ロゼリエッタは視線を彷徨わせ、ダヴィッドを見つめた。ゆっくりと右手を伸ばせばダヴィッドは意図を察してくれる。便箋だけがそのまま渡された。


(――嘘よ。ダヴィッド様は、わざと嘘をついていらっしゃるんだわ)


 ロゼリエッタの願望がそう囁きかける。でも分かっているのだ。

 ダヴィッドがそんな嘘をつく理由も意味もない。だけど嘘であって欲しかった。


 震える手で便箋を開き、見たら傷つくと想像のつく文面に視線を落とす。


 手紙に書かれた内容は長くない。

 社交辞令としてお決まりの挨拶と、ダヴィッドが言ったようにロゼリエッタをこれから守ってあげて欲しいという要望。それだけだった。

 必要なこと以外を語らないと言えばクロードらしい手紙なのかもしれない。でも、それはすなわちロゼリエッタに関することはクロードにはもう必要ないと、そういう意思表示でもある。


 当事者となり言いにくかったのだろう。ダヴィッドが唯一伝えなかったことも便箋には書かれていた。


「ダヴィッド様が、私の婚約者に……?」


 婚約者としてロゼリエッタを一生守ってあげて欲しい。

 クロードは正確には、そう書いていた。


 ロゼリエッタの心がどんどん冷える。


 違う。

 そんな優しさが欲しかったんじゃない。

 たとえ一緒に連れて行くことは出来なくても、必ず帰って来るから待っていて欲しいと、そう約束して欲しかったのだ。


 そこでロゼリエッタはひどく重要なことに思い至った。

 確認をするのは恐ろしい。

 だけど今、何よりも優先して知らなければいけないほどに重要なことだ。


「ダヴィッド様、最初に、どんなお返事をいただこうと私は傷つくであろうことを申し上げておきます。そのうえで一つだけ、どうしてもお聞かせ願いことがあるのです」


 ロゼリエッタの悲壮な覚悟に満ちた声と表情とにダヴィッドも察したのだろう。いつもなら穏やかな笑みと共に「何なりとどうぞ」とでも言ってくれるはずが、わずかに目を逸らして押し黙った。


「このお手紙はいつ、受け取られたのですか」


 ダヴィッドは深く息をついた。

 ロゼリエッタを傷つけないように、そんな思いから言葉を選ぼうとする躊躇いや迷いが生じる時点で伝わってしまう。

 それが分かっていたから、傷つくことを先に明かしたのだ。


「……二週間ほど前だよ」


 重苦しい溜め息を伴って告げられた言葉に、ロゼリエッタは身を強張らせた。

 頭が勝手に、ここ数日の出来事がいつ起こったものなのかの逆算をしはじめる。


 クロードが武力抗争に巻き込まれて行方不明になったと聞かされたのは五日前だ。

 隣国へ旅立ったことを知ったのはその前日の昼間だから六日前のことになる。けれどそれはロゼリエッタの耳に入ったタイミングだ。実際にはさらに一週間前に隣国へ向かったという。

 それだけでもう、二週間ほど前の話だ。婚約の解消をクロード本人から直接告げられたのは、正確には十六日前だった。


「そう、ですか……」


 ロゼリエッタはどこかでまだ期待していた。

 異性に対するものではなくとも妹に対する情程度なら、クロードも持ってくれていると思い込んでいたのだ。

 けれど自らの手で暴いた事実は、予想以上に残酷なものだった。


(クロード様は、最初から心を決めていらっしゃったのね)


 つまりダヴィッドの下へ手紙が届けられた理由は、クロードに有事があったからではない。

 最初からダヴィッドにロゼリエッタを託すつもりで、隣国へ向かうのとタイミングを同じくして手紙を届けさせたのだ。


 隣国へ行くことが婚約解消を決意させた理由なのかは分からない。

 それでもただ一つ確かに言えることは、クロードはロゼリエッタの元に帰って来る気などなかったということだ。


 改めて突きつけられた彼の本意は、何よりも鋭い刃となってロゼリエッタの胸を刺し貫く。


「どうして。クロード様……どうして、ですか……」


 涙と共にこぼれ落ちた疑問には誰も答えてはくれない。



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